森琴石の師匠や先輩・友人知人など、また琴石の周辺の人物を紹介します
項目内で使用度の多い資料について(各項目で、書名・資料名のみにする場合があります)
◆「浪華摘英」(浪華摘英編纂事務所・三島聰恵発行・大正4年8月)、「続浪華摘英」(発行兼編纂三島聴恵・大正5年12月)=大塚融氏(元NHK記者・数寄者研究家・経営史研究家)よりご提供頂きました
◆「大阪人物辞典」=三善貞司著・清文堂刊・平成12年
◆森琴石日記
(明治42年8/3 ~10/7、明治45年2/15~7/31、大正元年8/1~10/5 間での断片的に残るもの。翻刻者=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館)
吾妻 健三郎(あずま けんざぶろう) |
●関連事項=「平成19年2月【1】」・「平成18年8月【3】」・関連資料「絵画叢誌 記事」 |
(一) 吾妻健三郎 安政3~明治45(1856~1913) 米沢藩外様外科医吾妻寿庵の三男として生まれ、明治6年1月17歳の時、独学修業を志し上京した。 東京に出た健三郎は、当事大学東校に勤めていた海瀬敏行(陸軍二等軍医伯父の蘭学の弟子)が、学資の援助を申し出てくれたのも断り、学資が尽きると上州の片田舎の寺に身を寄せ、小金を蓄えて再度上京、当事海軍兵学校の生徒であった馬場新八(造船少佐)の薦めで、兵学校を受験する。 健三郎は英語の成績が悪く失敗するが、湯島天神下の錦袋園という薬舗に奉公、次いで、ある漢方医の書生となった。その間共慣義塾に入り勉学するが、数学が非常に得意であったので、この塾では数学の教鞭を執り、他の学科を履修している。 その後、製作学教場(工業学校の前身)に入り、ドイツ人 G.ワグネル に師事し工作学を習った。この教場では、履修を免除された数学の時間を石版研究に充て、元素化合表を石版で印刷し、大学南校の学生に分与したりしているが、健三郎の石版印刷成功の第一歩であった。 その頃、オーストリア博覧会から帰国し、「農事図解」を翻刻しようとしていた農商務省役人田中芳男(男爵・貴族院議員)の依頼をうけ、これを成功させ、更に研究を進めて、日本画の石版印刷や、香水・香油等のレッテルの印刷もできるようになった。 以後、健三郎の研究成果は三色刷りの印刷成功につながり、香水・香油・醤油等の各種レッテルの注文が殺到し、健三郎は印刷業界において次第に重きをなし、明治14年には、工芸品共進会の審査員に推挙されている。 明治11年に設立された帝国地質調査所から、技師長 E・ナウマンが作成した日本全図の印刷を依頼されるが、健三郎は明治14年2月から8月までの間に印刷を完成、これをオーストリアの博覧会に出品して賞牌を受けている。 着実に実績を積み上げ、大いに名声があがった健三郎は、広く各種印刷の委託を受けるようになり、神田駿河台袋町に東陽堂を設立する。 毛筆画が小学校で行われるようになったのは、明治17年頃である。その頃健三郎は東洋絵画会を主宰し、機関雑誌として「絵画叢誌」を発刊、美術出版社としての基盤を固めていたが、東陽堂は、さながら常設の博覧会場の観を呈していた、という。 又、「出羽新聞」に掲載された磐梯山噴火見聞記で、同郷人の渡部又太郎(大橋乙羽)を認め、東陽堂入社を薦め、やがて渡部を迎えた東陽堂は、「風俗画報」第一号を、明治22年2月に発刊した。 これは、日本古今の風俗を絵にして解説を加えたばかりでなく、各地の風物習慣を紹介して、日本における画報の嚆矢となった。 日清戦争が起こると、「日清戦争図会」を臨時増刊として発行、大好評を博して第10篇にも及んだ。