森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 関連資料

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資料紹介(日誌書簡詩、賛)|関連資料(一覧

か項

絵画叢誌 記事(かいがそうし きじ) ~森琴石関係分~

●関連事項=「平成19年2月」・「平成18年8月 【3】■1番目

●〈一)・(二)資料ご提供者=高瀬晴之氏 (姫路市立美術館)


(一)
〔絵画叢誌 第三百十四巻〕 大正2年・第9頁目

 

●新森琴石翁談

文展審査委員に大阪の美術家をも一人か二人加へて欲しいと云ふ事は大阪画壇に於ける久しい問題であったが 愈々今秋の展覧会には大阪画壇の耆宿森琴石翁を日本画部の委員として任命されたのは大阪画壇の為めに大いに慶す可き一事で翁は次の如く語った、

審査上の意見と申しまして別にございませんが 昨年の文展に於いて非常に心持悪く感じた一事がございます、

夫れは六百餘の出品応募者に対し百点内外より採用しなかった審査員が  自身で大きな物を五六種も出品したり  又は無鑑査の物だからと云って屏風を三双も出すなど  殆んど審査員と無鑑査者との出品の為に陳列場の半以上を費やすと言う其の遣り方が果たして美術御奨励と言う御聖旨に叶っているかどうかという事です。

私一個の考えとしては  審査員等は作品を若し出すとすれば 極めて場所を取らぬような小さい物とし 而して努めて応募者の作品を採用陳列するようにしたら大いに宜しかろうと思います。こうした意見から此秋は一つも出品せず 其代わり応募者の作品を一点でも多く採用しようと思っております云々


▲翁の略歴

翁は本年七一歳
兵庫県有馬郡有馬湯山町梶木源治郎氏の三男で当歳(ママ)の折柄大阪の森善作氏の義子となった 嘉永三年八月大阪の畫家鼎金城氏に就いて画法を学び
文久元年六月師の没後忍頂寺静村に就いて学び 尚元治二年三月より大阪の儒家妻鹿友樵の内に読書詩文を学び

更に明治六年三月東京の洋画家高橋由一氏に就いて洋画を練習した
斯くして同十七年十月大阪に全國絵画品評会を発起し
廿三年私立浪花画学校を設立し 同年九月宮内省より御用画の命を被ると共に
二十八年には廣島大本営岡澤陸軍中将の手を経て二様の畫を献納

次いで 三十三年今上陛下御慶事に際し奉祝画を奉呈し
三十六年十二月是等の廉から賞勳局より銀盃一個を下付された
此外各地の展覧会共進會等に出品して屡々褒章を受領した
又明治十九年より南宋画振興の目的機至会 學画会 扶桑会の諸会 日本南宋画会 浪花絵画会 帝国南宋画会等を興し 前記日本画会評議員其の他数多の画会顧問とし又は嘱託として携わりおり
其の著書には南画独学 題画詩集 墨場必携等がある

★お断り:当HPに転載につき、読みやすくするため、字間・改行など一部変更しました
★お断り:「絵画叢誌」での森琴石が掲載された記事については、森家独自での調査は出来ていません。


(二)
その他掲載記事

●明治20年9月「絵画叢誌 3巻」 ・・・ 森琴石画「果菜之図(第6図)」
◇明治21年9月「絵画叢誌 18巻」 ・・・ 
10頁目半ば・・・○挿画 新図
第一図  人物山水 筆者森琴石 大阪市東区伏見町三丁目二番地に住す

12頁目・・・上記の画が掲載。落款「丙戊春日寫於 讀畫廬 浪華琴石」
(注:画は明治19年に描かれたもの)

☆明治40年1月 「絵画叢誌 237号」・・・絵画写真 「桟道駻網」森琴石 筆

画の下:Mountain road? by Kinseki Mori

●「絵画叢誌 3巻」(明治20年9月) 

    森琴石  「果菜之図]   ○巻中画図 (解説文章)
 
印 のところ  
印 のところ
P30
P24
P23

◆ (二) の● 箇所=「平成19年2月【1】注6」にも記述しています。

『絵画清談 第5巻10月号』より

刊行・・・1917年10月刊(大正6年)
出版・・・絵画清談社(東京)
発売・・・東京美術館

★what's new「森琴石が語る・・・真の南画家、頼山陽のエピソード等」にも取り上げています。


聴香讀畫楼清談

森  琴石

▲真の南宗画家

◎近頃鑑賞家間に美術鑑識眼の発達し来ったのは実に悦ばしい事であるが、
同時に画家にして画家らしからざる人々の多いのは寔に嘆かわしい事である。

画は美術であっても、営業ではない、画に依って衣食をする事はあっても、
画に依って利益を得よう、金を貯えようと思うのは、画家として実に恥ずべき
行為である。特に、我々南宗画家は、隠遁者であらねばならぬ。

隠遁と云っても山野に隠るるばかりが 真の隠遁ではない。

紅塵万丈、都門の裡に在っても 清節自ら潔うするの心さえあらば、市隠と
云って立派な隠遁者である。

その市隠の心を以て、美術に遊ぶところに真に南宗画家の本分があるので、
揮毫料を貪り、或は潤筆料を定め、画を作るを以て、一種の営業となしつつある輩は、
如何に形式のみ南宗画を摸し得たりとも 決して真の南宗画家とは云えないのである。


▲山陽先生の逸話

◎若い頃に、自分は備前の岡山に遊んだ事がある、時に旅舎の主人が
沢山山陽先生の半折を蔵して居るので、どうしたかと聞くと、
往年山陽先生が広島に帰省して、京都に帰らんとする途中、岡山で旅費がつき
困じ果てて居られるのを 旅舎の主人や付近の人々が見かねて気の毒に思い、
1枚2朱の半折会を起こした。

山陽先生は非常にその好意を悦ばれて、丁寧に50余枚の半折を揮毫し
2朱宛の潤筆料を懐に勇んで京都へ発足せられたとの話であった。

又、先年某所に山陽先生遺墨展覧会が開かれた際に、
先生から鳩居堂へ宛てた手紙が出陳せられてあった。
それはある年の正月2日に送ったもので、
文面は先ず新年の挨拶を述べ 偖正月の2日であるから試筆をしたいと思うが
臘末に金を悉く払って了い 今は手許に1文の余裕もなくて 紙が買えぬ故
誠に相済まぬが 23枚の紙を送って呉れぬかとの文意である。

余程晩年の事であって、先生は既に名声籍甚たる大家となって居られたので
あるが、其暮らし向きは斯くの如く清廉なものであった。

今日先生の筆蹟が寸翰零墨と雖も、好事者間に於いて珍重せらるるのも
無理ではないと思う。


▲若冲と草雲、寛齋の逸話

◎山陽先生に『岸駒は天下の人々皆目なきものと思へり』と評せられた岸駒は

故人の画家中で、自分は一番嫌いである、
これに反して伊藤若冲の如きは実に立派なる人格を有し清廉仙に近き人物であった。
深草の石峰寺に隠れて、斗米庵と号し、画の揮毫を請うものあらば、米一斗を請けた。

