森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成17年(3月)

森琴石と親交のあった「胡 鉄梅 こ てつばい」の、明治18年12月島根県松江での足跡と思われる「書画合作」が、鳥取県の「渡辺 美術館(財)注1」に所蔵されている。「胡鉄梅」「田能村直入」「日下 部鳴鶴」「池田雲樵」「渡辺小華」「川村雨谷」「藤堂凌雲」など、10家が揮毫している。胡鉄梅は同じく明治18年12月、愛媛県の砥部でも砥部焼き「愛山窯」で画を描き、茶器や花瓶に染付けをしている  注2

同渡辺美術館には、明治44年6月頃の「池田桂仙」「田村宗立」「河村虹外」「秦金石」「森琴石」「小山雲泉」「山本梅荘」「鎌田梅石(森琴石門弟)」「永松春洋」「大江良起」「加藤英舟」など、35家による、さまざまな鳥を描いた「鳥合作画」が所蔵されている。京都を基盤に活動した画家が多いようだ。「石橋雲来 注3」が賛を書いている。

 
注1
財団法人 渡辺美術館=鳥取市医療法人 明和会 渡辺病院前理事長の渡辺元氏が、医務の傍ら、昭和初期から60余年にわたる歳月とエネルギーをかけ、国内外の古美術品を収集した。その数は3万点に及ぶという。それらを展示する為に昭和53年、病院附属美術館として開館し一般公開、昭和62年「財団法人渡辺美術館」を創立。すべ ての美術品を財団に移管。
  渡辺美術館には、胡鉄梅による書や、森琴石とも親交のあった「張子詳 ちょう ししょう」の画を含め、未発表の作品が多数所蔵されている。平成14年6月、喜多川歌麿(1758ごろ~1808)の、フランスのパリ「ギメ美術館」に収蔵されている「蹴鞠(けまりの図」の、浮世絵の元版の版木が確認された。
  歌麿の版木が確認されたのは世界で3例目であった。 歌麿の版木の確認は世界で4枚目。愛媛県肱川町の歌麿館に3枚組作品の2枚と、米国のボストン美術館に1枚あるだけだった。(2002年6月15日付、朝日新聞・日本海新聞より)
   
画家抜粋概略紹介(=胡鉄梅との書画合作揮毫者 =鳥合作揮毫者)
   
日下部鳴鶴(くさかべ めいかく)
  書家。名は東作。東嶼・翠雨とも号。彦根の人。初め巻菱湖(まきりょうこ)・貫名海屋・_遂良(ちょすいりょう)ら、のち清の楊守敬の書法を学んだ。その書法は鳴鶴流といわれ、一世を風靡した
   
池田 雲樵(いけだ うんしょう)
  名は政敬、字は公維、別号半仙。勢州津藩士、京都に住む。中西耕石・前田暢堂に画を学ぶ、京都画学校の設立時、南宗教授を担当。著書に「雲樵画譜」、明治19年6月30日歿、年62、池田桂仙の父。
   
渡辺小崋(わたなべ しょうか)
  天保6-明治28(1835~87)。名は諧、字は紹卿。渡辺崋山の第2子。父に画を学ぶが、7歳の時父崋山が自刃。華山の弟子福田半香のすすめで、椿椿山に入門する。経史を大橋納庵。詩を関根痴堂に学ぶ。父崋山の鑑定も良くする。
   
川村雨谷(かわむら うこく)
  天保9年江戸で、幕臣川村幽対の子として生る。父の新潟奉行所詰に従い新潟で育つ。松尾柴山に画、杉浦南陽に漢籍、官老館に武術を学ぶ。慶応3年、長崎奉行支配定役として赴任。3年の任務の間、木下逸雲・鉄翁らに南画を学んだ。維新後刑部省に出仕、後司法官として大阪、仙台、東京、松江などに赴任した。田能村直入・田崎草雲らと交遊。篆刻や俳諧もよくした。明治39年12月、東京下谷徒士町で死去。
   
兼本春篁(かねもと しゅんこう)
  通称を俊興(としおき)という。安政2年7月18日出雲の国松江に生る。田能村直入に南画 を師受する。京都市川端通荒神橋北入ルに住む。大正15年旅先の大連で歿す。 詩文もよくした。横山耐雪著「出雲詩鈔 巻五」に詩一首。(「山陰の近代漢詩」入谷仙介,大原俊二著・平成16年11月・入谷仙介注釈より)
   
