森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成16年(5月)

4月中旬、昨年11月に引き続き、森琴石の「山陰地方スケッチ帖」に描かれている松江・出雲近辺や、鳥取県の名峰「伯耆大山 ほうきだいせん」の隣にある「船上山 せんじょうさん」近辺を訪れる。平成15年9月に記述の伯耆大山を描いた「秋景山水図」(宮内庁三之丸尚蔵館所蔵)の落款に書かれている「厨港 くりやこう」は、鳥取県西伯郡名和町「御来屋 みくりや」の事である。名和神社や大阪の住吉大社 注1の分社でもある住吉神社があり、また森琴石門弟「舩田舩岳 ふなた せんがく 注2」の出生地でもある。

注1 住吉大社リンク: (1) (2)

立久恵峡
「たちくえきょう」と読む。所原の少し先にある秘境。1キロメートル余り続く、露出した岩肌を見せる奇岩・柱石がそびえ立つ景観は南画の「山水図」を髣髴させる。
名和町 名和町にある舩田舩岳のひ孫宅を訪問する。舩田家に残る複数の備忘録などの資料には、舩岳と同期の東京美術学校日本学科第一期生である「横山大観・大村西崖」、「江中無牛・白井雨山・天岡均一・松原三五郎・平川冬嶺・柚木梶雄」などの美術家仲間、琴石門下「近藤翠石・鎌田梅石・藤井琴谷・片山橘堂」、舩岳が教鞭をとった学校(現大阪府立北野高等学校の前身)関係者「小寺直好・中村堯興」や、「多梅稚・山口玄洞・横山越山・篠崎純吉・金子銓太郎・松本幹一・小倉要」など、当時の多様な文化人との交流を知るものである。舩田舩岳の初老を祝う森琴石の小品や、舩田舩岳の作品を拝見。
名和神社 名和町のシンボルでもある名和神社は、こんもりと茂る年輪を重ねた大きな木立に囲まれており、静寂の中にも伝統の重み、又やすらぎを覚える場所でもある。後醍醐天皇の隠岐配流時、天皇を迎え守護した名和長年(なわながとし)公以下、一族がお祀りされている。名和靖恭宮司はその名和長年公のご末裔である。名和町文化財保護委員の富長源十郎氏のご尽力により、名和町の旧家などにある森琴石や門人舩田舩岳の作品を拝見する。作品中明治16年秋の六曲一隻屏風「四季山水図」の落款には「厨港で描いた」とある。またスケッチ帖にも描かれている、「大山金門」がテーマの山水図も存在した。明治43年3月47歳で早世した舩田舩岳、その1ヶ月前に描いた「山水図」は、弓ヶ浜を見下ろす「故郷」を描いている。
   
舩田舩岳の妻は森琴石の妻「ヤス」の姪「のぶ」。琴石妻「ヤス」は、森琴石の三度目の妻。福井鯖江藩士山田家の四女。ヤスと琴石の間には子が無い。
最新情報:平成13年11月 をご参照ください。 
   
  旧制大阪府立北野中学校関係者(昭和48年10月刊・大阪府立北野高等学校校史編纂会編「北野百年史」に基づく)
   
   
金子銓太郎(かねこ せんたろ)=明治28年7月陸軍歩兵中尉より大阪府立第一尋常中学校の校長として発令を受け、明治32年3月陸軍統監部教育掛に転任まで同校に赴任。その後は学習院教授、視学官、高知一中校長、六校・三校の校長、静岡高校校長などを歴任。

多梅稚(おおの うめわか)=明治25年8月より同校の音楽教師として赴任、明治31年9月に免蒹職。在職6年半。師範学校の専任となり、やがて東京音楽学校の教授となる。鉄道唱歌などを作曲した事で著名。

小寺直好(こてらなおよし)=明治22年6月に初め書記として着任、次ドイツ語教師教員、後教員心得(国漢)として8年5ヶ月勤務、明治30年11月1日に辞職。後大阪市役所にと移る。

中村堯興(なかむらぎょうこう)=同校卒業後、東京美術学校に入学。中退後、豊岡中学(兵庫)を経て同校の図画教師として赴任。教え子に佐伯祐三がいた事で知れる。



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