森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成20年(3月)

 
今月の話題
【1】 森琴石と吉岡平助
吉岡平助と広島県庄原・庄原の有名人
【2】 森琴石と広島県

【1】

森琴石は、30歳代末から40歳過ぎまでの、約15年間ほどの壮年期、「響泉堂」という銅版工房名で多数の銅版書誌の出版に携わってきた。地図や絵図、教科書、翻訳物、辞書類から、道中ものや往来物に至るまで、森家がこれまで確認した数は、実に150点以上に及ぶ。そのうち森琴石が著したものは、70点に近い。「K氏コレクション 注1」での<響泉堂刻作品>を合わせると、それ以上の数量となる。その間、多くの出版人と関わってきたが、諸国の販売人(売捌人)を合わせると更に人数は増す。

大阪では、関連資料「大阪の書林 (一)浪華の魁より」に名が出る、「吉岡平助・中川勘助・森本太助・柳原喜兵衛・岡田茂兵衛・前川善兵衛」らとは、全て関係した。これらの書籍業者は<心斎橋>に集中していた。その中でもとりわけ「吉岡平助」による出版が最も多く 注3、森琴石の代表する三大著書「墨香画譜」・「題画詩集」・「南画独学」は、全て「吉岡平助」の出版による。「平成18年11月【1】」でご紹介した「題画詩集」は、「東京日日新聞」の広告に出された。広告主は「吉岡平助」である。
「吉岡平助」は、「寶文館(宝文館)」主人として、大坂のみならず、神戸にも支店を持ち、東京まで進出し、関西圏での書籍業の第一人者となる 注4。しかし出版業績以外の詳細は不明である。

「吉岡平助」の出生地は不明であるが、若年時「備後国三上郡庄原の渡辺家」で奉公していたという。「庄原」は、広島県北部の山間に位置する。

「庄原」は、中国山地の僻地ではあるが、<石見・出雲・伯耆・府中・上下・吉舎>方面からの<市場の交流>があり、他地方からの文化的な刺激を受け、特色ある郷土文化や学問的遺産を結実させた。そこには「庄原」での<文化や学問>に多大な影響を与えていた、医家の<渡辺家>の存在があり、<渡辺家>や門下からは、地域文化に多大な貢献をした人物を排出した。

「吉岡平助」は、その<渡辺家>の奉公人であった。同じく<渡辺家>には、庄原での英語教育の牽引となった<森修一>がいた。いずれも第10代目<渡辺玄丹>に仕えた。

「渡辺家」は、代々医家の家系であるが、傍ら風流を好み、漢詩・経学・和歌・俳諧などに通じた。頼家一族(頼春水・山陽・春風・杏坪など)との交流があり、父「渡辺貢郷」は「菅茶山」に師事していた。

天保14年3月(森琴石と同年)に生れた「渡辺玄丹 注5」は、万延元年(1860)、大阪の「適塾」に入門し、「山口寛斎」・「緒方洪庵」に従い蘭学を学んだ。当時、7年先輩には「福澤諭吉」がいた。
入門8ヵ月後の、文久2年8月「緒方洪庵」は江戸に出府した為、洪庵直々の指導は僅かだったようだ。

その後、「渡辺玄丹」は、当時の塾頭「松本順」に従い、東京府泉橋種痘館にあったという。

「適塾」入門8年後、明治3年(1870)6月、故郷の庄原に戻り、蘭方医を開業した。明治5年から学務委員を勤め、地方教育の充実に尽力し、明治17年に「庄原英学校」を有志らと開設し、備北の僻地に近代教育を導入した。

「渡辺玄丹」には「渡辺義一」という、後「渡辺玄丹」の養子となった<甥>がいた。「渡辺義一」は、前身が大阪舎密局(せいみきょく 注6)である「大阪中学校」で洋学を修得し、地元庄原で英語を教えた。

「森修一」は、「渡辺義一」に英語を学んだ後 注7、「庄原英学校」で更に英語力を養った。その英学修業を元手に 『ニューナショナル・リーダー独案内』 各冊を著し、後年は通訳官として活躍した。「森修一」は英学史研究には欠かせない人物とされる。

