森琴石(もりきんせき)1843~1921
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索引・略伝

◆当HP内での記述、森家調査で名が出る、名称・事象などの索引及び、人物の略伝を紹介します。
調査情報などでの記述と重複している事があります。
◆「門人紹介(一覧)」・「雅友・知友(一覧)」・「関連資料(一覧)」などでの掲載人物は、現在一部を除き「索引・略伝」には掲載出来ていませんが、順次追加の予定です。
◆準備時間や資料不足の為、掲載順序については無作為な方法を取り、追加は随時していきます。
◆森琴石の親交者や、影響を深く受けた人物であっても、知名度の高い人物については「師匠・先輩達」「雅友・知友」では取り上げず、略伝のみの紹介が多々あります。



お断り

●「索引・略伝」は、平成18年秋~平成22年7月27日まで中断しています。左期間中のものは、もともと当項目では更新日を記していなかった事、また事故により、森家作成の原稿データが消失した事などから、更新日を記す事が出来なくなりました。
●「平成23年5月」でお知らせしましたが、当HPをCD化するに当り、時間と人手不足の為、平成23年6月以降に追加のものからは、例外を除いては略伝は省略し、索引のみとさせて頂きます。 



項目内で使用度の多い資料名

1:「内国絵画共進会審査報告 明治15年」(第2冊目・農商務省博覧會掛版・明治16年9月)
2:「内国絵画共進会出品人略譜」(農商務省版・国文社刊・明治17年5月)
3:「姿態横生」(日本中央南宗画会刊・明治44年7月)=渡辺淑寛氏(栃木県真岡市)よりご寄贈頂きました。
4:「畫家小傳」(小倉市大阪町 南畫同志會蔵版・明治45年2月)
5:「明治画史 大正画家列伝 乾坤」(福間硯洲著・富田文陽堂発行・大正2年6月)
6:「浪華摘英」・「続浪華摘英」(発行兼編纂 三島聴恵・大正5年12月)=大塚融氏(元NHK記者・数寄者研究家・経営史研究家)よりご提供頂きました。
7:「大阪人物誌 正編」(石田誠太郎著・石田文庫・昭和2年)
8:「大阪人物誌 続編」(石田誠太郎著・石田文庫・昭和11年)
9:「増補 古今日本書画名家辞典」(玉椿荘楽只著・大文館発行・昭和14年)
10:「日本美術辞典」(野間清六,谷信一編・東京堂・昭和27年)
11:「大日本書画名家大鑑」(荒木矩著・第一書房発行・昭和50年1月)
12:漢文学者総覧「長澤矩也監修,長澤孝三編・汲古書院・昭和54年」
13:「佐賀 幕末・明治500人」(福岡博編・佐賀新聞社発行・平成10年12月第2版)
14:「大阪人物辞典」=(三善貞司著・清文堂刊・平成12年)
15:その他「広辞苑」など

:「佐賀 幕末・明治500人」は、佐賀新聞社のご好意により、当HPへの掲載を許諾頂いています。
:【大阪人物辞典】は、著者三善貞司氏のご好意により、当HPにのみ特別に掲載の許諾を頂いています。

垣内雲りん (かいとう  うんりん)

画家

弘化2年5・~大正8年7.17 (1845~1919)

四条派の画家。高山生まれ。垣内右りん(ゆうりん)の長子。名は徴。号を友華・友竹斎・右竹・錦嶺・直道。慶応3年(1867)ごろ京都画壇の重鎮・塩川文麟に師事。
明治4年(1871)高山へ帰る。農商務省主催の第一回内国絵画共進会で褒状を受賞。以後、パリ万博出品、日本美術協会展で入賞を重ねる。明治34年に東京へ移る。宮内省御用品も数点。気宇広大な変化の妙をとらえた山水画に定評。京都府画学校教授、石川県絵画品評会審査員、日本画会評議員、正派同志会評議員を歴任。
-[飛騨人物事典(郷土文人遺墨展)]=高山市教育委員会-

