森琴石周辺の人物や事柄・資料などを紹介する項目です
資料紹介(日誌・書簡・詩、賛)|関連資料(あ・か・さ・た・な・は・一覧) |
絵画叢誌 記事(かいがそうし きじ) ~森琴石関係分~ |
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●関連事項=「平成19年2月」・「平成18年8月 【3】■1番目」 ●〈一)・(二)資料ご提供者=高瀬晴之氏 (姫路市立美術館) |
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(一) ●新森琴石翁談 文展審査委員に大阪の美術家をも一人か二人加へて欲しいと云ふ事は大阪画壇に於ける久しい問題であったが 愈々今秋の展覧会には大阪画壇の耆宿森琴石翁を日本画部の委員として任命されたのは大阪画壇の為めに大いに慶す可き一事で翁は次の如く語った、 審査上の意見と申しまして別にございませんが 昨年の文展に於いて非常に心持悪く感じた一事がございます、 夫れは六百餘の出品応募者に対し百点内外より採用しなかった審査員が 自身で大きな物を五六種も出品したり 又は無鑑査の物だからと云って屏風を三双も出すなど 殆んど審査員と無鑑査者との出品の為に陳列場の半以上を費やすと言う其の遣り方が果たして美術御奨励と言う御聖旨に叶っているかどうかという事です。 私一個の考えとしては 審査員等は作品を若し出すとすれば 極めて場所を取らぬような小さい物とし 而して努めて応募者の作品を採用陳列するようにしたら大いに宜しかろうと思います。こうした意見から此秋は一つも出品せず 其代わり応募者の作品を一点でも多く採用しようと思っております云々
翁は本年七一歳 更に明治六年三月東京の洋画家高橋由一氏に就いて洋画を練習した 次いで 三十三年今上陛下御慶事に際し奉祝画を奉呈し ★お断り:当HPに転載につき、読みやすくするため、字間・改行など一部変更しました (二) ●明治20年9月「絵画叢誌 3巻」 ・・・ 森琴石画「果菜之図(第6図)」 12頁目・・・上記の画が掲載。落款「丙戊春日寫於 讀畫廬 浪華琴石」 ☆明治40年1月 「絵画叢誌 237号」・・・絵画写真 「桟道駻網」森琴石 筆 画の下:Mountain road? by Kinseki Mori ●「絵画叢誌 3巻」(明治20年9月) 森琴石 「果菜之図] ○巻中画図 (解説文章)
◆ (二) の● 箇所=「平成19年2月【1】注6」にも記述しています。 |
『絵画清談 第5巻10月号』より |
刊行・・・1917年10月刊(大正6年) ★what's new「森琴石が語る・・・真の南画家、頼山陽のエピソード等」にも取り上げています。 |
聴香讀畫楼清談 ▲真の南宗画家 ◎近頃鑑賞家間に美術鑑識眼の発達し来ったのは実に悦ばしい事であるが、
◎若い頃に、自分は備前の岡山に遊んだ事がある、時に旅舎の主人が
◎山陽先生に『岸駒は天下の人々皆目なきものと思へり』と評せられた岸駒は
『絵画清談 大5巻10月号』目次・・・・・国立国会図書館NDL-OPACによる |
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『絵画清談 第5巻9月号』より |
刊行・・・1917年9月刊(大正6年) ★記事本文、その他は
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画家小伝(がかしょうでん) |
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「画家小伝」 縦12,9x横8,2cm 全51頁 間部霞山による巻頭言「絵画会の現状を嘆く」に続き、 |
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森琴石先生(大阪) |
