藤澤家 三世代 藤澤東畡(ふじさわ とうがい)
●藤澤東畡は、大阪で「泊園書院」を創設、七絃琴の名手でもあった
●森琴石の儒学の師「妻鹿友樵」と藤澤家とは、代々にわたり親密な関係であった
●藤澤東畡の長男「藤澤南岳」、南岳長男「藤澤黄鵠」次男「藤澤黄坡」が「泊園書院」を継いだ
●高弟に「高木退蔵(号翠風)」=森琴石の儒学の師匠。坂本葵園(河野葵園)は愛弟子。「岸田吟香」も門下であった。
◆三善貞司著「大阪人物辞典」(清文堂出版・平成12年)より転載
藤澤東畡 ふじさわ とうがい
近世大阪の学問書「懐徳堂」「梅花社」と並ぶ「泊園書院」の創始者。名は甫、通
称昌蔵・別号泊園。寛政6年(1794)讃岐の安原に生まれた。利発さ人に倍し、六歳で大抵の漢字を読む。九歳で荻生狙来学者中山城山に師事、高松に開塾したのが十八歳である。 文政元年(1818)長崎に遊学、町年寄高島茂紀宅に寄宿して三年間中国語を勉強するが、この時教えた茂紀の三男が、後に砲術家として知られる高島秋帆である。
同年中山城山から大坂の春田横塘を紹介され、笛の名手横塘と自分の琴を合奏したい一心で大坂に出たのがきっかけで中船場町に落着き、「泊園書院」という塾を開いた。
「泊園」というのは清廉淡泊の士を意味する。生涯泊園に生きた私欲のない東畡は、塾の禁則を「淫遊・俚歌・挙杯・暴論」と定める。つまり怠け遊ぶ酒呑みや、はやり唄を歌い激論する書生気質をとがめたわけで、いかにも彼らしい。 当時の大坂は学問が盛んで、既に菅甘谷や菅沼東郭らが狙来学を論じており、さらに甘谷の門人たちは片山北海の「混沌社」に加わって活発に活動していた。
また大塩平八郎が「洗心洞」を起こして陽明学授けたのもこの頃だ。東畡の講学は学の正異より実生活本位
の修学に力を入れた。そこで「寛政異学の禁令」が出たあとも声誉高く、平野郷の「含翠堂」にも出講、豊岡藩主京極高行や、尼崎藩主松平忠栄らにも招かれるほどとなった。
しかし名声や物品には相変わらず淡泊で、嘉永五年(1852)には高松候が沢山の金帛を贈ったが全部人に分かち与え、自らは浪華の地を動こうとしなかった。
荻生学は狙来を重用した柳沢吉保が退隠してから力を失い、かつ狙来の放縦な性格や行動が他の学者たちに嫌われ、次第に色あせてゆくのだが、本質的には幕府体制を維持する保守的な政治論を含んでいる。
だが東畡は皇室崇拝の心が厚く、孟子の王道を批判して、「王者の放伐は断じて孔子の本旨ではない」と唱えた。後に息子の南岳が幕末に際し、藩論を逆転させ朝廷側につき、高松藩の危急を救ったのも、この父の影響であろう。 先述したように東畡は七絃琴の名手だった。鳥海雪堂に学び、妻鹿友樵と並称され、門人に十河節堂がいるくらいだ。また漢詩のほうでも混沌社にひけをとらず、「先春吟社」を設立し社友三十名と毎月10日には必ず会合を持ち、吟草に耽っている。八木巽処・廣瀬筑梁、菅井梅関、春田樟島、それに橋本香坡らもこのメンバーのひとりである。 元治元年(1864)京の二条城に入った将軍家茂は、高松藩主に東畡を引見したいと命じ、喜んだ藩主は藩の名誉だと多額の白金を与えた。その折家茂は幕府の儒員に召したが固辞したから、東畡の評価はますます高まる。この話はさまざまの尾鰭がつき、断固として謁見を断ったというものから、いな、自説を歪めて権力に媚びたなどと、誣(し)いる者もあった。
東畡は憮然としてこんな詩を草している。「闕里文章衆節遷/吾曹所守有師伝/如今豈為非誉動/一片丹心七十年」。同年(1864)12月、病を得て70歳で他界する。主著「泊園家言」「大学定本」等、南岳は「東畡先生文集」「東畡先生詩存」らを編んで父子を追悼した。
