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岩波書店が昭和49年に刊行した『志賀直哉全集 第8巻』に、志賀直哉が昭和18年に書いた「九里四郎水墨画会 推薦」という随筆が収録されている。この中に森琴石を書いた箇所がある。随筆によれば、九里四郎と志賀直哉との付き合いは、34年前にさかのぼる。「九里四郎」は、東京美術学校西洋学科卒の洋画家であるが、日本画も良く描いた。洋画家でありながら日本画を描いた画家としては早い方だったという。九里四郎は、「久しぶりに日本画の会を開くつもりでいる、こつこつ描いてみるつもりだ・・・」と言ったそうだ。志賀直哉は、下記のようにこの後を綴っている。
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「・・・・この言葉から私は不図、森琴石風の絵が出来るのではないかと思った。三十年前、九里は鉄斎に感服する一方、大阪の老南画家森琴石に親みを持ち、ある時自ら訪ねて籣を描くところを見せて貰ひ、その絵を貰って来た事がある。それを知ってゐるからである・・・・・」
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志賀直哉は、この後「琴石は鉄斎のように有名にはならなかったが、俗気のない、好意の持てる画家である。只、穏やか過ぎて、人を惹きつける所が少ない。・・・・・・・・・・こういう事まで九里には一層気にいるのではないかと思われる。」と、森琴石の人柄と九里四郎の気持ちを読んでいる。
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「九里四郎」は、大阪窯業社長「磯野良吉」の娘と結婚し、大正3,4年には大阪に住み、下阪中の里見惇の世話をしたという。磯野良吉は、漢詩人「磯野秋渚」の親戚に当たる。磯野秋渚は大阪で活躍した漢詩家で、当HPでは「石橋雲来」・「大村楊城」らとの関係が深く見られる。
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★大正3年といえば、その前年には森琴石は、大阪から初めて(第7回)文展審査員に推挙された。その推挙に対し、若手新日本画家の組織「つくし会」・「大正会」が反対したという。「平成19年2月【1】注2」では、森琴石は、審査員を引き受けるに際しかなり悩んだ様子がの文書が残っている。
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★文展が開催される前、「絵画叢誌 記事(一)〔絵画叢誌 第三百十四巻〕」にあるように、他の審査員連中が、審査員出展枠を利用し、自作の屏風を一人で幾つも出品する姿勢を『絵画叢誌』で批判した。
当時の森琴石は、新日本画旋風が巻き起こる中にあり、苦渋の日々だったようだ。当時の模様は「平成20年2月【2】注2、注3」,[平成21年4月【2】■5番目 近藤翠石宛の書簡」でも記述している。
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★森琴石の周辺でも不穏な動きがあった。寺西易堂は死亡したと噂を流され、石橋雲来は、自詩を盗作される(知友:木村 發(三)木村發跋文)などの不快な事があり、大阪を離れ明石の江井ヶ島に移り住んだ。気骨のある文人気質の老人たちは、煙たい存在となった。
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「九里四郎水墨画会推薦」を書いたのは、昭和18年(1943)という事から、その30年前は大正2年(1913)となる。「九里四郎」が森琴石の元を訪れたのは、森琴石が文展の審査員を引き受けた頃のようだ。身近に森琴石の苦悩や、大阪の画家達やその周辺の言動を見ていた可能性がある。或いは身内やその周辺からも、さまざまな情報を得ていたと思われる。
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- 九里四郎について
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*昭和28年3月1日長野県飯田市飯田病院で胸部疾患のため死去した。享年67歳。明治19年東京に生れ、学習院から明治43年東京美術学校西洋画科を卒業した。池部鈞、藤田嗣治、近藤浩一路等と同級で明治44年欧州に留学した。在学中すでに明治40年の第1回文展に「霧の榛名野」が初入選となり、同41年の第2回文展には「蔵」が入選、3等賞となり、43年第4回文展の「老人」も3等賞となつた。然し帰朝後は官展風の自然描写を棄て、強い主観的表現をとる様になり、文展内に於ける二科制設置運動に加わつたが当局に容れられず、官展を離れた。大正3年二科会創立に際してその鑑賞委員に選ばれたが辞退し、第4回展に「庭」「静物」他4点を出品した。その後も二科会に出品していたが、のち料理屋を経営したり、風物を描きながら生涯を送つた。(物故記事(上から3番目)より転載)
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- 補足
- *九里四郎は、1923年関東大震災で妻と娘を亡くした。後、奈良に移住し志賀直哉を奈良に住むことを勧めた。
- *志賀直哉が「九里四郎水墨画会 推薦」の随筆を書いた翌年(1944年)、長男正が亡くなった。
傷心した九里は長野県飯田市に疎開した。
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森琴石が温和な性格で清廉潔白な事、無欲で俗気が無い”高邁な文人だった”事は、さまざまな文献で記述しているが、「鳥居断三」の人柄や、「志賀直哉」の随筆からも、更に森琴石の人物像を確実に知る事が出来る。 |
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「九里四郎」が森琴石の元を訪問した事は、唐突な事では無く、森家や周辺の人物との関係があったように思われる。下に当HPに以前に記述していたものと合わせて、関係図で示してみました。 |
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- 当HP記述過所
- 柳猶悦・柳宗悦・嘉納家=「平成19年12月【2】 『寰瀛記(かんえいき) 小説 柳 楢悦』 ※柳 楢悦(やなぎ ならよし)氏に着目する理由」
- 柳一族と思われる人物=「平成18年5月【4】注3」
- 逍遥游吟社=「平成17年8月■5番目以下」・「雅友知友:大村楊城」
- 入江俊次郎=森琴石長男「雄二(雄次)」の妻「梅子」の父⇒「平成17年2月■3番目」・「平成22年8月【2】」他
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