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注1 |
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高島鞆之助 (たかしま とものすけ)
高島鞆之助(鹿児島) <明16.2,1陸軍中将>明10,3,28別働第一旅団司令長官、13,4,29熊本鎮台司令官、14,2,9大阪鎮台司令官、15,2,6西部監軍部長心得、16,2,1西部監軍部長、18,5,21大阪鎮台司令官、21,5,14第4師団長、24,5,17陸軍大臣、28,8,21台湾副総督、29,4,2拓殖務大臣、29,9,19陸軍大臣、
西南の役で征討第一旅団長として出動、戦後師団長クラスを歴任、松方内閣の時に大山厳中将に代り陸軍大臣となったが、軍の一線に立つことはなかった。薩摩出身で山県を中心とする長州閥に対抗し、陸軍内部での薩長の派閥争いを引き起こした。 |
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「日本陸海軍人名辞典」(芙蓉書房出版・1999年12月)による |
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注2・注5 |
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大阪博交社・大阪偕行社
●明治11年3月、陸軍少佐高島信茂・白江景由らが幹事となって「各自設置スル所ノ学舎」を合併して「大阪博交社」を江戸堀上通一丁目に開設した。
●設立の目的
「公務丿余暇僚友博ク相シ、武ヲ講シ兵ヲ談シ、傍ラ詩歌文墨ニ遊ヒ、抑鬱丿懐ヲ拝シ、トモニ草枕丿親睦ヲ厚フセンコトヲ欲ス(「大阪偕行社沿革誌」) |
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《「新修大阪市史第5巻」 第二章 第四節「大阪市の成立 軍政の整備」(新修大阪市史編纂委員会編・1991年》より |
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●明治15年(1882)各地の軍管区にあった同様の組織を全国統合し頭に地名を冠し「大阪偕行社」と称した。統合時「東京偕行社」のみ地名を冠せず「偕行社」とした。(追手門学院HPなど)
●博交社婦人会が主催する「バザー」は、軍人と市民とが交流できる機会だったという。 |
◆大阪偕行社・大阪偕行社附属小学校=大日本帝国陸海軍史料館:「遺跡遺構展示館:大阪府」の中ほどにあります。 |
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注3 |
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西南の役(西南戦争)
期間=明治10年2月15日~明治10年9月24日
明治10年、「秩禄処分」や「廃刀令」などによる明治新政府への政策に対する不平がつのり、それら士族の最大かつ日本における最後の内戦「西南の役」が、「西郷隆盛」を盟主とする薩摩軍の蜂起により口火が切られた。7ヶ月間に及ぶ戦乱は凄惨を極め、政府軍・西郷軍合わせ戦没者は13000人余りに達した。明治16年5月、それら戦没者の霊を弔うために大阪中之島の豊国神社西隣に「明治紀念標」が建立された。その後明治35年当時日本陸軍の中枢であった「大阪鎮台 おおさかちんだい 注7」に移転された。
*西南の役での政府司令長官は高島鞆之助で、西郷隆盛とは同郷人。 |
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注4 |
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明治紀念標=最新情報「平成17年5月、同6月」をごらんください。 |
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注5 |
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●森琴石縮図のもの=石造製の四角錐のもので、天に向かって凛とそびえる。
●完成記念碑=赤銅色の鉄鋼製、形状は丸みを帯びた「京都タワー風」のもの。 |
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注6 |
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辻愛造による「明治記念碑」=記念碑の後ろには、大阪偕行社の「モダンな建物」が油彩でカラフルに描かれ,、画の裏には「偕行社前 国展審査員 辻愛造」と、書かれている。追手門学院卒業生の水彩画は「大正5年第24期高等科卒業生 新作義信氏」 によるもの。 |
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注7 |
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大阪鎮台(おおさかちんだい)
大阪鎮台にある大阪砲兵工廠(おおさか ほうへいこうしょう)は、大阪造幣局と共に大阪の文明開化(技術的)の象徴だった。 |
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◆ご協力者=宮本直和氏(追手門学院小学校教務部長)・著書に「大阪偕行社附属小学校物語」(東洋出版・2000年)、「奇跡の生活リズム教育法」(PHP)他、共著「心の教育」「実践大系」など多数。 |
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