東畡の墓は齢延寺(天王寺区生玉町)の藤沢一族墓地にある「東畡藤沢先生之墓」。門人中谷輝の顕彰文がついているが、その末尾に右記(注 ここでは上記)の詩が刻まれる。 泊園書院は南岳が再興、明治年間大阪の漢学の拠点となり、大正九年(1920)南岳没後は長男
黄鵠、次男黄坡が学統を継ぎ、昭和二四年(1949)黄坡の死でピリオドを打った。黄坡の子供で作家藤沢恒夫は、泊園書院の貴重な蔵書を関西大学に寄贈、「泊園文庫」として今に伝えられる。他に中央区淡路町一丁目に「泊園書院跡」碑が建っている。 ◆泊園書院については、関西大学「東西学術研究所」をご参照ください。
-----------------------------------藤澤南岳(ふじさわ なんがく)
●藤澤東畡の長男・「泊園書院」を継承する
●森琴石より一歳年長(琴石と生没年が1年ずれる)
●森琴石が儒学の師「妻鹿友樵」を除いては、大阪で最も深く関わった人物
●三善貞司著「大阪人物辞典」(清文堂出版・平成12年)より転載
藤澤南岳肖像写真
「古希記念 南岳藤澤夫子肖像」(獨立軒 若林謹写) 明治44年
☆画像ご提供者=大村紘一氏(東京都・大村楊城ひ孫)
藤沢南岳 ふじさわ なんがく
泊園書院二代目院主。藤澤東畡以上に傑出した野人学者である。
天保一三年(1842)讃岐国引田村の生まれ。東畡四九歳の長子。名は恒、南岳・酔狂・九々山人などと号している。幼い頃から父や愛弟子中谷南明に厳しい薫陶を受け、家学を継いだが新古に偏せず、諸学も積極的に吸収して独自の狙来学を樹立した。
また父の影響もあって尊皇の志篤く、気節を尚び廉恥を重んじた。父の代わりに高松候に仕え、藩校講道館の督学を務め、東畡没し泊園書院が中断した時も藩に残り続けるが、戊辰戦争が起こるや藩論は真っ二つに割れた。 藩主は幕府方につき、家老小夫兵庫・小河又右衛門に藩士を引率させて伏見へ出陣を命じるが惨敗し、高松藩は朝敵となって官軍の攻撃を待つばかりとなる。恒は心痛し官軍の参謀大山格之助に会い、藩論の割れた事情を説明して必ず官軍側に就くから猶予してほしいと懇願、藩に戻って大義を説いた。この時の評議は語り草になるほど激烈で三昼夜続行、裏切者、卑劣漢と罵倒され、命を狙われながらもなぜ明治維新が必要かを熱意込めて説き、ついに藩論を一変させる。 かくて兵庫・又右衛門の両名は切腹、筆頭家老芦沢伊織を正使に恒を副使に、両名の首級を持参して官軍に投じ、陳謝してついに藩と藩侯を救う。
藩侯は恒の大功を賞し、「南岳」の号を与え藩政への参加を乞うた。けれどもこの事件は、深く彼の心を傷つける。切腹した兵庫・又右衛門は主命に従っただけである。主君に忠義を励むことがどれほど自分を束縛し他人を犠牲にするかを痛感する。「自由に学問の世界に遊ぶには、野に下るのが一番だ」。
こう考えた南岳は廃藩置県後、「香川県大属」(今の知事)に命じられたのを断り、愛着ある故郷を離れ大阪に出る。
そして明治六年(1873)暫く途絶えていた父東畡の「泊園書院」を、中央区本町一丁目に再興、同院は移動したあと同九年淡路町一丁目に定着し、本格的な学問教育に取り組む。以後生涯野にあって育英教育に精励、門下数千人、朝野に名を成せし者数百人といわれる成果
を挙げ、時に近畿を巡遊して講演、学名四海に聞こえた。 南岳の著作は、「論語彙編」「大学家説」「日本通史」「文章九彩
」ら二十冊もあるが、「藤沢先生講談叢録」にその教論の大要を知り得よう。
「道の基本を成すに、厚生・利用・三徳の三義がある」「聖人の説く道を心の規範とし、天地と人が交互に関りあって進展せねばならぬ
」。常にこう述べた彼は、科学が日進月歩する近代社会もよく把握した上で、人倫の究極を目標とする人間存在の体系化をめざした。
また政治運営と教育成果は当然合致せねばならぬと教えたから、門下から政治に参画する人々も輩出している。その意味で、狙来学を現代的に解釈し直して保持した最後の学者といえる。