又、海屋に南宗画家中の第一人と評せられた野呂介石の如きも清廉な人で
儒の家に生まれて武備に疎からず刀槍拳法にも達して居たのであった。

山本梅逸は歌妓の湯巻に画を描いたと云って嫌う人もいるが、実際は
他の画家の妬みに依って陥れられたのであって、彼は金は蓄えても、
たまるに従って古画を買い取り 研究という点には非常に熱心な所があった。

渡邉崋山の赤貧に居った逸話は人の知るところ。
近世では田崎草雲の如き児玉果亭の如き、森寛齋の如き、
その立派なる人格は啻々欽仰するの外はない。
特に、草雲も、寛齋も 志士であって、寛齋は勤皇の大儀を唱えて幕吏に追われ
一時讃岐の琴平に匿れていた事があった。琴平には今でも寛齋の作が大分ある。

近頃 これらの人々の作品が鑑賞家間に珍重せられつつあるのは、
固よりその技嶺倆の秀抜なるに依るも、一面には清廉なる人格に対する
欽仰思慕の念に出ずるものが多いのである。


読みやすくするために、原文の読点は一部句点に置き換え、漢数字はアラビア数字に、
  一部の旧漢字は当用漢字に、文章の行変えや行間を入れる等変更しています。



『絵画清談 大5巻10月号』目次・・・・・国立国会図書館NDL-OPACによる

『朱竹』――表紙畫 / 小室翠雲
印譜及肖像 / 北野恒富
院展出品畫及東西名家傑作品寫眞版數十種 / 口繪
『畫趣詩境』――扉 / 范石湖 ; 楊誠齋 ; 陸放翁等 / p1~1
院展と二科會の色彩 / 靑柳有美 / p2~3
院展所感 / 松林桂月 / p4~5
院展を見て / 三浦九汀 / p6~7
東西畫壇の根本事情 / 岩村透 / p8~9
玉堂自敍 / 川合玉堂 / p10~11
六朝時代 / 安江不空 / p12~15
聽香讀畫樓淸談 / 森琴石 / p16~17
展覽會の黨同異伐弊 / 角田古栢莊 / p18~19
書畫秘聞(續) / 鹿島櫻巷 / p20~23
近世畫家論(續) / 梅澤和軒 / p24~28
油繪の俳畫化 / 川村淸雄 / p29~30
浮世繪の所有者と時價 / 荷生 / p31~34
名畫歷觀記 / 江村隆章 / p35~37
院展頭顱柳巷珍譚 / 花笠三蝶 / p38~40
京阪畫壇風聞記 / 孤伯生 / p41~41
院展批評一斑 / p42~61



 

『絵画清談 第5巻9月号』より

刊行・・・1917年9月刊(大正6年)
出版・・・絵画清談社(東京)
発売・・・東京美術館

★記事本文、その他は
what's new「『絵画清談 第5巻9月号』:森琴石記事&情報あり」でご紹介しています。

 

画家小伝(がかしょうでん)

「画家小伝」
明治44年2月版 小倉市大阪町8丁目
南画同志会蔵版 非買品

縦12,9x横8,2cm 全51頁


画家小伝

森琴石先生(大阪)

「温厚寡言の琴石先生は実に稀に見るの高士なり 雑駁(ざっぱく)にして無趣味の大阪の地に於て絵画趣味を鼓吹せるものは先生を以て租とす 爾来数十年敢て功名利達の後を趁はす権謀術數を尽くして名を售る徒輩の卑に微はず 只だ是れ真面目に孜々として租道の研鑽に従ひ更に世上の風塵に染まざるものは先生なり 斬道の大恩人として絶對主権者の地位を有し而して他に比し得るものなき程の実力を有しながら 毫も自尊の風なく衒ふの心なし 嗚呼何ぞ高潔なる清廉なる坐るに古聖先哲を偲ばずんばあらじ 今の策を用ひ謀を設けて高く売らんとし名を衒(てら)う某々大家先生は須く琴石先生の態度と心情とに対し深く省みて大に恥ぢよ 乱れつ汚れつ己自らを呪へる現代の絵画界に於て琴石先生の健在あれば吾人頗る意を強ふるに足るものあり


(現代文書き換え)

温厚で寡黙な琴石先生は、まれに見る立派な人物です。雑多で無趣味な大阪という土地で、絵画の趣味を広めたのは先生が始まりです。その後、何十年も名声や成功を追い求めることなく、策略や権謀術数を使って名を売る者たちのような卑しい行動は一切取らず、真摯に自分の道を探究し続け、世俗の影響を受けなかったのが先生です。絵画の世界における大恩人として絶対的な権威を持ち、他と比較できないほどの実力を持ちながらも、少しも自慢することなく、誇示する心もありません。ああ、何と高潔で清廉な方でしょう。古の聖人や賢人を思わずにはいられません。今、策略を用いて高く売ろうとし、名声を誇示する一部の大家たちは、琴石先生の態度や心情を深く反省し、大いに恥じるべきです。乱れ汚れた現代の絵画界において、琴石先生が健在であることは、私たちにとって大いに勇気を与えるものです。

学海画夢(がっかいがむ)

「学海画夢 上下二巻」
依田百川(東京府士族)著述・湯上市兵衛出版(大阪)・片桐正氣評点・明治18年10月

●関連事項:最新情報「平成13年7月」・「平成16年2月」・「平成17年10月【1】注11、13」・「平成19年8月【1】注5
●片桐正氣=雅友・知友「片桐楠斎
●「学海画夢」は「学海日録」(依田百川著)とも内容が関連し合う。
●森琴石が文中に記載されている項目
   「近水闘詩」=森琴石や森琴石交流清国人記載
   「有馬浴泉」=森琴石実家「中の坊」が記載
   「三友聴琴」=森琴石や妻鹿友樵など記載
●上記三項目は「学海日録」(依田学海著)でも森琴石と依田百川との交流の記述がある。
「学海日録」、明治24年4月1日の日記では、「森琴石・石橋雲来」を「旧友」と記述している。


「学海画夢」 上下二巻

学海画夢目次(順序は左から右へ)
巻之上 東台早櫻 十市王洋 墨水曉櫻 芳川笛邨
  勢山午櫻 河邉青蘭 琵琶湖放渡 森 寛斎
  東山遊春 鈴木百年 嵐山花雨 田能村小斎
  嵐渓鼓棹 内海吉堂 亀山吊古 天野方壺
  莵道弄月 久保田米仙 南都懐舊 胡 鐡梅

巻之下 芳山千櫻 橋本青江 塔陵夜謁 富岡鐡斎
  玉祠夜櫻 増田秋峯 櫻宮泛舟 服部紫江
  近水闘詩 堀西米中 有馬浴泉 池田雲松
  馬山竒蹟 田結荘千里 三友聴琴 姫島竹外
  湊川覧古 世良八び※
(び=さんずいへん+眉)
舞湾観松 朱 印然
  鳬水論交 近水楼主人        



「学海画夢」書誌画像

表紙 依田学海 自序
学海画夢 表紙 依田学海 自序


<三友聴琴>

三友聴琴





姫島竹外

画 姫島竹外

妻鹿友樵(正面)
森琴石       依田学海
沢村宗十郎     片桐楠斎
瑞香(学海愛妾)・李向(?)



