|
注1 |
|
- 東京都立中央図書館特別文庫室「渡辺刀水旧蔵書家書簡」
- [渡7898] 森琴石→吾妻健三郎<1通(17.0×43.5)畳物>による
↓
雅友・知友「吾妻健三郎(二)」をご覧ください。
★同書簡の情報ご提供者及び略読解=成澤勝嗣氏(小磯良平美術館学芸係長)より、平成11年6月にご提供頂いていました。 |
|
|
注2 |
|
「旧蔵諸家書簡文庫目録」の解説による |
|
|
注3 |
|
石津灌園(いしづ かんえん)=名賢勤・發・通称發三郎・号灌園・京都の儒者・師:萩原西疇・明治24年、49歳歿・・・・伝記は後月ご紹介します。 |
|
|
注4 |
|
ワグネル(Wagenner,Gottfried)
◇明治初期のわが国化学工芸会の指導者。1830年ドイツ ハノーバー市に生まれ、ゲッチンゲン大学で化学を専攻。明治3年36才の時肥前国主鍋島氏に招かれて来朝、有田陶器の改良に従う。
◇のち東京大学、東京工業学校などで教鞭をとり、傍ら<江戸川陶器製造所>で新樣陶器の焼成を指導して<旭焼>を生み出した。
◇又内外各国の展覧会、博覧会などにわが国の工芸品 特に窯芸品の出陣に力を尽くした。◇功によって明治11年勲四等旭日章が贈られた。同25年再び来朝し、同年9月東京神田駿河台の寓居で歿した。時に62才。
−「日本美術辞典」(野間清六・谷信一編/東京堂/昭和27年)より− |
|
|
注5 |
|
- 使用参考資料
- 『米沢市史資料 第12号 続米澤人国記 』(米沢市史編さん委員会編・昭和58年)
〜「吾妻健三郎」の項;執筆者 松野良寅氏〜
|
|
|
注6 |
|
―東洋絵画会・東洋絵画叢誌・絵画叢誌― 経緯と 森琴石関係略記
- 明治12年(1879)
- 日本最古の美術愛好団体 「龍池会 ※」 発足
※「龍池会」の発端は、佐野常民・河瀬秀治・山高信離らが、上野不忍池にある弁天社の境内に集まり、古書画の展示会を開催したことによる
- 明治15年10月(1882)
- 「第一回農商務省内国絵画共進会」開催 →森琴石は「月ヶ瀬真景図」で褒状受賞)
- 明治17年(1884)
- 「第二回絵画共進会」開催 →森琴石は二等褒状受賞=「美術五十年史」(鱒書房・S18年刊)による
- ◎明治17年(1884)10月
- 「東洋絵画叢誌 第一集」創刊 (東洋絵画会※事務所内叢誌部)
↓
16集=明治19年6月 まで
- ※東洋絵画会=龍池会からの呼びかけに応えて結成された。
☆明治17年(1884)秋、画家及び絵画奨励家十人余りが、不忍弁天社において数度にわたる論議の結果、野口勝一を中心とする東洋絵画会を結成。主任を野口勝一、総裁を北白川宮殿下、会頭を品川弥次郎とし、事務所を同社内におく。日本絵画の振興を計り、東洋絵画叢誌を発行。(☆=筑波大学日本美術シソーラスデータベース作成委員会編 による)
- 明治17年(1884)10月
- 大阪絵画品評会開催=提唱者:森琴石・魚住貫魚・十市王洋・水原梅屋
- ◎明治17(1884)年11月27日
- 「東洋絵画叢誌 第二集」発行 (東洋絵画会 叢誌部)
- ↑↓
- 「東洋絵画叢誌 第二集」には、「東洋絵画会」は特別会員71名、通常会員99名で構成されており、森琴石は特別会員として名が列せられている。
- 奥附
- 東京都下谷区茅町一丁目五番地 東洋絵画会事務所内
- 毎月一回発行/発兌所 叢誌部
- 持主 曽我 徳
- 編輯 半澤泰蔵
- 印刷 瀧川守郎
- 東京都下谷区徒士町一丁目 東洋絵画会印刷所 印書館
- 明治18年(1885)6月
- 「龍池会報告※」創刊
- ※「龍池会報告」=龍池会会務の報告を主に、会員論説なども掲載、一種の美術雑誌の性質をもつ。外国の美術学校制度や規則、美術協会の組織や規約などを紹介するなど、西洋美術の広範囲にわたり、進取の気象に富む議論を展開(筑波大学日本美術シソーラスデータベース作成委員会編 より)
- 明治19年(1886)4月
- 「東洋絵画共進会」開催 →「平成18年10月」に記述
- 明治20年(1887)
- 「龍池会」が拡大改組され、「日本美術協会」設立。東洋絵画会は、この日本美術協会に合流。
- 明治20年(1887)2月
- 「絵画叢誌 1巻」(絵画会叢誌部※)創刊
