森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成17年(6月)

4月末、琴石門下「波多野 華涯 」ご子孫より、波多野女史が 東遊の際「朱印然 しゅ いんぜん」が、留別の詩文を寄せた書幅 の写しをご送付頂く。明治14年11月、森琴石の「読画楼 どくが ろう 」に「王冶梅おう やばい」を招き、酒宴のあと花涯女史の 旧作詩に感銘を受け、「王冶梅」が唱和した詩書が存在した。
 
 

朱印然の詩書

最是離情歳暮身、寒蟲凄切更為鄰。
原知閨閣藏清質、何事蓬帆繋此身。
澱水細流含恨去、海門相望寄書頻。
勸卿自把光陰惜、莫負東都墨塢春。
花涯女史東遊、有留別詩、次其韻、
聊為祖程、似正。清國朱印然拜手

[訓読]

最も是れ離るるの情、歳暮の身、寒蟲、凄切にして更に鄰と為る。
原(も)とより知る閨閣清質を藏す、何事ぞ蓬帆、此の身を繋ぐ。
澱水の細流、恨みを含みて去り、海門に相ひ望む書を寄することの頻りなるを。
卿に勸む自ら光陰を把りて惜み、負く莫かれ東都の墨塢の春に。
花涯女史、東遊せるに、留別の詩有り、其の韻に次し、
聊か祖程を為して正すを似(ま)つ。
清國の朱印然、拜手す。

翻刻並びに訓読=陳 捷(ちん しょう)氏(国文学研究資料館助教授)

 
 

王冶梅(おう やばい)の詩書

  

才高咏絮(草冠+惠)蘭心、絶妙無花無月吟。
且待春江花月夜、聽君一曲暗香琴。
光緒七年冬十一月、琴石先生招飲於讀畫樓
席上讀花涯女史無花無月舊作、
欽佩之至、援筆奉和芳韻。醉後率爾操觚、
不復計其工拙耳。金陵王冶梅初稿

[訓読]

才高し咏絮の(草冠+惠)蘭の心、絶妙なる無花無月の吟。
且く待つ春江花月の夜、聽く君の一曲、暗香の琴。
光緒七年冬十一月、琴石先生、讀畫樓に招飲す。
席上にて花涯女史の無花無月の舊作を讀み、
欽佩の至り、筆を援りて芳韻に奉和す。醉後、率爾に操觚し、
復た其の工拙を計らざるのみ。 金陵の王冶梅の初稿

翻刻並びに訓読=陳 捷(ちん しょう)氏(国文学研究資料館助教授)

 
波多野華涯=最新情報「平成17年3月末尾」の項目をご覧ください。
読画樓(どくがろう)=森琴石自宅の画室につけた名。
資料ご提供者=小田切マリ氏(つくば市・波多野華涯孫)
 
5月初旬、岡山市妹尾(せのお)及び倉敷市を訪問する。森琴石に画 を学んだ妹尾生まれの「佐藤僊友 注1 」は、呉服商「今屋 注2」を 営み、傍ら趣味人として過ごし、福祉慈善活動も良くした。石癖 注3 ・中国趣味が強く、「王一亭」・「長尾雨山 注4」や政治家「犬養 毅 注5」と交 流があった。京都や大阪に行き書画の収集も良くした。佐藤家に残る扇 面書画帖や画巻には、森琴石と近い文人達が揮毫している 注6。明治 17年に描かれた「胡鉄梅 こてつばい」による「不老富貴乃図」が残され ている。
倉敷市立美術館で展覧されている、響泉堂刻「明治紀念標 百分一縮 図 注7」は、総社出身の画家「堀 和平 注8」の油絵の裏面 に挿まれていた銅版画である。「堀和平」は明治13年、「有馬湯山町 注9」に三十余 名で滞在した。その「書画帖 注10」を拝見する。

 
注1 佐藤遷友(さとう せんゆう)=名は精治。津田白印及び森琴石に画を学び、高野竹 隠に詩文を学ぶ。「佐藤僊友」については、「平成17年4月■第8項目」、門人紹介「岡山県」 をご覧ください。
 
注2 今屋(いまや)=安政3年(1856)創業
   
注3 佐藤遷友の石癖=奇石の収集も多く、奇石図をも好んだ。森琴石の大正4年作「壽石奇千古図」など数幅、他の著名画家の奇石図所蔵。
 
注4 長尾雨山(ながお うざん)=書家・漢学者。香川県生。名は甲、字は子生、通 称は槙太郎、別号に石隠・无悶道人。幼時より父に従って漢学を修め、内藤湖南と共に京都の 双璧と称せられる。昭和17年(1942)、79才歿。
 
