森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成16年(6月)

5月中旬、先月に続き再び名和町を訪問する。門弟舩田舩岳が生まれた江戸末期の舩田家は、伯耆国汗入郡(ほうきこく あせりぐん)を、東西に二分した東の構(かまえ)、御来屋(みくりや)での大庄屋職の役宅(やくたく)注1を務めた。また御来屋は、藤本鉄石 注2 が「唯一の書の師」と仰ぎ、村山半牧も師事したという「児玉 玉立 こだま ぎょくりゅう 注3」が育った地域でもある。明治36年病気療養中の舩岳が、大阪で開催されていた「第五回内国勧業博覧会」の見学に、3月から大阪を訪れていた折の、日誌のご提供を頂く。日誌には東京美術学校関係者の名が見られ、北野中学校の教師時代の元同僚教師 注4「松原三五郎・森田専一・廣田剛」らとの交流の模様が書かれている。その中のひとり、「廣田剛 ひろた ごう」は、舩田舩岳の初老を祝う琴石作「蓬莱之図 ほうらいのず」に七言詩を寄せており、舩岳が生前に児玉 玉立を顕彰する「石碑の碑文の撰文」を廣田剛に託していた。

  同僚教師及び舩田舩岳に関しては、関連資料「北野百年史より」をご参照ください。
注1 役宅=村の自治をつかさどる役をになう者の家の事。村の事務を一切掌握する庄屋職の上にあり、宗旨庄屋と共に構内の行政宗旨を統括した。汗入郡では東の構は4家、西の構は10家あり、東西の構が交代で務めた。舩田家は、庄屋職と兼務していた。西の構、米子の所子(ところご)での役宅を務めた門脇家は、現在国の重要文化財に指定されている。
 
文献
    「汗入史綱 あせりしこう 郷土の沿革‐汗入郡の沿革概況‐第七節 徳川時代」(昭和12年刊・鳥取県西伯教育会第五教育組合会 国史研究部編)=鳥取県立公文書館
   
注2
藤本鉄石は安政6年(1859)に、「児玉 玉立」の書を板刻した書法帖「玉立山人西風帖」を、村山半牧と京都で出版している。同帖には「鉄石温蔵版」「荷汀名珍賞」の印があり、跋文も「藤本鉄石」「村山半牧」が書いている。※「児玉 玉立異聞」(大原俊二編著・米子市今井書店出版企画部・平成12年)による
 
藤本鉄石先生薦場余録」(原田隆 編・明治12年刊)では、大阪博物場で開催された藤本鉄石の「第17回忌追悼茶筵」で、森琴石は「河野(坂本)葵園」・「寺西易堂」・「森二鳳」・「尾崎雪濤」・「日柳三舟」・「加納三影」・「真鍋豊平(一弦琴また須磨琴家元・歌人)」・「堀井玩仙」 などと共に、席上揮毫をしている。茗主は「中村桃塢」。 ※原田隆は、「日本同人詩選 巻一」(陳曼寿(陳鴻誥)編・明治12年・土屋弘出版)に、漢詩を寄せている。「字子隆・号西疇・浪華人・著有鴨涯吟草工鐵筆」と書かれている。
鴨涯(あんがい)=頼三樹三郎の別 号。「味梅華館詩鈔 2巻」(明13年・前川善兵衛出版)は・「陳鴻誥撰・原田隆編」である。
   
注3   児玉玉立=寛政6年(1794U)米子で生まれ、後御来屋(みくりや)に移り、幼児より富長村の某家に奉公した。主家の蔵書を教本に、砂上を指でなぞるなどして独学で古法の草書を習得した。のち筆を携え諸国を巡り、文人墨客と交友する。狂草体を得意とし、普唐の古法を極めた。幕末知名士からは草聖と賞賛された。文久元年(1861)舩田舩岳が生まれる3年前に没した。歿後の明治に入ってからは、舩田舩岳は同郷の先輩を尊ぶ唯一の理解者であったという。玉 立を顕彰する石碑の建立を計画した舩岳は建立を肉親に、碑文の撰文を「廣田剛」に託した。しかし建立には至らず「因伯碑文集(米子市立図書館)」に収められた撰文の草稿が、当時の舩岳の玉 立への思いを偲ばせるものである。
「児玉 玉立異聞」(大原俊二編著・米子市今井書店出版企画部・平成12年)より 
 
 
米子市には明治23年、妻鹿友樵(めがゆうしょう・琴石の師)の元に七絃琴を度々学びに行った「杵村源次郎(源二郎・号小雅・米子町第五代町長))」がおり、米子市立山陰歴史館には同氏寄贈による、浦上玉堂愛用の七絃琴「萬澄幽陰(寛政四年)」など2基が収蔵されている。
 
文献及び資料ご提供者
福原則昭氏(米子市立山陰歴史館長)
大原俊二氏(米子市史編さん事務局事務総括)
   
以下は北野中学校関係者
  「北野百年史」(昭和48年10月刊・大阪府立北野高等学校校史編纂会編)より
 
森田専一:徳島洋学校・洲本日進校などを中退後、明治16年7月数学・記簿の助教諭として赴任。明治37年7月在任27年間で離任する。明治29年校友会の新雑誌「六稜 りくりょう」の発行兼編集人として発刊以来同誌に携わる。「六稜」の校章のデザインの考案者とも言われている。
 
廣田 剛(広田 剛):淡路島、洲本生。泊園書院修了。明治29年6月教員心得として赴任。澹洲・淡洲の号を持つ漢学者でもあり、漢文の教諭となる。「六稜」創刊以来、論説や漢詩評釈など、同誌への寄稿の常連者。明治33年洲本中学校に転任。在任3年10ヶ月。



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