森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成22年(7月)

  今月の話題

【1】森琴石の箱書の実物画像・・・・・・・先月度ご紹介⇒田能村直入「寿星像図」箱書
【2】情報ご提供
西宮市「浅倉信哉氏」より・・・・・・・「栗田石癖」の新たな人物像が判明
【3】「栞石畫史丹青帖」について・・・・・・・「栗田石癖」から頼まれて描いた画帖



【1】

森琴石が「田能村直入」の箱書をしていた事は先月度に記述しましたが、先月度の情報ご報提供者、岡山県井原市郷土史研究家「大島千鶴」氏より、森琴石が田能村直入の「寿星像図」に書いた”箱書の画像及び、箱書の読み”を添えてお送り頂きました。



「寿星像図」の作品の所蔵者H氏は、津山の旧家の生まれで、「寿星像図」は、親せき筋の方から譲り受けられたものという。親せき筋の元の所蔵者は、美作か津山の旧家の方で、「寿星像図」は、田能村直入が”明治28年10月”、当家に滞在時に描いたものだそうだ。箱書は”大正6年1月」に書かれている。



森琴石は、美作や津山は森琴石とはかなり縁が深かったようだ。今秋刊行の「森琴石画集(仮題)銅版画編」では、K氏所蔵の、響泉堂刻<津山><高梁><岡山城>の地図が初公開されます。



 

 



森琴石 箱書・・・・・田能村直入「寿星像図」




表書…田能村直入畫壽星像圖条幅
内側(読み)…古人曰畫以人物為花竹禽魚為妙宮室宜用為功矣、此幅田能村
直入翁壽星像図也 筆致精細蒼老意通巧妙 風神超逸而施彩艶麗洵
為神妙今雙観於雲根館欣賞之餘書之併題簽  丁巳猛陬 琴石森繁 印 印

雲根館=森琴石の別号

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【2】

西宮市の「浅倉信哉」氏は、「平成18年8月【1】」や「書簡:石癖栗田先生」で、篆刻家「栗田石癖」についての情報を寄せて頂きましたが、この度<栗田石癖について、更に詳しい伝記が判りました> というお知らせを頂戴しました。



栗田石癖はその60有余年の生涯を、殆ど篆刻に終始し、20歳前後より長崎の「成瀬石痴 注1」、「小曾根乾堂 注2」両翁に師事、骨身を削って努力し、片時も印刀を離さなかったという”気骨のある”人物だった。



栗田家の一族は、徳川時代の中期頃からの筑豊の地主で、学問や文芸に秀でた者が多く、先祖の栗田叉介(宗一)の文政の頃は入り庄屋で、鞍手郡の隣村の「伊藤常足」に学んだ。明治維新後、本家の「栗田伴蔵」や石癖の長兄「栗田安壮」など一族は、政治家として、叉鉄道や銀行経営者として能力を発揮していった。



一方、政治や事業とは無縁の栗田石癖は、誇り高い芸術の世界へとのめり込んでいった。「岡田篁所、篁石父子 注3」や「西道仙」、「守山湘颿」、来崎中国文人など、長崎の文人や京阪の文人達との往来も頻繁で、当時、その実力は広く知れ渡っていた。



明治29年には、明清名家の印譜を集め、摸印刀譜「仿古戯鉄」を作成した。「栗田石癖」は、「小曾根乾堂」や「成瀬石癖」が築いた”篆刻の長崎派”の伝統を受け継いだ人物である。



鞍手銀行の支店長だった「栗田石癖」の長男「栗田二三(号紗羊)」は、第一次世界大戦後の大正10年頃、石炭経営者に巨額の融資をしたが、焦げ付きが生じ破産する。父親の石癖から兄弟に至るまで財産を根こそぎ取り上げられ、その被害は他の親族にまで及んだ。長男の紗羊は、その後大阪に行き、出版社の青天堂を興し、古俳書文庫を発刊。後年は篆刻を専とし、各地を歴訪し、日本印人伝を計画するが、戦災ですべて焼失する。



江戸中期から続く、血統を誇る栗田家ではあったが、長男の石炭融資による破産、没落、戦災(原爆を含む)などの不運が重なった事に加え、栗田石癖は弟子を持たなかったようでもあり、これら全てが埋没の原因となったようだ。



森琴石と「栗田石癖」との縁は、石癖の師匠達や交流者との縁が先にありそうだ。


石癖の師匠「小曾根乾堂」は、福井藩の御用商人として”松平公”に重用されたが、「平成19年3月【1】」にあるように、森琴石は長崎や福岡・福井、叉鍋島家ともかなりの縁を持っていた 注4。「平成10年10月」や「平成21年10月【2】■2番目」で記述したように、森琴石が鞍手郡小牧に足跡を残しているのは、森琴石が尊敬する「中西耕石」の実家がある事以外に、栗田家との縁があったからかも知れない。