続いて「台湾征討図会」を続刊、明治29年には、「大海嘯被害録」として三陸の大海嘯の詳報を臨時増刊するなど、時宜を得た刊行で、吾妻の東陽堂の名声は一躍あがった。 吾妻は月刊画報のほか、石版印刷を駆使して、書画関係の単行本も刊行しているが、印刷文化開拓の時代に刻苦精励、初志を見事に貫徹した、米沢人としては異色の実業人である。 健三郎は、司馬江漢の作品を多く珍蔵していたが、その千余点中より逸品を帝国博物館に寄贈している。 又、東陽堂の名を不滅にした「風俗画報」は、明治22年発刊以来大正5年に廃刊されるまで、517冊刊行されたが、昭和49年に全巻が復刻刊行されている。(松野 良寅) ★資料ご提供=山形県米沢市 市立米沢図書館 郷土資料室 (二) 東京都立中央図書館 特別文庫室「渡辺刀水旧蔵諸家書簡文庫」 [渡7898] 森琴石→吾妻健三郎 <1通(17.0×43.5)畳物>より 書簡 概要 年月日 明治24年12月12日
★資料ご提供=東京都立中央図書館特別文庫室 (三)著書・出版書誌 「掌中数学書 」( 吾妻健三郎/文玉堂/明8.1)1 ★紙面の都合により、国立国会図書館近代デジタルライブラリー検索分のみ掲載しました。 |
天岡均一(あまおか きんいち) |
●関連事項=作品紹介「下絵:難波橋渡り初めの図」、「平成16年6月」、日誌・書簡「舩田舩岳の日記」 「続浪華摘英」(発行兼編纂 三島聴恵・大正五年十二月刊)より |
●先生名は均一、字は天眞、號をけいかい(ニイニイ蝉の意?)※と呼ぶ (南区天王寺眞法院町5千六百九十二番地) ◆大阪偕行社、磯野惟秋(磯野秋渚・於兎介)=「平成17年8月 注2,5」・雅友・知友「大村楊城(交流者名)」に記述があります |
池田正信(いけだ まさのぶ) |
(「池田正信」は、俗称の「池田富三郎」で呼ばれる事が多い) 「崑山片玉集」(井原市教育委員会明治百年記念刊行委員会編・井原市発行・昭和44年)より ●関連項目=最新情報「平成13年8月」 |
平調(ひょうぢょう)では
太食調(たあじいちょう)では
盤渉調(ばんしきちょう)では
◆この外民謡俗曲も作符したが資材を欠き詳らかでないが、この偉大な業績は高く評価さるべきものである。 ◆かの榎本武揚は池田家の縁戚にあたるので、幕末から明治初期にわたり志士学者の来訪頻繁となり、夜を徹して吹奏して、もてなしたことも屡々あった。また彼自ら一管を携えて東京、京都は勿論南は長崎より北は松島まで遊歴して、官と云わず民と云わず文人武人と交わり、乞わるれば一曲を奏した。聴者のことごとくその妙音秘曲に陶酔した。 ◆このように来住の士多彩を極め、明治の三舟山岡鉄舟、勝海州、高橋泥州を始とし、蓮月尼、貞心尼、巌谷一六、高島秋帆、岡本黄石、江木鰐水、古瀬野小石、関藤藤蔭、斉藤拙堂、木村香雨、池田筑後守長発、宮原易庵、阪谷朗廬、坂田警軒、山田方谷、梶山九江、西薇山、江馬天江、鎌田玄渓、谷鉄臣、平尾竹霞、森春濤、森田月瀬、胡鉄梅、李承九、王冶梅、卍庵、田能村直入、川端玉章、藤井松林、岡本こん(目+軍)堂、衣笠豪谷、石橋雲来、長坂雲在、今日庵宗室、池田錦堂、藤原豊寿、渋沢青淵、杉聴雨、佐々木信綱、中井桜山(中井桜洲か?)、森琴石、中西耕石、草場船山、網島梁川、南拝山、大国隆正、高崎五六、その他多くの人士雲の如く墨痕淋漓と賞賛の詩歌を寄せている。 喜 賦 坂田警軒 暁窓盟臺雅 森春濤 江馬天江 池田翁のために 佐々木 信綱 蓮 月 ◆彼の夫人夢都(むつ)は貞節良妻、よく主人に仕え、子女を愛育し婢僕をいたわった。相次ぐ賓客には心を尽し、自ら割烹よくしよく馳走した。 ◆芸を楽しみ芸に生くる彼は心も豊かであった。茶道に入り茶の精神を以て己を持し、人を遇した、更に悟るところあり京都大徳寺の朴崇和尚より得度を受け、日福庵宗鶴の号を授かった。 池田宗鶴 |
