森琴石の師匠や先輩・友人知人など、また琴石の周辺の人物を紹介します
項目内で使用度の多い資料について(各項目で、書名・資料名のみにする場合があります)
◆「浪華摘英」(浪華摘英編纂事務所・三島聰恵発行・大正4年8月)、「続浪華摘英」(発行兼編纂三島聴恵・大正5年12月)=大塚融氏(元NHK記者・数寄者研究家・経営史研究家)よりご提供頂きました
◆「大阪人物辞典」=三善貞司著・清文堂刊・平成12年
◆森琴石日記
(明治42年8/3 ~10/7、明治45年2/15~7/31、大正元年8/1~10/5 間での断片的に残るもの。翻刻者=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館)
片桐楠斎(かたぎり なんさい) |
|||||||||||||||||||
●関連事項=関連資料:「学海画夢」・「平成13年8月 」・「平成17年10月【1】■5番目」・「平成18年10月【1】注1,3 小田半溪賞状の下方」 ●本名は片桐正氣、生没年は不明。石橋雲来や清国文人など、森琴石周辺の人物との交流が見られる。 |
|||||||||||||||||||
(一)掲載書誌A:人物について描写したもの
・彼の欠点は、兎角負けず嫌ひで、人を罵詈する癖のあることで、彼自身も之れを覺つては居るが、何うしても、改められぬと云つているさうだ ・隠靜などゝ云はせて置く柄の人間ではないが、惜しい事だ(痴狂) ◇頚城=くびき B:評点を努めた書誌
C:その他
(二)「片桐楠斎 小画帖」
注:<空山>の文字の右横に”知音”という押印がある。知音とは(七絃琴の音を知る者=親友の事)という意味がある。 知音=「平成20年1月【1】注3」に記述 |
|||||||||||||||||||
★小画帖のしめくくりには、森琴石が、「岩に蘭図」に「空山清香」の文字を添えている。 |
川上泊堂(かわかみ はくどう) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
●関連事項=平成18年8月【3】 a [達爾頓 生理学書」奥附 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(一)
先生名は愿 字は次恭 泊堂は其號なり 別に平心庵と號し其居を静修亭と名く ―「浪華摘英」 より― ※岡玄卿=島根県鹿足郡津和野生まれ、慶応3年鶴田(たずた)藩主の移動と共に家族は備中、建部町鶴田に移転。2年間に4千人もの家族が移住、村は大パニックに陥り、当時の様子を記録する機能も余裕も無かったそうである(岡山県御津郡建部町教育委員会)。東京医学校卒業。明治天皇侍医頭を務める。その時の侍医局長は、森琴石友人中野雪江の義弟である池田謙斎 *。
「小学纂註校本増訂版 4冊(6巻)」{川上由蔵校・朱熹シュキ(晦庵)編・高愈コウユ注・堺赤井堂・明治15} |
岸田吟香(きしだ ぎんこう) |
●「平成18年2月」・「北方心泉 略年表」 |
吟香は久米北條郡垪和村(はがむら・久米郡大垪和村)の人なり |
木蘇岐山(きそ きざん) |
●「平成17年11月」・「平成17年7月■2番目」・「平成19年5月」・「門人-石川県:石野香南」・「詩賛:森琴石読画廬賞薔薇」 |
「五千巻堂集 巻一」 ~岐山翁事略(昭和八年歳次癸酉春三月蘭斎小倉正恒撰)~ の要約 木蘇岐山 略歴 (文章;伊藤 信氏) 岐山翁、名は牧、木蘇氏、岐山はその號、(初の名は僧泰、果斎と號す)別に三壺軒主人、白鶴道人、五千巻堂主人の諸號がある。 木蘇大夢(本姓は小川、名は艮、字は髯卿、大夢又は簑洲外史と號す)の第ニ子である。大夢、碩學を以て知られ、夙に勤王の志を抱き、小原鐵心、木戸松菊(孝允)等と國事に奔走し、頗る輿望あり、維新後大垣藩の待讀となった。(拙著美濃文化史要百八十四頁参照) 岐山翁幼にして聰頴、夙に家學を受け、尋いて大垣の野村藤陰、名古屋の佐藤牧山の門に入って、研鑽懈らず、業大に進み、尤も詩を能くした。 明治21年(年三十二)東京に移って、麹町區隼町に寄寓した。