「学海日録」(学海日録研究会編纂・岩波書店発行・平成7年)

明治18年5月3日付に -(妻鹿友樵)余が為に日頃秘する所の瀟湘夜雨の曲を弾ず。又中村宗十郎李向幽潤泉を対弾す。この時、江月・寥天游の二琴を用ゐたりき。森琴石もまた琴を此翁にう- と、綴られている事による。

鼎金城 墓碑(かなえきんじょう ぼひ)

●関連事項:「平成17年11月



(一)
「浪華名家墓所記  草稿」(宮武外骨・明治44年3月)より


鼎金城(画工)

文久三年五月晦日没 年五十三  福島妙徳寺

 (鼎)春嶽の男 名は鉉 字は子玉 浪花の人 画を著す
 墓は自然石にして表面には隷書を以て 鼎金城先生墓 と記し
 裏面に橋本香坡の文を刻す

◆上記は国立国会図書館、近代デジタルライブラリーで閲覧できます。


(二)
「大阪訪碑録(浪速叢書 第十)」(船越政一郎編纂校訂・浪速叢書刊行委員会発行・昭和四年)より

鼎金城墓      上福島 妙徳寺

君諱鉉。字子玉。金城其號。浪華天満人。父春嶽以畫名世。君生數月父歿。育於親戚 三十三歳養之。

然有故稱鼎氏。文久三年癸亥五月晦病歿。年五十三。君己孤備嘗辛苦。性沈黙温和。

不失義於親舊。研精於畫。嶄然成家。歿之日遠近惜焉。弱冠岡田半江。稱其畫。曰。鼎氏有子。

春嶽可冥矣。              友人 橋本通  撰書


橋本通 =橋本香坡

◆書誌情報ご提供=井形正寿氏(大阪市福島区歴史研究会事務局長・大塩事件研究会 副会長 ほか)


(三)
「森琴石日誌」 より

明治42年8月
   十四日 晴 午後地震有之、大ナリ、夫ヨリ小、時々震ス

早朝、自分、ヤス、小児同道、福島五百羅漢ヘ
罷越シ、先師金城先生之墓、今回之大火ニ而如何
相成候哉、見ニ行(五百羅漢類焼致ス)右墓牌無難、住職
ニ面会、右墓所之義依頼致し置、類焼見舞トシ、五十銭収ム


◆日誌翻刻者=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館)

翰墨因縁(かんぼくいんねん)

全二巻
 水越成章編輯(兵庫県士族)・船井政太郎・喜多覚蔵出版・名山館蔵版・明治17年刊
 勝海舟公題詞・亀山節宇序・巌谷一六書・韓人池運永序并書

●水越耕南(神戸の漢詩家・画家水越松南の父)が、来日清国人と交わした詩や手紙を集成したもの
●当HPで関連する人物が出る項目=「池田正信」・「ポンペと中野雪江

●下の画像は同書の”序文”・”目次の一部”・森琴石の記述がある”胡鉄梅の書簡” です



翰墨因縁 序文
翰墨因縁 目次の一部

胡鉄梅が水越耕南に宛てた手紙



○胡璋 字銕梅。安徽省。
 徽洲府。い(黒+多)懸人。


     ○
畊南尊兄先生執事昨日得膽
風来頓慰夙懐臨行蒙贈
垂照   胡銕梅頓首  
 

   ○
耕南先生良友閣下前京都奉書之後。久疎箋候。
殊深歉仄。前大津氏傳言


  雅誼。徳島之事緑伊識兄迂濶不能就緒。然亦無可
如何。永
賜文集三冊。不勝琲謝。自博物會過期。施返浪華。
未幾琴石森君。招游岡山。行李匆匆。是以未及前来
暢領
教言。然毎託胡小翁。代致挙挙。想必奉
聞矣。事滋有懇者。岡山游畢。假道播州姫路来神戸。
素悉播州乃

 三渓云事前

閣下梓里前。次小翁游播。亦仰頼鼎力吹嘘。敬乞
 定則不蹶 恵書數通達該地好事之家不致於臨渇堀井也幸
  甚幸甚。
公暇草就祈寄至岡山懸備前岡山區字西大寺
町。西尾小竹堂方 鐵梅査収為感。草草専函。乞恕
不恭。   小弟胡璋頓首。七月十五日



◆資料ご提供=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館)
◆画像の書誌所蔵者=堀浩雄氏(神戸市・漢学者”堀春譚”の孫・・・平成17年9月に記述しています)




き項

北野百年史より

「北野百年史」(大阪府立北野高等学校校史編纂会編・昭和48年10月刊)

●関連項目=調査情報「平成16年6月
●この項目に関係する人物=舩田舩岳松原三五郎・森田専一・廣田剛(広田剛・号淡洲)・広田竹次郎(号竹石)・玉木本三郎(号愛石・書家)


[第三章 第二節 大阪尋常中学校時代 ](313頁 明治26年)

●この年の教員移動

前文略

8月には2名の図画教員が入ってきた。ひとりは船田虎蔵(助教諭)で元治元年(1864)3月生まれの29才、東京美術学校卒業生(明治25年)である。彼もまた病弱で休職生活を送ったのち、33年9月29日に依頼退職している。舩岳と号した。

他のひとりは師範と兼務で増野の後任と思われる松原三五郎、舩田と同年の6月生まれ、やはり助教諭。23年1月以来師範学校の教員であったが今年8月28日付で両校兼務となった。松原の履歴中で注目されるのは岡山変則中学校を12年4月に卒えて上京、一世五姓田芳柳について絹着色画を学び(14年1月~17年2月)、さらにこの間横浜のワーグマンを時々訪ねて画論を学んでいる点である。文部省検定の図画教科書数種も編集している。30年5月、大阪陸軍幼年学校へ転じた。

舩田、松原と図画課がはじめて複数の教員をもったので「従来の鉛筆用器画ト併セテ毛筆画ヲ課シタリ、施工後日浅シトイエドモ大に生徒の嗜好二モ適シ、充分二其目的ヲ達スルノ望アリ」、と「年報草稿(26年による)」は特に言及している。 後文略 

[第三章 第三節 大阪府第一尋常中学校時代](484頁・明治33年)

