森琴石に大きく関わる用語を説明します
■美濃焼と森 琴石 |
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私と琴石の出会いは、長野県内にある博物館の先生からいただいた一本の電話でした。その内容は「森琴石について調査しているが、史料の中から妻木の安藤家が所蔵する琴石の絵に箱書きをしたという一文が見つかった。安藤家を知らないか。」という問い合わせでした。実はこの時初めて森琴石という名前を知ったのでした。これを機会に調べてみると、予想外に多くの琴石の絵が見つかり、それだけではなく、森琴石の名前を知っている人が沢山おり、それもひとり二人ではなかった、ということも私にとっては意外なことでした。そして地場産業である美濃焼にも関わりがあったこともわかってきました。まだまだ視界良好とはいきませんが今日までの成果をまとめてみました。 森琴石が美濃焼で知られる岐阜県東濃地方を訪ねたのは、明治20年代から30年代にかけてでした。とくに土岐市妻木町からは、当地で描いた琴石の絵が10本以上発見されました。また地場産業の焼物との関わりについても興味ある資料が得られました。しかし妻木町以外の近隣町村に関しては未だ手つかずの状況です。琴石の残した記録の中には、多治見市にある虎渓山永保寺や、土岐市土岐津町高山でのスケッチなどがありますので、今後の調査によっては広範囲にわたって琴石の足跡が明らかになる可能性も秘めています。
今後の調査研究を期待して、妻木町での琴石の足跡と、美濃焼について述べたいと思います。 岐阜県の南西部に位置する東濃地方は、美濃焼で知られた国内一の生産量を誇る焼き物の産地です。その歴史は古くこの地方で焼き物が生産されるようになったのは、平安時代にさかのぼります。技術の進歩により美濃焼は発展し、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけては「志野・織部」に代表される美濃桃山陶と呼ばれる時代を代表する製品を生み出しました。そして再び美濃焼が注目されるのは、優れた磁器が焼かれるようになった明治時代のことでした。 美濃で磁器製品が焼かれるようになったのは、江戸時代後期(1800年代)に入ってからのことです。日本での磁器の歴史は、江戸時代初頭(1610年代)の伊万里(佐賀県)に始まります。そのころ美濃では美濃桃山陶の最盛期にあたり、その後御深井(おふけ)や染付の製品に移行しますが、いずれにしろ陶器の製品を焼いていました。瀬戸から伝わった磁器は、「新製焼」としてその生産は年々盛んになり、美濃は短期間のうちに先進産地に追いつくほどの発展を成し遂げたのです。はじめは伊万里などを模した製品が多く焼かれましたが、次第に独自の製品が作られるようになってきました。幕末には市之倉村(多治見市)や妻木村(土岐市)などで、幕府の薬園の注文を受注するほどに優れた磁器が生産されるようになりました。 明治になって、窯の数などが制限されていた窯株制度が廃止され、多くの人が窯を築き、焼成技術も革新的に向上し、多量の製品が焼かれるようになりました。それにともなって国内に広く市場を開拓する気運が高まります。その一例が内国勧業博覧会への出品です。内国勧業博覧会は全国に殖産興業を促すために計画されたもので、この地方の多くの陶磁器関係者が出品していることに驚かされます。明治10年(1877)に東京で開かれた第一回内国勧業博覧会には、現在の土岐市・多治見市・瑞浪市から18名が出品しています。回を追う毎に出品者は増加し、第二回(東京、明治14年・1881)は55名、第三回(東京、明治23年・1890)は117名、第四回(京都、明治28年・1895)は59名、特に第五回(大阪、明治36年・1903)は306名にのぼり、この地域のほとんどの生産者が出品したものと思われます。もちろん国内だけでなく、万国博覧会などの海外での博覧会に出品した人たちも多数ありました。これらの製品の多くは、碗皿、煎茶器、皿や花瓶などに、花鳥、風月、山水や人物の絵を付けたものでした。 磁器の製品が主体になったことで、描かれた絵は繊細で写実的なものが可能となり、次第にそれが主流となっていきました。その結果窯業に関わる人たちの中には絵画に興味を持ち、専門の画家の絵を見たり購入する機会も増えてきたものと思われます。また絵画を学んで優れた上絵を描く職人が誕生してきました。森琴石をはじめとする画家たちがこの地域を訪れるようになったのはこの頃のことです。
