森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成18年(5月)

【1】

森琴石著「墨香画譜 注1」が、中国の「香港科技大學圖書館」に所蔵されている。同著書は、岸田吟香が上海で販売をした岸田吟香の「樂善堂書目」のリストにあり、同著書は「北京図書館」にも所蔵されている 注2

「香港科技大學圖書館」の所蔵情報では、森琴石の氏名は 「森栞石」 となっている。

 
 
注1
 

「墨香画譜 4冊」(森琴石編著・吉岡平助出版・明治13年刊)については「平成18年2月 ■末尾」・「平成16年1月 ■2番目」などに記述があります。

   
【2】

森琴石は、響泉堂刻で銅版による、かな文字の歌集「麓乃塵 注1」を手がけている。大阪の歌人「有賀長伯 注2」のもので、巻頭画は 「水原梅屋 注3」が描いている。

 
 
注1
 

「麓乃塵」(ふもとのちり)

1: 「麓乃塵 改正増補版 4冊 」
原著者:有賀長伯/相続人并校正増補:有賀長鄰
序文:有賀長収/画:水原梅屋
出版:野村秀太郎/錦城書楼刊/響泉堂刻/明14年1月

2:「和歌 麓之塵 改正増補版 2冊」
原著者:有賀長伯/相続人并校正増補:有賀長鄰
序文:有賀長収/画:水原梅屋
出版:野村秀太郎/錦城書楼刊/響泉堂刻/明14年1月


左上端=響泉堂刻
画:水原梅屋(別号 凝香)
 
注2
 

有賀長伯 = 江戸中期の国学者・歌学者。京都生。号敬斎。住吉の平間長雅に入門。二条派の家風に優れ、有賀家の七部書を公刊した。元文2年(1737)77才歿。

有賀家 系譜

有賀長伯
 ↓(子・寛文2年京都生)
有賀長因=名は長川、号義斎。長伯に和歌を学び業を継ぐ。安永7年(1778)67才歿。
 ↓(養子・寛延3年大坂生)
有賀長収=初名長因、号居貞斎。家風を継ぎ詠歌を修めた。文政元年(1818)69才歿。
 ↓(子・安永6年大坂生)
有賀長基=歌人。父の後を継ぐ。天保4年1月、56才歿。
 ↓(子・文政元年大坂生)
有賀長隣=歌人。号情新斎。天満に居住。柿本人麿を尊崇。明治39年89才歿。
 ↓(子・万延元年大坂高麗橋で生まれる)
有賀長雄=法学者・社会学者・文学者。東京大学哲学科卒後、ドイツ・オーストリアで国法学などを学ぶ。日清・日露戦争には法律顧問として従軍。早大・陸軍大学校の教授も務めた。袁世凱の法律顧問となる。坪内逍遥とは東京大学での同期生。大正10年6月、61才歿。

●「一致帖」に名がでる「有賀長酔」は、「有賀長鄰」の事。

 
注3
 

水原梅屋=略伝「水原梅屋」をご覧ください。
 別号凝香。大阪の豪商鴻池家の始祖、山中一族<山中朔之助>の庶子。

 

響泉堂刻「麓の塵」情報ご提供=平成12年、熊田司氏(大阪市立近代美術館建設準備室 研究主幹)より

   
【3】

先々月に森琴石と交流のある歌人に、伊丹の「中村良顕」や、良顕の弟子「弾琴緒」をご紹介したが、門弟「毛受小八郎(画号:氈受楽斎)」は和歌を嗜み、友人「世良田信明」も歌人である。森琴石にも南画を学んだ「間宮起雲」は、「間宮禾堂」の号で、明治38年10月、三重県最初の歌集「霊火(くしび)」を出版した 注1

 
 
注1
 

●「稲生郷土誌」より
(三重県鈴鹿市稲生郷土誌編修委員会編/三重県良書出版会/1989年/429頁に記述)
 資料ご提供=鈴鹿市役所文化課
●間宮起雲については目下調査中です。