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(現代文書き換え) |
学海画夢(がっかいがむ) |
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「学海画夢 上下二巻」 ●関連事項:最新情報「平成13年7月」・「平成16年2月」・「平成17年10月【1】注11、13」・「平成19年8月【1】注5」 |
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「学海画夢」 上下二巻
「学海画夢」書誌画像
<三友聴琴>
※「学海日録」(学海日録研究会編纂・岩波書店発行・平成7年) 明治18年5月3日付に -(妻鹿友樵)余が為に日頃秘する所の瀟湘夜雨の曲を弾ず。又中村宗十郎と李向が幽潤泉を対弾す。この時、江月・寥天游の二琴を用ゐたりき。森琴石もまた琴を此翁にう- と、綴られている事による。 |
鼎金城 墓碑(かなえきんじょう ぼひ) |
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●関連事項:「平成17年11月」 |
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文久三年五月晦日没 年五十三 福島妙徳寺 (鼎)春嶽の男 名は鉉 字は子玉 浪花の人 画を著す ◆上記は国立国会図書館、近代デジタルライブラリーで閲覧できます。
◆書誌情報ご提供=井形正寿氏(大阪市福島区歴史研究会事務局長・大塩事件研究会 副会長 ほか) 明治42年8月
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翰墨因縁(かんぼくいんねん) |
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全二巻 ●水越耕南(神戸の漢詩家・画家水越松南の父)が、来日清国人と交わした詩や手紙を集成したもの ●下の画像は同書の”序文”・”目次の一部”・森琴石の記述がある”胡鉄梅の書簡” です |
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○ 畊南尊兄先生執事昨日得膽 風来頓慰夙懐臨行蒙贈 垂照 弟胡銕梅頓首 |
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○ |
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雅誼。徳島之事緑伊識兄迂濶不能就緒。然亦無可 如何。永 賜文集三冊。不勝琲謝。弟自博物會過期。施返浪華。 未幾琴石森君。招游岡山。行李匆匆。是以未及前来 暢領 教言。然毎託胡小翁。代致挙挙。想必奉 聞矣。事滋有懇者。弟岡山游畢。假道播州姫路来神戸。 素悉播州乃 |
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三渓云事前 |
閣下梓里前。次小翁游播。亦仰頼鼎力吹嘘。敬乞 | ||
定則不蹶 | 恵書數通達該地好事之家不致於臨渇堀井也幸 | ||
甚幸甚。 公暇草就祈寄至岡山懸備前岡山區字西大寺 町。西尾小竹堂方 鐵梅査収為感。草草専函。乞恕 不恭。 小弟胡璋頓首。七月十五日 |
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◆資料ご提供=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館) |
北野百年史より |
「北野百年史」(大阪府立北野高等学校校史編纂会編・昭和48年10月刊) ●関連項目=調査情報「平成16年6月」 |