◆垣内雲りんによる、明治25年「琴高仙人図(鯉がテーマの絵)」は、高山祭りの屋台、見送り幕(後ろ側)に使用されている。
◆「石野香南」の画の師匠。森琴石とは画壇での活躍場所が類似。

 

 

平成17年7月■2番目
門人紹介「石野香南


賀集久太朗 (かしゅう きゅうたろう)

文久元年兵庫淡路島の生まれ。京都に出「朝陽園」を経営。明治期における、薔薇、朝顔などの一大栽培家として貢献。伝記は「平成18年9月【1】注5」参照。

文久元年6月15日、明治30年5月、小山源治と共に森琴石の自宅を訪問、森琴石が育てた薔薇を鑑賞し、見事に咲き乱れた薔薇の有様を35年7月刊行の「薔薇栽培新書」で記述。その他著書に明治28年『朝顔培養全書』、明治31年『芍薬花譜』など。
★備考:朝顔に関しては、森琴石周辺には、画家の「岡 不崩」や「服部雪斎」などの存在あり。

 

 

平成18年9月【1】」・「平成19年10月【1】」・「平成23年8月
平成23年8月」など。


梶木源次郎 (かじき げんじろう)=梶木源治郎

町長・経営者

文化9年3月18日(1812)~明治25年1月20日(1892)

★森琴石の実父
★湯山町の町長を勤める
★有馬温泉「中の坊」経営
★有馬温泉「炭酸水」発見者
★有馬温泉の物産、土産物の振興に尽力
★有馬湯本町や周辺での、道路や橋の新設、灌漑治水工事、道標設置など、有馬温泉全体の振興の一大貢献者



◆実子森琴石による銅版『有馬温泉炭酸水改良建築并市街図写真絵図』、『有馬温冷両泉分析表雑記』、『有馬温泉炭酸水改良建築并市外写真絵図』などの著編、出版人

 

 

平成16年2月・注1●」・「平成17年6月■3番目・注9」・「平成18年12月【1】◆(四)★8番目」・「平成19年1月【1】7番目」・「平成20年1月【2】注3」・「平成23年1月【1】■5番目、10番目」・「森琴石紹介:略歴生家と森家」・「雅友・知友:田中芳男」・「索引:安倉・浅野仙太郎浅野半六有馬郡有馬温泉有馬温泉記有馬温泉史料有馬温泉炭酸水有馬温泉冷温泉成分分析表全


鼎 金城 (かなえ きんじょう)

画家

 

師匠・先輩「鼎金城」、「画家系図」、関連資料:「鼎金城墓碑」・「橋本香坡」、「平成17年2月■1」、「平成17年4月■5」、平成17年11月【3】平成17年12月【1】


鼎 春嶽 (かなえ しゅんがく)=鼎 春岳

画家

師匠・先輩「鼎春嶽」・画家系図・「平成17年2月■1番目


兼本春篁 (かねもと しゅんこう)

画家

 

名ハ俊興、字ハ善卿、春篁ト號ス、安政二年七月出雲松江ニ生ル、幼ヨリ藩學修道館ニ入リ、漢籍及ヒ習字ヲ學ヒ、明治五年ヨリ同十一年まで小學校ニ教師タリ、十二年居テ京都ニ移シ、始メテ田能村直入ノ門ニ入リ、南宋ノ畫法ヲ學ヒ東海西海ノ諸道ヲ歴遊スルコト三十餘年、性名利ヲ顧ミス、博覧會、共進會等へ出品シテ世評ヲ求ムルヲ好マス。(京都市上京區川端荒神北)
-「姿態横生」-

◆補足:通称を俊興(としおき)という。大正15年旅先の大連で歿す。
詩文もよくした。横山耐雪著「出雲詩鈔 巻五」に詩一首。(「山陰の近代漢詩」入谷仙介,大原俊二著・平成16年11月・入谷仙介注釈より)
◆森琴石とは活躍画壇が類似、合作画などしている。

 

 

平成17年3月


加納黄文 (かのう こうぶん)=加納 鴻文

画家

 