●両広田も去る

33年になっても教職員の移動はいぜんとして続き、まだ本校はほんとうの落ち着きを取り戻せなかった。前半の移動は左に示す通りだが、広田竹次郎も転任してしまい、旧中津藩邸時代や江戸堀時代を知る人 は全く森田専一のみとなった。またもうひとりの広田、雑誌部長で「六稜」初期からの主な執筆者であった淡洲広田剛も帰郷、1年余りで別の学校のようになった。後文略

◆森田専一については、頁504,505に「森田の人柄と其生涯」など記述箇所が複数あるが省略する

「第三章 第四節  大阪府第一中学校・堂島中学校時代」(496頁・明治33年)

●8月以降の教職員人事

前文略
 次に去っていった人びとは左の通り(5名の記述があるが、舩田舩岳のみとする)

舩田虎蔵:離任月日 9・29(明治33年)退職・在任期間7年2ヶ月
佐島についてはくり返さない。船田、玉木※といった芸術関係のすぐれた教員がともに退職したことは前年以来の変動が終わっていなかったことを思わせる。船田は1月20日以来休職中だったし、玉木愛石も健康が勝れなかったために退いたようだが、これで本校のスケールはやや小さくなった感じである。

後文略



◆舩田舩岳の使用教科書などについては、頁397・398・526に記述がある


北方心泉(きたがた しんせん)略年表

『北方心泉「人と芸術」』(本岡三郎編・二玄社・1982年10月30日初版)より抜粋

●この項目での関係人物=胡鉄梅・内海吉堂・岸田吟香
●当HPでの関連項目=「平成16年10月」、「平成17年7月」・「平成19年5月【1】注6」・「平成19年4月【1】注7」&日誌・書簡「胡鉄梅の書簡

1850(嘉永3)4月28日 金沢市木ノ新保5番丁、大谷派(東本願寺)常福寺12世住職致風の第3子として生まれる。幼名祐必。字心泉。月荘と号す。別 に小雨、雲迸・文字禅室主人・聴松閣主人等を号す。
1864(元治元) 高倉学寮新入。石川舜台教職にある。後に舜台門下の二高足と言われる。
1868(明治元) 住職を拝命。常福寺14世を嗣ぐ。
1869(明治2) 石川舜台 慎憲塾を開く。その助教授を務める。
1872(明治5) 長女多出生、後に今川覚神の妻となり、その長女総子は暁烏敏の妻となる。
1873(明治6) 築地本願寺せん(門構え+單)道社に入り原坦山に就く。この頃から南条文雄との交遊始まる。
1877(明治10) 支那布教事務掛として留学生を伴い上海に行く。
1878〈明治11)    この頃から説文、金石、漢印、篆文の書籍に親しむ。今川拾翠、内海吉堂らと共に内園に遊ぶ。 (―胡鉄梅来日―)
1882〈明治15) 胡鉄梅・熊佩玉らと西湖に遊び、愈曲園を訪ねる。
1883(明治16) 病を得て帰国。長崎で医につく。岸田吟香と共に協力した愈曲園編集の東えい※詩選刊行される。※えい=[シ+(亡)の下(口)+下(月+女+凡)]
1886〈明治19) 胡鉄梅、初め東本願寺に入籍帰化を計ったが、一部の反対に会い、常福寺の隣接地に入籍。
1890〈明治23) 石川舜台、第1回衆議院議員に立候補。師のために奔走。第3回内国博覧会に初めて書を出品する。
1893〈明治26) 6月、三宅真軒、大西金陽と犀川(金沢)清音亭に遊ぶ。
1896(明治29) 本山改革運動おこる。これより清沢満之等の時言社と結び、改革運動に挺身する。
1899(明治32) 南京に金陵東文学堂を創設、学長となる。
1902(明治35) 本願寺当局の退嬰、無計画に対し、廓清運動起こる(東本願寺騒ゆう<てへん+憂>事件)。これに関与したため常福寺住職罷免、僧籍を除名される。
1904(明治37) 3月、脳出血にかかる。本山より除名処分取り消しの電報あり。
1905(明治38) 7月29日入寂。法名「門融院釈現蒙」
◆資料ご提供=二木伸一郎氏(石川県立美術館)

京都府画学校 関連資料

●関連事項=「平成18年10月
●作成者=小田哲生氏(小田半溪曾孫・大分市上八幡4組)

 

1.京都府画学校(M13.7.1~M22.12.17)の出仕画人等の一覧表

(その1)開校時・明治13.7.1

― は不明  

号(名・別号)

流派

師名

退任の年月・肩書

田能村直入(小虎)

南宗派

田能村竹田

M17.2 摂理

鈴木百年(世壽・大椿翁)

◆谷口靄山(貞二)

小山三造

◆池田雲樵(政敬・半仙)

巨勢小石(金起)

望月玉泉(重岑)

田村月樵(宗立・大狂)

幸野楳嶺(直豊)

鈴木派

南宗派

西洋画

南宗派

巨勢派

円山四条派

西洋画

円山四条派

大西椿年、岸岱、岸連山

谷文晁、高久靄厓、貫名海屋

 ─

前田暢堂、中西耕石

岸 連山、中西耕石

望月玉川

大願無言、大雅堂清亮

中島来章、盬川文麟

M13.7 副教員

M13.9 副教員

M14.11 副教員、三等教員

M19.8 副教員、三等教員

M21.10 三等教員、教諭

M22.4 副教員、三等教員

M22.10 三等教員

M23.4 教頭心得

◆天野方壺(俊)

森 寛齋(公粛)

國井應文(別に彬々斉)

鈴木松年(百僊)

◆小田半溪(好彦)

今尾景年(永歡)

岸 竹堂(昌禄)

駒井龍僊(良吉)

山田文厚(平三郎)

森川曾文(英絢)

原 在泉(別に松濤)

鈴木文昇(瑞彦)

南宗派

円山四条派

円山四条派

鈴木派

南宗派

鈴木派

岸 派

円山四条派

円山四条派

円山四条派

原 派

円山四条派

中村竹洞

森 徹山

円山應立

鈴木百年

前田暢堂

鈴木百年

岸 連山

幸野楳嶺

泉春園、盬川文麟

前川五嶺、長谷川玉峯

原 在照

盬川文麟

M16.3 出仕

M16.4 出仕

M20.3 出仕

M21.2 三等教員

M21.9 嘱託教授

M21.11 嘱託教授

M21.11 嘱託教授

M22.12 助教諭

M23.4 教諭

M28.6 嘱託教授

M30.6 嘱託教授

M33.3 教諭

野村文擧(別に石泉) 

前川文嶺(別に日光)

村瀬玉田(別に彩雲亭)

◆中西耕石(別に滴翠)

◆重 春塘(別に草香)

◆浅井柳塘(別に白山)

◆村田香谷(別に蘭雪、適圃)

