森琴石の師匠や先輩・友人知人など、また琴石の周辺の人物を紹介します
項目内で使用度の多い資料について(各項目で、書名・資料名のみにする場合があります)
◆「浪華摘英」(浪華摘英編纂事務所・三島聰恵発行・大正4年8月)、「続浪華摘英」(発行兼編纂三島聴恵・大正5年12月)=大塚融氏(元NHK記者・数寄者研究家・経営史研究家)よりご提供頂きました
◆「大阪人物辞典」=三善貞司著・清文堂刊・平成12年
◆森琴石日記
(明治42年8/3 ~10/7、明治45年2/15~7/31、大正元年8/1~10/5 間での断片的に残るもの。翻刻者=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館)
前川 謙(まえがわ けん)=前川 澹斎 |
●関連事項=「平成17年10月」・関連資料「井上 不鳴」 |
まえがわ たんさい 前川 澹斎 弘化4~明治19・9・4(1857~1886)徳島藩儒学者。教育者。 名は謙(通称も同じ)、字は世光、号を澹斎と称した。 藩儒・前川秋香の子。 父の没したときわずか8歳。隣接の井上不鳴は同情してわが子のように養育した。 やや成長して橋本晩翠・岡本晤室にしたがって学んだ。 その後、豊後の広瀬淡添窓の門に入って学び、帰郷後藩校の教官を歴任した。 廃藩後は中学校・女学校で教鞭をとり文部省の表彰も受けた。 明治十九年に40歳で没し、徳島助任町の興源寺に葬られた。 性格は温和で謙虚。暇があれば静座して読書をした。 書く詩文も柔和で清潔、著書に「阿波国地誌略」がある。
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前田 吉彦(まえだ よしひこ) |
●関連事項=「平成18年7月」 ※倉敷美術館所蔵の「画学階梯 12冊」は、全て響泉堂刻 |
●備中松山藩士前田長兵衛の三男として高梁の川端町に生まれる。幼名は稲造、後、吉彦と改める。 ―「岡山の絵画 500年―雪舟から国吉まで」展図録 (岡山県立美術館・1988年)― より (二) 文章=岡 泰正氏 (神戸市立博物館学芸課長) 神戸市長田区池田町に妙楽寺という臨済宗の襌寺がある。その2階の薄暗い堂内の片隅に、すっぽり布をかぶせられた作品がある。布を慎重に取り去ると、金地に大きく女人を配した図様の衝立が中からあらわれ、暗い堂内が少し明るくなる。舞をまう白拍子の姿が描かれたその絵は「静の舞」と題され、神戸の洋画草創期に活動した画家、前田吉彦の晩年の大作である。図1 (注:当HPでは掲載できません) 前田吉彦は、嘉永2年(1849)備中松山藩の藩士の子として高梁(現岡山県)に生まれた。最初、日本画を学び、のち神戸に出て、ほとんど独習によって油彩画や西洋の画法を習得したと伝えられる。明治14年(1881)、32歳の時、第2回内国勧業博覧会に油彩画を出品しており、このころには一応の技法的完成をみていたと推定される。現在知られている彼の最も早い作品は神戸市立神戸小学校に伝えられた「勧学夜景図」と呼ばれる歴史画で、現在は神戸市立博物館の所蔵。明治17年の作で、今のところ兵庫県最古の油彩画と考えられている。 図2 (注:当HPでは掲載できません) 前田吉彦が油彩画を描いていたころの神戸は、良港と外国人居留地を有し、海外に開かれた新しい窓口のひとつとして活気にあふれていた。横浜と同様に、国際的貿易港として街には独特のエキゾテイシズムが形成されていた。明治15年(1882)に刊行された神戸の名店ガイドブックともいうべき「豪商神兵湊の魁」の数頁をめくってみるだけでも、西洋反物、時計、鉄砲などを扱う輸入商、茶、工芸品などの輸出商、洋家具靴、洋服などの製造所、珈琲、牛肉の販売店などをたやすく見出すことができる。神戸の商店をひやかして歩くだけで、当時の日本では珍しい多様な商品が通覧できたように思える。異国の文化がすべて海からやって来た時代であった。 明治24年(1891)2月10日付けの「神戸又新日報」に前田吉彦の活動を垣間見させる記事が載っている。
この記事から推測すると、前田は神戸では油彩画家として、ある程度の位置を与えられていたらしい。 前田は、神戸師範学校で教鞭をとり、図画の指導をしていたが、明治27年(1894)ごろ妙楽寺にはいり、蟻禅と号した。心情的理由というだけではなく、おそらく多分に経済的理由によるところがあったのだろう。妙楽寺においても油彩画の制作はやめず、明治33年(1900)、まさに20世紀にはいろうとしている年、神戸美術協会(大正11年発足の同名協会とは別)によって神港倶楽部で開催された第1回美術品展覧会に先述の「静の舞」を出品するのである。 扇を広げ、袴の長い裾を引いて舞う立烏帽子の静御前の姿は、金箔地に油彩で描かれている。陰影の付け方などに生硬な点が認められるが、その像は堂々たる存在感をそなえ、プリミテイブな一種の力感を内包して、画者のなみなみならぬ気魄を感じさせる。この図は、日本画的装飾性と洋画の写実性とが混然となった異風の作品と言えるだろう。扇の金箔部分は、描き残した余白によって表現されており、画家の工夫が見てとれる。落款は前述の「蟻禅」に花押。 妙楽寺には、前田吉彦の自画像も所蔵されている。図3 この像は、明治35年(1902)54歳の時に描かたもの。画中左上に自讃の形式で「依壇徒之言而自画貧像」とあり、妙楽寺の檀家の人々が、画家に制作れをすすめた状況がうかがえる。前田が「貧像」を「自画」したわけである。 ―後文は省略させて頂きます― |