『ナショナル・リーダー独案内』は、アメリカ、バーンズ社刊の『ニュー・ナショナル・リーダーズ』を翻訳したものである。『ニュー・ナショナル・リーダーズ』は、明治時代、日本で最も広く用いられたと言われる英語の教科書である。出版人は「森修一」と共に<渡辺家>に仕えた「吉岡平助」である。同著は<森修一>や<吉岡平助>以外にも、多くの関係者が翻刻や出版をしている 注8

「庄原英学校」は、明治17年、庄原有志の「渡辺玄丹・田部百谷・伊藤薫三」らが発起人となり、画期的な先見性をもって設立された。実に、広島北部の”日彰館・三次中学校”より先駆けて創られたのである。初代校長には慶応義塾から「楠本武俊」、次いで「金塚仙四郎」を招くなど、「慶応義塾の地方分校」の様相を呈していた。

授業は、英学・数学・漢学を講じ、地理,歴史,経済,地質学,天文学なども英書を用いて教えていた。庄原では<瀬戸内海伝道の父>といわれた「J. W. ランバス」宣教師が、当時庄原の町でバイブルを講解したという。「J. W. ランバス」は「広島女学院」の創立にも寄与した。

「庄原英学校」は、明治25年(1892)<中学校令>の影響を受けて、わずか 7 年間で廃校となった。

「森修一」と関係あるとされる<森書店>は、庄原でを開業した。「三次市史」には、明治15年に庄原で森書店が営まれていた事を示す記述がある。明治 31 年(1898)「広島県立三次中学校」の開校に伴い<三次町>に移転し、甥の手により「森盛文堂書店」として後を継いだ。いずれも、地域の教育・文化の貢献者である。

「森琴石」と「吉岡平助」とは、どのような<古い縁>があったかは不明であるが、上記に名が出る「頼家」は、森琴石とも関係があり、「菅茶山」は、「平成19年7月【1】」で記述しましたが、森琴石の大師匠に当たる「廣瀬旭荘」と縁が深く、また「廣瀬旭荘」と「緒方洪庵」とは、親友関係にあった。

「森琴石」の資料類からは、「渡辺姓」が頻繁に出るが、いずれも下方の名前の記述が無い事から、氏名の特定が出来ていない。

当HPでは、「平成18年9月【2】■」で記述の、「柴原宗助」・「窪田次郎」・「武藤吉次郎」らが、「適塾 緒方洪庵」や「福澤諭吉」と関係し、地域医療や出版業に携わり、自友民権運動や、キリスト教の伝道に関わったりした 注8。響泉堂刻書誌の奥附には、売捌書肆として、岡山県の書肆「森禎蔵(森博聞堂)」・「森源十郎」などに見られるように、しばしば「森姓」が出てくる。目下、これらの全体的な関係は掴めていない。

 
 

上記文章中「庄原英学校」「森修一」「渡辺義一」に関する記述の出典は、寺田芳徳氏『日本英学発達史の基礎研究(上巻)』(渓水社・1999) によります。
馬本勉氏にも多大なご協力を頂きました。

★馬本勉氏=県立広島大学生命環境学部(共通教育)准教授
馬本 勉のホームページ ・ブログ英学史日記 ・森修一について を公開されておられます

の文章中「渡辺玄丹」・「渡辺家」に関する記述は、下記資料に基いています。

★「適塾に学んだ広島県北部の医人たち  -特に渡辺玄丹を中心として-」 より
江川義雄(文)=「廣島醫學」 Vol 46・No1(136頁~140頁)/広島医学会発行/1993,5,23
資料ご提供者=武田祐三氏〈庄原氏田園文化センター所長・平成19年10月にご提供頂きました)
注1
 

K氏コレクション― 当HPでのご紹介箇所

展覧会情報:平成19年 5/14~5/26
匐蝠書牢収監K氏蒐囚品展(ふくふくしょろうしゅうかん K氏しゅしゅう品展)  など

K氏コレクションとは=K氏が長年に亘り蒐集した、刷り物(木版・石版・銅版など)・古書(希観本)類など。響泉堂刻作品はその中の一部です。今後出版予定の「森琴石画集」では、K氏蒐集の<響泉堂刻書誌・作品>が大部分を占めます。商品広告用の ラベル・引き札など、これまで知られていない珍しいものが含まれています。
 