石尾松泉(いしお しょうせん) |
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●森琴石とは、同門の時期があった。(画:忍頂寺静村、儒学:妻鹿友樵) |
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(一) (二) (三) ※その他、明治42年8/16・17、明治45年6/4、大正元年9/15などに記載があるが、殆どが「石尾を訪問」・「石尾に立ち寄る」など。 (四)
※井上柳湖堂=煎茶道具商 (森琴石が以前に住んだ高麗橋の住居至近にある) 大正8年5月4日に開催された「森琴石喜寿祝賀会 目録」の、式次第には
*森琴石の誕生日は2月19日であるが、この大正8年頃、森琴石は危篤状態を繰り返しており、病状の回復を見、祝賀会は大幅に遅れたようだ。喜寿祝賀会の式次第は、第11席まで続く・・・・・・・後月ご紹介します。 ◆ご協力者=井上耕太郎氏(大阪市東区高麗橋・古美術商「井上柳湖堂」社長・井上熊太郎氏ひ孫) 上記書簡の画像は、平成12年10月,柳湖堂訪問の折、コピーさせて頂いたものです。 |
石津灌園(いしづ かんえん) |
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◆関連事項=「平成19年3月【2】■2番目」 |
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(一)石津灌園 伝記 灌園石津君傳 灌園名は發。字は子節。初の名は賢勤。字は子儉。發三郎と稱す。姓は石津氏。 京都の人。父は賢教と曰う。 幕府時分の造幣所は金銀座なり。石津氏は世々、金座に隷(したが)い、京都において貫(つかえ)る。 子節幼にして學を好み、梶村(鳥+つくり乙)堂★に從い、句讀を受く。 召されて江戸の署に抵(いた)り、其の業を肄(なら)う。 久之(ひさしくして)學殖日(ひにひに)富み、鬱然として家を成す。 明治八年、召されて史館に入り、明る年、轉じて京都府の屬と為り、 適(たまたま)本願寺、學校を創る。請れて漢學教授と為る。 其の著、近事紀畧に甲子の變*を記し、長人舉兵して犯闕し、官軍却て之を討つことを書く。 本願寺を辞して家居し、著書を以て自ら遺(なぐさ)む。 其の朋友及び門人の詩文を批評するに、鶏鳴漏盡*、敢て休まざるなり。 是を以て門下の士、文を善くする者多し。子節師恩を重じて、(鳥+つくり乙)堂、西畴、 故を以て門人之に傚(なら)う。子節の歿後、相謀り、其家を經紀し、資子儀一大学に入る。 豫め後事を書し、之を牀下に窃匿し、 著す所、近事紀畧、古今勤王畧傳、文章軌範釋義、近世五名家文評本等の書有り。 右は先師灌園先生の小傳なり。嚢(さき)に確堂中村翁に選文を囑し、更に西疇萩原 明治三十年八月 門 人 等 識
★「灌園遺稿 乾坤」=石津灌園(発三郎)著/京都:石津儀一出版/明30年8月/乾坤合本(34丁,42丁) (ニ)著書類及び掲載書誌 1:「灌園遺稿 」=石津灌園(発三郎)著/京都:石津儀一/明治30年8月/34,42丁(乾坤合本) (ニ)石津灌園の師弟、交流者 (調査中・判明次第随時追加します)
(三)その他資料
★メモ 当HPでの石津灌園関係図