森琴石が亡くなった半年後(1921年)、「栗田石癖」が下関を訪問した際、長府の覚苑寺で開催された“がまん会“には、森琴石門下の「末永頼太郎」が出席していた。乃木希典の二男「乃木元智(実父は毛利 元敏)」も同席している。森琴石は下関にも縁が深かった。



元毎日新聞記者「栗田藤平」氏が、氏の祖父栗田石癖や栗田家について小説にまとめ、今年の1月30日「篆刻家栗田石癖伝 筑豊 炭鉱興り地主滅ぶ」を、櫻の森通信社より出版されましたが、藤平氏はその2か月20日後、4月19日頃ご逝去されたとの事です。



下方に「「篆刻家栗田石癖伝」より、栗田石癖の生涯を適宜抜粋し、年表風に記述しました。



 
注1

成瀬石痴(米城)

★天保10年生まれ。本姓は横瀬。出でて長崎奉行組下遠見見番成瀬広助を継ぐ。人となり聡敏多能。絵画、彫刻、詩歌、武技は更なり。碁、将棋、茶道に至るまで熟達、特に彫刻はその妙技入神の概あり。鉄翁に会いその筆意を受け努力して倦けず、南画の真諦を得、名声江湖に遠く、権門辞を低くして来り、委嘱するもの絶えず。石癖人となり気骨あり。小曽根乾堂、篆刻を以て中外に鳴る。石癖、名を等しくす。明治28年4月歿。      ―「長崎県人物伝」(昭和48年9月)―
★シーボルトの「鳴滝塾」を描いた事で知れる。明治29年4月12日、成瀬石痴翁一周忌が「長照寺」で開催。その記録「石痴翁追福展観録 附印譜」あり=下記栗田石癖伝 明治29年4月12日のところにも記述。★著書類に「鉄翁印譜」(明治6年)・「酣古集印譜 第1~4輯」( 蘇暁 篆 / 成瀬米城 校訂/原版主並出版人;永見傳三郎/明治11年)がある。
酣古集印譜 第1~4輯」は、「早稲田大学図書館画古典籍データベースで閲覧出来ます。


注2

小曾根乾堂

★文政11年生まれ。名は豊明,栄。字(あざな)は守辱。通称は六郎。安政6年長崎湾を埋め立て外人居留地を作り、小曾根町と呼ばれる一廓を残している。隷書を唐人銭小虎に、画を鉄翁に、篆刻を大城石農に学ぶ。20歳代に広瀬淡窓を尋ねる。江戸に出て越前藩主松平春嶽に西洋砲術を説明、後に同藩の御用商人となる。明治4年、天皇の印鑑、「天皇御璽(ぎょじ)」と「大日本国璽」を印刻した。三条実美、蓮如上人、鍋島候、勝海舟らに求められ印を作った。明治5年、伊達宗城全権大使が天津、北京を訪れ、李鴻章と会談した際、書記として修好条約の締結に加わる。その後、上海、漢口などまわって古器、古書画、古印本など集めて帰った。明清楽器を好むなど中国趣味が強かった。明治18年11月27日死去。58歳。
-「篆刻家石癖伝」(平成22年4月・櫻の森通信社)、その他-


注3

岡田篁所(おかだ こうしょ)

文政3年長崎生。名は穆、恒庵と称す。17歳の時 大塩中斎弟子の宇津木静区に師事。弘化2年江戸に行き多紀元堅に入門、また野田笛 浦から漢学を学び、その後長崎に帰り医師となる。明治5年2月長崎の骨董商松浦永 寿に同行し上海に渡る。蘇州にも行き2ヵ月後帰る。宇津木静区の実弟は岡本黄石。(陳捷氏論文より)

岡田篁石(おかだ こうせき)

名は景、恒軒と称す。号篁石。安政元年生まれ。父篁所と同様、医師と思われる。明治45年歿。漢詩同好「鶴鳴吟社」に所属。・・・長崎市内の2箇所の公共機関に、詳細な伝歴を求めましたが、これ以上は不明との事でした・・・・
森琴石 調査情報【平成19年 3月】 (morikinseki.com) 【2】


注4

当HPでの松平公記述箇所=「平成15年9月10月」・「平成18年3月【2】」・「平成18年4月【2】」など

当HPでの下関(赤間関・馬関)長州記述箇所=「平成12年6月」・「平成16年12月■2番目」・「平成19年6月【1】」・「平成19年7月【1】」・「平成20年2月【2】」・「師匠先輩:妻鹿友樵長三洲西嶋青浦」・「雅友:福原周峰」、その他 当HP上にあるGoogle(グーグル)検索機能でご検索ください。