注2
  <心斎橋>や<吉岡平助>については、
大阪日日新聞連載 『森琴石と歩くおおさかの町 -心斎橋-』に 少し記述があります。
 
注3
  吉岡平助が出版した”森琴石著書及び響泉堂書誌”は、「雅友・知友:吉岡平助(三)」をご覧ください。
 
注4
 
吉岡平助略伝=「日本 現今人名辞典 第三版」(著作兼発行:日本現今人名辞典発行所・明治36年12月・約800頁)による
※同著書は、明治33年に初版され、翌年に第2版、明治36年に第3版が刊行された。明治時代に活躍した人物の事蹟を知るために著されたもの。伝記蒐集の困難は予想を遥かに超えたと、凡例に書かれている。また<他日必ず明治の史料として欠くべからずものとならん・・・・>と、井上哲次郎が識をしたためている。同辞典を編集するに当り、人物を推薦斡旋する篤志家名が網羅され、次には第三版の為に特に揮毫を寄せた43名の書画家の名前が記述されている。因みに森琴石は、765頁に、望月玉泉と共に山水画が掲載されている。下記に人名を、画像でご紹介します。
「日本 現今人名辞典 第三版」 凡例 より人物推薦斡旋篤志家名 & 揮毫書画家名
人物推薦斡旋篤志家名 & 揮毫書画家名

日本 現今人名辞典 第三版

★森琴石は、左下、最後から2番目に名前があります。

 
注5
 
「渡辺玄丹(1843~1916)」・父「渡辺貢郷」 補足
●天保14年(1843)3月13日、備後国三上郡庄原村で出生。幼名を虎次郎、長ずるに及び礼三と云った。医者となって玄丹と称した。適適塾姓名録には吉備庄原渡辺易安の倅礼三として文久2年正月(1862)入門と記録されている。
●父渡辺貢郷(安永5年1776~文政』9年1826)は、渡辺丹斎の次男で、諱は徹、字は九一、通称貢郷、号は桂園という。若くして上京し、後籐の門下となり、また巌垣・龍渓の禅師について経学を学んだ。父や兄の相次ぐ死去により帰郷し、家業を継いだ。医業の傍ら神辺の菅茶山に師事した。茶山により家の号を「碧梧亭」と命名されるほど親しかった。茶山の廉塾に頼山陽が塾頭であった事から、頼一族との交流があった。

―「適塾に学んだ広島県北部の医人たち  ‐特に渡辺玄丹を中心として‐」 ―より  
 
注6
 
「大阪中学校」の変遷
舎密局⇒名称変更し<理学所>⇒大阪開成所(大阪洋学校と合併)⇒名称変更し<第四大学区第一番中学→開明学校→大阪外国語学校→大阪英語学校→大阪専門学校>⇒大阪中学校(明治13年)⇒大学分校(明治18年)⇒第三高等中学校(19年)⇒京都に移転(明治22年)⇒京都大学   舎密局記述=平成19年1月【1】注7※末尾 など
上記は、大阪日日新聞連載<森琴石と歩くおおさかの町>  2002/09/19
八木滋氏(大阪歴史博物館) -大阪中学校 明治前期の舎密局が源流- に詳しく書かれています
 
注7
 
<森修一 と 渡辺義一>の 関係について
現在庄原市では、馬本勉氏をはじめとして、庄原英学校、森修一、渡邊儀一などについて、調査活動や検証に取り組まれておられます。
 
注8
 
「ナショナルリーダーズ」は、吉岡平助以外にも多くの出版人により翻刻されており、その「独案内」本は、<森修一&吉岡平助>以外のものも多数出版されている。
 
注9
 

当ホームページ記述ヶ所

頼家
頼山陽=「平成17年10月注11、13」・頼三樹三郎=「平成15年11月注4※頼三樹三郎・・・・」・頼支峰=「平成17年4月注7の下●頼山陽・頼支峰」 他
適塾
平成19年7月【1】」 他
慶応義塾
平成18年5月【4】◆末尾」・雅友・知友「武藤吉次郎」 他
福澤諭吉
平成16年9月■2番目」・「平成18年6月【1】■6番目」・「平成18年9月【2】■5番目」・索引「朝吹英二
自由民権運動
平成19年8月【2】注3 竹内峴南」・「平成19年6月【1】注4 古澤滋」・「平成18年7月【1】■5番目」 他
キリスト教伝道
平成18年7月■5番目」・「柴原宗助
 