円山四条派

円山四条派

円山四条派

南宗派

南宗派

南宗派

南宗派

盬川文麟、森寛齋

前川五嶺

村瀬雙石

松村景文、小田海僊

河北春谷

谷口靄山、貫名海屋、徐雨亭

貫名海屋、僧鉄翁、徐雨亭

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中島有章(別に廣然)

羽田月洲(文澄)

竹川友廣(小太郎・篁月)

加納鐡香(黄文)

八木雲溪

林 耕雲(成章)

伊澤鶴年(九皐)

神服木仙(宗陽)

徳美友僊(信祥)

櫻井百嶺

土佐光武

◆前田荷香(鏡堂)

◆秦 金石(辰)

◆松本酔雲

円山四条派

円山四条派

円山四条派

円山四条派

円山四条派

円山四条派

鈴木派

鈴木派

鈴木派

鈴木派

土佐派

南宗派

南宗派

南宗派

中島来章、円山應瑞

盬川文麟

盬川文麟、中島来章

横山清暉

八木竒峯

横山清暉

鈴木百年

森義章、鈴木百年

河北春谷、鈴木百年

鈴木百年

土佐光清

前田暢堂

中西耕石

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岡嶋英昇

舟田濤山

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西洋画

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◆=南宗画学教則の制定の連印者

 

(その2)明治13.9.22 ~ 明治22.12.17 

( )は名・別号、退任の年月 

出仕年

円山・四条派
鈴木派、岸派

南宗派

狩野派土佐派・原派
西洋画

その他、(流派不明)

明13

9月~

岸 九岳(英、M27.5)

山本桃谷(安之丞、M23.9)

跡見玉枝(勝子)

長谷川玉純(謙一郎)

深田直城(政孝)

山岡墨仙(達義)

依田友石(蒔多)

狩野龍川(季信、M16.3)

明14

河邊華擧(暉彦、M22.12)

岸 錦水

田中一華(榮次郎)

島田桃嶺(雅喬)

杉原竹圃

永井香浦(清調)

吉田耕雲 (源之助)

畑 在周(綱之)

兒島蔵六(清文)

金崎壽・府属

明15

盬川文鵬(別に一堂)

箕田玉簫(三郎)

森 春岳(政)

山中秋帆(寛作、M16.3)

市川千山

宮崎楳堂(擧邦)

武村東苑(常太郎)

平尾竹霞(経悳)

兼本春篁(俊興)

奥田秋園(道太郎)

山口五水(元道)

中西松石(辨治・六泉)

森岡櫻泉(伊平)

田中有美(茂一)

國分文友(定胤)

桑原芳太郎・世話掛

小原十二郎・石版術

兒島福藪・石版術

(名本眠石)

(安富笠山)

(武田 糸)

明16

竹内栖鳳(恒吉、T13.5)

菊池芳文(常次郎、M22.9)

清水麓松(昌造)

藤村菱仙(亀吉)

竹村春田(保治)

草野龍雲(壽太郎)

鈴木萬年(萬三郎)

土田英林(乙三郎)

畑 仙齢(経長)

石原蘭石(泰)

羽倉可亭(良信・篆刻家)

高橋小靄(泰元)

渡邊芝谷(大淳)

榊原文翠(長敏、M30.10)

(中井芳濈)

(長谷川松齢)

(西原夕海)

明17

藤島清漣(助信)

香川蟾麿(芳園)

垣内雲嶙(徴)

藤井玉洲(繁太郎)

山田松溪(光太郎)

木下楚瑞(重祐)

疋田敬蔵(西洋画、M23.5)

根本雪峨(別に晴雲齋)

笠井 直
(佐吉・校長心得、M19.3)

松井右金吾・石版術

明19

 

池田桂仙(勝次郎)

三輪幸之輔
(西洋画、M19.12)

吉田養斉
(秀穀・校長、M28.11)

関口老雲(守衛)・用掛

明21

久保田米僊(寛、M23.3)

内海吉堂(鹿六)

(大角成允、M22.3)

明22

渡邊秋溪(永吉、M22.12)

   

注1 作成に当たっては、主に次の資料等を参考にした。

(1)百年史京都市立芸術大学(百年史編纂委員会編、京都市立芸術大学、昭56.3出版)
(2)第2回内国絵画共進会出品人略譜(農商務省博覧会掛編、国文社、明17.5出版)
(3)明治15年内国絵画共進会審査報告附録(農商務省博覧会掛編、国文社、明16.9出版)
(4)絵画出品目録(農商務省編、国文社第一支店、明15.10出版)
(5)東洋絵画共進会出品目録(滝川守朗編、今古堂、明19.4出版)
(6)大日本書画名家大鑑(荒木矩編、第一書房、昭和55年再発行版)
(7)全国画家人名録(岩崎健吉編、寺田栄助、明28.4出版)
(8)現今日本画家人名録(赤志忠七編、赤志忠雅堂、明18.3出版)
(9)本朝古今書画名家詳伝(筧有隣編、大谷仁兵衛、明27.2出版)

注2 明治18年と明治20年は出仕者なし。退任の年月は確認できたものを記載した。

注3 氏名、号、流派、師名等については資料ごとに異なるものもあり、統一することは不可能に近かったが、一応、内国絵画共進会における展示区分を勘案して作成した。
特に、流派区分における円山・四条派は、いわゆる円山派、四条派のほか、その系譜に属する盬川派、呉春派、望月派等を含むものとし、鈴木派、岸派は区分した。



2.前田暢堂(半田)に学び・交流した画人      H19.5.17現在

前田暢堂(明治5年に半田と改号、1817~1878)に学び、或いは交流などした画人について、内国絵画共進会の第1回及び第2回の出品人略譜をベースに、師名が網羅的に掲載されている下記書籍等を調査した結果、「前田暢堂(半田)の門下、師事した(師とする)、学ぶ、修める、画法を問う・質す・研究、蘊奥を受く、門に遊ぶ、交流」などと掲載されている画人は36人である。

1 内国絵画共進会の出品人略譜(第1回・第2回)

(1)浅野松江(美濃国、1856~?)
(2)足立研樵(良太郎、近江国、1825~?)
(3)池田雲樵(政敬、別に半仙、京都府、1824~1886、M13京都府画学校出仕)
(4)石川柳城(戈足、尾張国、1847~1927)
(5)大谷雲亭(貞造、石見国、1849~?)
(6)小田半溪(好彦、京都府、1837~1902、M13京都府画学校出仕)
(7)栢野小陶(久重、尾張国、1848~?)
(8)河合琶江(太平、豊後国、1830~1907)
(9)神田耕雲(通成、伊賀国、1817~?)
(10)木村耕厳(悌、備後国鞆、?~1911)
(11)酒井楳齋(橘三、大阪府、1828~?)
(12)佐藤牧水(愛之丞、美濃国、1835~?)
(13)高原桃水(紀右衛門、飛騨国、1813~?)
(14)中村栖霞(清古、越中国、1846~?、洋画も学ぶ)
(15)水野北山(小四郎、信濃国、1855~?)
(16)山崎杏霞(仙造、豊後国、1854~?)
(17)山中秋帆(寛作、別に日一居士、周防国、1832~1892、M15京都府画学校出仕)
(18)山根文龍(愛蔵、因幡国、1850~?)
(19)吉野春水(文五郎、越中国、1834~?)