田村宗立(たむら そうりゅう)
  田村月樵。別に大狂、有安十萬明等の号。丹波の人、京都に住。僧大願、大雅堂清亮、米人ボールレン等に就き、北宋画を研究。明治13年京都画学校の北宋画教授となる。傍ら水彩画油画を描き、京都洋画の先駆者である。大正年歿。
   
河村虹外(かわむら こうがい)
  文久元年生。名は、祉、若狭小浜の人、重春塘の門下。南宋派の画家、京都に住む。
   
小山雲泉 (こやま うんせん)
  名は宗助、大阪の南画家、中田熊蜂の門人、明治44年歿、年57。
※「養翠園、あさも会」平成15年10月3日 「紀の国の画人たち」をご覧ください。
   
秦金石(はた きんせき)
  安政3年京都で生まれる。中西耕石の門に学ぶ。南画家、京都住。 
   
池田桂仙(いけだ けいせん)
  文久3~昭和6(1863~1931)
伊勢(現三重県)に南画家池田雲樵を父に生まれる。父に南画を学び、明治7年父と共に京都へ移る。13年に京都府画学校に入学し、かたわら谷鉄臣・江馬天江に詩文、西尾鹿峰に書を学ぶ。田辺竹邨・山田介堂と共に大正期京都南画壇の三元老と称された。
   
永松春洋(ながまつ しゅんよう)
  嘉永2年豊後国に生る。南画家。十市王洋、田能村直入の門下。大阪市住。
   
注2 最新情報:「平成16年12月」 をご覧ください。
最新情報:「平成16年11月」 第2項目目 をご覧ください。
   
注3    
  石橋雲来(いしばし うんらい)
  名は石橋教、増官とも云う。弘化3年(1846)4月生。兵庫県揖保郡竜野町、竜野藩石橋定 右衛門の次男。大阪市北区曽根崎中1丁目に住み、晩年は明石市の江井ヶ島に住んだ。漢詩 塾『雲来社』を主催。明治15年から40年までの、諸国漫遊・交流をしたためた「雲来詩鈔 十四集」、交流した多くの詩人の漢詩集「雲来吟交詩 三冊(183家・100編)」「友蘭詩 二十集(575家)」他、多数の詩集を編さんした。大正3年7月歿。

石橋雲来の実父は、竜野藩主脇坂氏とも言われている。[「中尾のすがた むかし  いま」(平成元年10月・明石市中尾地区区画整理組合発行)内、黒田義隆文「(4) 石橋雲来」]による。資料ご提供=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館)
   
揮毫者判読ご協力=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館)・槇村洋介氏(飯田市美術博物館)

京都市左京区の「泉屋博古館 せんおくはっこかん」には、森琴石の明治 36年作「四季山水画帖」が所蔵されている。題字は「日下部鳴鶴」 によるもの。

森琴石と日下部鳴鶴は、渡部美術館の「書画合作」で揮毫している。
→最新情報「平成14年 11月」をご覧ください。

森琴石門下生の一人「波多野華涯 はたの かがい注1 」は、「跡見花蹊 あとみ かけい」に画を学んだ後、瀧和亭、森琴石に画を学んだ。50歳半ばから岡山に移り住み画業に専念した。漢詩を良くし、朱印然などの清 国文人・石橋雲来とも交流が深かった。岡山県立美術館では、現在常 設特別陳列 「岡山ゆかりの女流南画家 波多野華涯展」が催されている。
 

注1   波多野華涯
   

波多野元子花涯ト號ス 大坂府東區唐物町四丁目住ス 波多野善四郎ノ女ニシテ文久三年五月十一日生ナリ 明治八年小學下等科ヲ卒業シ夫ヨリ進級學校集成校等ニ入リ同八年十一月東京跡見校ニ入リ同十三年卒業シ 十四年四月ヨリ畫ヲ森 琴石ニ讀畫ヲ河野通胤ニ學フ

「農商務省博覧會掛版 第二回内国絵画共進会 出品人畧譜」 (第三區大坂府第二番目に記載・明治17年5月・國文社印刷発売)



「波多野崋涯」が掲載されている漢詩集
1: 陳鴻誥(陳曼寿)編纂「日本同人詩選」(明治16年3月・土屋弘出版)
巻四に「波多野女史-號花涯 浪華人」で、詩一首。
  2: 石橋 教(雲来)著「雲来詩鈔」明治15年の「巻一」文中に登載。
  3: 石橋雲来著「月課詩鈔」(明治19年)、第一集に「花涯女史 秦野 元」で 詩三首
  「中尾のすがた むかし いま」(明石市中尾地区区画整理組合発行・平成元年)
  資料ご提供=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館)



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