   
【4】

森琴石の長男で森家の祖父「森 雄次(森 雄二)」は、「琴雨」の号で俳句を嗜み、尾崎紅葉選の「讀賣十句粋 注1」への投稿常連者であった。三井銀行小樽勤務時代には「加藤眠柳 注2」選による4句が採用されている。三井銀行時代の知己に、榴窓の号を持つ「柳荘太郎 注3」がいる。祖父雄次は「琴荘」の号で明治30年作「月瀬遊詩」の草稿文を遺している。漢文添削者は「石橋雲来」。

 
 
注1
 

讀賣十句粹(読売十句粋)

●読売新聞社が、尾崎紅葉を選者に立て、明治35年3月から俳句の連載をした。
●祖父森雄次は手帳に第71回までの分を切り抜き貼り付けている。
●祖父森雄次は、第1回から第71回までの間に、第26・29・36・37・41・46・48・54・62回と計9回採用されている。

「讀賣十句粹 (四一)」  尾崎紅葉選

「森雄次手帳」より

讀賣十句粹(読売十句粋)

中ほど:琴雨=森雄次(森琴石長男)

注2
 

加藤眠柳=文学家・加藤紫芳(西村天囚・渡辺霞亭など浪華文学会の同士)の弟

   
注3
 

柳荘太郎

福澤諭吉の甥で三井財閥の基礎を築いた「中上川彦次郎」に、池田成彬や朝吹英二らと共に三井銀行に登用された人物の一人。柳荘太郎は明治27年に入行した。

森家に残る上記三井銀行関係者(共通=慶応義塾出身)


賀状

中上川彦次郎

中上川彦次郎
書簡表
書簡裏
賀状:柳荘太郎
(昭和12年元旦)
写真:中上川彦次郎
(明治29年6月 丸木利陽氏撮影)
書簡:池田成彬
(明治42年10月18日付)
   
 

朝吹英二氏
 ●森家曽祖父「入江俊次郎※」 関係資料に名あり

 

 早稲田大学大学史資料センター:写真データベース 検索システムで
 ◆人物名:入江俊次郎 叉は ◆人物名:朝吹英二 をご入力ください

   (入江俊次郎=家族・係累「入江穆遠」など)

   
 

●高野山霊宝館(宝物館)設立発起人の一人(他に上野理一、渋沢栄一など)
大正十年5月15日霊宝館開館式を挙行。初代館長として金剛峯寺座主土宜法龍大僧正が就任。以後館長には歴代座主が就任した。
●上記【1】記述の「間宮泰竜(号起雲)」は、高野山霊宝館の館長を務めていた。(調査中)

森雄次(雄二)については、「平成11年6月」ニ記述がありますが、将来「家族・係累」でご紹介の予定です

森琴石と慶応義塾などについて

 

●「平成16年9月■2番目」、雅友・知友「武藤吉次郎」をご覧ください。

●森琴石が養子となった江戸末期の森家は、大坂伏見町に住んだ。その2代前の出石屋定七は、安治川(現在の福島区)で、廻船関係の家業を営んでいたようだ。近隣には蔵屋敷があり、諸国からの廻船が頻繁に往来した地であった。福澤諭吉の生地の蔵屋敷や福澤諭吉が通った適塾が近隣にあり、塾生には先月度記述の「佐野常民」などもいる。森家の文政時代の記録には豪商「鴻池」の名前が記されている。安政4年、森琴石の養父猪平(善蔵)の死亡時には「醫師御礼 緒方様」の名前や、「藤澤様」の名前が記されている。その他大阪の古文書の資料に出る人名が含まれている。(江戸時代の森家については目下調査中)

 

福澤諭吉=慶応義塾創始者/適塾創始者=緒方洪庵/藤澤=藤澤東畡と思われる/森猪平=大正12年時の戸籍謄本では、猪平の住所は「東區伏見町三丁目三番屋敷」となっている。 



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