2 大日本書画名家大鑑

(1)足立研樵
(2)池田雲樵
(3)大谷雲亭
(4)小田半溪
(5)加納鉄哉(光太郎、岐阜県、1845~1925、鉄筆画・彫刻家)
(6)岸浪柳溪(静司、江戸・仙台藩、1855~1935)
(7)幸野楳嶺(直豊、別に鶯夢・長安堂など、1844~1895、M13京都府画学校出仕・教頭心得)
(8)酒井楳齋
(9)佐藤牧水
(10)清水祥鱗(4代目六兵衛、京都府、1848~1920、陶工)
(11)高原桃水
(12)山中秋帆
(13)平野五岳(岳、豊後国日田、1809~1893)
(14)前田荷香(鏡堂、美濃国、1833~1905、M13京都府画学校出仕)
(15)水野北山
(16)山本滄洲(公平、尾張国、1811~1877、梅荘(半村)の養父)
(17)吉野春水

3 本朝古今書画名家詳傳
(1)小田半溪
(2)前田荷香

4 全国画家人名録
(1)小田半溪
(2)前田荷香

5 日本美術方今画家名誉小傳
(1)森半逸(嘉兵衛、尾張国、1848~1886)

6 現今名家書画鑑
(1)岸浪柳溪

7 古今書画名家全傳
(1)池田雲樵
(2)加納鉄哉
(3)木村耕厳
(4)幸野楳嶺
(5)渡邊華石(静雄、尾張国、1852~1930、本姓は小川、小華画系をつぐ)

8 日本名画家伝・物故編
(1)池田雲樵
(2)幸野楳嶺
(3)平野五岳

9 阿波人物志
(1)池田雲樵
(2)田能村直入(小虎、豊後国、1814~1907、M13京都府画学校出仕・摂理)
(3)橋本漁山(二郎、阿波国、1827~1905)
(4)前田荷香

10 名古屋市史・人物編第1、及び愛知画家名鑑
(1)大道寺雨田(直良、別に華陽洞、尾張国、?~1886)

11 保有の資料等

(1)前田半田61年忌遺作展覧会資料、及び半田町史
(1)池田雲樵
(2)田能村直入
(3)橋本漁山
(4)平野五岳
(5)前田荷香
(6)森寛斎(公肅、長門国、1814~1894、M13京都府画学校出仕)

(2)暢堂から香国・梅崖あて手紙
(1)村田香国(叔、別に蘭雪・適圃、京都府、1831~1912 、M13京都府画学校出仕)
(2)水野梅崖(轉、別に櫻湖、水照堂斎など、1849~?)

(3)八代市立博物館所蔵の佐々布篁石作「玉堂富貴図」
(1)渡邊小華(諧、三河国、1835~1887 )
(2)佐々布篁石(才三郎、別に益城、肥後国、1817~1880)

勤皇家  墾 鉄操(きんのうか あらき てっそう)

「勤皇家 墾鉄操」(著者兼発行者:河野傳/発行所:伊達事務所/昭和61年6月1日/非売品)より

●関連事項=家族・係累「武富圯南
●森家祖母「梅子」の曽祖父で、佐賀弘道館儒者「武富圯南」の弟子。
幕末に「大隈重信」・「副島種臣」・「藤本鉄石」などと、行動を共にした人物。 
●構成の都合上、文章中にある注釈の一部を省略させて頂きます。



― 勤皇家  墾(あらき)鉄操    河野 傳 ー


今は★金剛山大隆寺の墓地に眠る、勤皇家、墾鉄操の事跡については僅かに残された書画にその面影を偲ぶ程度で、私達は彼の出目も経歴もしらなかった。

★金剛山大隆寺(臨済宗妙心寺派)=宇和島10万石に封ぜられた富田信高が、天正12年(1584)父富田知信菩提のために創建し金剛山正眼院と称した。元和元年(1615)伊達秀宗入封以来伊達家の香華所となり、五代藩主村候(むらとき)六代藩主村寿(むらなが)父子により 寛政10年(1798)現在の堂宇が完成して寺号を大隆寺と改めた。五代藩主の戒名が大隆寺殿なるをもって寺号を呼ぶは非礼なりと、山号の金剛山を呼ぶならわしとなった。

大正13年1月建立された天赦園の記念碑に、太政大臣三条実美公が「富貴寿栄」の四字篆額を書き、★左氏珠山(1829~1896)撰文、★三好順風(1814~1889)敬書した碑文の中にー荒木鉄操郡人と謀り碑を建てんと欲し云々ーと刻まれ、又宇和津彦神社に建つ「竹陰の筆塚」には世話人として鉄操の名が刻まれていてそれを見る限りに於いては遺墨と共に文人画家の域を出ないのではないかと思われた。  

★左氏珠山(1829~1896)=上甲振洋に学ぶ、藩明倫館教授。廃藩置県後は法官となり判事補に任じられる。明治10年職を辞し上阪、帰郷して松山中学、宇和島中学の教官となった。
★三好順風(1814~1889)=藩医、書家、竹陰と号す。

最近東京の社団法人、日本工芸会理事長で東京国立博物館運営協力会理事等をつとめられている深見吉之助氏から墾鉄操のことが知りたい旨の連絡とそのための資料が届いた。

それによると深見氏の尊父、深見寅之助翁は、愛媛県議会第十九代と二十二代の議長をつとめ、のち衆議院議員となり昭和3年死去された政治家であり、能書家としても知られ、遺墨が各地に残っている。

特に越智郡伯方町の三島神社には彼の9歳の書「敬神愛国」の四字額が今も神前に掲げられていて有名であり、迚も9歳の童子の書とは思えない雄渾、堂々たるものである。

今回深見氏が墾鉄操の事績を調べたいと申される理由は、父寅之助が9歳の時、即ち明治20年の夏5月 今治藩医であった、★菅周庵に連れられて宇和島を訪れ、★伊達春山公(宗紀)に謁見の際その労をとったのが墾鉄操であった。

★管周庵(1808~1893)=今治の藩医、名は大譲、香雲、春菘、休叟、七松と号す。幼児貫名海屋に書を学ぶび、高橋執齋について医を修め、長崎に赴いて種痘の術を学び帰って之を藩民に施した。時に嘉永2年、地方に於ける種痘の初めという。
★伊達宗紀(だて むねただ 1792~1889)=春山と号し、伊達家第七代藩主、第六代村寿(むらなが)の長子。