時に巌谷一六、森槐南、矢土錦山等が同區永田町に住して居た。 翁乃ち晨夕往来して詩酒の歓をなした。当時、國府青崖、本田種竹、野口寧斎、大久保湘南等亦都門に居り、詩を以て性命となし、槐南を推して壇拈の主たらしめ、各詩道の復古を以て自任した。 その頃各新聞社は何れも紙上に漢詩欄を置いた。それで槐南は東京毎日新聞、青崖は日本新聞の詩欄を擔當し、翁は東京新聞の詩を月旦した。 又副島蒼海伯及び巌谷一六翁を推して顧問とし、星社を創立して風雅を鼓吹した。 岐山翁の詩、構想精勁、出語奇峭、一字苟もせず、人皆推服した。 其の後筆を載せて東西各地に遊び、耆宿小野湖山、森春濤、江馬天江等と唱和し、聲和こう(合 の下 羽)然として頓に揚った。 明治二十五年翁遷って越中小杉に寓し、帷を下して生徒に教授し、月三社を設けて詩を教へた。 門下から松尾立西、大橋ニ水等諸人を出した。 又島田湘洲、内山外川等と湖海吟社を富山に興した。 北國の詩風為に一變した。 越えてニ年、又金澤に移った。 時に三宅真軒、宿學を以て聞え、北方心泉は金石文研究を以て知られた。 翁乃ち霊澤吟社を興してニ氏と應酬し、殆んど虚日無かった。 會ま(ママ)古澤介堂石川縣知事として金澤にあり。學を好んで翁と旧知の間柄であった。 依て日夕過從し、酒に對し、文を論じて、老の將に至らんとするを忘れた如くであった。 かくして居ること六年、高岡に轉じ、仙箭樓に隠栖し、門を杜じて吟哦し、厄窮の間に在って書を読み、自ら晏如たる有様であった。 越えて四十一年、大阪に客遊し、本山松陰、渡邊金谷ニ氏に知られ、同好の為に詩書を講じ、傍ら大阪毎日新聞の漢詩欄を主宰し、力を殫して風騒を振作し、叉成春吟社を設けて後進を奨掖した。 浪華の詩風は是が為に一變した。 大正三年朝鮮満州を漫遊して名勝を探った。 同五年七月三十日大阪の橋居に病没した。 享年六十一、五千巻堂集十七巻は實に翁が詩人としての一生の収穫で、外に星巌集註二十巻、五千巻堂詩話若干巻きの著がある。 翁性耿介にして筍も人と合わず、懿文にして瑰材を懐きながら、轗軻屯てん、遂に俊足を展ばすことが出来ず、江湖に窮老して生涯を終ったのは真に痛惜に堪へない。 ※「岐阜県教育 第502号」(岐阜県教育委員会/昭和11年6月1日) 資料ご提供=山本邦宏氏(岐阜県教育委員会文化課 伝統文化財担当)
(二) 「浪華摘英」(浪華摘英編纂事務所編集・三島聰恵発行・大正4年)より
●先生名は牧字は自牧、岐山と號す 美濃の人なり (北区北野西権現町千百九十番屋敷)
◆「浪華摘英」ご提供者=大塚融氏(元NHK記者・数寄者研究家)
漢詩人。岐阜県生。名は牧、別号に三壷軒主人、白鶴道人、五千巻堂主人などがある。 ◆略伝=陳捷氏(国文学研究資料館助教授)による (四)
森琴石日誌より ◆日誌翻刻=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館) |
木蘇大夢(きそ だいむ) |
●関連事項=「平成19年5月【1】■5番目」・「平成19年6月【1】■5番目」・「平成19年7月(未)」 |
木蘇大夢、名は艮、字は髯、大夢、叉は蓑洲外史と称す。 本姓は小川、稲葉郡佐波村観音寺に生る。 幼より頴悟、宗乗を學び、又笠松の角田錦江に就きて業を受く。 後笈を負ひて鎮西に遊び、廣瀬淡窓の門に入りて研鑽の功を積み、耶馬溪及び瓊浦(長崎)に遊びて帰る。 大垣藩老小原鐵心の知遇をうけ、叉江馬細香、野村藤蔭及び加納の三宅樅臺等と交好し。 嘗て(安政三年)樅臺及び醫順道と大垣に抵り、細香を誘ひて鐵心に見ゆ。 鐵心かん待甚だ力む。 大夢爛酔、帰途袍を失して装を成すを得ず。 醫順道の副袍を借りて帰る。 樅臺の詩に云ふ。 - 詩文省略 - 以て其の磊落の風を想見すべし。 大夢夙に慷慨の志を壊き、勤王論を唱導し、幕末の際京に出て、当年の勤王家藤本鐵石、松本奎堂、木戸孝允等と交を締び、大に志士の間に重んぜらる。 また松平春嶽公の知遇を蒙り、越前地方に漫遊して、専ら勤王の大儀を鼓吹せり。 