注5 犬養毅は漢学を「森田月瀬」に学んだ。森琴石周辺には「森田月瀬」の兄「森田節斎」の名がしばしば出る。犬養毅は、森琴石門弟「近藤翠石」に密かに画を学んでいた。近藤翠石による超特大画帖 「支那名勝画冊」(大正7年)には、「藤澤南岳・近藤南洲・犬養毅・土方久元・森琴石」など、相関人物が書画を揮毫している。

森田月瀬=関係人物紹介「池田正信」の、交流者に名が出ます。
森田節斎」=「平成16年8月 第3項目 西毅一」・「平成16年7月 第2項目 本城梅屋」・「平成15年11月 注4●3番目」に記述があります。

「支那名勝画冊」データご提供=近藤成一氏(東大阪市・近藤翠石孫)
 
注6  扇面書画帖及び画巻の揮毫者=「藤澤南岳」「近藤南洲」・「三島中洲 」・「富岡鉄斎」・「秦金石」・「石井金陵」・「土方久元」」「犬養 毅」・「高野竹隠」・「山本憲 」・「河村虹外」・「日下部鳴鶴」・「森琴石」他
 
 

*藤澤南岳(ふじさわ なんがく)
儒者。名は恒、字は君成、別号に盤橋・南嶽・醒狂・七香斎主人等。漢学者藤澤東畡の長 男。父及び谷南明に師事。高松藩に仕える。大阪の泊園書院を再興した。大正9年(1920)、 79才歿。

*近藤南洲(こんどう なんしゅう)
旧高松藩の儒者の子。漢学者。本名は近藤元粋。大阪で猶興書院という学習塾をおこす。

三島中洲 (みしま ちゅうしゅう)
松山藩士・漢学者。名は毅、字は遠叔、号は桐南、のち中洲。山田方谷・斎藤拙堂に学ぶ。維新後、判検事・宮中顧問官となる。二松学舎を創立し、漢文学界に貢献した。大正8年(1919)、90才歿。

*秦金石(はた きんせき)
安政3年京都で生まれる。中西耕石の門に学ぶ。南画家、京都住。  森琴石と親しく、佐藤僊_は、森琴石歿後は秦金石と交流を深めていた。秦金石については、最新情報「平成17年3月 」をご覧ください。

*石井金陵(いしい きんりょう)
南画家。備前生。名は俊、字は君明。初め浦上春琴のち古市金峨・岡本秋暉に学ぶ。篆刻にも秀でる。岡山県絵画会副会頭・大阪絵画会顧問。大正15年(1926)、85才歿。

*犬養毅書扇面落款 =「乙卯五月吾年届華甲始得称翁 木堂散人書於寶蘭亭■」

*高野竹隠(たかの ちくいん)
文久2年9月29日~大正10年4月10日。名古屋の人。名は清雄。別号を修簫仙侶。白馬山人。夙齢、佐藤牧山に詩を学ぶ。牧山に従って上京。経学を修めるかたわら永坂周の紹介で森春涛の門に出入りする。後、伊勢・神宮皇学館の教授。大正6年以降は京都に起臥した。森槐南は終生、竹隠を師友として遇した。

*山本憲(やまもと けん)  

嘉永五年土佐に生まれる。名は憲、号梅崖。字は永弼、通称繁太郎、別に梅清処という。 父山本竹渓は安積艮斎の門下で斉藤拙堂・佐藤一斎・大槻盤渓らと親交があった。藩学 「明教館」で父が講じるなど早くから学問を授かる環境にあった。14歳致道館で松岡 毅軒に師事、17歳開成館で英語を習得。「致道館」の助教を努めた。明治4年大橋春 風の家に寄宿、「育英義塾」で洋学を学ぶ。明治8年「大阪新報」の記者、さらに岡山 の「稚児新聞」「中国日日」の主幹を務め、また「越後新聞」にも招かれた。明治15 年大阪に「梅清処塾」を開く。「古文真宝抄注釈大全」「文章規範講義」「訓蒙四書」「史 記抄伝講義」などの大作を著す。30年中国に渡り政界・文人と交流、中国の学徒を受 け入れ世話をした。晩年は牛窓に隠棲して著作に専念する。蔵書は岡山図書館に寄贈さ れ「山本文庫」といわれたが戦災をうけた。昭和3年76歳歿。「梅清処塾」からは漢 学者「川田瑞穂」、詩人「増田半剣」・「河西笛州」・「仲北山」、画家「菅盾彦」らがいる。(三善貞司著「大阪人物辞典」平成12年・清文堂刊 による)