9歳の童子の書をご覧になった老公はその書を激賞され、一層勉励するようお言葉を賜り感激して退出した。翌明治21年5月13日今治から船で再び父に伴はれ、菅周庵と共に宇和島を訪れ、26日辰の時(午前8時頃)前回と同様、墾鉄操同席して、天赦園の潜渕館で謁見を許された。99歳の老公は自ら筆を執って「吾心在太古」の五字を揮毫し、春山の号の春の一字を賜り、「春洲」の号を授けられその「春洲」の揮毫と共にこれを頂戴した。

その時の様子を同行の菅周庵は「登竜門の栄は誠に一家の喜び、永らく後裔に伝えてもって家什となさん」と感激を書き残している。このことが幼年期の彼寅之助に大きな影響を与えたことは想像に難くない、果たせる哉、春山公の期待に応え 後に衆議院議員に栄進した。

伊達家文書の明治21年5月25日の日記をみると、菅七松が鯛一尾、深見藤平が塩浜焼の玉子を献上した記録が残っている。

深見家は代々塩田を経営していた。

以上の様な理由で深見氏が父寅之助を春山公にひきあわせた、墾鉄操が如何なる人物か調べてほしいとの依頼となった次第であった。

私は永年に亘り折にふれて鉄操翁の書画を見て、その人となりに久しく思いを馳せていた。「念ずれば花開く」の譬のとおり、最近ふとした機縁で鉄操翁の四男秀雄氏が仲平家の養子となり、その長男の仲平鉄也氏が医学博士となられ 現在神戸市に於いて医業を開き活躍されていることを知り、連絡したところ鉄操のものは戦災を蒙り、大半を失ったが、鉄操の門人が寫し取った略歴が幸い残っているからと送り届けて貰ったのが次のものである。


墾 鉄操 略歴

弘化元年(1844)15歳のとき佐賀藩儒員武富圯南、通称文之助に就き山水花鳥人物の画論を授けられ、同年佐賀小城藩士柴田花守に四君子の画を学び、嘉永年間長崎に至り、僧鉄翁木下逸雲、支那人陳逸舟に山水花卉の法を習学し、安政年間画を以って筑後、久留米、柳川、肥後、豊後に歴遊する。

ついで大阪西京に留ること数年、萬延庚申(1860)3月江戸桜田門外の変に因り浮浪の士の寄留者多く、乃ち西京西山嵯峨天龍寺、義堂禅師に就いて参禅、或は茶道を修め、又中国地方を歴遊し、備前岡山の曹源寺に法遷禅師、九州に渡って臼杵多福寺の★鰲巓禅師に参禅し此に至って聊か禅味を看破するところあり、去って又西京に至り、近江、伊勢、大和の諸国に漫遊した。

★鰲巓禅師(がうてん=ごうてん)=尾州熱田の人、俗姓伊藤氏、十歳仏門に入り霜辛雪苦24歳蘇山禅師の印記を受く。嘉永元年より20年間豊後多福寺に住し臼杵藩主稲葉公の崇信を受く。明治24年遷化す。78歳。(初代妙心寺派管長)

この当時諸藩士より攘夷の説起こり、備前の★藤本鉄石、紀州の山本健三郎、土佐の★吉村寅太郎其の他勤皇の諸有士と共に諸国を歴遊し、たまたま将軍家茂上洛し、天皇加茂八幡に行幸あり、乃ち勤皇の雄藩士に加わり憂国悲痛身命を犠牲となし千辛萬苦を嘗め国家に報ぜんと、天皇大和神武の陵に行幸あらんとするに当たり、島原の桔梗屋に潜伏し時の至るを待った。

★藤本鉄石(1815~」1863)=岡山に生る。名真金、鉄石又は鉄寒士と号す。詩書画をよくし武術に達し兵学を修め、諸国を遊歴し嘉永3年(1850)宇和島金剛山に晦厳禅師を訪ね滞在すること約一年、文久3年(1863)天誅組を称し中山忠光を奉し十津川に義兵を挙ぐ、津藩 槍隊と戦い左肋を刺され重創を被り、同年9月25日死去、48歳。明治24年従4位を贈らる。
★吉村寅太郎(1837~1863)=土佐梼原村大庄屋・名は重郷、勤皇の志篤く藤本鉄石と共に天誅組の義兵に加わり敗死した。

数ケ月後、元治甲子(1864)の7月長州の軍西京に入り薩兵会津勢と戰いに及び、社寺民屋多く焼亡し身を潜むる所なく、嵯峨山大悲閣寺に避く。

会津兵再び来って火を放ち、難を避けて山崎に至るや藤堂家の兵に獲えられ縛につく。放たれて豊後佐ケ関に下り数ケ月留り、同國乙津村後藤碩田、攘夷の志あり、因って之を主とする。

時に長州征伐之役起こり諸藩兵出陣するに従って豊前高田、佐土原、延岡の所々に奔走し千辛を凌ぎ萬苦を経て勤皇の党派を募り日向より豊後日田に出て、留まること数月、然るに長州藩士萩川黒之助桜佐門其の他2名、丸屋吉兵衛宅に在り幕臣之を探知し捕縛せんとするの密告あり、四人余に計を問う、乃ち金三円を与え夜之を脱せしむ、余も亦拂暁舟に乗り日田川を下り筑後久留米に至り島仙居の家に留まる、数月、勤皇の諸有志と盟を結び長崎に至る。

慶應晩年(1866)春西京変ある警報あり、因て副島次郎大隈太郎、会津の旧家老、神保修理等と相伴って土佐の蒸気船に乗り長崎港を発し三月十七日大阪に達し、京摂の間を奔走す。

秋九月脚氣に罹る。医曰く地を轉ぜれば癒へずと因て豊後佐ケ関に下り加療す。冬に至り漸く復す。

時に農兵の企てあり隊長熊本藩士高田某と勤皇の説を討論して其議会はず某大に怒り同夜郡代と謀り余を殺さんとすとの密告する者あり、正月十日夜半暗に乗じて舟を艤し、海を渡って宇和島雨井(現在の西宇和郡保内町)に着岸す。

同じく難を避けんとする豊後鶴崎、左頭久兵衛なる者と出石山を越え大洲城下円通寺に旧故あり仍て潜居すること1ケ月余り、伏見の戦より松山征伐の役ありと聞き為す所あらんと欲すとも雖ども一銭の貯えなく困難の極に至り為す術もなく徒に切歯慨嘆するのみなり。

一日大洲如法寺に至る、監察官之を怪しとし翌朝大洲藩士数十名円通寺に来り将に捕縛せんとす、因て言を金比羅宮に参詣するに寄するも之を聴せず大洲領境まで護衛して送り出す、因て轉じて宇和島に入る。