(一)
幕末より明治に捗るの画家加納黄文【鴻文とも書く、京都に出て画名あり。明治十二年刊愛知県人物誌に、初め野村玉溪、後ち横山清(目+軍)の門人】

―「起町史」(尾西市役所・昭和30年5月3日)―

(二)
加納黄文  1824(文政7)~1891(明治24)
黄文は尾西市起出身の人。鴻文鉄香孤雲及び温故の別号がある。
明治12年刊「愛知人物誌」に「名古屋の産、西京に住す。
初め野村玉溪後ち横山清(目+軍)の門人」とある。
1800年代広まってきた、円山応挙の写生主義と与謝蕪村の南画を結合させ、確立した四条派松村呉春(月溪)の弟子で名古屋に伝えた熱田の野村玉溪に学んだ。更に、京にのぼり、松村景文の弟子横山清(目+軍)についたようだ。

―「びさいの画人展」(尾西市歴史民族資料館・昭和62年8月1日)―

(三)
文政7年(1824)~明治24年(1891) 享年68
中島郡起村(尾西市)の生まれ。四条派の野村玉渓の画を学び、のち京に出て横山清(目+軍)の門人となる)

―愛知画家名鑑」(服部徳次郎編著・愛知画家顕彰会・平成9年2月)―

(四)著書

1:「南画指南」(加納黄文・九如堂,・明13)=国立国会図書館
2:「南画指南」(加納黄文・開文館・明治44年)=国立国会図書館
3:「南画初歩 三巻、補一巻」(加納黄文著・明治44年)
補一巻は、佐野琴岳(岱石)編=渡辺私塾蔵(栃木県真岡市)
4:「南画初歩 天地人完 4冊」(加納黄文著・森本謙蔵他・大正元年9月)
第4冊目「完:菊之部」は、佐野琴岳編 =森家

◆(一)(二)(三) ご提供者=小塚ひろみ氏(尾西市歴史民族資料館)
◆「尾西市史 通史編 上巻」(尾西市史編さん委員会・平成10年3月31日)には、「南画初歩」「南画指南」についての記述箇所があります=小塚ひろみ氏より
◆補足
加納黄文=京都府画学校(開校時)出仕者 に、名があります。

 

 



























門人:大阪府-泉州「佐野岱石(佐野琴岳)




平成18年10月【1】注3


川村雨谷 (かわむら うこく)

画家

1838―1906

天保九年(1838)八月八日、江戸青山百人町(現東京都港区)に幕臣川村幽対の子として生まれる。名は応心、字は広卿、守国。幼名を次郎太、通称を新助といい、別号に陸蓮子、無生居士などがある。
居所を宣雨艸堂、瑞芝山房、愛竹艸堂、種竹萬竿堂、仙台での寓居を太白山房と称した。
六歳の時、父の新潟奉行所詰にしたがい新潟に赴き、同地で育つ。
松山芝山に四条派の画、杉浦南陽に漢籍、観老館に武術を学び、安政三年(1856)家督を相続した。
慶応元年(1865)長崎奉行支配定役として長崎に赴任し、三年の勤務の間、木下逸雲、僧鉄翁(日高鉄翁)らに南画を学ぶ。
維新後明治二年刑部省に出仕、のち司法官として大阪、仙台、東京、松江などに赴任し、その後大審院判事として三一年までつとめた。
一五年第一回内国絵画共進会「山水」「梅」が銅印、一七年同第二回「山水」「花卉」も銅章を受賞。
一七年東洋絵画会結成に際して議員となり、三〇年には高森碎厳(さいがん)らと東京南画会を結成する。
三一年官を辞してのち下谷に幽居、田能村直入(たのむらちょくにゅう)、田崎草雲らと交遊し、南画界の重鎮として、門人もはなはだ多かった。
「箕山秋色図」ほか清澄な山水を製作。また古印を多く蔵し、篆刻や俳諧(号枯木庵烏谷)もよくした。
明治三九年(1906)十二月二九日、老衰のため下谷仲徒士町の自宅で死去。
-資料:成澤勝嗣氏(神戸市立博物館)-

