◆当HP内での記述、森家調査で名が出る、名称・事象などの索引及び、人物の略伝を紹介します。
調査情報などでの記述と重複している事があります。
◆「門人紹介(一覧)」・「雅友・知友(一覧)」・「関連資料(一覧)」などでの掲載人物は、現在一部を除き「索引・略伝」には掲載出来ていませんが、順次追加の予定です。
◆準備時間や資料不足の為、掲載順序については無作為な方法を取り、追加は随時していきます。
◆森琴石の親交者や、影響を深く受けた人物であっても、知名度の高い人物については「師匠・先輩達」「雅友・知友」では取り上げず、略伝のみの紹介が多々あります。
お断り
●「索引・略伝」は、平成18年秋~平成22年7月27日まで中断しています。左期間中のものは、もともと当項目では更新日を記していなかった事、また事故により、森家作成の原稿データが消失した事などから、更新日を記す事が出来なくなりました。
●「平成23年5月」でお知らせしましたが、当HPをCD化するに当り、時間と人手不足の為、平成23年6月以降に追加のものからは、例外を除いては略伝は省略し、索引のみとさせて頂きます。
1:「内国絵画共進会審査報告 明治15年」(第2冊目・農商務省博覧會掛版・明治16年9月)
2:「内国絵画共進会出品人略譜」(農商務省版・国文社刊・明治17年5月)
3:「姿態横生」(日本中央南宗画会刊・明治44年7月)=渡辺淑寛氏(栃木県真岡市)よりご寄贈頂きました。
4:「畫家小傳」(小倉市大阪町 南畫同志會蔵版・明治45年2月)
5:「明治画史 大正画家列伝 乾坤」(福間硯洲著・富田文陽堂発行・大正2年6月)
6:「浪華摘英」・「続浪華摘英」(発行兼編纂 三島聴恵・大正5年12月)=大塚融氏(元NHK記者・数寄者研究家・経営史研究家)よりご提供頂きました。
7:「大阪人物誌 正編」(石田誠太郎著・石田文庫・昭和2年)
8:「大阪人物誌 続編」(石田誠太郎著・石田文庫・昭和11年)
9:「増補 古今日本書画名家辞典」(玉椿荘楽只著・大文館発行・昭和14年)
10:「日本美術辞典」(野間清六,谷信一編・東京堂・昭和27年)
11:「大日本書画名家大鑑」(荒木矩著・第一書房発行・昭和50年1月)
12:漢文学者総覧「長澤矩也監修,長澤孝三編・汲古書院・昭和54年」
13:「佐賀 幕末・明治500人※」(福岡博編・佐賀新聞社発行・平成10年12月第2版)
14:「大阪人物辞典※」=(三善貞司著・清文堂刊・平成12年)
15:その他「広辞苑」など
※:「佐賀 幕末・明治500人」は、佐賀新聞社のご好意により、当HPへの掲載を許諾頂いています。
※:【大阪人物辞典】は、著者三善貞司氏のご好意により、当HPにのみ特別に掲載の許諾を頂いています。
内藤湖南 (ないとう こなん)文学博士・東洋史学者
1866-1934明治-昭和時代前期の東洋史学者。名は虎次郎。秋田師範を出て、東洋史を独学して文学博士、京都帝国大学教授、学士院会員となる。傍ら「中国絵画史」の名論著がある。 |
「森琴石紹介:文献抜粋7」・「平成17年4月◆ 騎鶴楼来訪者と森琴石●1番目」 など |
内藤恥叟 (ないとう ちそう)漢学者・歴史学者 |
「門人-大阪市東区:堀内謙吉(一)」 |
中江兆民 (なかえ ちょうみん)思想家・ジャーナリスト・政治家 森琴石門下「堀内謙吉」が中江氏の喉頭がんを発見 その事実がきっかけとなり、兆民は『正続 一年有半』を書き上げた。 |
「平成23年5月」 |
