森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石紹介 Mori Kinseki

森琴石とは略歴写真・文献抜粋(南画編<明治時代><大正時代><昭和時代>・銅版画編)|
家族・係累(生家と森家・森琴石の家族・係累人物

■係累人物

入江穆遠(いりえ ぼくえん)

「三田川町史 名誉町民(二)江戸時代の人物 神埼郡」 (古賀静雄文/三田川町編・昭和55年)より

●入江穆遠=森琴石長男森雄二の妻「うめ(梅子)」の祖父(入江俊次郎の父)
●当HPでの関連事項=最新情報「平成13年1月」・「平成17年2月■第三項目注2


幕末の佐賀藩で、国学者として子弟の指導に、また、行政面では都検・郡宰を歴任、軍務に就いては武器庫の司となる。明治戊辰戦争(1866)の折、会津討伐軍に加わり軍監を兼ね、前線に在って活躍した。

目玉嶺の戦で創を受ける。戊辰戦争が終わって公賞を受け、実録十石を加えられた。

性格は清雅・剛毅。その時代の世情に慷慨(こうがい)し国事に尽くしたが、明治六年(1873)7月27日没。

神崎郡箱川村妙雲寺に葬られる。入江家は累代妙雲寺を檀家寺とし、見事な供養塔が残されている。
入江兵之助(穆遠)の墓碑には、右(注上記文章のこと)の銘文が陰刻してある。


◆入江穆遠の弟入江文治は、上記にある墓碑の碑文に「佐賀鍋島家弘道館教師ヲ務ム」と記されている。

武富(たけとみ いなん)

●関連事項=「平成13年1月」・「平成17年2月■第三項目 注2」・「平成17年11月【3】・3番目、注6
●[武富圯南]の七代前には佐賀藩の儒学者[武富廉斎]がおり、[武富圯南]の祖父は、儒学者[武富坦道]。
●門下=「柴田花守」・「墾鉄操(姓荒木、宇和島)」・「水越耕南」・「馬渡俊猷」など。
●森琴石長男「森雄二(森雄次)」の妻「梅子」の祖父に当たる。
●武富圯南=「入江穆遠(入江兵之助)」の妻の父。


(一)
「佐賀幕末明治500人」(福岡博著・平成10年・佐賀新聞社刊)=佐賀県立図書館 より

武富圯南

文化3-明治8(1806~1875) 教育者

●佐賀城下白山町に生まれる。
●名は定保、字は元謨、通称は文之助、圯南、蜜庵、碧梧楼、かん翁と号した。
●始め中村嘉田に学び、後江戸に出て古賀とう庵の門に入り勉学三年、帰国して弘道館教授となる。
●晩年は佐賀八幡小路に嶽塾天燭塾をおこし、藩の文教に大いに功績があった。
●詩文、書画、音楽に堪能で、廃藩後は東京に移り、当時の儒者川田甕江信夫恕軒なども詩文の添削を請うていたほどである。

(ニ)
「武富圯南(定保)」著書類

1:圯南書画識
2:嘉田中村先生行状
3:通訳辨体(つうやくべんたい)
4:奉賀国宰清陰君拝鞍鐙(ほうがこくさいせいいんくんはいあんとう)= 嘉永7年、草場佩川・島義勇(しま よしたけ) 武富圯南らによる・嘉永六年長崎神島に砲台ができた時の祝辞集
5:密菴詩文集(みつあん しぶんしゅう)
6:密菴文類略抄(みつあん ぶんるいりゃくしょう) 1~6=国文学研究資料館による 

(三)
「武富圯南」掲載書誌

1:「佐賀先哲叢話」(中島吉郎著・木下泰山堂出版・明治35年)には、武富蜜菴(武富圯南)の他、武富廉斎・武富坦道の伝歴が記述されている。
2:森春濤著「旧雨詩鈔」(光玉堂刊・明治12年)第一冊目の冒頭に武富圯南の漢詩が掲載。
3:南摩綱紀(羽峯)著「環碧楼遺稿 付:南摩羽峯先生伝(土屋 弘=土屋鳳洲)」(南摩綱夫出版・明治45年3月)の中ほどに武富圯南の漢詩が掲載。
4:「松陰先生遺著 吉田庫三編」(吉田庫三編・民友社出版・明治41、42年)、第二巻「西遊日記」末尾の方「嘉永3年(1850)12月21日~24日」に、吉田松陰が、武富圯南や弘道館訪問の記述あり。付記には圯南(武富定保)の漢詩あり。

◆以上は、国立国会図書館・近代デジタルライブラリーで閲覧できます

(四)家族、係累

★ 長男 誠修 →(長男)咸一(海軍少将)
★ 長女 ミホ子=上記、「入江穆遠」の妻となる
★ 次女 アサ子=永淵家に嫁し(永淵アサ子)、明治21年,佐賀婦人矯風会を組織、明治24年,佐賀で最初の「実習女学校」を創立、明治32年,佐賀女学校を創立するなど、女子の地位向上や教育に尽力した。
★ 三女 クラ子=長女ミホ子歿後 「入江穆遠」の 後添えとなる。
★政治家「武富時敏」の祖父と、「武富圯南」の父親が兄弟の間柄。

武富時敏・武富廉斎・武富圯南=「肥前佐賀武富一族」からご覧頂けます=武富義浩氏(神奈川県・武富家係累)制作のサイトです。


久米邦武(くめ くにたけ)

●森家祖母「梅子」の実家、佐賀藩入江家の係累



久米邦武 (天保10~昭和6  1839~1931)

25歳の時江戸に出て昌平黌に学んだ。

明治維新と共に新政府に仕え、明治4年岩倉具視に従い欧米を視察し、帰国後『米欧回覧実記』を著した。

明治21年文科大学教授兼臨時編年史編纂委員となり、『国史眼』を編集した。

古文書学の樹立者であり、日本古代史の科学的研究に先鞭をつけた。

論文「神道は祭天の古俗」が国粋主義者たちの攻撃をうけ、筆禍問題を起こし、明治25年大学教授および兼職を辞職した。

その後は東京専門学校(のちの早稲田大学)で古文書学、日本古代史学を講じつつ著述に専念した。

日本の近代歴史学成立期における一先駆者である。

彼の調査による『有田皿山創業調』などの一連の藩政史は貴重な文献である。

他主著として『上宮太子実録』『古文書学講義』『日本古代史』『南北朝時代史』『鍋島直正公伝』などがあり、日本の歴史学の基礎をつくった。


「佐賀 幕末明治500人」(福岡博編・佐賀新聞社発行・平成7年11月)より


◆「米欧回覧実記」=国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」から閲覧出来ます。

◆久米邦武に関しての記述は「平成17年2月■第三項目 注2」にあります。

◆久米邦武と入江家の関係について

久米邦武=入江家から養子に入った忠温の長男「石井清左衛門忠程*」の妻が、久米邦武の姉にあたる。
    (入江忠温=入江家第五代目「入江能賢」の三男)

石井家=鍋島藩初代藩主「鍋島直茂」の妻となった「陽泰院」の生家。鍋島家の外戚として重用された家系。
 石井家=佐賀鍋島藩石井家をご覧ください。



★入江家と石井家との関係については、「佐賀藩主鍋島家外戚・重臣」 石井家ご子孫、並びに「武富義浩」氏のご協力を頂きました。


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