[第三章 第二節 大阪尋常中学校時代 ](313頁 明治26年) ●この年の教員移動 前文略 8月には2名の図画教員が入ってきた。ひとりは船田虎蔵(助教諭)で元治元年(1864)3月生まれの29才、東京美術学校卒業生(明治25年)である。彼もまた病弱で休職生活を送ったのち、33年9月29日に依頼退職している。舩岳と号した。 他のひとりは師範と兼務で増野の後任と思われる松原三五郎、舩田と同年の6月生まれ、やはり助教諭。23年1月以来師範学校の教員であったが今年8月28日付で両校兼務となった。松原の履歴中で注目されるのは岡山変則中学校を12年4月に卒えて上京、一世五姓田芳柳について絹着色画を学び(14年1月~17年2月)、さらにこの間横浜のワーグマンを時々訪ねて画論を学んでいる点である。文部省検定の図画教科書数種も編集している。30年5月、大阪陸軍幼年学校へ転じた。 舩田、松原と図画課がはじめて複数の教員をもったので「従来の鉛筆用器画ト併セテ毛筆画ヲ課シタリ、施工後日浅シトイエドモ大に生徒の嗜好二モ適シ、充分二其目的ヲ達スルノ望アリ」、と「年報草稿(26年による)」は特に言及している。 後文略 [第三章 第三節 大阪府第一尋常中学校時代](484頁・明治33年) ●両広田も去る 33年になっても教職員の移動はいぜんとして続き、まだ本校はほんとうの落ち着きを取り戻せなかった。前半の移動は左に示す通りだが、広田竹次郎も転任してしまい、旧中津藩邸時代や江戸堀時代を知る人 は全く森田専一のみとなった。またもうひとりの広田、雑誌部長で「六稜」初期からの主な執筆者であった淡洲広田剛も帰郷、1年余りで別の学校のようになった。後文略 ◆森田専一については、頁504,505に「森田の人柄と其生涯」など記述箇所が複数あるが省略する 「第三章 第四節 大阪府第一中学校・堂島中学校時代」(496頁・明治33年) ●8月以降の教職員人事 前文略 舩田虎蔵:離任月日 9・29(明治33年)退職・在任期間7年2ヶ月 後文略 |
◆舩田舩岳の使用教科書などについては、頁397・398・526に記述がある |
北方心泉(きたがた しんせん)略年表 |
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『北方心泉「人と芸術」』(本岡三郎編・二玄社・1982年10月30日初版)より抜粋 ●この項目での関係人物=胡鉄梅・内海吉堂・岸田吟香 |
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勤皇家 墾 鉄操(きんのうか あらき てっそう) |
「勤皇家 墾鉄操」(著者兼発行者:河野傳/発行所:伊達事務所/昭和61年6月1日/非売品)より ●関連事項=家族・係累「武富圯南」 |
― 勤皇家 墾(あらき)鉄操 河野 傳 ー 今は★金剛山大隆寺の墓地に眠る、勤皇家、墾鉄操の事跡については僅かに残された書画にその面影を偲ぶ程度で、私達は彼の出目も経歴もしらなかった。 ★金剛山大隆寺(臨済宗妙心寺派)=宇和島10万石に封ぜられた富田信高が、天正12年(1584)父富田知信菩提のために創建し金剛山正眼院と称した。元和元年(1615)伊達秀宗入封以来伊達家の香華所となり、五代藩主村候(むらとき)六代藩主村寿(むらなが)父子により 寛政10年(1798)現在の堂宇が完成して寺号を大隆寺と改めた。五代藩主の戒名が大隆寺殿なるをもって寺号を呼ぶは非礼なりと、山号の金剛山を呼ぶならわしとなった。 大正13年1月建立された天赦園の記念碑に、太政大臣三条実美公が「富貴寿栄」の四字篆額を書き、★左氏珠山(1829~1896)撰文、★三好順風(1814~1889)敬書した碑文の中にー荒木鉄操郡人と謀り碑を建てんと欲し云々ーと刻まれ、又宇和津彦神社に建つ「竹陰の筆塚」には世話人として鉄操の名が刻まれていてそれを見る限りに於いては遺墨と共に文人画家の域を出ないのではないかと思われた。 ★左氏珠山(1829~1896)=上甲振洋に学ぶ、藩明倫館教授。