此の間世路難儀、流落すること七年、偶々越中に在りて維新の運に遭ひ、明治元年正月、徴に応て京に上る。 詩あり、云ふ。 - 詩文省略 - 惜しむらくは入洛後の消息を知るに足るべき資料無きを。 然れども世に伝ふる所に拠れば、当年鳥羽伏見の役、大垣藩兵が錦旗に敵対して、あはや朝敵の汚名を被らざる可からざるの時、鐵心の措置宜しきを得て、幸に其の事無かりしが、其の間大夢が隠約裏の活動與りて大に力ありしは否定すべからざる事実なりと。 当時鐵心大夢と鴨西の酒楼に飲し、賦して曰く、 - 詩文省略 - 同年秋京師を退き、来りて大垣に寓し、やがて藩公に仕へて漢詩進講の役を勧め、月俸一百両を給せられる。 蓋し、是れ鐵心の推挙によるものにして、爾後其の帷幕に参して書策する所ありしが如し。 此の間更始風雲際會集の編あり。 是れ大夢が(郷のした向)に京師に寓するの時、諸徴士と交りて、其の雄篇奇作を見る毎に之を録し、うち國事に関係あるもの若干を採択せるものなり。 鐵心すゝめて上梓せしむ。 明治二年開春、鐵心、大夢を拉して東京に赴く、毛芥の送詩に曰く、 - 詩文省略 - 蓋し兩個の交態、水魚も■ならずと云ふべきか。 当時東北の諸藩未だ全く降らず。官軍陸續出征す。一日祖筵を江東井生村楼に開く。 會する者六十二人、木戸孝允援筆詩を大夢に贈る。云ふ、 以下 - 詩文省略 - 越えて明治三年庚牛一月大夢病を得て大垣の客舎に臥す。 其の革まるに及び、鐵心赴き訪ひ、詩を賦して云ふ。 以下 詩を省略 - 詩文省略 - 遂に起たず。子岐山(後出=下記)家を嗣ぐ。 木蘇岐山、名は牧、字は自牧、初の名は僧泰、果齋と號す。 後に岐山人と改む。 別に三壷軒主人の號あり、本姓は小川、厚見郡佐波村(今は稲葉郡日置江村に属す)の人木蘇大夢の子なり。 以下は 省略します ◆資料ご提供=山本邦宏氏(岐阜県教育委員会文化課 伝統文化財担当) |
木村 發(きむら はつ・木村 暢齋) |
●関連事項=「平成17年11月」 |
{遺稿3} 木村 発氏 安田 清 ●もと、二方郡(現美方郡)七釜の人、出て朝来郡梁瀬下町に移り、更に来って豊岡市本町に終生居住した。文に生き漢詩を良くし、同好の知友は全国に亘っていた。発はその名、字は子美、暢斎とはその号である。 ●氏はその天性頴悟、記憶確かにして、歴史、地理、文学経書詩文、克くそらんじ、訓点考証は氏の得意とする所、談たまたま、之に及べば、人をして敬徳せしめずんば止まざるの気概は旺盛であった。 ●氏は若き頃東都に遊学し、三島中洲の門に入り学に専念するの時、病患のため聴覚を喪い、以来聾者となると雖も、身の不具なるも困難に屈することなく、却って己が精神を集中して、自らの好む所大なりしのみならず、地方文献の所在を明らかにし、史実は勿論現状を録して、地方文化の向上に貢献尽瘁した。 ●その著すところ、聾史文詩鈔、暢斎漫録、朝来誌、皇朝百媛伝、竹田誌、中川誌、生野義挙始末、三江誌、豊岡誌、乙丑災誌、円山川改修沿革誌、京極家々譜等、尚々数々の小著備忘録が存する。是等の書、時に他人と見解を異にする箇所、無きにしもあらずといえども、自らは精根を尽して探索傍証を全うして、確信の下に記述したもの、此の意を体して見れば、上記の著書にしろ、記録にしろ、自ら頭の下がるもののみである。今に之等を披見して、温故知新、後進の研究に示唆を与え、「但馬考」と共に、郷土史研究の重要文献である。 ●氏の勝れた詩文や、記録は多く「但馬考」に収録されている。又氏の先祖の来由については但馬考(293頁)に詳しければ、ここに略する。
◆資料ご提供=宿南(しゅくなみ)保氏(朝来市史編纂室長) ※桜井勉氏は、「山陰の近代漢詩」(入谷仙介・大原俊二共著・平成16年11月)の中、大原俊二氏による「鳥取県下の漢詩人」に記述がある「桜井児山」の事。 木村 発 跋文
翻刻者=大原俊二氏(米子市史編纂事務総括・米子市図書館協議委員・米子藤樹会理事)
|
近藤南洲(こんどう なんしゅう)=近藤元粋(こんどう げんすい) |
||||||||
●明治期の大阪で、儒学者漢学者として藤澤南岳と双璧とされる |
||||||||
