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今から5,6年前のこと、当HP「資料紹介:詩賛」に、「森琴石 断髪弾琴之図」に添えた、石橋雲来による賛注1 を、飯田市美術博物館の槙村洋介氏に、翻刻及び読解をして頂きましたが、賛の中、「”撫松子”ということろが意味不明であるが、いつか解読出来る時が来るでしょう」と、その部分は、漢字をそのまま訳していました。
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この度、千葉県松戸市の「小林昭夫氏 注2」から、「撫松子」は「松子を撫し」では無く、兵庫県揖保郡龍野の詩人「永富撫松」を指し、”弾琴図”は、石橋雲来の斡旋で「永富撫松」から琴石に贈られたのでは?とのご意見を頂きました。以下小林氏のご見解を下★にご紹介します。
★小林氏によれば、「撫松子」は人名で、「簏底に蔵す」の主語であり、「子」の意味は、雅号(撫松)に軽い敬称の「子」を添える称呼は、当時の文人達が同輩・友人に対してよく用いていた。
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「永富撫松」は、森琴石の親交者”石橋雲来”と同郷である事、石橋雲来の著書「友蘭詩第三集 注3、第五集」に撫松の詩が収録されている事などから、石橋雲来とは面識は勿論の事、かなり親しい間柄であった可能性があり、「撫松子」と呼ぶ関係の人物にふさわしいと思われる。
★「永富撫松」は琴に非常な関心を有している。 「鎌倉琴社」のHPには「日本琴詩集」のページがあり、五山文学時代からの漢詩が集められているが、その中に永富撫松の詩が9首も収められており、浦上玉堂に次いで多い。
「撫松」自身が保有していたのは無弦琴で、撫松の詩は、他人の弾くのを聴くものに限られていることから、彼自身が演奏を楽しんだわけではなさそうだが、琴に対するこのような思い入れが、「断髪弾琴図」を手に入れて愛蔵した動機になったものと思われる。
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槙村洋介氏、鎌倉琴社の伏見无家氏、森家ら関係者は小林氏のご見解に賛同し、「森琴石断髪弾琴図」の絵画は、「建部聽山」から「永富撫松」に譲られていたと解釈致しました。
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「永富撫松(敏夫)」は、明治時代の永富家の当主で、また詩人として著名であった。幼時より学問に秀で、「陶淵明」を生涯の理想とした。師匠「股野達軒」は龍野で最も重んじられた老儒の一人で、交流者が、森琴石やその周辺の人物の交流者と重なる。明治14年6月、東京不忍池の三河屋で開催された詩会に参加した時のメンバーには「土方久元・小野湖山・巌谷迂堂・川田甕江・日下部東作・岸田吟香・依田学海」らがいた。
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「永富撫松」が育った生家「永富家」は、代々庄屋を務め、龍野藩脇坂氏から「在郷家臣」という資格で上級武士の待遇を受けていた(苗字帯刀を許された)豪農である。その住居「永富家住居」は、190年前の文政5年(1822)に完成した家屋で、昭和42年国の重要文化財となり、たつの市の観光名所として知られている。外交官・政治家・実業家となった「鹿島守之助」は「撫松」の4男である。
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永富家の代々の当主たちは、いずれも学問があったうえに仕事熱心で、その記録は1万点を超える永富家文書となって現在まで残されている。「永富家住居」の多数の資料の中には、撫松の居室名「讀我書屋」の書額や、「永富撫松」が遺愛した風鈴なども置かれている。
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もし「森琴石 断髪弾琴図」が、森琴石の元に返されずに、永富家にずっと所蔵されたままであったならば、この絵画はもっと早くに日の目を見た可能性がある。下方に「永富撫松」及びその師匠「股野達軒」についての略歴、永富家の画像をご紹介します 注4。
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注1 |
忍頂寺静村画 「森琴石 断髪弾琴之図」 及び 石橋雲来書”詩賛”
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- 原文
- 此曽忍頂寺静村翁所製而、為森琴石
畫史弾琴図。當時、官発斬髪之令、畫史
亦断髪、以弾琴所以有此図也。此図初成
先示之建部聴山翁。頃撫松子蔵之簏底。
乃将贈畫史、令余記其由。蓋応畫史懇