森琴石の足跡が残る土岐市妻木町は美濃焼の生産地の中でも歴史遺産を最も多く残した町です。特に室町時代から土岐明智氏がこの地を領し、戦国時代から江戸時代にかけては妻木氏が妻木城を拠点として、この地域の美濃焼の発展に貢献しました。町内を歩けば領主ゆかりの妻木城跡や氏神八幡神社、菩提寺崇禅寺などをはじめとして多くの歴史遺産が残されています。また町のあちこちに点在する窯跡は、室町時代の山茶碗を焼いた穴窯から大窯、登り窯にいたる近代までの窯跡があちこちに点在しています。妻木も明治時代に入ると磁器の生産によって大きな飛躍を遂げます。特に薄手の碗皿や洋食器などの主産地として発展しました。明治10年代後半に水野勘兵衛によって薄手のコーヒー碗の焼成に成功し、同い年の中島玉吉は中島商店を設立して見事な上絵をつけて海外への輸出を成し遂げました。欧米のジャポニズムといわれる日本趣味に乗じて多くの製品が海を渡りました 。
森琴石が妻木を訪れたのは明治20年代後半から30年代にかけてです。まさしくその最盛期にあたります。画家としてだけではなく、銅版画家としても優れた才能を持つ森琴石が、手描だけでなく、摺絵と銅版印刷の技法によって絵を付ける磁器にも何らかの関係を持っていた事は充分考えられます。現在琴石が絵付けをした煎茶器が三組残されています。その箱書きによれば、熊谷鉄蔵の窯で絵を付けたことが記されています。煎茶器には蟹と菊が描かれています。「壬寅」の干支から明治35年のことだとわかります。熊谷鉄蔵の窯は、妻木町神宮地区あります。ここは明治に入って盛んに焼かれるようになった地区で神宮窯と呼ばれています。鉄蔵の他にも熊谷弥吉、熊谷幸四郎、熊谷留四郎などの窯焼きや中島玉吉の中島商店などが軒を並べていました。
また琴石が逗留した崇禅寺は、臨済宗妙心寺派の古刹として知られています。土岐明智氏の初代頼重が文和三年(1354年)に創建し、代々の妻木城主の手厚い保護を受けてきたお寺です。城主の位牌や墓所があり、釈迦如来立像など岐阜県、土岐市指定の文化財を多数所蔵しています。明治時代以降この寺には何人かの画家が逗留し近在の窯主の注文に応じていました。琴石はそれらの画家の中でも一番の画家であったと古老たちに語り継がれてきました。 -平成19年2月記す- ★黒田正直氏は、土岐市文化財審議委員・妻木城址の会事務局も兼務されておられます。 ★平成14年9月、長野県の飯田市美術博物館学芸員の 槇村洋介氏 より、「妻木には、窯元家などに、森琴石の作品が沢山あるようだ」との情報を頂きました。森家では、平成15年1月、平成15年8月と、2度に亘り「崇禅寺」や妻木の窯元家、「妻木八幡神社」を訪問させて頂きました。平成15年1月に「崇禅寺」で、平成15年8月には「妻木八幡神社」で、「森琴石画集」の為、妻木で所蔵されている森琴石の作品の撮影を行いました。 ★上記黒田正直氏文章及び美濃焼に関係する、当HP内での記述箇所 「平成14年9月」・「平成15年7月、同8月」・「平成16年12月 注1」・「平成19年1月■9番目&注11」・関連資料「砥部焼きと森琴石」 の年表内、また 森家には「土岐 姓」の資料が残っている事もあり、家族係累:「森家について」 も、ご覧下さい。 |
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