平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します
「田中芳男」は、天保9年、当時、南信州地域の文化経済の中心地として繁栄していた長野県飯田城下で生まれた。医師である父からは、国内外の多くの知識教養を授かり、伊那谷の豊かな動植物に親しみ、南信の小京都とも称された飯田の文化的な風土の影響を受けて育った。安政3年、尾張の伊藤圭介※の門に入り、本草学などを学ぶ。それらの諸環境が、後に、日本の博物館の父と称され、日本での初めての多数の試みを成すなど、生涯驚異的な事績を残す土壌となった 注1。
慶応3年(1867)、パリ万国博覧会において「田中芳男」は、出品物の輸送と展示を任され、その功績に対し、皇帝ナポレオン三世やフランス殖産協会からメダルを贈られた。パリ滞在中に見聞した「ジャルダン・デ・プラント 注2」という施設が、後に新政府のもと「町田久成 注3」と共に、日本での数々の博物館建設に至る 注4 推進原動力となった。
農・林・水産・園芸・畜産など、全てにわたる情報を提供する場が必要だとの信念を持つ「田中芳男」は、知識の発達を促し且つ実益を伴う農業博物館建設に着手、開館にこぎつけた。明治14年には初代農務局長に抜擢され、内国勧業博覧会や水産博覧会の幹事や審査長を務め、殖産興業に尽力した。
自然界の産物を正確に記録する事を重んじた「田中芳男」は、江戸時代の博物図譜を収集すると共に、収集した標本の正確な博物画を数多く書かせ、博物図鑑を作成した 注5。明治5年、学制が発布され、近代学校制度が発足した。西洋から移植されたばかりの動植物学を教えるという画期的な試みがなされ、工夫された図画・図表を用い、一目でわかるような教材 「-博物掛図-」 が作られた 注6。明治6年から11年にかけて10枚の掛図が文部省から発行され、民間からも多数の「博物図教授法」が出版された。
文部省発行・響泉堂刻による、田中芳男選・久保弘道校・加藤竹斎画※「動物第二:鳥類一覧 (明治8年9月) 」及び、田中芳男選・久保弘道校・服部雪斎画※「動物第三:爬虫魚類一覧 (明治9年1月) 」とういう、掛図を2分の1弱の大きさに縮図した銅版の印刷物の存在が判明した 注7。どのような使用目的で縮刷版が作成されたか、詳細は不明である。
「田中芳男」は、明治元年9月、小松帯刀・後藤象二郎らの建言により、開成所内の理科学校を「大阪舎密局 ※」に移し、その御用掛を命じられた大坂での任務中 注8、多数の大坂の人士と交わった。
「田中芳男」は、鉱物や温泉にも多大な興味を示し、森琴石が生まれた兵庫県の「有馬温泉」に関する書物を編著している。森琴石実父「梶木源次郎(源治郎)」が、有馬での数々の業績を称えた「顕彰石碑碑文」の撰文者でもある。森琴石や周辺の人物と所縁の深い「佐野常民」や「花房義質」とは親友の間柄であった 注9。
「田中芳男」の弟「田中義廉」は、教育者として多数の教科書などの著編纂や校閲をした。明治12年に刊行された、安田敬斎著・田中義廉閲・響泉堂刻の、銅版小型本「記事論説文例」は、広く世間に受け入れられ、明治期の作文書としてひとつのスタイルを築き上げた。以後同じ形式の模倣版が大量に出回ったという。「田中義廉」が関わった書物は、大阪で出版されたものが多い。注10。
森琴石は、国内の陶器生産地で絵付け指導などをしており、殖産興業の一端を担っていた 注11。「陶器製造所」が描かれた森琴石の下絵が残る。森琴石周辺には陶器に関係した人物の存在が見られる 注12。
長野県下伊那郡智里村の、国学者「熊谷直一」氏は、明治45年5月17日、、前年に依頼していた「神坂越保存会」への寄付画を引き取りに、森琴石の自宅を訪問している 注13。「熊谷直一」は、冨岡鉄斎とも交流がある。
「記事論説文例」
*学校作文の参考書として編纂されたもの(作文文例集、作文指南書)。 *著者:安田敬斎/校閲:田中義廉/文栄堂(前川善兵衛)/明治12年 *明治の普通文を主体にし、尺牘系の文例と、文範系の文例の両方を一括りにしていることに特徴がある→国文学研究資料館報第56号(平成13年3月刊行):齋藤希史氏「新しい器」をご覧ください。