◆森琴石は福井県武生の逗留先で、胡鉄梅などと共に同じ画帖に揮毫している。

 

 

平成17年3月


河村虹外 (かわむら こうがい)

画家

 

名は、祉、字ハ永卿、虹外ハ其號ナリ、文久元年六月若狭小濱ニ生ル、荘ニシテ京都ニ出テ讀書ノ餘暇テ以テ六法ノ重春塘ニ學ヒ、傍ラ元、明名家ノ遺法ヲ討究ス、後チ、山陰、山陽、南海、東海ノ諸洲ヲ歴遊シ造詣スル所極メテ深ク遂ニ畫ヲ以テ立ツ。(京都市富小路二条南)
-「姿態横生」-

◆森琴石とは合作画などしている

 

 

平成17年3月


行徳玉江 (ぎょうとく ぎょっこう)

画家・篆刻家

 

師匠先輩:「行徳玉江」、「画家系図」、「平成16年1月■2番目◆2つ目」、「平成17年11月【2】注3&【3】■4番目」、「平成17年12月【1】」、「平成18年6月【1】■4番目


久保田米僊 (くぼた べいせん)

画家

 

久保田米僊 京都府下下京區元田竹町ニ住ス 久保田音七ノ男ナリ 鈴木百僊及同苗百年ニ就テ畫ヲ學フ 畿内及近江美濃尾張伊勢駿河武蔵下總下野丹波 後但馬播磨等ヲ遊歴ス 明治十三年京都府畫学校出仕拝命 是ヨリ先明治十年同十一年及其後同十五年 同府博覧會ニ於テ賞状及妙技賞銅牌ヲ領受シ 叉同年内國繪畫共進會ニ於テ出品審査官トナリ 且同會ニ出品シ其褒賞トシテ銅印ヲ授與セラレ 嘗テ京都府畫学校ヲ興サントテ建議シ 開校以來孜々トシテ後進ヲ奨励勵セルを以テ繪事功勞褒状ヲ併セ授與サラル
―内国絵画共進会審査報告 明治15年―

◆森琴石秘蔵の控帖に住所が書かれている。森琴石編「名家画帖」に揮毫。
◆久保田米僊は自著も多数あり、清国に行き多くの文人と交流。森琴石は米僊から情報などを得ていたと思われる。

平成15年12月



栗田石癖 (くりた せきへき)

篆刻家

 

明治2年~昭和2年。守山湘帆の門下(南画)
福岡市春吉下寺町で没。59歳。 

―「福岡県日本画古今画人名鑑」(野田正明編・古今画人名鑑刊行会・1987年)―


★「平成22年7月【2】【3】」により、詳細な人物像が判明。(★更新日:H22/7/27)

資料:書簡「石癖 栗田先生」、「平成18年8月【1】


平成22年7月【2】【3】


桑田墨荘 (くわた ぼくそう)

画家

師匠・先輩「桑田墨荘」・関連資料「千瓢賞餘」大阪府の中ほどに名あり。


古賀精里 (こが せいり)

儒学者

 

江戸後期の儒学者。寛政の三博士の一人。名は樸(すなお)佐賀藩の人。はじめ陽明学、のち朱 子学を奉じ藩校の創設に尽力。幕府に登用され、昌平黌(しょうへいこう)の教官

◆森琴石師匠「妻鹿友樵」の師「勝瀬馬洲」の師匠
◆「廣瀬旭荘」の交流者

平成17年2月■2番目◆2番目◆8番目」・「平成18年12月◆1番目(四)★11番目■3番目注3▲2番目」・師匠、先輩たち「廣瀬旭荘(三)


古賀侗庵 (こが とうあん)

儒学者

 

1788-1847 江戸時代後期の儒者。

天明8年1月23日生まれ。古賀精里(せいり)の3男。文化6年幕府の儒者見習,14年儒者にすすみ,昌平黌(しょうへいこう)で教える。諸子百家に通じるとともに,海防問題なども論じた。弘化(こうか)4年1月30日死去。60歳。肥前(ひぜん)佐賀出身。名は煜。字(あざな)は季曄。通称は小太郎。著作に「今斉諧(いまさいかい)」「海防臆測」など。(by kotobank)