川田瑞穂=「大東亜戦争終結ノ詔勅」の、起草者

山本憲(梅崖)は、当HP「平成15年7月」に記載の「大村楊城」と親交していた。関連資料「一致帖」末尾にも名がある。

*土方久元(ひじかた ひさもと)

幕末・明治の志士。政治家。伯爵。土佐生。土佐藩郷士土方久用の子。幼名は大一郎、名は楠左衛門、号は秦山。土佐勤皇党に参加し、藩命で上京、三条実美の信を得て、学習院御用掛となり七卿落ちに随行。中岡慎太郎と共に薩長連合実現に尽力した。のち明治政府に出仕し、のち元老院議官・宮中顧問官・枢密顧問官・農商務大臣等を歴任した。著に『回天実記』。大正7年(1918)歿、86才。

七卿落ち=七卿の一人錦小路頼徳は、森琴石儒学の師「妻鹿友樵 めが ゆうしょう」と親交した。「平成17年2月第2項目」、解説「妻鹿友樵」をご覧ください。

河村虹外・日下部鳴鶴=最新情報「平成17年3月」をご覧下さい。

   
注7・注8 明治紀念標・堀和平=最新情報 「平成17年5月」をご覧ください。
   
注9 有馬郡湯山町は、森琴石の生地。実父「梶木源次郎」が湯山町で旅館「中の坊」を経営
   
注10 書画帖への揮毫者=鳥尾得庵・折田年秀・藤田積中・野村文夫・重野成斎・恒川宕谷等が あり、明治10年代の前半、堀和平が交流した人物を知る手がかりとなる。

鳥尾得庵(とりお とくあん)  軍人・政治家。長州生。名は小弥太、別号に不識道人・御垣等。近衛都督に至る。貴族 院議員・枢密顧問官。明治38年(1905)歿、59才。
鳥尾得庵=関連資料「一致帖」をご覧ください。

折田年秀(おりた としひで)=初代湊川神社(みなとがわじんじゃ・神戸市)の宮司。
著書に「折田年秀日記」(平成9年11月・湊川神社編)。

藤田積中(ふじた せきちゅう) 兵庫の漢学者藤田撫山の子で、郷学明親舘の授読を勤めた。湊川の付替工事をするなど、 北風正造・神田兵右エ門と共に明治初期、兵庫神戸の開発を手がけた。明治21年1月没。 著書に「湊川濯余」(明治元年7月)。

野村文夫(のむら ふみお) 広島出身。明治10年(1877)「団団珍聞 まるまるちんぶん」を創刊する。

重野成斎(しげの せいさい) 
薩摩の人。藩校造士館から昌平黌に学んで朱子学をよくし、維新後は東大教授となり 、明治の漢文界を代表する。

恒川宕谷(つねかわ とうこく) 幕末・明治の書家。通称を敬一郎。幼時柳沢維賢に手ほどきを受け、のち京都清水寺の維明和尚に学ぶ。その間古碑帖を臨纂して一家を成す。名古屋に書塾を開き、子鶯谷、孫樵谷共にその家業を継承して中京書壇に大をなした。明治40年(1907)歿、78才。

佐藤家及び堀和平寄せ書き帖、画者判読ご協力=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館)
 

5月中旬、森琴石が明治26年福井県武生(たけふ)で描いた「梅渓 帰隠」など、二図の存在が判明した
 
 
同作品はもともと画帖だったものを、一枚の作品に仕立てたもの。同画帖には「天野方壺 (明治20年)」、「川村雨谷(二図・年記無し)」、「胡鉄梅(二図・年記無し)」、「石橋雲来・年記無し」・「椿二山・ 年記無し」が揮毫している。所蔵者についての情報は不明だが、「胡鉄梅」の足跡とも繋が るものである 。

天野方壺→平成14年7月平成15年12月・平成16年第2項目 で触れています。
川村雨谷、胡鉄梅は「平成17年3月第1項目」 をご覧下さい。
武生に関する記述は、「書簡:胡鉄梅 NO2」 「門人紹介、岩田壽石」があります。
情報ご提供者=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館)
 
当ホームページは、2005年5月20日で満2年経ちました。
その間多方面からアクセスを頂きました。HPの初頭頁左下にある数字は、当ホームページへのアクセス件数です。 2005、6/3 、am8:00 時点で23、168件となりました。今後とも当ホームページをよろしくお願いいたします。



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