入江穆遠(いりえ ぼくえん)「三田川町史 名誉町民(二)江戸時代の人物 神埼郡」 (古賀静雄文/三田川町編・昭和55年)より ●入江穆遠=森琴石長男森雄二の妻「うめ(梅子)」の祖父(入江俊次郎の父) |
目玉嶺の戦で創を受ける。戊辰戦争が終わって公賞を受け、実録十石を加えられた。 性格は清雅・剛毅。その時代の世情に慷慨(こうがい)し国事に尽くしたが、明治六年(1873)7月27日没。 神崎郡箱川村妙雲寺に葬られる。入江家は累代妙雲寺を檀家寺とし、見事な供養塔が残されている。 |
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武富圯南(たけとみ いなん)●関連事項=「平成13年1月」・「平成17年2月■第三項目 注2」・「平成17年11月【3】・3番目、注6」 |
武富圯南 文化3-明治8(1806~1875) 教育者 ●佐賀城下白山町に生まれる。 (ニ) 1:圯南書画識 (三) 1:「佐賀先哲叢話」(中島吉郎著・木下泰山堂出版・明治35年)には、武富蜜菴(武富圯南)の他、武富廉斎・武富坦道の伝歴が記述されている。 ◆以上は、国立国会図書館・近代デジタルライブラリーで閲覧できます (四)家族、係累 ★ 長男 誠修 →(長男)咸一(海軍少将) ★武富時敏・武富廉斎・武富圯南=「肥前佐賀武富一族」からご覧頂けます=武富義浩氏(神奈川県・武富家係累)制作のサイトです。 |
久米邦武(くめ くにたけ)●森家祖母「梅子」の実家、佐賀藩入江家の係累※ |
久米邦武 (天保10~昭和6 1839~1931) 25歳の時江戸に出て昌平黌に学んだ。 明治維新と共に新政府に仕え、明治4年岩倉具視に従い欧米を視察し、帰国後『米欧回覧実記』を著した。 明治21年文科大学教授兼臨時編年史編纂委員となり、『国史眼』を編集した。 古文書学の樹立者であり、日本古代史の科学的研究に先鞭をつけた。 論文「神道は祭天の古俗」が国粋主義者たちの攻撃をうけ、筆禍問題を起こし、明治25年大学教授および兼職を辞職した。 その後は東京専門学校(のちの早稲田大学)で古文書学、日本古代史学を講じつつ著述に専念した。 日本の近代歴史学成立期における一先駆者である。 彼の調査による『有田皿山創業調』などの一連の藩政史は貴重な文献である。 他主著として『上宮太子実録』『古文書学講義』『日本古代史』『南北朝時代史』『鍋島直正公伝』などがあり、日本の歴史学の基礎をつくった。 「佐賀 幕末明治500人」(福岡博編・佐賀新聞社発行・平成7年11月)より ◆「米欧回覧実記」=国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」から閲覧出来ます。 ◆久米邦武に関しての記述は「平成17年2月■第三項目 注2」にあります。 ◆久米邦武と入江家の関係について
久米邦武=入江家から養子に入った忠温の長男「石井清左衛門忠程*」の妻が、久米邦武の姉にあたる。
※石井家=鍋島藩初代藩主「鍋島直茂」の妻となった「陽泰院」の生家。鍋島家の外戚として重用された家系。 ★入江家と石井家との関係については、「佐賀藩主鍋島家外戚・重臣」 石井家ご子孫、並びに「武富義浩」氏のご協力を頂きました。 |