【2】

手元に「厳島図 第一」という、横に長い刷り物が残されている。発行者は、広島市の「森光治郎」、印刷者は「沼田川浅治郎」 注1。森家にある刷り物と、<似たような図柄>が、WEBサイトで公開されており、それらは奥附に「嚴嶌背南之図 岷山崗煥」」と書かれている。森家のものは、「嚴嶌背南之図 岷山崗煥」の文字は無い。「版権所有」という大きな朱印が、印刷・出版の日付けの上に押されている 注2。森家のものが<試し摺りのものか、或いは販売されなかったものか、どうか?>等は、判断できない。 「岡 岷山」は、江戸中期の広島を代表する画家で、広島藩士であった頃、藩の絵師「勝田友渓(幽渓)」に学び、のち江戸で「宗紫石」に学び、南蘋派の画を会得したという異色の経歴を持つ。

森家古老によれば、森琴石の作品は、森琴石が育った大阪府以外では<広島県から一番作品が多く出るはず>だったそうである。それは、昔からの知己が<備後>に存在した以外に、三井銀行勤務の森琴石の長男「雄二」が、明治31年に、広島転勤となって以来、森琴石は「雄二」の元にしばしば行き、長期滞在をした。その間、広島地区で画活動を展開していたという。しかし、原爆投下という、歴史的悲劇により、広島市は壊滅し、その時期に所蔵されていた、森琴石の同地区での作品は全て無くなった。

明治28年には、岡澤陸軍中将の仲介で、広島大本営に ニ樣の画を献上した。しかしこれも原爆により作品は無い。

【1】で記述したが、森琴石は、竹原の頼家との関わりがあり、頼家に近い「竹原沖」の地図風スケッチが残されている。

「菅茶山」は備後<福山>が生んだ偉大な文人として著名である。。森琴石は「藤井松林・藤井蘇道・戸島楼雲」など、福山の画家や儒者との交流がみられる。 門下「後藤春岳」の郷里でもある
「平成19年1月【1】■5番目」に記述の、響泉堂刻「爬虫魚類一覧 動物第三」の画者の一人「服部雪斎」は、<福山藩の絵師>の可能性がある。

門下「手島呉東」は、賀茂郡仁方(現在は呉市)の出身である。

明治初期の「控帖」には、賀茂郡長浜の田中氏の名前が記されている。森家と遠縁に当る「舩田家」には、広島藩<浅野家の家老職を務めた>家系との婚姻があったと聞く。

 
 
注1、注2
 

● 森家「厳島図 第一」   縦 32.0 cm x 横 135.0 cm

明治26年3月30日印刷
明治26年4月14日出版

発行者=森光治郎
広島県広島市中島本町139番邸次新15番邸
印刷者=沼田川浅次郎
広島県広島市材木町67番邸

両氏の住所は、原爆投下の中心地で、<沼田川姓>は、原爆死亡者名に記録されています。


画像は3分割しました

厳島図 第一 拡大 厳島図 第一
厳島図 第一
厳島図 第一

★上記と似た版画が、下記WEBサイトから画像がご覧頂けます。

1:「厳島名所図」 =岡岷山 写    箱書:厳嶌背南之図
早稲田大学図書館(市島春城旧蔵)
画像=http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_01660/index.html
2:いにしえロマンの郷 はつかいち ― 厳島図絵図一覧表  NO17
「厳島図」 画像=http://www2u.biglobe.ne.jp/ ̄n-fuji/sub122bj1.htm
★神戸市立博物館には、
「厳島背南之図」<発行者:森光治郎、印刷者:沼田浅次郎、刊行年同じ> での所蔵があります。森家との比較確認は出来ていない。
 


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