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注1 |
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- 「絵画出品目録 農商務省編 2冊」(明治15年・国文社第一支店)では、
岡山県南宋派(18番目)に、
- (一)山水
(ニ)蕉竹 號雲在 長坂三郎と書かれている。
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注2 |
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「雲来詩鈔 巻14」(石橋教著・明治40年)巻末の最末尾に書かれた「木村 發(号 暢斎)*」の跋文による ※。
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木村 發(暢斎)=【雅友・知友】の「木村 發(木村暢斎)」をご覧ください。小野湖山や藤澤南岳との交流もみられる。
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※木村 発 跋文(「雲来詩鈔 巻一四」より)
- 雲来詩抄に跋す
- 余の知る雲来矼先生は、実に友人長坂雲在に因る。
雲在は詩画を善くす。曽て余に語りて曰く、「浪華に詩人多し。
而して其の能く清遠なること秋の如く、温雅なること玉の如く、淡にして薄からず、峭にして険しからず、緩急豊約(ゆたかなこと)、隠顕出没、皆能く縄尺(法則)に中(あた)る。
随物賦形、高下洪繊(大小)、変化測るべからざる者は、推して雲来子を窃む」と。其れ之を訪い、是に於いて余は始めて先生と相見る。
爾後、雁魚の往来二十余年か。
頃(この)ごろ、先生は余に其の詩に跋を嘱す。
因りて重ねて雲在と先生の詩を細論せんと欲す。 而して雲在は己に亡し。哀しいかな。
姑(ともか)く、其の評語を書して以て此の編を読む者に問うという。
明治丁未紀元節前一日。行余学文艸堂南窓の下に於て跋す。
暢斎 木村 発 印
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翻刻者=大原俊二氏(米子市史編纂事務総括・米子市図書館協議委員・米子藤樹会理事)
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注3 |
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池田市立歴史民族資料館は、故林田良平氏が、自身の蒐集品を寄贈し「蝸牛廬文庫」と名づけられ、同文庫には、森琴石の「題画詩集」のほか、石橋雲来の「雲来吟交詩 3冊」(石橋教<雲来>編・明治14)・「雲来詩鈔 3冊」(石橋教<雲来>・明治16)、森琴石兄弟子の
「行徳玉江」・森琴石と交流した依田学海の「学海画夢」を含め、当HPでも登場する多くの文人達による書誌類や作品が収蔵されている。因みに香川県小豆島の「寒霞渓 かんかけい」の名づけ親は「藤澤南岳」である。
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注4 |
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木蘇岐山(きそ きざん)=雅友・知友「木蘇岐山」をご覧ください。
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注5 |
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橋本香迂(はしもと こうう)=雅友・知友「橋本香迂」をご覧ください。
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注6 |
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辻東山=「平成17年5月■4番目注5」
【日本南画協会 一宮支部発会図録 全」 ―明治34年10月20日の記録―】に、名があります。
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森祐順 書誌類
「点取交通論」(佐田介石述・森祐順等校・東京 :大伴義正出版・
明治16年)
「印度紀行釈尊墓況説話筆記」( 北畠道竜述・森祐順記・大阪
:西岡庄造出版・明治17年7月)
「真宗安心三百問」 /(森祐順著刊 ・ 明31.8)・「真宗義」(森祐順著・土塔閣刊・
明25.11)など |
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