中野雪江 (なかの せっこう)画家 森琴石の親友 |
「平成14年2月」・「平成16年10月」・「画家系譜」・関連資料「ポンペと中野雪江」・「清国人の書簡」の中、朱印然の2番目 |
中山沃 (なかやま そそぐ)医学博士
新潟医科大学卒。鳥取大学、岡山大学医学部助教授を経て、岡山大学医学部教授(生理学)。H3年定年退官後同大学名誉教授、日本医師会理事、適塾記念会理事など歴任。(住所は西宮市名塩の教行寺・2011年6月記) |
「平成23年2月【2】」・「門人-大阪市東区:堀内謙吉」 |
永井香圃 (ながい こうほ)画家 1839~1911 。天保10年に京都で生まれる。狩野派、土佐派を修め書も能くした。男山八幡宮司。明治44年歿、73歳。日本南画協会「一宮支部発会図録全」第1席の揮毫者。「南画同志会」の中心メンバー。 |
長尾雨山 (ながお うざん)漢学者・書家 1864-1942。明治-昭和時代前期の漢学者,書家。森琴石周辺と交流。武生での逗留先が森琴石と同じ。 |
「平成17年6月■2番目」・「索引:天野方壺◆1つ目」 |
長崎 (ながさき)地名
九州の北西部に位置する都市、中国風では崎陽と呼ぶ。古くから、外国への玄関口として発展してきた港湾都市である。江戸時代は国内唯一の貿易港出島を持ち、ヨーロッパから多くの文化が入ってきた。 |
「平成16年8月 岡田篁所」・「平成16年12月■1番目注1小村徳平」・「平成19年3月【1】、同注4に多数」・「平成19年7月【1】■3番目」、同【2】」・「平成20年9月【2】何杏村」・「平成22年7月【2】、【3】栗田石癖」・「資料:ポンペと中野雪江」など多数 |
長崎港全図 (ながさきこう ぜんず)森琴石の響泉堂刻地図 |
「平成19年3月【1】、同注3」 |
長崎港略全図 (ながさきこう りゃくぜんず)森琴石の響泉堂刻地図 |
「平成19年3月【1】、同注3」 |
永富撫松 (ながとみ ぶしょう)豪農・漢詩家 「森琴石、断髪弾琴図」の最後の所蔵者 。播州の豪農で外交官、政治家、実業家でる鹿島守之助を父に持つ(4男)。詩文に長じ石橋雲来などとも交流。七絃琴の一大愛好家。住まいである「永富家住居」は国の重要文化財に指定された。伝記は「平成22年1月【1】注4」にあり。 |
「平成22年1月【1】」・「平成22年2月」 |
長野 (ながの)地名 森琴石は飯田市の田中芳男、田中義廉兄弟とは響泉堂刻の教科書などで関与あり。長野の書肆とも親しく、地図作成(教材用掛図)にも関与している。飯田市美術博物館蔵の井村コレクションには森琴石の小品(画帖)が4,5点所蔵されている。井村氏は明治36年に開催された第五回内国勧業博覧会で、造幣局の泉布観が会場となった「千成瓢箪の展示」にも参加。長野市の花月文庫には森琴石著「題画詩集」の蔵書あり。佐久間舜一郎の赴任先。九里四郎は飯田市の病院で逝去した。 |
「平成16年2月」「平成16年3月■3番目注3」・「平成17年9月」・「平成19年1月【1】、同【2】」・「平成23年3月【3】九里四郎」他 |
永原雲永 (ながはら うんえい)布志名焼「雲永窯」窯主 江戸末期、松江藩の御用窯として栄えた<布志名焼>の「雲永窯」窯主。森琴石は明治17年1月<廃窯>になる直前に玉湯町布志名の雲永窯を訪問し、茶碗に絵を描いた。 |
長原梅園 (永原梅園・ながはら ばいえん)明清楽奏者 明清楽奏者、月琴の名手。東京で活躍。著書に「清楽詞譜(明17年)など。姉の「平井連山」も同じく明清楽奏者(「平成20年9月【2】■4番目&注5」・「作品紹介:その他 封筒」)で、大阪で活躍した。 |
