平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します
■ | 森琴石は、天保14年2月19日(1843年・旧暦では3月19日)摂津国有馬郡湯山村、「梶木源次郎 かじき げんじろう」の三男として生まれた。名は熊。3歳の折大阪の「森 猪平 もり いへえ 注1」の養子となる。今年が生誕161年目である。実父、梶木源次郎(1812文化9年~1892明治25年)は湯山村の庄屋。使命感が強く先見の明があり、灌漑治水工事や地租改正・有馬の物産普及にと心血を注ぎ資産を使い果 たした。村人たちはそれらの謝意として、当時、株の空きがあった、有馬温泉の旅館「中の坊」の「継承と開業」を提唱し、株を譲ったという 注2。 |
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■ | 明治6年、有馬郡湯山町町長「梶木源次郎」は、以前から毒水と伝えられていた「地獄谷」にある湧き水を、兵庫県庁を経て、大坂の「内務省司薬場」に検査に出した。明治8年、司薬場教師「べ、ウ、ドワルス」が検査をした結果 、「此水たゞに毒水ならざるのみならず最も以て有効なる炭酸水」と判然する。日本で有数の質を誇る「炭酸泉」の発見となり、日本で最初の「サイダー」誕生の始まりへとなっていく。 |
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■ | 梶木源次郎は、「有馬筆」の振興にも、並々ならぬ情熱を傾け奔走していたという。明治40年、それら梶木源次郎の功績を称え、「田中芳男 注3」篆額による「石碑(現存)」が湯元に建てられた。森琴石は実父梶木源次郎の依頼により、銅版「有馬温泉冷温泉成分分析表・明治9年」や、有馬温泉の産物紹介もある「有馬温泉炭酸水改良建築并市街図写 真絵図 (明治16年他) 注4」など、有馬関係のものを製作している。 |
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■ | 依田学海著「学海画夢 がっかいがむ」や、「学海日録 がっかいにちろく」には、依田学海(百川 ひゃくせん)と森琴石らが、森琴石の実家である、有馬温泉「中の坊」に宿泊し、有馬を探訪し温浴を楽しむ記述がある。 |
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