廃藩置県後は法官となり判事補に任じられる。明治10年職を辞し上阪、帰郷して松山中学、宇和島中学の教官となった。 最近東京の社団法人、日本工芸会理事長で東京国立博物館運営協力会理事等をつとめられている深見吉之助氏から墾鉄操のことが知りたい旨の連絡とそのための資料が届いた。 それによると深見氏の尊父、深見寅之助翁は、愛媛県議会第十九代と二十二代の議長をつとめ、のち衆議院議員となり昭和3年死去された政治家であり、能書家としても知られ、遺墨が各地に残っている。 特に越智郡伯方町の三島神社には彼の9歳の書「敬神愛国」の四字額が今も神前に掲げられていて有名であり、迚も9歳の童子の書とは思えない雄渾、堂々たるものである。 今回深見氏が墾鉄操の事績を調べたいと申される理由は、父寅之助が9歳の時、即ち明治20年の夏5月 今治藩医であった、★菅周庵に連れられて宇和島を訪れ、★伊達春山公(宗紀)に謁見の際その労をとったのが墾鉄操であった。 ★管周庵(1808~1893)=今治の藩医、名は大譲、香雲、春菘、休叟、七松と号す。幼児貫名海屋に書を学ぶび、高橋執齋について医を修め、長崎に赴いて種痘の術を学び帰って之を藩民に施した。時に嘉永2年、地方に於ける種痘の初めという。 9歳の童子の書をご覧になった老公はその書を激賞され、一層勉励するようお言葉を賜り感激して退出した。翌明治21年5月13日今治から船で再び父に伴はれ、菅周庵と共に宇和島を訪れ、26日辰の時(午前8時頃)前回と同様、墾鉄操同席して、天赦園の潜渕館で謁見を許された。99歳の老公は自ら筆を執って「吾心在太古」の五字を揮毫し、春山の号の春の一字を賜り、「春洲」の号を授けられその「春洲」の揮毫と共にこれを頂戴した。 その時の様子を同行の菅周庵は「登竜門の栄は誠に一家の喜び、永らく後裔に伝えてもって家什となさん」と感激を書き残している。このことが幼年期の彼寅之助に大きな影響を与えたことは想像に難くない、果たせる哉、春山公の期待に応え 後に衆議院議員に栄進した。 伊達家文書の明治21年5月25日の日記をみると、菅七松が鯛一尾、深見藤平が塩浜焼の玉子を献上した記録が残っている。 深見家は代々塩田を経営していた。 以上の様な理由で深見氏が父寅之助を春山公にひきあわせた、墾鉄操が如何なる人物か調べてほしいとの依頼となった次第であった。 私は永年に亘り折にふれて鉄操翁の書画を見て、その人となりに久しく思いを馳せていた。「念ずれば花開く」の譬のとおり、最近ふとした機縁で鉄操翁の四男秀雄氏が仲平家の養子となり、その長男の仲平鉄也氏が医学博士となられ 現在神戸市に於いて医業を開き活躍されていることを知り、連絡したところ鉄操のものは戦災を蒙り、大半を失ったが、鉄操の門人が寫し取った略歴が幸い残っているからと送り届けて貰ったのが次のものである。 墾 鉄操 略歴 弘化元年(1844)15歳のとき佐賀藩儒員武富圯南、通称文之助に就き山水花鳥人物の画論を授けられ、同年佐賀小城藩士柴田花守※に四君子の画を学び、嘉永年間長崎に至り、僧鉄翁、木下逸雲、支那人陳逸舟に山水花卉の法を習学し※、安政年間画を以って筑後、久留米、柳川、肥後、豊後に歴遊する。 ついで大阪西京に留ること数年、萬延庚申(1860)3月江戸桜田門外の変に因り浮浪の士の寄留者多く、乃ち西京西山嵯峨天龍寺、義堂禅師に就いて参禅、或は茶道を修め、又中国地方を歴遊し、備前岡山の曹源寺に法遷禅師、九州に渡って臼杵多福寺の★鰲巓禅師に参禅し此に至って聊か禅味を看破するところあり、去って又西京に至り、近江、伊勢、大和の諸国に漫遊した。 ★鰲巓禅師(がうてん=ごうてん)=尾州熱田の人、俗姓伊藤氏、十歳仏門に入り霜辛雪苦24歳蘇山禅師の印記を受く。嘉永元年より20年間豊後多福寺に住し臼杵藩主稲葉公の崇信を受く。明治24年遷化す。78歳。