注1 |
小画帖の内容紹介
◆賛・詩文の読み、読解、注釈=松戸市・小林昭夫氏
印・サインの読み=成澤勝嗣氏((早稲田大学文学学術院 第二文学部 准教授)
◆画帖の揮毫順序は 右から左。
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秩と表紙 |
1;小原竹香「書」 |
サイズ
秩=縦11.5cm x 横5.5cm
画帖=縦11.5cm x 横5.0cm |
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題
墨花叢飛
サイン=竹香生題 |
- ■小原竹香について
- 〇名は正棟。元津山藩士。明治維新後京都権判事になるが、嫌疑を受け幽囚された。後明治5年奈良県典事に命せられるが公務を好まず、大阪に移住した。詩文に長じ、五畿内中国地方を歩き、門下に教授した。古書の収集を趣味とし、文人墨客と清遊した。 ・・・・「大阪人物辞典」(三善貞司著/清文堂/平成12年)・・・・
- 〇明治15年「浪華の魁」には、漢学及詩文畫 小原竹香:北濱一丁目 とあり。同年の「大阪名所独案内」では )漢学及詩文畫 詩書家 北濱五:小原竹香 とあり。森琴石の著書類に揮毫者として名あり。
- 〇森琴石旧蔵小屏風に、竹香の揮毫詩書あり。森琴石の周辺と交流が多数あり、森琴石の師匠「忍頂寺静村(淡路島に住む)」の墓碑の撰文もする。
- 〇京都府立総合資料館には、『小原正棟所蔵古文書写=古文書一覧(あ行)をご覧ください』が収蔵されている。
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2;小原竹香「漢詩」(明治8年) |
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「平成22年4月【1】」をご覧ください。 |
3;建部聴山「エビと小魚図」 |
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5;高陽寒史 「漢詩」 |
4;森琴石「山水図」 |
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読み
雨餘秋色満東籬
重器玉姿物落時
初覚養埋労苦薄
伐来細竹援低枝
読解
雨余の秋色 東籬に満ち、
重器玉姿 物落つる時、
初めて覚(さと)る 養埋の労苦薄かりしことを
細竹を伐り来りて 低枝を援けしむ。
注釈
「重器玉姿」
大切に育てていた植木や花卉のことであろう。
「養埋」…土で覆って育てる。
サイン=高陽寒史
印
右上…旡窮(無窮)
左下…密・印
読み
曾見沈研圃有鍾山佳趣圖模其意 琴石
読解
曾(かつ)て沈研圃に「鍾山佳趣圖」の有るを見、
其の意を模す。
注釈
「沈研圃」…清代の文人。(袁枚の友人だったらしい。)
「鍾山」…南京郊外の山。
宋の王安石がその近くに隠棲したことで知られる
サイン=琴石
■「高陽寒史」の”推測人物”は下方 注2 に記述。 |
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7;易堂旧作「詩(七絶)」 |
6;寺西易堂;「山水図」 |
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読み
蘿月松風尽掩門
幽栖人天歳願還(?)
情惶写出鴻爪痕
一宇茆菴水畔邨
読解
蘿月・松風 尽(ことごと)く門を掩い、
幽栖の人天 歳 還るを願う。
情惶 鴻爪の痕を写出し、
一宇の茅庵 水畔の村。
注釈
「人天」…その人にとって最重要のことがら。
「歳願還」…この年が無事に終って新たな年が
来ることを願うのみ。
「情惶」…謙虚な心。
「鴻爪」…「雪泥鴻爪」、
人の行ないのはかないこと。
サイン=易堂舊作(旧作)
読み
貌(?)洲村舎図
注釈
「貌(?)洲」…どこかの地名を漢語風に表現したと思われる。
- ■寺西易堂について
- 〇漢詩人。文政九年1826江戸生。生来多病とて家業を弟に譲り、村瀬乙大に師事、経詩詩文を学び、青年期から諸国遊学に出た。信濃で木内梅軒、遠州で藤森弘庵に学び、緒方研堂を助けて洋書を翻訳するなどした。幕末に大坂に入り後藤松陰の教授を受け、明治2年1869瓦町一丁目で開塾、儒学詩文を教える。大正5年4月、90歳没。・・・・「大阪人物辞典」(三善貞司著/清文堂/平成12年)・・・・
- 〇漢学者。名は鼎。名古屋の人。村瀬太乙・林鶴梁・藤森行庵等に学ぶ。大阪府勧業課長・大阪博物場長等を務める。のち大阪船町橋に私塾愛身学舎を設け、門下の育成につとめた。また南画・書を能くした。大正5年(1916)歿、91才。・・・・思文閣美術人名辞典・・・・
- エピソード
- 〇森琴石や周辺の資料からは、寺西易堂の名は頻繁に出る。明治末期~大正初期にかけて、大阪での最古老の文人であった。折しも新南画が一斉風靡し、昔ながらの文人気質を持つ者は、煙たい存在と敬遠されがちで、「平成20年2月【2】注3 南画界の現状を懺げく 寺西易堂」にあるように、生前中にもかかわらず<物故>の虚報被害を受けた。易堂は、村田香谷や藤澤南岳らと共に、森琴石とは互いが歿する直前まで友情を分かち合った間柄。
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9;寒泉「詩(五古)」 |
8;水原梅屋「枯れ木に鳥図・明治13年 |
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読み
聲々叩々鼓
読蔵畜南(?)詩
不分梅花月
悩人過暉(?)殿(?)