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石橋雲来(いしばし うんらい) |
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●関連事項=作品:「文人画<月ヶ瀬真景>」・詩賛:「森琴石弾琴図」・「平成19年4月■1番目&注2」・「平成18年12月【1】◆南画独学揮毫自在(三)」・「平成18年5月【4】」「平成13年1月■1番目」・雅友知友「大村楊城 交流者」 他多数 |
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弘化3年(1846)4月、兵庫県揖保郡竜野町、竜野藩石橋定右衛門の次男として生れる。名は石橋教、増官、矼とも云う。石橋雲来の実父は、竜野藩主脇坂氏とも言われている※。 ★石橋雲来「七言絶句の詩碑」=明石市魚住町中尾にある「住吉神社※」の第一本殿の後方(旧薬師堂址の池を背にする)には、大きな詩碑が建立されている。 ※=「中尾のすがた むかし いま」(平成元年10月・明石市中尾地区区画整理組合発行)による…成澤勝嗣氏(小磯記念美術館学芸係長)
◆「雲来肖像図」 と その画稿
◆「友蘭詩 第5集」 森琴石の漢詩掲載情報 及び 画像ご提供 及び 評点訓読ご協力者=小林昭夫氏(千葉県松戸市・らんだむ書籍館を公開されておられます) 雲来吟※交詩
出版人兼編輯人 石橋増官‐大阪市東區北濱二丁目貮百〇六番地
◆石橋雲来が晩年に過ごした「江井ヶ島」は、森琴石のスケッチが残っている。 |
井上 勤(いのうえ つとむ) |
●関連事項=「平成15年3月」・リンク情報「九十七時二十分間月世界旅行」 |
「徳島県歴史人物鑑」 (徳島新聞社刊・1995年)より いのうえ つとむ 井上 勤 嘉永3・9・15~昭和3・10・22(1850~1928)翻訳家。 名東郡前川中洲(徳島市前川町)の藩医春洋の長男。幼名、永吉。号は春泉。 慶応2年J ・H Donker Crutius(1848~1912)に英語を学び、のち長崎留学、同4年鹿児島に遊ぶ。 明治2年帰国し長久館、外国語学伝習所の洋学教授。 同5年神戸で語学修行。 同8年工部省出任。 同10年徳島師範学校、同11年高知中学校勤務。 同13年より23年まで大蔵省・文部省・参事院・元老院・宮内省と官界を歩く。 その間多くの英独仏の文学を翻訳、独和辞書、英文法書、英会話書などを出版した。 主な訳書に「九十七時二十分間月世界旅行」(明治13年)「西洋珍説人肉質入裁判」「絶世奇談魯敏遜漂流記」(同16年)「獨逸奇書狐の裁判」(同17年)など。 一般大衆向きにヨーロッパ文学を紹介した先駆者であった。 退官後は神戸に移住。墓は追谷墓園にある。 ◆資料ご提供者=石川文彦氏(徳島新聞社 メディア開発局資料調査部) |
江中無牛(えなか むぎゅう) |
「久留米郷土研究会誌第24号」(久留米郷土研究会誌編・1996年7月) より ●関連事項=最新情報「平成16年5月」 |
古賀 幸雄 文 ー異才の郷土出身画家・江中無牛ー 筆者が日本画家の無牛を知ったのは十数年前、親しい医院で山水画の小品を見た時である。その時は久留米出身とだけ聞いていたが、やがて木村壽一郎氏から自分の旧家近くの通 町三町目生まれだと知らされた。文化財収蔵館所蔵の明治五年の通 町絵図を見ると江中虎吉なる居住者がある。この家出身に間違いあるまい。無牛の作品は当地には数少ないが、先日、収蔵館では大幅の人物画と彼が絵付けた楽焼茶碗を入手した。ともに良好な作品である。