★「記事論説文例」については、「第27回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)」受賞本『漢文脈の近代--清末=明治の文学圏※』(齋藤希史著/名古屋大学出版会)で、取上げられています。→ 「論文など:平成17年11月、平成17年2月」の項目に記述
「再刻 記事論説文例 壹」 (明治13年9月 再版)より
(右頁)=表紙裏 見返し 東京 田中義廉閲 大阪 安田敬斎著 叢僕 前川書屋 (17,2cmx11.8cm)
(左頁)=扉(上に薄紙がかぶされている) 上: 生前修末技身後傳浮名 真中:安田敬斎の肖像画 右: 明治巳卯春四月 左: 安田敬齋題像後 下: 花の図柄の下方中ほどに「響泉堂刻」とあり
★常滑(とこなめ)&瞿応紹(ク オウショウ)=瞿子冶(ク シヤ)=「平成14年11月」 ★布志名(ふじな)=「平成14年11月」・「平成15年10月」・「平成18年4月【2】注5」★砥部(とべ)=「平成16年11月、同12月」・「平成17年3月」・関連資料「砥部焼きと森琴石」 ★美濃(みの)=「平成14年9月」・「平成15年7月、同8月」・「平成16年12月 注1」・関連資料「砥部焼きと森琴石」
★清風与平=「平成15年7月」・「平成18年6月【1】注1◆」 ★門人紹介-兵庫県:「田川春荘」=温故焼→関連資料:【田川春荘画の「孔子像」と地域社会】 ★藤田台厳=略伝「成富椿屋」◆中ほどに「藤田苔厳」記述。係累「久米邦武」は、有田焼きの振興に大変尽力していた。 ★森琴石の交流者「久保田米遷(略伝)」は、明治39年「納富介次郎」が私費を投じて設立した「図案調製所」のメンバー。納富介次郎=森琴石係累「武富圯南」の門下「柴田花守」の次男。 ★門下「近藤翠石」は、泉州「水間焼」作家との関係がある(未記述)。
森琴石日記より
明治四十五年五月十七日 晴 ○早朝、長野県下伊那郡智里村・熊谷直一罷越シ、神坂越保存会寄附画、 昨年依頼之分揮毫依頼、態々罷越ス※ ※=わざわざお越し下さったという意
★「熊谷直一」などについては、後月「解説・寄稿」にてご紹介の予定です
森琴石は信州方面への足跡を多く残しており、森琴石著・響泉堂刻の掛図形式の地図「新刻大日本国図 附朝鮮(明治10年)」には、三府(東京・京都・大阪)の他に、長野市の地図が描かれている 注1。
長野県上田市にある、上田市立図書館・特殊コレクション「花月文庫」には、森琴石著出版などによる「南画独学揮毫自在」・「題画詩集」が所蔵されている ※。花月文庫は、上田出身の銀行家「-第十九銀行の最後の頭取-」として活躍した「飯島保作」が収集した一万点にものぼる図書のコレクションである。「飯島保作」は、「飯島花月」の名で江戸庶民文学の愛好家として知られた文化人でもある。
森琴石が精密に写した「鳥類・虫類・植物」の下絵や画稿と思われるものが遺されている 注2。
森琴石の周辺には「岡 不崩」や「前田吉彦」、「牧野富太郎」を支援した「池長 猛 」、門下には「珍花図譜」を著した「山名友石」など、植物や昆虫類の博物図に長けた人物の存在がある 注3。森琴石は、明治28年11月上旬、東京で「船津伝次平 注4。」を訪問し、船津氏所蔵の「高士図」を写している。
「新刻大日本国図 附朝鮮」 (全体=65cmx58.5cm 地図部分=46cmx51cm)
奥附
明治十年三月十五日翻刻御届 三月二十五日出版 原図 森 琴 石 著 出版人 長野書物師 西澤喜太郎 江嶋伊三郎 (・・住所は省略・・)
☆当HP記述箇所=「平成16年 3月■3番目 注3」
「南画独学揮毫自在」=「平成18年12月」 など 「題画詩集」=「平成18年11月」 など
*上記書誌,当HPでの記述=画面上部にある「グーグル検索、森琴石.com」 から調べる事が出来ます。
森琴石「鳥類など写生帖」 より ( 27.5cmx39cm 枚数多数あり)