謹厳で知られるが詩賦にも長じ、こんな漢詩もある。「新年偶成/歳植庚申探易源/便従月窟認天根/応作三猿以外猿」。 大正九年(1920)一月七十八歳没。遺児黄鵠・黄坡も有名な学者。墓は齢延寺(天王寺区生玉
町)にある。
-----------------------------------藤沢黄鵠 (ふじさわ こうこく)
儒学者。明治七年(1874)大阪唐物町生まれ。
名は元、字は士亭。通称元造、別号笑狂・霜辛雪苦斎。
藤沢南岳の長男。幼少から父に家学を授かり、東京に出て小山春山らに経学と詩文を学んだ。霜辛雪苦斎の号は、遊学中に息子を案じた父親から激励の詩を贈られるが、その中に「微雪淡月弥天思/孤雁寒鴎隔地情/休訴霜辛与雪苦/春風祇自比中生」とある詩句からつけている。
同三一年中国に留学、一旦帰国するが同三四年再び渡り名士と交流して大いに得るところがあった。同三六年家督を継ぎ泊園書院で子弟に教授、同四一年衆議院議員となるも、桂内閣の外交政策を論難して物議をかもし辞職した。 以後は教育一筋、府立高等医学校教授の任も兼ねる。漢詩の才能は父に優るともいわれる。「伯願折梅国図/旗色鮮明無曲私/将軍清節世倶推/笑他意招奇禍/輪与江南梅一枝」「移竹/数竿湘竹緑猗猗 好向 向空庭手自移 擬為此君分半座 箇心惟有月娥知」。国定教科書に出る南北朝正閏論で斬新な学説を展開、大いに世論を沸かせたことがある。 大正一三年(1924)九月五〇歳没。 尚弟の黄坡も日本漢文学史に足跡を残した学者。関西大学教授。同大学初の名誉教授。彼の学問は義弟の石浜純太郎※が継承する。昭和二三年(1948)四月没。兄弟の墓は藤沢一族の墓所齢延寺(天王寺区)にある。 ※石浜純太郎=関西大学→関西大学年史編纂室→関西大学を築いた人びと:石浜純太郎」
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藤澤黄坡 (藤沢黄坡・ふじさわ こうは)
●森琴石と藤澤家との関係について、藤沢黄坡が「森琴石翁遺墨帖 乾坤」の序文で触れている。
森琴石紹介-藤沢黄坡文章-をご覧ください
● 「浪華摘英」(大正四年八月・浪華摘英編纂事務所・三島聰惠発行)より転載
藤澤黄坡 ふじさわ こうは
藤澤黄坡先生
先生名は章次郎字士明、黄坡と號し其書室を三惜書屋と名く明治九年三月七日生る藤澤南岳の
次男なり
初め大阪府立中學、関谷黌、家塾等に學び明治廾八年三月東都に遊學す
同年五月高等 師範學校に國語漢文専修科を設けられしかば應試入學し翌年十二月卒業せり
卅年十二月志願兵 として歩兵第八聯隊に入り卅二年四月埼玉懸師範學校教諭、卅三年二月陸軍歩兵少尉に任じ正
八位に叙せらる
翌々年天王寺中學校教諭となり又大阪陸軍地方幼年學校教授を嘱託せらる
日露 戦役に従軍して沙河會戰に参加し從軍中中尉に進み從七位に叙せらる戰後功五級金鵄勲章及び
勲六等單光旭日章を賜ふ
四十年四月岸和田中學教諭となり在職滿四十年にして辞し四十四年六
月一日泊園分院を竹屋町に設けて諸生を教授し以て今日に至る
彼の沙河會戰の第三日目即ち十 月十二日行動中、下腹部に衝撃を感ず怪み探れば銃丸飛來りて袴嚢中に在る征露丸の罐を貫き
て留れり
征露丸とは防疫劑の名なり
先生立に朗吟して曰く「始立陣頭始受彈。守身袴中征露眞 良藥。救疫救我救清韓。」と蓋し陣中の一佳話なり
妻かつとの間に長男恒夫長女淑子二女惠子次 男 斐夫の四児を有せしに大正四年七月下旬長女淑子逝く悼むべし
弟鱗之助三崎氏を冒して現に 大津衛戌病院長たり。(南区竹屋町泊園分院内)
◆藤沢黄坡=関西大学を築いた人びと:藤沢章次郎もご覧ください
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