- ↓
- ★明治20年9月「絵画叢誌 3巻」に 森琴石画「果菜之図(第6図)」掲載
- ★明治21年9月「絵画叢誌 18巻」に 森琴石挿画「人物山水(第1図)掲載
- ◇ 明治23年9月1日「浪華学画会絵画共進会」(大阪府立博物場)
- ↑「平成18年10月 注4,5」に記述
- ◇明治29年11月 森琴石「全国絵画共進会 奨励委員嘱託」に任命
- (この年「大阪絵画共進会」開催される)
- ◇明治31年10月 「第5回日本絵画協会,第1回日本美術院連合絵画共進会」
- (於東京、谷中日本美術院)に 森琴石画「松林談禅」 2等褒状
- ↑「平成16年9月 注4」に記述
- ◇明治32年 森琴石「東洋美術奨励会」より 感謝状=森家蔵
- ◇ 明治33年 森琴石「東洋美術奨励会 審査評議員」&「東洋美術奨励会
- 第1回撰画展覧会 特別賞」=森家蔵
- ★明治40年1月 「絵画叢誌 237号」に 森琴石画「桟道騾網」写真掲載
- ★大正2年8月「絵画叢誌 314号」に 森琴石「新森琴石翁談」談話掲載
- ↓
- 第345号=大正6年3月 まで
★印=高瀬晴之氏(姫路市立美術館)より、平成14年にご提供頂きました。
- ◆「東洋絵画叢誌 第二集」について
- 小林昭夫氏(千葉県松戸市)作成の 『らんだむ書籍館 バックナンバー8 :「東洋絵画叢誌」 第二集 』=から引用させて頂きました。
|
|
|
注7 |
|
「絵画叢誌 第八十巻」附録
「七福神図」
↓珂北野口勝一并書 |
|
|
←
↑
↑
↑
↑
↑ |
(43.0cmx63.5cm)
明治26年11月7日 逓信省認可
発行兼印刷人:吾妻健三郎/編集人:菅原白龍
東京市神田區通新石町三番地
絵画叢誌発行所
|
|
|
注8 |
|
文展審査員拝命時の挨拶状
↑ 中ほどに破れあり
謹啓時下爽氣初めて生し
梧竹風戰くの候に相向かひ
候處益々御清適にて亘ら
せられ候段奉慶賀候偖今
回不肖文部省美術展覧會審
査委員に被任候に付ては
老躯以て其任に堪へざる
義と存じ御辭退可致かと
も存候得共飜て熟考仕候
には此際奮起以て古骨に
鞭つの時と決心致し御受
致し候處早速御鄭重なる
御祝詞を拝載致し誠に慙
愧に耐へざる次第に御座
候然る上は至誠一貫以て
大任を全うし諸賢の御祝
詞に酬ふ覺悟に御座候先
は蕪詞を以右御禮申上度
如新に御座候 敬具
大正二年 月 日
森 琴 石
殿
|
|
|
注9 |
|
森琴石日誌での美術関係記述(一例)
- 明治四十二年八月廿三日 晴
- ○午前、伊良湖*、昨日之件ニ而来ル、自分意見 *伊良湖晴洲=美術雑誌発行者
ヲ述、夫ヨリ平井直水※方ヘ同行罷越ス、伊良湖
荻尾并桃嶺*方ヘ罷越し咄合、自分意見之通相成、 *萩尾九皐 / 西川桃嶺か?
大阪絵画会委員会相開候様、相成旨、申来ル
※森琴石と平井直水は、師の深田直城ともども親交していた。
- 明治四十五年七月廿四日 曇
- ●永松春洋氏属、小切四枚山水図出来ニ付
小包郵便ヲ以相送ル、
○中森※来ル、
○東京やまと新聞大阪支社記者・大内松甫
来訪有之、当地絵画上之件、聞取ラル* *取材に来た
○東京帝国絵画新報主筆・吉岡班嶺来訪、
斯道*之現況聞合有之、 *このみち=絵画会
※中森=森琴石の画の斡旋を盛んにしていた人物、日誌には頻繁に名が出るが詳細不明 |
|
|
◆ |
- 当HPでの、東洋絵画会・絵画共進会の記述がある人物など(但し記述漏あり)
- 略伝:美術関係=池田雲樵・小田半溪・垣内雲りん・兼本春篁・久保田米僊・滝和亭・田能村直入・田結荘千里・十一王洋・永松春洋
門人;岐阜県 福田哲山・福田梅渓/兵庫:田川春荘/福井:岩田寿石/岡山:藤井琴谷
調査:「平成18年10月」
雅友・知友:村上我石
師匠・先輩:行徳玉江・桑田墨荘・塚村暘谷・堀井玩仙
関連資料「ポンペと中野雪江」、中野雪江の事歴の中、
「明治十五年第一回大阪絵画共進会、同十七年第二回東京絵画共進会に出品入選し、死亡前年の二十三年の大阪同会では、三等銅賞・・・」とあり。
-
↑
- 明治二十三年の・・・・=[浪華学画会絵画共進会]の事では?と思われる。→「平成18年10月 注6」の<小田半溪 「浪華学画会絵画共進会賞状」>をご参照下さい
|
|
|