平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します
■ | 5月末、「蒋 海波 しょう かいは 」氏及び、「堀 浩雄 ほり ひろお」氏のご案内で、神戸市中央区にある「追谷墓地 おいたにぼち」へ、「胡鉄梅 こてつばい」の墓参に行き、中国式のお参りをする。墓碑の表書は「北方心泉 きたがた しんせん」が書いている 注1 。隣には「胡鉄梅」がその死を悼み泪して碑文を書いた、妻「生駒 悦 いこま えつ」 の墓碑 注2 が寄り添うようにたたずむ。近隣には堀浩雄氏の祖父であり、「胡鉄梅」とも交流のあった、神戸の漢学者「堀春潭 ほりしゅんたん 注3」の墓碑もある。墓参の後、「華僑歴史博物館 注4」を見学。「藍璞 らん ぼく」館長より、「落地生根 らくち せいこん」という 注5」という言葉にもある華僑 注6 の生き方や歴史、それらにまつわる人物・交流者・出来事などのご説明を受ける。同館には「胡鉄梅」の画も展示されている 注7。当HP6月度に記述のある「犬養毅」は、「孫文 そんぶん 注8」らの革命を支援し、華僑の子弟の教育機関「神戸華僑同文学校 注9」の名誉校長を務め 注10、「堀 春潭(堀 百千 ほり ももち)」は、同学校の教師や校長職を務めていた 注11。「胡鉄梅」は晩年を、同学校や博物館に近い「花隈 はなくま」で過ごし、明治32年8月、4ヶ月前に亡くなった妻の後を追うように歿した 注12。 |
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■ | 「胡鉄梅」の墓碑の表書きをした「北方心泉 a 」は、明治漢詩壇において広いネットワークを持つ漢詩人「木蘇岐山 きそきざん b」とも交遊があった 注13。 木蘇岐山の弟子で、金沢生まれの「石野 香南 c」は、「青山観水 あおやま かんすい d」・「垣内雲りん かいとう うんりん e」に画を学び、のち「木蘇岐山」が大阪に拠点を移すのに伴い、画は「森琴石」に学んだ。 |
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■ | 森琴石は神戸の漢学者「水越耕南 注1」や「橋本海関 注2」とも交流があり、神戸でドイツ語を学び、のち明治期翻訳者の魁となった「井上 勤」の「九十七時20分間 月世界旅行」の挿画を担当した 注3。胡鉄梅から森琴石への書簡には、貿易商「同孚泰 どうふたい 注3」の名が滞在先として出ている。森琴石は神戸清国領事とも親しかった。明治時代、御影(みかげ)のK酒造は 注4、森家とは身内だった。明治8、9年の「受注控え帖」には、「マッチ 兵庫川崎町 廣栄社 若林与助様」のメモにあるように、森琴石が銅版画で手がけたと思われる「マッチのラベル」は、現在知られているものより早い可能性がある。「神戸市立博物館」の建設の理由となり、「池長コレクション 注5」の名で知られ、「牧野富太郎」に金銭的援助をした 注6「池長孟 いけなが はじめ」は、森琴石の銅版画作品も多数収集した。森琴石と神戸との関わりは深いが、未解明である。神戸港を見下ろす「洒落た洋館のある風景」が、森琴石の画稿に残る。 |
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