◆森琴石長男雄次の妻「梅子」の祖父「武富圯南」の師匠

平成17年1月■2つ目注3■1番目」・「平成17年2月■3番目注3◆1番目◆2番目」・「系累人物:武富圯南(一)●3番目」・「平成18年12月◆1番目(四)★11番目


巨勢小石 (こぜ しょうせき)

画家

 

巨勢金起小石と號ス京都府下京區大坂町ニ住ス巨勢金観ノ男ニシテ天保十四年九月廾八日
生ナリ 畫ヲ岸連山中西耕石ノ二氏ニ學ヒ 詩ヲ神山風陽ニ學フ 嘗テ大和攝津紀伊讃岐信濃伊勢駿河武蔵下総常陸下野等ヲ遊歴シ 叉支那ニ航ス 明治十三年京都府畫學校出仕拝命叉華族會館分局畫學校教員トナリ 同十五年内国繪画共進會ニ於テ褒状ヲ授與セラレ 叉京都府畫學校を興サントテ建議シ 開校以来開校以來孜々トシテ後進ヲ奨励勵セルを以テ繪事功勞褒状ヲ授與セラル 其他京都博覧會ニ於テ賞牌褒状ヲ領受スルコト數回ナリ
―内国絵画共進会出品人略譜―

◆小石は巨勢金岡の末流、第36代目の当初。森琴石編「名家画帖」に揮毫。

平成15年12月


小曾根乾堂 (こそね けんどう)

篆刻家・商人

 

1828-1885 幕末-明治時代の商人,篆刻(てんこく)家。

文政11年生まれ。長崎の豪商で福井藩御用達。安政6年長崎湾東岸に埋立地(小曾根町)を造成。一方,書を水野媚川に,篆刻(てんこく)を大城石農にまなび,明治4年御璽(ぎょじ)と国璽を印刻した。明治18年11月27日死去。58歳。名は豊明,栄。字(あざな)は守辱。通称は六郎。(by kotobank)

◆森琴石交流者「栗田石癖」の師匠

平成22年7月【2】■2つ目■3つ目■6つ目注3メモ注5★5つ目」・「平成22年8月【1】■1つ目


後藤春岳 (ごとう しゅんがく)

画家

 

森琴石門下(岡山県出身)

「門人紹介:岡山県 後藤春岳」「平成20年3月【2】■3番目


後藤松陰 (ごとう しょういん)

儒学者

 

1797-1864 江戸時代後期の儒者。

寛政9年1月8日生まれ。生地の美濃(みの)(岐阜県)大垣で菱田毅斎(ひしだ-きさい),ついで頼山陽(らい-さんよう)にまなぶ。文政3年大坂で塾をひらく。詩文をよくした。妻は篠崎小竹の娘,町(麻池)。元治(げんじ)元年10月19日死去。68歳。名は機。字(あざな)は世張。通称は春蔵,俊蔵。別号に春草,兼山。著作に「春草詩抄」「松陰詩稿」など。(「講談社 日本人名大辞典」)


◆寺西易堂、西毅一、野村藤陰の師匠

平成16年8月■3番目◆2番目」「平成17年4月■7番目注7●4番目」・「平成19年5月【1】■10番目注5★5番目」「平成22年5月【1】7■1番目」「師匠・先輩たち:廣瀬旭荘(一)◎2番目◇1番目


後藤象二郎 (ごとう しょうじろう)

政治家

(1838-1897) 政治家。土佐藩の出身。山内容堂に大政奉還の建白をさせた。維新後、参与・参議。征韓論により下野。自由民権運動に参加して、自由党結成に参加。解党後、大同団結運動を展開。逓相・農商務相を歴任。(Weblio 辞書)

◆「田中芳男」に、明治9年、大阪舎密局への御用掛任務への用命を与えた人物

平成19年1月【1】■6番目注8


小松帯刀 (こまつ たてわき)