此年王政復古公明正大一新清明の世となり、明治元年(1867)晩春に至りて再び画業を起し、伊達春山老公に扶持せられ今日に至る。

 略歴として残されているものは以上である。これを読むと波乱萬丈、王事に盡瘁して東奔西走、苦難の連続であったことが推察されるのであるが維新によって世の中が治まり、宇和島に安住の地を得た翁が、明治三十年三月一日堀端の自邸において六十八歳の生涯を終るまでの三十年間のうち、春山公逝去までの二十二年間に亘って老公の知遇を受け(春山公の逝去は明治二十二年十一月二十四日 百歳であった)多くの門弟に絵画、茶道を教授し文化の中心的存在となり、妻ナカの間に四人の子供を養育し、余生は平穏無事であったとうかがえるのである。残っている遺墨の数々を見ると茶の道に人倫を説き、高雅な水墨画に勤皇の志を抱き続けて生死の間をきりぬけた鋭さと、それを乗り切った清明さをかいまみることができるのである。

金剛山大隆寺にある、透関院松厳鉄操居士夫妻の墓前の石灯篭一対のうちの一基には当時の宇和島を代表する人々、即ち玉井安蔵、安孫子六平、石崎庄吉、西本縫之助、長山昌三郎、山本惣左衛門、葛野空庵、福井春水、芝直熙、谷重安、竹場好明、清家直一郎、谷五平、以上十三名、他にこの灯篭を建立のため、周旋員として竹村光蔵と刻まれ、他の一基には正面に「茶道門人」、側面に、菅山、畳山、雪香、鳳鳴、杏塘、琴剛、鉄耕、梢雨、棠雨、黄花、秋香、玉粛、露香、桜花、小紅、梅処、柳塘、香蘭、玉江、秀香、玉佐、旭亭、小琴、玉篠、以上二十五名の茶名が刻まれている。

多くの友人知己、子弟の方々に惜しまれてこの世を去った往時が偲ばれ、翁の如き先覚者の道続が今日この地方の茶道の隆盛に寄與し、郷土文化の香りは後継者の活躍と共にその余薫を永く後の世に残すこととなった。

後記
鉄操の長男夫人墾亀子氏は八十七才の高齢で神戸市に居住し、金剛山大隆寺の墓守をされている。
又前記今治藩医であった管周庵(春菘)の記録には、明治二十二年五月一日から七日まで行われた。春山公百歳の寿宴に十歳の童子深見寅之助が一紙を書して寿を献ずとあり、伊達家文書の記録には、「従二位春山公伊達老公貴齢百歳寿会」の見出しで
-田能村直入翁及諸先生を聘し書画の揮毫を為し以て老公の高齢を祝す云々 - とあり、今治管春菘先生、西京田能村直入先生、その他諸先生の最後に今治深見春洲先生とある。この企画は荒木鉄操が主宰さたもので、十歳の深見春洲が諸大家と共に特筆されていることは驚きである。


★大隈重信・副島種臣については「平成18年12月注3」、柴田花守=武富圯南の門生(後日ご紹介)。
森琴石の周辺には、僧鉄翁、木下逸雲、陳逸舟に学んだ人物が多い。手元に森琴石の3氏の縮図などが残る。
★藤本鉄石については、関連資料:「藤本鉄石先生薦場余録」・「児玉玉立石碑文」などをご覧下さい。因みに「藤本鉄石先生薦場余録」には、「墾 鉄操」の名は無い。


◆資料ご提供者=菊池俊彦氏(愛媛県宇和島市教育委員会 文化課)

◆文献掲載ご協力者=河野傳氏(宇和島市・元伊達事務所所長)

こ項

児玉玉立 石碑文(こだまぎょくりゅう せきひぶん)

「児玉玉立異聞  -近世後期の書家-」(大原俊二編著・2000年9月刊)より 

●関連項目=最新情報「平成16年6月
●関連人物=児玉玉立・舩田舩岳・廣田剛


 碑文


玉立の没後、明治になって一人の玉立理解者が現れた。船田舩岳(1864-1910)である。舩岳は明治元年、児玉玉立の成長の地である伯耆汗入郡御来屋(現鳥取県西伯郡名和町)に生まれ、長じて日本画家となった。舩岳は、芸術を志す立場から玉立の書から多く得るものがあって、かねがね同郷の先輩として玉立を敬慕し、傾倒しており、名和公園にその顕彰碑建立を企画した。そして知友の漢学者広田剛(1863-1918)に碑文を依頼した。碑文は出来上がったが、舩岳が病を得てこころざし半ばでこの世を去ったために、建碑は成らなかった。明治年代の後半期のことである。

 伯州の舩田舩岳が、郷里の先輩児玉玉立先生の碑文を建てるといって、私(廣田剛)にその碑文をつくらせたので、私は次のように書いた。

    先生は書をもって一派を打ち立てられた。とくに書法については奥深く研鑽しておられた。

    幼い時、家が貧しくて、よその家で養われながら学ばれた。若くして江戸におもむいたことは、書を磨くためにたいへん役立った。その後、全国各地を周遊し、多くの著名な書家に書法を問 い、その業をますます深められた。人となりは、非常に優れ、抜きんでていて、他人の力で左右されない強い意思をもち、権力 者も意に介さず、揮毫するときは、それが自分の意にかなうときにかぎられていた。だから、金銭を山のように積まれても、揮毫することはなかった。

    鳥取藩家老、荒尾千葉之助がかつて先生を招いたことがある。そしてたくさんの客のいる前で、先生に書を書かせた。そして千葉之助とたくさんの客が、筆端に生ずる書を誉めた。すると、先生はムッとしたようすで舌うちしていわれた。

    「風雅を解さぬ俗家老に、書のことがわかってたまるか。」と。

    その頑固いっこく、まっすぐであっさりした性格はまさにこの通りである。

    藤本鉄石は、かつて先生に書法を尋ねたことがある。先生は、その鉄石が師事するほどの 一世の大家であったことを、世人は知るべきである。

    先生は書に関しては、ほとんど寝食を忘れて打ち込み、清廉潔白で貧乏をも省みず、草書を もっとも得意とし、感情のおもむくままに、ひとえに感興を草書にたくして表現した。だからその書は人間わざとは思えぬ霊妙なできばえで、人知ではとうていおしはかることはできない。

    おしいことに、世に容れられることなく一生を終えられた。

    先生の名は、玉立はその号で、伯州御厨(ママ)の人である。安政(ママ)年間、旅宿において没した。歳は六十三.実に一世の奇人であった。

    先生は、幸いにもその碑文を刻んでもらわれた。それを企画した舩岳は、画家として一家をなし、芸術に深く通じているさまは先生の書に対するものと同様である。だからその建碑は、先生に心から共感する点があったればこそである。

    私もその建碑の企画にもろ手をあげて賛成する者であるから、文章が下手だからといって、 どうして碑文の依頼を辞退できようか。銘にいわく。

     伯山鬱律(うつりつ) 秀景のあつまるところ

     先生の字 虎踞龍蟠(こきょりゅうばん)す

                     淡路   廣田 剛撰


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