森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成16年(8月)

「陳 捷 ちん しょう」 女史よりご連絡を頂く。陳氏は、明治前期における 日中学術の交流をテーマに、同時期における清国や日本の文人・要人と の筆談や書簡などから、精力的に研究に取り組まれ、その成果を、著書や学術論文として発表されている。森琴石が洋画法を学んだ「高橋由一  たかはし ゆいち  注1 」は、慶応3年、幕府の貿易視察使節団のメンバーとして上海に渡っている 注2。森琴石と清国とは、画譜を含む響泉堂刻の書籍類などでも関与があったようだ。森琴石は、銅版による牡丹などの花鳥画や中国風景 図を、海外向けに盛んに製作していたと伝えられている。

注1   高橋由一=関係人物紹介:高橋由一をご覧ください。
上海に渡った当時の名は「臺之助」といった。 
臺=イ+臺 (IT上には無い文字のため置き換えた)
 
注2   「明治前期日中学術交流の研究-清国駐日公使館の文化活動」(陳捷著・汲古書院・2002年2月)による
   
  陳捷氏=北京大学大学院より東京大学大学院に学び、1999年から日本女子大学講師、  助教授などを5年間。2004年4月より文部省・大学共同利用機関「国文学研究資料 館」資源系研究助教授として着任。著書に『明治前期日中学術交流の研究-清国駐日 公使館の文化活動』(汲古書院、2002年2月)。論文「岡田篁所の『滬呉日記』につ いて」(2001年3月)・「岡千仞と来日した中国知識人との交流について」(2002年3 月)・「増田岳陽と来日した中国知識人との交流について」(2004年3月)その他があ り、それら諸資料をご送付頂く。
 
岡田篁所(おかだ こうしょ)=文政3年長崎生。名は穆、恒庵と称す。17歳の時 大塩中斎弟子の宇津木静区に師事。弘化2年江戸に行き多紀元堅に入門、また野田笛 浦から漢学を学び、その後長崎に帰り医師となる。明治5年2月長崎の骨董商松浦永 寿に同行し上海に渡る。蘇州にも行き2ヵ月後帰る。宇津木静区の実弟は岡本黄石。 (陳捷氏論文より)

 
岡千仞(おか せんじん)=天保4年仙台生。号鹿門。嘉永5年昌平黌に入学。昌平黌 時代の親友松本奎堂・松林飯山と大阪で「双松岡塾」を開き、下記項目に記述の藤本 鉄石・吉村寅太郎らとも親交していた。(陳捷氏論文より)

   
  当HPでの清国に関する記述は、最新情報‐平成14年6月11月平成15年5月7月8月平成16年1月4月 や、関係人物紹介‐池田正信片桐楠斎、関連資料‐学海画夢翰墨因縁中野 雪江などをご参照下さい。


佐賀大学附属図書館「貴重書コレクション」の中、市場直次郎氏蒐集による「扇面 ギャラリー」には、琴石門弟「鎌田梅石 かまた ばいせき 注1」の扇 面「鶴図」が所蔵されている。また「紫水」作 「題 琴石 注2」という「琴石に 呈上する、琴の形をした石を詠む」という意味の漢詩が書かれた扇 面 が所蔵されている。作詩者「紫水」は未特定である。

注1   鎌田梅石=明治9年2月生。通 称新太郎、字は抱琴、梅石と号す。幼より画を好み、 森琴石に従い南画を学び、傍ら妻鹿友樵に詩文を学ぶ。後四国、九州などを遊歴し、 明治41年に朝鮮を漫遊。諸会へ出品して優勝数回。近藤翠石と並び門下を代表した。小琴石と称されたが、琴石より早世した(没年不詳)
 
注2   題「琴石」の漢詩内容は、詩、賛-扇面書誌「題 琴石」をご参照ください。
   
  扇面ギャラりーには、著名人はもとより琴石と親交した「胡公寿」の嘉永元年作や、胡公寿に師事 した「安田老山」、当HP関連資料「池田正信」にも名が出る「衣笠豪谷」「梶山九江」、上記陳捷 氏論文テーマ名でもある「岡田篁所」、また忍頂寺静村や忍頂寺聴松と交友があった「遠山雲如」の扇面 作品も所蔵されている。
   
  森琴石は「石癖 せきへき」といい、小さな奇石の収集を趣味とし、愛玩していた。一部現存する。
   
  同図書館には前月記載の「新鐫 大日本海陸図全 附朝鮮琉球全図」(明治10年8月)が所蔵されている。
   
  森琴石と佐賀との関係は、調査情報「平成13年1月」・家族、係累「入江穆遠」・「平成17年2月」などをご参照ください。


先月、先々月でもご紹介した「藤本鉄石先生薦場余録」に記述の 「藤本鉄石十七回忌追悼茶会」には、多数の「藤本鉄石」の遺墨の ほか、同士であった「中山忠光」・「吉村寅太郎」・「松本奎堂」・「伴 林光平」などの遺墨や遺書が展覧された。追悼茶筵への出席者に は、森琴石と親交した人物が多い。「西毅一」など岡山からの出席 者は、明治期の教育や文化、経済に貢献したようだ。

  「藤本鉄石先生薦場余録」冒頭の「祭考霊文」を関連資料に掲載しました。
 
  西毅一(にし きいち)=天保14年生。岡山藩家老池田隼人の家臣霜山徳右衛門の長男。字は 伯毅、幼名久之助、号薇山。父に従い大坂に出、篠崎訥堂・後藤松陰に学ぶ。帰郷して森田節斎 の門人西後村の学僕となる。後村の養嗣子となり西姓を称した。歿後は森田節斎の学僕となる。  明治3年上海に渡り英語を習得して帰朝。岡山県惨事・東京上等裁判所判事などを歴任。 明治12年再び清国に渡り文学研究に励んだが、まもなく病気にかかり帰国。閑谷学校 (しずたにがっこう)の校長や、同校の育英に尽力。士族授産のため「微力社」を設立 経営するなどもした。明治37年歿。 (平成6年山陽新聞社刊「岡山県歴史人物事典」より)




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