松原 三五郎(まつばら さんごろう) |
●関連事項=「平成16年5月 注1」・「平成16年6月」・「平成18年7月」・関連資料「北野百年史より」・「舩田舩岳の日記」 |
「續浪華摘英」 (発行兼編纂 三島聴恵・大正5年12月) より 松原 三五郎 先生 先生は備前の人 名三節 後、三五郎と改む 號を三悟といひ別に天彩學人、蕾里の號あり 元治元年六月十三日岡山市内中山下に生る 父松原證治郎(初め三省と稱す)の長男なり 家世醫を以て藩主に仕ふ考は其第七世に當る 明治四十年逝く 享年七十一、 先生初め醫學を修めんとした くしも之を厭ふと甚しく明治十三年秋十七歳にして岡山中学を去り 遠く東遊して第一世五姓田芳柳に就きて洋畫を學び 又英人ワグマンの教を受く 年し始め工部大學内美術學校入學の目的なりしも 同十四年癈校の故を以て果たさゞりしなり 同十七年業成りて帰省し岡山縣師範學校兼同縣中學校教師となり公餘天彩畫塾を設けて特志生を導く 同廾三年聘せられて大阪府師範學校教諭に轉じ 同卅年更に陸軍幼年學校附陸軍助教授となる 同卅五年陸軍教授に進みしも數年の後思ふ所ありて職を辞し 爾来心を畫道の研究に潜め以て後進の誘掖に務む 殊に関西美術會の創立に關して盡瘁する所尠からず 其他各種の展覧會、博覧會の審査員又は監査員或は教員検定試験委員等に擧げられしを十數回 餘暇文筆に親み圖書を著すを多く就中明治廾六年編纂に係る「新撰圖畫」の如きはニ府十七縣の教科書となり教育上の裨益多大なりしと、 現今斬界に在りし名を知らるゝ中川八郎、鹿子木孟郎、滿谷國四郎の如き或は在阪の新進者として文展に入選せし高橋文蔵、住田良三、橋本木蓼等の如き皆此家塾に出ず 若し夫れ其門に入りし者を擧ぐれば優に八百餘名を算すと豈に其多きに驚かざるを得んや 大正三年六月畫塾創立三十年記念展覧會を博物場に開き斬道普及上一大成功を収めたり 同五年春更に時代の要求に鑑み學生用モデル研究所を建設せんとするや 舊門人中知名の士奔走倦むを知らず同年遂に竣功を告ぐ |
馬渡 俊猷(まわたり しゅんゆう) |
●関連事項=平成17年10月 |
馬 渡 俊 猷 君 ●我同郷人中古参の秋官として、令名最も高き馬渡俊猷君は佐賀の分藩の藩士にして、嘉永四年九月北高来郡諌早に生る。 ●幼にして邑校好古舘に入り、長に及び藩校教授圯南武富文之助先生(注:武富圯南)の塾に入りて漢學を脩む。 ●明治二年十二月笈を負ひて東京に遊學し。洋學者櫻痴居士福地源一郎先生の塾に入り、佛學を脩め。 ●研鑚砥礪以て其の堂奥を極め。かくて同五年七月大阪市に赴任したりしが、後感ずる所あり同七年四月官を辭す。 ●七月前司法三等出仕警保頭仲道氏等と相謀り、大阪府東區北濱町に於て法律研究所を設立し、命じて北洲舎と稱し、専ら訴訟代言の事に從事せり。 ●越えて同九年十月司法省に出仕し、判事補に任ぜられ、神戸裁判所に在勤す。 ●君公餘神戸駐剳清國領事劉壽鏗及廖錫恩書記官呉瀚濤等と文字の交を結び、互に往復し共に唱和せり。 ●同十六年一月判事に陞進し、横濱裁判所八王子支廳長となり、一九年六月東京控訴院等に歴補せられ至公至聽断の事に従事し到る所に嘖々たる聲名を博せり。 ●三十一年偶々病を以て退職し、翌年一月辨護士となり、廣く訴訟事務に従事し、其の豊富なる學識と周匝精密なる推理とはよく事相の眞随を剔刔し、以て朝野の信望を博したり。 ●君詩文に長じ漢陽と號す。 嘗て職務の餘暇貴族院議員巖谷一六翁及圖書勝間田鐵琴翁、西京の儒者山本鴻堂翁及野口寧斎氏と深く親交あり。 ●大正五年三月辨護士の業を癈し、再來淀橋の南に悠々閑臥せられ、詩を賦し自ら老を樂まる。(府下淀橋町角筈七二五番地) |
武藤吉次郎(むとう きちじろう) |
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●関連事項=最新情報「平成16年9月■第2項目」「平成18年5月」 「慶応義塾に学んだ人々展」 -特に明治維新以前を中心としてー 目録 より 昭和50年10月15日(水)~17日(金) 於慶応義塾図書館記念室 |
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武藤吉次郎 (むとう きちじろう)
「姓名録」資料
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関係人物一覧 |
師匠・先輩たち(南画・儒学・洋画法・系図)雅友・知友(あ・か・さ・た・な・は・ま) |
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