読解
声々 叩々として鼓し、
蔵蓄の南(?)詩を読む。
梅花を分かたざるの月、
悩人 暉(?)殿(?)に過(よぎ)る。
注釈
「叩々鼓」…トントンと(何かを)叩きながら。
「南(?)詩」…「詩経」の「南詩」(周南、召南)
のことか?
「暉」…輝。
サイン=寒泉
印
右上…自然
左下…白賁・貞卿
読み
庚辰秋日 写于亦可斎中
読解
庚辰秋日 亦可斎の中(うち)に于(おい)て 写(えが)く。
注釈
「亦可斎」…書斎の名。
サイン=梅屋生
- ■水原梅屋について
- 〇天保六年大坂生。名は耕豊、別号凝香。鴻池一族の山中朔之助の庶子、水原姓を継ぐ。広瀬旭荘に師事し、詩文に長じた。幕末の動乱期は旭荘の影響を受けて勤皇派に与し(くみし)国事に奔走した。長三洲とも深く親交する。明治に入り、大阪若松町に開塾し若者を教授するのを楽しんだ。明治17年7月、琴石と共に浪華画学校の支那画の教師となる。明治26年2月、58歳没。・・・・「大阪人物辞典」(三善貞司著/清文堂/平成12年)他・・・・
- 〇著書類に『漢画進歩. 蘭譜,竹譜 』(森本太助等, 明13.10)・『漢画独稽古』(赤沢政吉, 明14.5)・『劒掃帖』(長三洲他、赤沢政吉, 明19.2)・『三洲我家帖』(長三洲他、赤沢政吉, 明19.10)・『明治名家仿古画譜』( 前川善兵衛等, 明13.5) など。
- 〇有賀長伯原著「麓乃塵 改正増補版 4冊」、同「和歌 麓之塵 改正増補版 2冊」の巻頭画は水原梅屋、明治14年響泉堂刻による。⇒「平成18年5月【2】」に記述
- モメ
- 〇故森寿太(森琴石孫)の話では、森琴石の存命中、森琴石の画を最も多く所蔵して頂いたのが、鴻池氏(鴻池善右衛門と思われる)だったそうだ。森家の文政時代の<控え帳>には鴻池姓の記録があるなど、鴻池家とは古くから関わりがあったようだ。・・・・・⇒当HPでの鴻池氏記述か所=「平成15年9月」・「平成18年5月【4】注3 最後の方」・「平成20年8月【1】注4★2番目」・「平成20年12月【1】■2番目」など。
■「寒泉」の”推測人物”は下方 注3 に記述。 |
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11;水原梅屋「詩(五絶)」 |
10;波部竹城「石鍾図」 |
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読み
断崖[留]虎跡
老樹見龍蟠
下有清泉在
翠蕪相暎寒
読解
断崖 虎の跡を留め、
老樹 龍の蟠(わだかま)るを見る。
下に清泉の在る有り、
翠蕪 相(あひ)映じて 寒し。
サイン=梅屋生録近製。崖下誤脱留字
(崖の下に誤って留の字を脱した)
読み
清人尤廕曾蔵蘇東坡所玩石鍾
容升許銅把篆元祐二字蓋貴種故物也
毎愛之度冩石鍾図並書坡翁詩
於上贈人傳播遠近名所居曰石鍾山房云
読解
清人・尤廕、曾(かつ)て蘇東坡の玩(めで)し所の石鍾を蔵す。
升許を容れ、銅把に「元祐」二字を篆す。蓋し貴種の故物なり。
毎(つね)に之を愛し、度(たびたび)石鍾図を写(えが)き、
並びに坡翁(蘇東坡)の詩を書す。人に上贈し、遠近に伝播して
於(よ)り、居る所を名づけて「石鍾山房」と曰ふ、と云へり。
注釈
「尤廕」…不詳。
「升許」…一升ほど。
「銅把」…銅製の取っ手。
「元祐」…宋代、蘇東坡の頃の年号。
サイン=竹城間人戯写
印
右上…瓊
「美しい玉」の意。字体は簡略化されている。
左下…敬・主弌
- ■波部竹城について
- 〇名=敬。字=主一。丹波の人、住浪華。篆刻家。
- 〇明治15年「浪華の魁」では、翰墨賞古諸派 に<波部竹城 :道修町三丁目>、明治21年「大阪市中近傍案内」では<篆刻家>に名が出る。⇒「関連資料:大阪の有名諸名家」