請也。因書之。時辛丑六月中浣也
- 友人 雲来僊史
- 訳文
- 此れ、曽(か)つて忍頂寺静村が製す所にして、
森琴石畫史の弾琴図為(た)り。
当時、官、斬髪之令を発し、画史また断髪し、
以て弾琴し此の図の有る所以(ゆえん)なり。
此の図、初て成るや、先ず之を建部聴山翁に示す。
頃(しばらく)、撫松子(永富撫松)之を簏底に蔵す。
乃(すなわち)、 将に畫史に贈らんとして、
余に其の由を記さ令(し)む。
蓋し畫史の懇請に応じる也。
因って之を書く。 時辛丑六月中浣也。
- 友人 雲来僊史
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注2 |
小林昭夫氏
★(財)無窮会・東洋文化研究所研究員
★ITでは「らんだむ書籍館」を主宰、森琴石HPでは「平成18年3月【1】」・「平成18年7月【1】」・「平成19年12月【1】注3 扇面3つ目の訓読」・「雅友知友:石橋雲来」-著書 ★「友蘭詩 第5集◆」 などに記述、当ホームページには多大なご協力を頂いています。
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注3 |
「永富撫松」詩文・・・・・石橋雲来著「友蘭詩 第三集」より
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- ↑○永富撫松
- 名敏夫
- 播州揖保人
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※画像ご提供者=小林昭夫氏 |
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注4 |
永富撫松
- ★元治元年(1864)7月6日、父宗定、母竹の二男として誕生、初名を貞明と云い、後敏夫と改名した。母竹は貞明4才の夏26才で死亡。父宗定は、貞明12才の夏に45才で亡くなった。
- ★明治7年(1874)の11才の頃、本間貞観(号虚舟)の半九精舎に入舎(在11年)、股野達軒に就き漢文を講究する。
- ★号は初め靖軒、次靜軒から撫松へと変わる。居室を「讀我書屋」、晩年の隠宅を「春及廬」と名付けた。これらの名は「陶淵明」に由来する。師匠「本間虚舟」が書いた、陶淵明の「歸去來辭(帰去来辞)」の詩書を、六曲二隻屏風に仕立てたほどだ。
- ★幼少より学才際立ち、学問の基礎は虚舟から煦育されたが、詩文においては達軒からこと細やかに薫陶を受けた。達軒が主催する「淡水如社」では、19才の時最年少で、先輩たちを凌ぐほどの成績を修め、その後も常に評者大沼枕山から高得点を与えられていたという。塾や達軒の蔵書が好学心を更に啓発し、自身も良書を集め「讀我書屋蔵書目」にみられるくらいの数となった。
- ★「撫松山人」として詩名はますます高くなり関西詩壇の重鎮となったが、大正2年6月15日、病気により50才で歿する。
- ★大正5年、長男股野藍田の撰文で「紀恩碑」が建立される。この時虚舟は69才。
- ★達軒には3児あり、長男の琢(字子玉・号藍田)は宮内書記官に、次男の景弼は達軒の実家長尾家の跡を継ぎ、銀座博聞堂の経営者だった。
股野達軒
- ★龍野藩参政長尾崇の第五子、文化12年8月生まれ。名景質、字好義、別号は亡羊子。
- ★初め江戸にに出て梁川星厳、大槻磐溪に学び、後小野湖山、大沼枕山に学ぶ。
- ★明治13年8月頃、達軒と矢野靜廬が提唱し「淡水如社」を開設(明治18年頃まで存続)、大沼枕山に添削批評を乞う。ここからは多くの有能な弟子が育った。
- ★明治17年古稀を祝して「達軒詠古詩抄(金+少) 2巻」が上板。楊守敬が題纂を冠し、三条実朝(序)・日下部東作(書)・長三洲の書にかかる川田甕江の序文・伊藤博文(題辞)・巌谷一六の筆にて中村敬宇の後序、跋文に岡本黄石・小野湖山・大沼枕山など当時の詩壇の大家が筆を並べるている。 ⇒近代デジタルライブラリーで閲覧出来ます
- ★達軒の屋敷は本間塾(半九精舎)に隣接し、達軒の書斎を「晩香居」と呼んだ。明治27年2月19日、80才で亡くなったが、歿前まで綴られた日誌は「晩香居日録」と称し、当時を知る貴重な資料となっている。
●伝記は「靜軒詩存」(今田哲夫著/鹿島守之助発行/昭和37年5月15日/非売品)による
●上記に出る漢詩人や揮毫者=「平成19年5月(【1】」・「平成17年6月」・系類「武富圯南」などをご覧ください
「永富家住宅」
前方右端が国指定重要文化財「永富家住宅」、その左側全部,塀に囲まれた住居は,現永富家住居
※永富家住居は、ブログ「愛犬ハナとその家族の日常 2008年6月9日(火)」分をご覧ください。美しい画像で紹介されています
本間虚舟書額「讀我書屋」
永富撫松の漢詩
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