メモ
平成20年9月【2】」でご紹介の「扶桑書画譜」(河副作十郎(何杏村)編/明治22年刊/全6冊)の第5冊目には、小曾根乾堂の長男「小曾根震太郎(星海)」が書を揮毫、第6冊目には「成瀬米城(石痴)」が篆書を揮毫している。
※因みに第5冊目には、「吉嗣拝山」や「伊藤深江」らと共に、森琴石周辺の「片桐南斎」、「高木展為」らが、第6冊目には「岡田篁所」、「十市王洋」、「梶山九江」、「西道仙」達と共に森琴石兄弟子の「塚村腸谷」も名を連ねている。「扶桑書画譜」には、本名と号、揮毫当時の住所が書かれている。因みに第3冊目には、「平成22年5月【1】」その他でご紹介した「建部聴山」は<建部陸、号聴山亦可而浪華江戸堀下通5丁目16番地住人」とある。印は[建部渦而]。


栗田石癖小伝


以下は 栗田藤平著「篆刻家栗田石癖伝」(2010年4月30日・櫻の森通信社)より、適宜抜粋させて頂きました。
但し明治28年3月15日…以下の文章と森琴石控え帳の画像は、「篆刻家栗田石癖伝」には無いものです。
★慶応2年10月29日…福岡県鞍手郡剣村中山で、地主「栗田安蔵」の三男として生まれた。母は黒埼の神官、波多野家の出。名は英一といい幼名は亀之助と言った。幼い頃は丹芝、後に桂所、竹門居士、石沙彌(せきさみ)と号した。
★6歳~13歳…筑前の芦屋小学校に通い、その後は、鞍手郡新入村の秦塾に通い、本格的に漢学を学んだ。塾長の「秦 巌」氏は、江戸の昌平校の佐藤一斎門で朱子学を修めた人物である。そこで学ぶにつれ文字(篆書、隷書)の魅力にとりつかれる。
★南画、書、篆刻を一体として学べるには「長崎」しかないと、長崎への遊学を志す。
★20歳前頃…秦教授のつてを頼り、長崎の「成瀬石癖」の元を訪れ努力研鑽し、「小曽根乾堂」にも師事した。
★明治18年11月…「小曾根乾堂」58歳で死去。
★明治19年初夏…最初の長崎遊学から帰り結婚、翌年4月、長男二三(紗羊)誕生。
★明治22年夏…2回目の長崎訪問。栗田石癖を迎え長崎の文人たちが歓迎の宴を開く。「馮雪郷」「岡田篁所」「成瀬石癖」らが画帖に揮毫する…画帖は「袖裏乾坤(じゅうりけんこん)」と名付ける。
★明治26年5月…絵画共進会の美術品展覧会の世話役を務める。
★明治28年春…師匠「成瀬白痴」逝去。

明治28年3月5日、森琴石は栗田石癖など、鞍手郡を含め筑前地方を遊歴(森琴石控え帳 -筑前遊記 No.1-…下記画像)旅の最後は大宰府の吉嗣拝山を訪問。


                     【森琴石控帳内 筑前遊記】より
                        ↓左頁3行目に記述
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栗田石癖邸(福岡県鞍手郡剣村大字中山1743)

『篆刻家石癖伝 筑豊炭鉱興り地主ほろぶ』 より
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★明治29年4月12日…長崎「長照寺」で、成瀬石痴一周期法要が営まれる。遺墨や明清の書画展示。その模様は追薦図録「石癖翁追善福展観録 附印譜」に、冒頭の序文は「岡田篁所」。栗田石癖は法要に参加せず。
★成瀬石痴の死後、成瀬石痴の弟成瀬星航は、長崎派の伝統について深く憂慮し、「まさに継ぐべきは栗田石癖である」と、石痴翁の遺愛品、遺著、印章談など全てを石癖に譲渡したという。
★明治29年秋…3回目の長崎訪問。半年遅れて成瀬石痴翁の墓参。この時、明清名家の摸印刀譜「仿古戯鉄(ほうこぎてつ)」を完成させる。岡田篁所、西道仙、守山湘帆、岡田篁石、江上瓊山らが序、跋、題詩、題画などを揮毫。
★明治30年1月25日…江上瓊山、岡田篁石が栗田家に逗留。
★大正3年…第一次世界大戦勃発。
★大正4年…天皇即位大礼に際し献上印を依頼される。
★大正10年…事件発生。栗田家没落、石癖は家屋敷家財道具など一切を無くし、家族は離散。母方の実家に身を寄せる。この年画会開催。10月4日、山口県長府の覚苑寺で「末永頼太郎(森琴石門下)」らと会合(石癖の手帳メモ)。同日のメモには、乃木希典の二男<元智>の名もあり。
★大正11年…栗田紗羊、再起を図り、芭蕉や蕪村の俳書の復刻「古俳書文庫」出版準備の為、大阪に出る。高野山に籠り写経をする(石沙彌の号を授かる)。大阪高島屋で書画の個展を開催。
★大正13年…別府に住み、ここを拠点に別府・大分・日田で揮毫の旅を続ける。
★亡くなる前の半年間を、日田で過ごす⇒広瀬淡窓の咸宜園跡があるなど、石癖にとって住みよい地だった。
★昭和2年10月26日…死去。享年60。
★大正14年…栗田紗羊「芭蕉翁真跡集」(栗田二三編/天青堂,)、「芭蕉門古人真跡」(蝶夢著他/天青堂)出版する。

