これまでに収集した資料による森琴石の門弟の紹介、
および森琴石に画を習ったとされる門人名を出身地別に紹介します。
(注:一部の門人名や画号の読み方に間違いがある場合もあります)
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―和歌・茶道及び南画協会吹田支部―
最末尾428頁に、「最後に、田門以外の画流には森琴石に画法を問うた北島熊三郎(号花谷)がいる(北島熊三郎氏談)。
◆資料ご提供者=西本安秀氏(吹田市立博物館)
*北村家は、本家と分家のある吹田村(すいたむら)の旧家であったが、現在は絶家したとの事。
対聯,敬求六朝法書,款賜北島華谷。
華谷弟門人也。潤単破照,伏希交際。
六朝,請裁之。
華谷対一付,弟去寓随後書之。
行書六十銭可。如書四五付,毎付六十銭可。請吾兄門生乞書亦照単可否?
如吾兄多多引見,照破格之潤無妨也。
(犹?)華谷商議,後日可布也。
翻刻=陳 捷 ちんしょう 氏(国文学研究資料館助教授)
北島熊三郎 名熊 字夢吉 号華谷 丙戌 ※夏華谷寫 (※明治19年) 左端下 「何杏村」=か きょうそん=河副作十郎の事
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明治五年生・字思純・大阪府豊能郡原田村の初代村長を努める。
下記小畑家と親しく小畑松坡※の紹介で妻鹿友樵の塾に入門し、殊に七絃琴を習い「聴泉」と号した。最後の友樵訪問は明治29年1月3日であって、「原田村永田淳治郎来 乞詩 予賦七絶二種以贈」とある。大正15年11月4日の寒山寺に於ける心越祭では蘇東坡作の「酔翁操」を弾じている。
※小畑松坡=名万治郎。豊能郡南豊島村上津嶋(こうづしま)」の旧家の生まれで、南手嶋村成立時18歳の時、初代村長に就任した。松坡に対し音楽の才ありしと、妻鹿友樵は特に琴を伝授した。昭和12年歿。(妻鹿友樵伝)
十三丁〜十四丁にかけて「摂北豊島人:永田梅坡(父)・永田聽泉(長男)・永田鶴渚(次男)」と、永田家父子の漢詩三首寄せられている。父梅坡は欄外注釈に「梅坡業農有二子皆能賦詩ぐう(耒+禺)耕餘損ち(竹冠+虎)相和其樂可想」とある。
※石橋増官=石橋雲来
写真は「姿態横生」より |
明治十一年生 名知崇。字は子禮、通称は佐孝、琴岳と号し 別に介仙の号あり。浪花錦城池畔に生る。
幼より画の癖あり。川俣柳仙につき、漢詩及び四君子の画法を学ぶ。
後、行徳玉江、森琴石に就き、山水画を学び、傍ら五十川訊堂、馬場健に就き経史を修む。
各種展覧会、共進会に出品受賞すること十数回。
住所 大阪府泉北郡浜寺公園今在家
「姿態横生」(日本中央南宗画会刊・明治44年7月)より
琴岳は大阪の画家にして、南区鰻谷中(うなぎだに)の町に現住す。
明治11年1月2日を以て生る。
行徳玉江、森琴石に従い南宗画を愛く。
大阪美術会には其の委員となり、帝国南宗画会に於いては其の幹事に推さる。
39年戦捷(せんそう)記念博覧会、40年日本美術協会、34年大阪実業会その他各県主催の博覧会等より賞状を受くる事許多なりという。
『古今 日本書画名家辞典』(松雲堂編輯所・発行 石塚猪男蔵・大正3年1月)より
先生は大阪の人 名は知崇 字は子禮 通稱は佐幸 岱石と號し
別に琴岳と號す
明治十一年一月二日を以て生る
佐野佐一郎の息 母は縫子共に健在なり
其租古く紀州に住し明渡を姓とす
梶井古義の戦皆一方の将となり抜群の功を樹て歴代和歌山藩士たり
父租の時に至り始めて其姓を佐野と稱すと、
先生幼より畫癖あり常に彩管を弄す
稍長ずるに及び身を大阪師範学校に投ず
在學中同校の圖畫科教師松原三五郎※の愛を被りしこと多大、
卒業の後業餘筆を放たず行徳玉江に事へ通 學五年其技大に進む
玉江歿後更に森琴石に師事し研鑽多年遂に一家を成す 又五十川訊堂、馬場健等に就き漢書を聽くこと九年
後木蘇岐山に師事し其蓋棺の日に至るまで孜々倦まず進境著しきものあり
大正三年育英会を辞して支那に遊び淹留半歳滬上にありて陸廉夫、黄山壽、呉俊卿※等の老大家と交を訂し六法を究む
其去るに臨み廉夫之に贈るに山水樹石の二小幀を以てす
先ず山水に賛して曰
「樹者山水中發生之象也有樹之低昂搖曳而山之不動者從以此生不動矣則樹於山水其親密也尤其岱石仁兄勤求六法數以此道與予孝究故作樹五株よう(勝の力が女)以坡石貽之帰而参諸造化則■洲草木皆君筆墨之師篤」と、 |