- 〇著書に『山陽詳傳 2冊』 (波部主一編/小川新助,/明治11年7月)あり。
- モメ
- 森琴石旧蔵小屏風に、波部竹城が揮毫。森琴石は、篠山で画を揮毫した足跡があり、丹波出身の文人との交流が見られる。
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12;小山九江 「釣舟図」・明治13年
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- ■小山九江について
- 〇嘉永六年1853大坂生まれ。名は義平、字子康、通称忠兵衛。家業は南久太郎町の薬種商。木下盧洲に画才を見込まれ、田能村直入に弟子入りする。稲垣秋荘、藤沢南岳に漢学。大西関雪に謡曲を師事した。大正8年66歳没。
- 〇明治15年「浪華の魁」では、翰墨賞古諸派 に<小山九江 :北久太郎三丁目>とあり。
- モメ
- 〇森琴石との接点は「藤沢南岳」が大きい。
- 〇森琴石の周辺には「梶山九江」という画家もあり。
■「寒泉」の”推測人物”は下方 注3 に記述。 |
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注2 |
『明治画家畧伝』(渡邉祥霞編、杉浦高陽閲/・明治17年4月出版/渡邉氏蔵)
- 〇「明治画家畧伝叙」での、小田切盛徳の撰文には<明治15年10月 絵画共進会が開催された。美作の渡邉祥霞(祥次郎)が”五百名の現今画人の略伝を集めた”>等が書かれている。
- 〇奥附
- 明治16年11月16日版権免許
編輯兼出版人;岡山県士族 渡邉祥次郎
発兌書肆;甘泉堂 山中市兵衛・有隣堂 穴山篤太郎・春陽堂 和田篤太郎・美術新報 鴻盟社
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注3 |
「高陽寒史」について・・・・推測人物
- 『明治画家畧伝』より
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杉浦高陽;上野公園地内東照宮事務。花卉、山水。
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名は耕成、字は鋤雲。安政2年越後高田に生まれる。秋山某の子。杉浦勝雄に養われる。画を増田桂堂に学ぶ。後東京に出て諸家に往来する。今東京府に出仕する。
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注4 |
「寒泉」について・・・・推測人物
- 奥井寒泉 (おくい かんせん)
- 1826‐1886。幕末-明治時代の儒者。
文政9年生まれ。奥井中里(ちゅうり)の子。阿波(あわ)徳島藩士。江戸に出仕中,藤森弘庵に儒学を,大沼枕山(ちんざん)らに詩・書をまなぶ。文久3年洲本学問所助講,明治元年に儒官となる。維新後は師範学校,洲本中学などでおしえた。明治19年11月2日死去。61歳。淡路(あわじ)(兵庫県)出身。名は賁。字(あざな)は子白。通称は荘一。・・・・・⇒コトバンク デジタル版日本大人名辞典+Plus
- 奥井莊介(おくいそうすけ)
- 文政9年(1826)~明治19年11月2日(1886)。一橋徳島藩邸の文学教授。 《生》淡路洲本 《号》寒泉
文久3年学問所司読、明治元年儒官。明治2年洲本の文学教授。同年11月柴秋邨の後任として一橋徳島藩邸の文 学教授。廃藩後は師範学校、中学校の教員。また有栖川宮熾仁親王の侍読を勤めた。 ・・・・⇒徳島幕末維新期人名事典
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