次第に関心を深めている内に知人から、少年時代の無牛の筆跡が梅林寺山門前の石造物に見られると聞いた。さっそく出かけて彼の天賦の才に驚いた。 石造物とは、梅林寺中興主とされる東海猷禅和尚が境内に新西国三十三所霊場を再建した碑で、一米余の柱石の正面 に「明治十二年夏再建 梅林寺」左面に「新西国三拾三所霊場」右面 に藤井治平・木村庄平・氷室伊八三名の施主名が並記され、そのあとに小さく「筆者 十一歳 江中万蔵」とある。万蔵とは無牛の幼名であるが、当時の久留米の著名な豪商たちが碑文揮毫を一少年に依頼しているわけである。その文字たるや肉太で力強い勢があり、すでに名を成した書家の風を感じさせる筆致である。おそらく当時、天才万蔵少年の名が謳われていたものであろう。 最近本会々員杉山 洋氏が見出された資料に接したが、彼は東京美術学校第一期生(かんしゃく起こして中退)で、横山大観と親交があり、横山は自伝中無牛を高く評価し、大観の号は酒座を共にしているとき生まれたという。江中家は代々紙商で、彼は幼時、井上昆江の柳園塾に学び、絵は平野五岳に就くこと二年余という。美術学校を去ったのち寺社の古画描写 に従事、一時奈良博物館等に勤めたが、晩年は大阪で画業に専念。禅・茶道・俳句に深く通 じていたという。 |
大村楊城(おおむら ようじょう) |
●関連事項=最新情報「平成15年7月■第二2項目」・「平成17年8月■5番目~」 |
(一) 「大阪人物辞典」より 大村楊城 おおむらようじょう 軍人。弘化三年(一八四六)名古屋生まれ。名は屯、尾張藩士。 明治維新後軍人となり、明治二二年(一八八九)大阪連隊区司令長官に就任、以後大役を十年間努めた。 温雅・度量広く酒を愛し書に勝れる。漢学に造詣があり、書を乞う者多く書家楊城としても喧伝された。 大正二年(一九一三)二月六七歳没。墓は正念寺(天王寺区上本間町五丁目)にある「楊城大村先生墓」。 大村楊城(おおむら ようじょう) 翁 訃報記事 陸軍歩兵少佐従五位勲四等大村屯氏は明治三十年八月後備に入りしより専ら書道の人となり楊城居士(ようじょうこじ)の名を以て知られたり、 翁は名古屋藩士にして明治五年始めて陸軍に出仕し西南の役及び二十七八年役に従軍して功あり、 二十三四年の頃第四師団副官として時の高島師団長に随行して管内巡視の際より早く巳(すで)にその書名を知られ高島中将の筆として翁の手に成りしもの少なからず、 その間大阪聯隊区司令官として爾来大阪の人となり近来老病を閑地に養ひ居りしが二十二日正午肺炎を以て天王寺上の宮の邸に逝けり、享年六十七、 二十四日午後三時出棺上本町五丁目正念寺に於て葬儀★を行ふに付親族片山主計監(中行なかゆき)は二十三日東京より来阪せり、 翁の長男有隣(ありちか)氏は歩兵少佐にして目下独逸に留学中なり因に第八聯隊の門標は翁の筆に成れるもの ★大村楊城氏葬儀時、友人総代は「藤澤南岳」が務めた。 (三)大村楊城交流者(手紙・遺作・弔問芳名帳による/親交者は緑色)
秋月胤永=会津若松市:会津人物伝→幕末の会津を支えた公用人≪秋月 胤永 あきづき かずひさ≫ |
岡本斯文(おかもと しぶん) |
●関連事項=最新情報「平成17年9月 【1】及び 【2】千瓢賞餘」 |