近藤 南州 こんどう なんしゅう 天満宮(北区天神橋二丁目)の御文庫は、近藤南州の蔵書が基盤になっている。儒、漢学者さらに漢詩人としては、藤沢南岳と双璧といえよう。 嘉永三年(1850)愛媛の松山生まれ。名は元粋、別号蛍雪軒。父名州も儒学者で幼児から素読を受け、さらに藩の明教館で漢学を学び、藤野海南に俊才ぶりを認められた。推挽を得て江戸へ遊学、芳野金陵に師事、明治三年(1870)帰郷し明教館の助教授になる。同七年明教館が廃されるや大坂へ入り、「猶興書院」を開いて儒、漢学を教授、いっとき京都に移ったこともあるが、爾来五十年にわたり、大坂の子弟たちの教育に専念した。 南州の業績の一つに、同九年刊行の「日本政記訓纂」三巻を皮切りに、凡そ五十種に及ぶ膨大な著作が挙げられる。それも「増註春秋左氏伝校本」七巻、「中国書画名家詳伝」10巻など大部の作が多く、恐らく年に二,三種の書物を出版したであろうかと思われる。 しかもその内容は多岐にわたり中国の文学・歴史・経学・書画から日本の古典・歴史と分野も広く、儒学者としては文学的だし、文人としてはあまりにも学術的過ぎる。異彩 の書だ。「天下才子必読新書」「中等教育作文教科書」といったものから「李太白詩醇選本」「白楽天詩醇」「王陽明詩集選本」まで並べてみると、到底同一人物の筆とは思われない。 第二の特色は、漢詩人として高く評価される点だが、特に顛詞(てんし)が散見されるのは、他例も少なかろう。顛詞とは、唐から五代及び北、南宋の時代に発展した新しい文学で、従来の詩が民間の文芸に影響されて通 俗化したものをいう。経学に通じた南州がなぜ顛詞に興味を抱いたかは分からぬ が、洒脱な人柄のせいでもあろう。「南州先生文鈔」から、顛詞の例を抜いておく。「億王孫 春暁/飛紅乱灑小楼前/細雨簾織欲暮天/酒醒閑窓悄然/対愁眠/杜宇声々春可憐」(乱れとぶ花のたかどの降りかかる小雨の夕べ/酒醒めて窓に倚(よ)れば落ち込んで/暁に鳴くほととぎすもあはれ・・・・・)。 顛詞に熱中したのは三十代の半ばと思われるが、その頃は難解な「箋註十八史略校本」を執筆しており、また当時は顛詞の専門書は無く、息抜きに好奇心から手を染めたのであろう。 南州には三人の男子があったが、全て父に先立った。三番目★に三男元英を失ったときは号泣し、慰めようもなかった。「哭三男元英三首/禍福因縁安在哉/世途艱難壮心摧/何図至此残年後/哭子還揮老涙来」「夜冷燈前感不窮/青年嫻汝望成空/夢手非夢猶疑夢/髣髴音容在眼中」「世事偏驚転変頻/悠悠歳月幾酸辛/廾年嫻汝空帰夢/五夜風霜泣老親」。 大正一一年(1922)七十二歳没。墓は長柄墓地(北区長柄中二丁目)にある。「南州近藤先生墓」。 前記したように莫大な蔵書は天満宮に納められた。また同宮の境内に「近藤先生頌徳碑銘」が建ち、彼の業績が詳しく刻まれる。 (二) 先生名は元粋、南州は其號なり 別に螢雪軒、讀未見書樓の號あり (北区旅籠町猶興書院) *住所の後に続く詩文は省略します・・・・(一)末尾 「哭三男元英三首」 と同じです ※鉛槧(えんざん)=昔、中国で、槧(木の札)に鉛粉で文字を書いていたことから詩文を書くこと。文筆に携わること。 ★(一)の「大阪人名辞典」では三男「元英」は最後に歿したとあるが、(二)「浪華摘英」及び、(三)「森琴石日誌」等により、最後に歿したのは長男「元精(小洲又は小州)」。 (三)森琴石日誌 より 明治45年 5月31日 曇、同夜雨 7月9日 曇雨、午後晴 7月12日 曇 大正元年 9月18日 曇 ★「近藤小洲(元精・南洲の長男)」記述箇所 大正元年
8月31日 晴 9月9日 晴 ※近藤小洲(元精)氏は、翌大正2年6月に歿す
-会員メンバー「大村楊城」の、漢詩添削原稿 より―
◆画像ご提供=大村紘一氏(東京都・大村楊城曾孫) (五)HP内記述箇所 |
関係人物一覧 |
師匠・先輩たち(南画・儒学・洋画法・系図)雅友・知友(あ・か・さ・た・な・は・ま) |
HOME |
Copyright (c) 2003 morikinseki.com, all rights reserved. |