平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します
■ | 江戸後期の大坂で、書画・詩文・煎茶道・書誌・本草学・天文学など幅広い 分野で活躍し、各層に人脈を持つ木村蒹葭堂(きむら けんかどう)は、多くの文人 達の憧れと手本となった。爾来大坂では文人は一芸だけではなく、全てにわ たり広く奥義を究める事が常であった。その木村蒹葭堂のもとにしばしば通った ひとりに鼎春嶽(かなえ しゅんがく)という画家がいた注1。森琴石の師匠「鼎金城 (かなえ きんじょう)」の父である。鼎春嶽は「池大雅 いけ たいが」を師とする「福 原五岳ふくはら ごがく 注2」に学び、近世大阪画壇の一角を担った。香川県高松 市の「瀬戸内海歴史民族資料館」には、鼎春嶽の六曲一双屏風「四季耕作図 注 3」が所蔵されている。 |
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■ | 森琴石の儒学の師「妻鹿友樵 めが ゆうしょう」は、医薬を家業とし、諸学、武芸に通じ、七絃琴奏者としても当代随一を誇った。江戸に遊学し多くの文人墨客と交友する中、国事に憤慨し仲間と共に奔走したという。文久2年(1862)大坂に戻り道場を開き武芸を教授した。さらに道場の隣に漢学私塾を設けた。森琴石は元治2年3月(1865)から入門、漢籍詩文を学び、七絃琴の指導も受けていた注。妻鹿友樵は功名を嫌ったため、人々から「大隠」と呼ばれ尊敬された。古器・古玩・古書画の蒐集なども趣味とし、清国文人とも交流を深めていた。 |
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■ | 森家の曽祖父のひとり「入江俊次郎 いりえしゅんじろう 注1」の母方注2の祖父は、「武富圯南 たけとみ いなん 注3」という肥前佐賀藩の儒学者であった。入江俊次郎の曽祖父(入江又右衛門能賢)は、柳生流釼術百武家の百武善兵衛兼通が養子となっていた注4。次の代の、入江善右衛門兼朋も同じく百武家からの養子である。現在調査中であるが、森家の血縁縁者には著名人が少なからず存在したと伝えられている。 |
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■ | 琴石が諸国漫遊した足跡や交友人脈には、先輩師匠や身内達から譲り受けた事が多いと思われる。規模や種類の違いこそあれ、広範囲にわたる交友や諸学諸芸の奥義に通じた事など、森琴石は、江戸後期木村蒹葭堂に見る「大阪の文人」を、明治期の時代に最も良く引き継いだようだ。 |
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