◆栗田二三(紗羊)補足

栗田二三は、秦塾を経て長崎師範に入学。俳句を河東碧梧堂の門下となる。一時東京に出、早稲田大学に籍を置いたが帰郷して鞍手銀行の飯塚支店長となる。大正3年結婚、隣家は中島徳松(中島鉱業設立、玄洋社の頭山満と並び称された人物)。豪快な性格で、書画骨董を投機買いするなどした。これらが裏目に出たようだ。

   
【3】

「栞石畫史丹青帖」という森琴石の山水画帖がある。画帖の題字、跋文の揮毫者は「福原周峰」と「岡田篁石」である。山水画に押された印の中に「栗田石癖」が刻したものである。これは、画帖の中に挿まれていた「石癖栗田先生」宛ての手紙の文面から判明した。



画帖の中の年号だけを見た場合、最初に画を書いたと思われる<明治37年10月>から、最後に書かれた題字が<明治41年2月>なので、この画帖は3年4カ月もの年月を要したようだ。



福原周峰」が俳句を萩の「聴松庵」に学んだ事、吉田松陰や桂小五郎とは山鹿流の同門で切磋琢磨しあった間柄だった事、砲術を高島秋帆や佐久間象山に学んでいた事など、幕末の行動や交流人物が【2】の人物にも共通する事などから、互いに知己の間柄だった可能性がある。石癖の手帳のメモから、栗田石癖が森琴石門下「末永頼太郎」らを交え<がまん会>を開いていた事が判ったように、知られざる事実が今後も出てくる可能性がある。



下方に、「森琴石山水画帖」の概要をご紹介します。


 

「栞石畫史丹青帖」


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縦17.5cm x 横12.0cm

桐箱…[琴石淡彩山水画帖]    秩…[栞石老人畫四季山水帖]


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●以前当HPで取り上げた箇所=「平成19年3月【2】

●画帖に挿まれていた手紙=「資料 書簡:石癖栗田先生」をご覧ください。

●入手の経緯
☆今から8、9年前、大阪の美術商N氏より”勤皇関係専門”の取引先に、森琴石の画帖がありました”、との連絡を受け購入したもの。
☆跋文の揮毫者は、落款・印に「景」の文字がある事から、当初は梁川紅蘭女史ではないか?と取りざたした。



●画帖の構成

1:題字……福原周峰
「煙霞福 明治戊甲二月 八十二翁 周峰 印=周峯」(明治41年2月に揮毫)
2:山水図…1月~12月の山水図(全12図)
五絶七絶の漢詩のあるものは10図
年号が書かれたもの=12ヶ月目「寒江獨釣図」のみ
寒江獨釣 甲辰初冬寫於讀畫廬南窓下 栞石  印=琴石  印=■雄
         (明治37年10月に描く)         印のサイズ=7mmx7mm
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印=山水中放蕩
印のサイズ=7.5mmx8.0mm

3:跋文……岡田篁石
「此帖琴石老人之所写筆之精細巧緻苑妙漢明尚古文石室主人冥寶之  丁未春日 小揚洲仙史景 印=景印篁石 」



★題字、跋文、3月の図=「平成19年3月【2】」 の画像をご覧ください。


●その他の




上:孫熊  6.0mmx7.0mm
下:鐡橋  6.0mmx7.0mm

上:  5.0mmx5.0mm
下:  5.0mmx5.0mm




掃栞石彈
  11mmx11mm


★画帖内の印はあと2種類(吉夢・?)あるが、どれが石癖の刻印かは特定出来ない。



◆印の読みは浅倉信哉氏(西宮市・古印材収集家)にご協力頂きました。


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石敢當 梅石書