おかもと しぶん 岡本斯文 ●天保14~大正8・5・29(1843~19199)教育者。●名は文、幼名を裕太郎、後に優太郎また聞一と称した。 ●号は午橋・五郎・楽瓢庵・寄瓢閑中有忙處などを使用した。 ●晤叟※の子、母は御番人寺尾多蔵人倫明の娘。天保14年4月徳島市富田※に生まれる。 ●幼時は祖父遜斎※以来の家塾・友徳塾で四書五経を学び、長じて藩儒・那波鶴峰の教えを受ける。 ●慶応3年(1867)藩の儒者見習、明治2年文学教授に任用される。 ●明治3年1月に東京遊学を命じられ、安井息軒・林鶴梁に学び、翌4年8月に帰郷。 ●明治10年徳島女子師範学校長心得に任命され、女子教育の要を説き生徒の獲得に奔走した。 ●同12年徳島中学校(城南高校)の初代校長心得となり、同校の基礎を築いた。 ●同15年徳島師範学校長並びに徳島高等女学校長を兼務。 ●24年徳島高等女学校の廃止に当たり、自費を投じて養淑会を開いて女子教育を行った。 ●同27年12月病で退職した。 ●その後は家塾・友徳塾で指導に当った。 ●同38年藍綬褒章を授与された。 ●生前瓢箪をこよなく愛し、書物を右に瓢箪を左手に撫でながら読書したという。 ●1男1女有り、長男・昇は姫路高等学校(神戸大学)の漢文教授となり、娘婿は徳島中学校で35年間漢文を教えた岡本対南※である。 ●墓所は徳島市二軒屋町の観湖院。(大和武雄)
※ 岡本晤叟(おかもと ごそう)=晤室とも号する。文化5~明治14、儒学者・教育者。岡本遜斎の三男。幼時には父遜斎に学び、長じて柴野碧海に学ぶ。安政4年江戸長久館の教授となり、明治2年漢学の首席教授となる。 ※森琴石と徳島市富田の関係については、「平成16年1月■2番目」に記述があります。 ◆資料ご提供=石川文彦氏(徳島新聞社 メディア開発局資料調査部) ※岡本対南=明治3年、富田裏町金沢勝の子。17才入って岡本斯文の跡を継ぐ・徳島中学、明治法律学校卒、泊園書院でも藤澤南岳に学んだ。(阿波人物志=徳島県立図書館) |
押柄雲峰(おしがら うんぽう) |
●関連事項=「森琴石喜寿祝賀会 記念品贈呈者」に名あり。 |
(一) 『京阪神における事業及人物』 より 押柄雲峰 (おしがら うんぽう) ●君は縦横、清颯風を為して、墨痕の淋颯たる処、忽ち山を成し、水となり、或は峻峰雲矗、 或は奔流巨巌、或は溪潤深阻、或は一天碧瑠璃、或は絶壑萬仭、或は煙霧濃起、能く 自然の景状を描写して雅気の掬すべきもの雲峰君の揮毫に於て之を求むるを得べし。 ●君は岡山県人にして、明治七年を以て生る。 本名を亀一郎と称し、雲峰は其の号なり、幼より画を好み、南宗派の画家山岡米華氏に事え、 研鑽を重ぬる事年あり技大に進み遂に一家を成す、 而して君は師風を遂げ南宗派の蘊秘を探求し、風物景状、森羅萬象其描く処 可ならざるなし 而かも君は一意丹青の技に心血を注ぎて他意なく画を以て生命とし 芸術の神聖を賛美し謳歌して以て現代に於ける美術家の先覚者たらん事を期しつつあり。 ●大正四年四月一日、第七回日本産業博覧会に出品して賞牌を受領し、 其他各地の展覧会 共進会等に於て受賞せられし事多し 亦是れ浪速画会の一人材と云うべし。 ●君の男を江春と称し 亦錦波の別号あり、春秋未だ弱冠を超えし事4歳※に過ぎず 最も聡明にして、将来嘱望すべき麒麟児たり 父子相共に毫を揮って傑作を出さば 斯界に異彩を放すべく又以て後世を盆するに至らん 切に奮励を望む。 ※インターネットに出る略伝では、江春は明治28年生まれ、この『京阪神に於ける事業及人物』が刊行されたのが大正8年である。 4歳ではなく24歳。誤植したようだ。 尚又、インターネットの伝記では、江春の父は「押柄憲嶂」といい、西山翆嶂の門下で、 生没年は明治8年~昭和14年となっている。 |
関係人物一覧 |
師匠・先輩たち(南画・儒学・洋画法・系図)雅友・知友(あ・か・さ・た・な・は・ま) |
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