政治家

[1835~1870]幕末の薩摩藩士。名は清廉。島津久光の側近となり、藩を代表して国事に従事。薩長同盟締結、大政奉還に尽力した。(by デジタル大辞泉)

◆「田中芳男」に、明治9年、大阪舎密局への御用掛任務への用命を与えた人物

平成19年1月【1】■6番目注8


小松原英太郎 (こまつばら えいたろう)

政治家

1852-1919 明治-大正時代の官僚,政治家。

嘉永(かえい)5年2月16日生まれ。「評論新聞」「朝野新聞」の記者をつとめ,明治12年「山陽新報」を創刊。官界に転じ,埼玉県などの知事や司法次官,内務次官を歴任。33年貴族院議員。大阪毎日新聞の社長。41年第2次桂内閣の文相。枢密顧問官。大正8年12月26日死去。68歳。備前(岡山県)出身。慶応義塾中退。(「講談社 日本人名大辞典」)

◆明治12年、西尾吉太郎(森琴石関係者)、野崎又六らと山陽新報を創設する

平成16年3月■3番目注6●1番目


小室翆雲 (こむろ すいうん)

南画家

南画家。群馬県生。名は貞次郎。田崎草雲に師事する。高島北海・荒木十畝らと正派同志会を組織し、文展新派と対抗、第2回文展より毎年受賞し、審査員となる。田近竹邨・矢野橋村らと日本南画院を創立、南画の大御所として活躍した。帝国芸術院会員・帝室技芸員。昭和20年(1945)歿、70才。

◆森琴石が評議員を務めた「正派同志会」の副委員長。
◆大阪の老舗料亭「花外楼」には、森琴石らとの「寄合書画帖」あり。

平成17年4月■7番目」・「平成20年2月【2】注3★1番目


小室秀俊 (こむろ ひでとし)

画家

狩野派の画家で、寺崎廣業の師匠。

明治24年7月15日~24日に開催された「第8回秋田伝神画会」の幹事を務める。

平成18年10月【1】注2


小山雲泉 (こやま うんせん)

画家

 

名ハ袁榮、字ハ秀水、通稱要助、雲泉ハ其ノ號ナリ、別ニ芝石道人ト號ス、安政二年九月浪花ニ生ル、明治十一年中田熊峯ノ門ニ入リ南學派ノ畫法ヲ修ム、尋テ諸國ヲ歴遊シ傍ラ篆刻ヲ學ヒ、千字文百類印譜ヲ著ス、明治十七年浪華畫学校ノ助教トナリ、後小學校教員講習會毛筆畫講師タルコト兩回、全國南宋畫共進會ノ審査員タルコト數回、曾テ東宮妃殿下御前揮毫ヲ仰付ラレ、叉諸會へ出品シテ銀、銅牌等ノ賞ヲ得タル事數十回。(大阪市西區堀江下通四)
-「姿態横生」-

◆明治44年歿、57歳。
森琴石とは浪華画学校でも職を同じくしており、活躍環境が類似。

◆森琴石の日誌
大正元年8月6日:「小山雲泉令閨ヨリ依頼之婦人入門稽古ニ来ル、是迄花鳥稽古ニ付、山水ヨリ教授」とあり、家族共々親密な交流をしていたようだ。

 

 

平成17年3月


小山源治 (こやま げんじ)

博物学者

◆京都博物会会員。新種の蝶を発見などする。趣味人として交流する多彩な脈あり。
◆自身の蔵書の中から300冊を天理大学附属図書館に寄贈、自身の号である「天香園」に因み「天香園文庫」と名付けた。
◆著書『薔薇栽培新書』(35年7月に刊行)は、日本における最初の完全な薔薇栽培の指導書である。
◆『薔薇栽培新書』には、森琴石の自宅を「賀集久太朗」と共に訪問、栽培された薔薇300種類、鉢植え800など、垣植え地植えのバラが見事に咲き乱れる様子を記している。

平成19年9月【1】注1、2、3注6・注10」・「平成19年10月■8番目注10」・「関連資料:日本美術協会大阪支会

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