「関連資料:大阪の有名諸大家(一)『浪華の魁』 明清合奏-永原梅園」 |
浪華画学校 (なにわ ががっこう)画学校名 |
浪華学画会 (なにわ がくがかい)画学校名 |
浪華学画会絵画共進会(なにわがくがかい かいがきょうしんかい)絵画会名称 |
浪華摘英 (なにわ てきえい)書誌名 |
長阪雲在 (ながさか うんざい)=長坂雲在画家
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雅友・知友:「長阪雲在」「木村発(三)」・「平成17年9月【2】」・関連資料「一致帖」 |
長阪翠雲 (ながさか すいうん)=長阪雲在の養子画家 |
雅友・知友「長阪雲在」・「門人紹介:大阪市(未記述)」 |
永松春洋 (ながまつ しゅんよう)画家
名ハ孝字ハ三省、春洋ト號ス、嘉永二年十二月豊後國東國東郡安岐町ニ生ル、幼ヨリ南宋ノ畫法ヲ好ミ、十市汪洋ヲ師トシ山水ヲ學フ、明治十年大分町ニ轉居シ、木下橘巣ニ從ヒ花卉ヲ習フ、二師歿後田能村直入ノ門ニ入ル、嘗テ諸國ヲ漫遊シテ奇勝ヲ探リ、明治廾六年居トシテ浪花ニ住シ、三府、名古屋、岐阜等全國繪畫共進會ニ出品シテ、賞ヲ得タルコト頗ル多シ。(大阪市北區中之島六丁目) |
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◆森琴石とは「日本美術協会 大阪支会」で、共に<技芸員>として大阪の美術界を引っぱり、森琴石の日誌にも名が出るなど、森琴石とはかなり親しい間柄だったようだ。 |
「平成20年2月【2】注3末尾★」・「平成20年1月【2】注4」・「平成19年2月【1】注9&◆」・「平成18年10月【1】■5番目」 |
成富椿屋 (なりとみ ちんおく)画家 文化10~明治40(1814-1907) 成富鵬明といい、旧蓮池藩士。初め画を佐賀の中島藍皐に学び、書を僧鉄翁及び、のち画を木下逸雲に学ぶ。さらに長崎に学び南宗画を修めた。有田にも滞在して陶画の下絵、絵手本などを多く残している。明治33年皇太子殿下佐賀市行啓の時、御前において松鶴の画を揮毫した。墓は蓮池の浄国寺にある。(「佐賀幕末明治500人」・平成7年・佐賀新聞社) ◆「津田白印」の画の師匠。佐賀藩では明治13年の「勉脩学舎」に始まり、「陶器工芸学校」や「有田絵画学校)」を設立し、有田焼の絵付けの技術を高めてきた。勉脩学舎の第一期生には川浪竹山がおり、明治17年年3月、文部少輔九鬼隆一が訪れ、講演や製造図画のテストをした。ている。陶器工芸学校の初期教師には、森琴石と親交がある「藤田苔石」の子、「藤田苔厳」が任務(明治17年9月)し、成富椿屋は、明治20年より主要教師を務めている。 |
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忍頂寺静村 (にんちょうじ せいそん)=忍頂寺梅谷画家
師匠・先輩「忍頂寺静村」・「妻鹿友樵」、画家系図、資料:詩賛「森琴石弾琴之図」、関連資料「千瓢賞餘」大阪府の半ほど菊阿彌の項に名あり、「平成10年10月■2番目◆3」、「平成12年8月■最初」、「平成15年11月」、「平成15年12月■3番目」、「平成16年8月■2番目」、「平成17年1月■2番目・2月・11月【3】■3番目 注5」 |
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