(初代妙心寺派管長) この当時諸藩士より攘夷の説起こり、備前の★藤本鉄石、紀州の山本健三郎、土佐の★吉村寅太郎其の他勤皇の諸有士と共に諸国を歴遊し、たまたま将軍家茂上洛し、天皇加茂八幡に行幸あり、乃ち勤皇の雄藩士に加わり憂国悲痛身命を犠牲となし千辛萬苦を嘗め国家に報ぜんと、天皇大和神武の陵に行幸あらんとするに当たり、島原の桔梗屋に潜伏し時の至るを待った。 ★藤本鉄石(1815~」1863)=岡山に生る。名真金、鉄石又は鉄寒士と号す。詩書画をよくし武術に達し兵学を修め、諸国を遊歴し嘉永3年(1850)宇和島金剛山に晦厳禅師を訪ね滞在すること約一年、文久3年(1863)天誅組を称し中山忠光を奉し十津川に義兵を挙ぐ、津藩 槍隊と戦い左肋を刺され重創を被り、同年9月25日死去、48歳。明治24年従4位を贈らる。 数ケ月後、元治甲子(1864)の7月長州の軍西京に入り薩兵会津勢と戰いに及び、社寺民屋多く焼亡し身を潜むる所なく、嵯峨山大悲閣寺に避く。 会津兵再び来って火を放ち、難を避けて山崎に至るや藤堂家の兵に獲えられ縛につく。放たれて豊後佐ケ関に下り数ケ月留り、同國乙津村後藤碩田、攘夷の志あり、因って之を主とする。 時に長州征伐之役起こり諸藩兵出陣するに従って豊前高田、佐土原、延岡の所々に奔走し千辛を凌ぎ萬苦を経て勤皇の党派を募り日向より豊後日田に出て、留まること数月、然るに長州藩士萩川黒之助、桜佐門其の他2名、丸屋吉兵衛宅に在り幕臣之を探知し捕縛せんとするの密告あり、四人余に計を問う、乃ち金三円を与え夜之を脱せしむ、余も亦拂暁舟に乗り日田川を下り筑後久留米に至り島仙居の家に留まる、数月、勤皇の諸有志と盟を結び長崎に至る。 慶應晩年(1866)春西京変ある警報あり、因て副島次郎、大隈太郎※、会津の旧家老、神保修理等と相伴って土佐の蒸気船に乗り長崎港を発し三月十七日大阪に達し、京摂の間を奔走す。 秋九月脚氣に罹る。医曰く地を轉ぜれば癒へずと因て豊後佐ケ関に下り加療す。冬に至り漸く復す。 時に農兵の企てあり隊長熊本藩士高田某と勤皇の説を討論して其議会はず某大に怒り同夜郡代と謀り余を殺さんとすとの密告する者あり、正月十日夜半暗に乗じて舟を艤し、海を渡って宇和島雨井(現在の西宇和郡保内町)に着岸す。 同じく難を避けんとする豊後鶴崎、左頭久兵衛なる者と出石山を越え大洲城下円通寺に旧故あり仍て潜居すること1ケ月余り、伏見の戦より松山征伐の役ありと聞き為す所あらんと欲すとも雖ども一銭の貯えなく困難の極に至り為す術もなく徒に切歯慨嘆するのみなり。 一日大洲如法寺に至る、監察官之を怪しとし翌朝大洲藩士数十名円通寺に来り将に捕縛せんとす、因て言を金比羅宮に参詣するに寄するも之を聴せず大洲領境まで護衛して送り出す、因て轉じて宇和島に入る。 此年王政復古公明正大一新清明の世となり、明治元年(1867)晩春に至りて再び画業を起し、伊達春山老公に扶持せられ今日に至る。 略歴として残されているものは以上である。これを読むと波乱萬丈、王事に盡瘁して東奔西走、苦難の連続であったことが推察されるのであるが維新によって世の中が治まり、宇和島に安住の地を得た翁が、明治三十年三月一日堀端の自邸において六十八歳の生涯を終るまでの三十年間のうち、春山公逝去までの二十二年間に亘って老公の知遇を受け(春山公の逝去は明治二十二年十一月二十四日 百歳であった)多くの門弟に絵画、茶道を教授し文化の中心的存在となり、妻ナカの間に四人の子供を養育し、余生は平穏無事であったとうかがえるのである。残っている遺墨の数々を見ると茶の道に人倫を説き、高雅な水墨画に勤皇の志を抱き続けて生死の間をきりぬけた鋭さと、それを乗り切った清明さをかいまみることができるのである。 金剛山大隆寺にある、透関院松厳鉄操居士夫妻の墓前の石灯篭一対のうちの一基には当時の宇和島を代表する人々、即ち玉井安蔵、安孫子六平、石崎庄吉、西本縫之助、長山昌三郎、山本惣左衛門、葛野空庵、福井春水、芝直熙、谷重安、竹場好明、清家直一郎、谷五平、以上十三名、他にこの灯篭を建立のため、周旋員として竹村光蔵と刻まれ、他の一基には正面に「茶道門人」、側面に、菅山、畳山、雪香、鳳鳴、杏塘、琴剛、鉄耕、梢雨、棠雨、黄花、秋香、玉粛、露香、桜花、小紅、梅処、柳塘、香蘭、玉江、秀香、玉佐、旭亭、小琴、玉篠、以上二十五名の茶名が刻まれている。 多くの友人知己、子弟の方々に惜しまれてこの世を去った往時が偲ばれ、翁の如き先覚者の道続が今日この地方の茶道の隆盛に寄與し、郷土文化の香りは後継者の活躍と共にその余薫を永く後の世に残すこととなった。 後記 |