他の一幀の樹石は蓋し其福壽を_るの意を寓せるなりと
更に路を蘇洲に転じて江山の勝を探り同地の大家顧鶴逸を訪ひ遊ぶと
月餘にして大阪に帰来し今や紅塵を高師海濱白砂青松の地に避け日夜翰墨に親しみつゝあり畫を請ふ者日に多しと、
南河須田氏の長女葉満子を娶り順一、安子、壽祐の二男一女を挙ぐ(府下高石町今在家羽衣駅西)
「續浪華摘英」(発行兼編纂 三島聴恵・大正五年十二月刊)より
※松原三五郎=「北野百年史より」などに掲載
※呉俊卿=呉昌碩の事
◆「南画初歩 三巻、補一巻」(加納黄文著※・明治44年)の<補一巻>は、佐野琴岳(岱石)編
◆「南画初歩 天地人完4冊 ★」(加納黄文著・大正元年9月)の第4冊目「完/菊之部」は佐野琴岳編
※加納黄文=「平成18年10月 注1,3」→-京都府画学校(開校時)出仕者- に名あり(伝暦は後月)
◆「森琴石翁遺墨帖 乾坤」(森琴石著・近藤翠石編・昭和2年)の編集補佐を務める
◆その他日誌掲載箇所:明治45年 6/21.22 、7/23 大正元年 8/3.5.7.28.29.30.31、9/8.10.14.16・20.21.22
◆森琴石日誌には「佐野翠岳」の名があり、明治42年 8/21・10/6 、明治45年 5/16 、大正元年9/12に記述がある。現時点では「佐野翠岳」は、森琴石日誌以外には名前が出ない事、「佐野琴岳(岱石)」と「佐野翠岳」の関係は不明である。
佐野岱石のエピソード=「平成21年6月【3】」
その他記述ヵ所=「平成17年5月■4番目注5」・「平成17年11月【2】■3番目」・「平成17年12月【1】■3番目」・「平成19年5月【1】■6番目」・「森琴石紹介:文献抜粋7」
写真は「姿態横生」より |
「大日本書画名家大鑑」(荒木矩著・第一書房発行・昭和50年1月)より
◆その他掲載箇所=明治42年10/6 ・明4年 4/25 、 7/9、13 ・大正元年 8/21、9/9、12、20
右端が氈受楽斎(小八郎)
明治5年2月24日(1876)〜大正11年10月5日(1922)
1: |
「松鶴園詩鈔」 明治35年刊=東京都某古書店古書目録(平成14年)による |
2: | 「松鶴園詠草」 頁初め:毛受冨教著とあり 奥附=大正五年九月五日(1916)印刷、九月弐拾日発行(非売品) 編輯兼発行者:毛受小八郎(大阪府北河内郡住道村大字尼崎弐番屋敷) |
3: | 「攝河名家集」 六冊 住道村上下二冊 尼崎村上下二冊 住道村上下二冊 大正七年九月五日 発行兼編輯:毛受冨教(小八郎) 大阪府住道村大字尼崎新田弐番屋敷 印刷:竹林冨吉商店印刷部 校閲:藤村叡運・世良田信明 ※・宮脇義臣 |
上巻 |
下巻 |
左:上巻 初頭頁 |
右:奥附 |
★毛受家が両替商をしていたと思われる住所の近隣には、緒方拙斎※の「緒方病院」や山中吉郎兵衛※の「山中春篁堂」があり、「樋口三郎兵衛※」や「鴻池善右衛門※」、「岩本栄之助※」などが土地の所有者として登記されている。「岩本栄之助」は森琴石の2度目の妻「ゑい」の甥とされる(伝)。
★今橋3丁目には、森琴石長男”雄次※”が、明治21年、三井銀行に正式採用される際、紹介人になった人物が住んでいた。「ゑい」の別の甥「杲田美稲※」は、著名株式仲買人「浜崎某」の娘が妻となった。
★今橋は、金融の町として知られ、江戸時代中ごろから両替商が軒を連ねていた土地柄である。
・・・森家は戦前(大正年間と思われる)、住道村の尼ケ崎新田に農地を所有したが、戦後の農地改革により”不在地主”として没収された。
※当HPでの記述場所
緒方拙斎=緒方洪庵の養子。緒方洪庵⇒「平成19年7月」・「平成18年5月【4】注3◆2つ目」他。
山中吉郎兵衛=作品紹介:「画稿・その他−煎茶関係スケッチ」 ・「平成12年12月」
樋口三郎兵衛=浪華画学校の校主⇒「平成18年10月注4,5 浪華画学校」
鴻池善右衛門=「平成15年9月◆2番目」・「平成18年5月【4】注3◆2つ目」
岩本栄之助=「展示掲載情報:平成11年4/24〜5/30 岩本栄之助と中央公会堂展」
森雄次=「平成20年7月」
杲田美稲・杲田姓=「平成18年9月【3】」
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