※ ◆資料ご提供者=菊池俊彦氏(愛媛県宇和島市教育委員会 文化課) ◆文献掲載ご協力者=河野傳氏(宇和島市・元伊達事務所所長) |
児玉玉立 石碑文(こだまぎょくりゅう せきひぶん) |
「児玉玉立異聞 -近世後期の書家-」(大原俊二編著・2000年9月刊)より ●関連項目=最新情報「平成16年6月」 |
碑文 玉立の没後、明治になって一人の玉立理解者が現れた。船田舩岳(1864-1910)である。舩岳は明治元年、児玉玉立の成長の地である伯耆汗入郡御来屋(現鳥取県西伯郡名和町)に生まれ、長じて日本画家となった。舩岳は、芸術を志す立場から玉立の書から多く得るものがあって、かねがね同郷の先輩として玉立を敬慕し、傾倒しており、名和公園にその顕彰碑建立を企画した。そして知友の漢学者広田剛(1863-1918)に碑文を依頼した。碑文は出来上がったが、舩岳が病を得てこころざし半ばでこの世を去ったために、建碑は成らなかった。明治年代の後半期のことである。 伯州の舩田舩岳が、郷里の先輩児玉玉立先生の碑文を建てるといって、私(廣田剛)にその碑文をつくらせたので、私は次のように書いた。 先生は書をもって一派を打ち立てられた。とくに書法については奥深く研鑽しておられた。 幼い時、家が貧しくて、よその家で養われながら学ばれた。若くして江戸におもむいたことは、書を磨くためにたいへん役立った。その後、全国各地を周遊し、多くの著名な書家に書法を問 い、その業をますます深められた。人となりは、非常に優れ、抜きんでていて、他人の力で左右されない強い意思をもち、権力 者も意に介さず、揮毫するときは、それが自分の意にかなうときにかぎられていた。だから、金銭を山のように積まれても、揮毫することはなかった。 鳥取藩家老、荒尾千葉之助がかつて先生を招いたことがある。そしてたくさんの客のいる前で、先生に書を書かせた。そして千葉之助とたくさんの客が、筆端に生ずる書を誉めた。すると、先生はムッとしたようすで舌うちしていわれた。 「風雅を解さぬ俗家老に、書のことがわかってたまるか。」と。 その頑固いっこく、まっすぐであっさりした性格はまさにこの通りである。 藤本鉄石は、かつて先生に書法を尋ねたことがある。先生は、その鉄石が師事するほどの 一世の大家であったことを、世人は知るべきである。 先生は書に関しては、ほとんど寝食を忘れて打ち込み、清廉潔白で貧乏をも省みず、草書を もっとも得意とし、感情のおもむくままに、ひとえに感興を草書にたくして表現した。だからその書は人間わざとは思えぬ霊妙なできばえで、人知ではとうていおしはかることはできない。 おしいことに、世に容れられることなく一生を終えられた。 先生の名は、玉立はその号で、伯州御厨(ママ)の人である。安政(ママ)年間、旅宿において没した。歳は六十三.実に一世の奇人であった。 先生は、幸いにもその碑文を刻んでもらわれた。それを企画した舩岳は、画家として一家をなし、芸術に深く通じているさまは先生の書に対するものと同様である。だからその建碑は、先生に心から共感する点があったればこそである。 私もその建碑の企画にもろ手をあげて賛成する者であるから、文章が下手だからといって、 どうして碑文の依頼を辞退できようか。銘にいわく。 伯山鬱律(うつりつ) 秀景のあつまるところ 先生の字 虎踞龍蟠(こきょりゅうばん)す 淡路 廣田 剛撰 |
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