森琴石(もりきんせき)1843〜1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月〜現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成19年(4月)

【1】

先月初め、京都市中京区にある、オークション会社「古裂會 こぎれかい 」に、中国「明」の著名画家「項聖謨 注1」が描いた「太湖石図」に、「胡鉄梅」・「石橋雲来」・「寺西易堂」・「村田香谷」・「宮原易庵」・「森琴石」・「黒川雪蒼」9氏が追賛を寄せた作品が出品された 注2

明治14年〜明治19年にかけて、「項聖謨」作品の所蔵者である、松江の「佐藤愛山」のもとを訪問し鑑賞した時のものである。「佐藤愛山」は、松江の名士で茶道を嗜むなど、趣味人としても知られる。 注3

「太湖石」は文人が最も好んだ石で、長い間風雨に晒されてもその形を変えることなく、普遍的に在り続けるという意味から、「真に変わらぬ友情・生涯の友」を意味する 注4。森琴石は、その名が示すように奇石・怪石の収集・鑑賞を趣味とし、石がテーマの作品を多くを残している 注5。森琴石の絶筆となった作品は、森琴石が亡くなる 2ヶ月前、大正10年元旦に描いた「寿石図」である。

追賛者の多くは、森琴石とは固い友情で結ばれた人物で、「太湖石図」の上下左右に、ところ狭しと賛がしたためられている。箱書は「村田香谷」と「東嶽」が書いた。

「太湖石図」は、各追賛者の松江での足跡や、お互いのネットワークを知る作品でもある。項聖謨の作品の鑑賞は、日本の文人のみならず、当時の中国文人にとっても憧れの出来事だった。項聖謨の作品は、北京の「故宮博物院」や、「上海博物院」に収蔵されている。

森琴石は松江には知己があり度々訪問したようだ。「雲洲大原郡蓮華寺」と書かれた、明治8,9年頃の森琴石の控帖があり、明治16年10月の作品「花卉図」には「松江読画廬」の落款がある。森琴石は、松江藩が力を注いだ布志名焼の窯元での足跡もあり、松江郊外には、門下「嘉本周石」の生家がある 注6

「胡鉄梅」が、松江の「佐藤愛山」を訪問したのは明治19年3月であるが、その3ヵ月後、「胡鉄梅」は、若狭・北陸へと旅立っている。旅立ちの前に「君の如き天涯の知己は数人にすぎない」と、森琴石に書簡を送っている。注7

 

(有)古裂會(こぎれかい)=(有)古裂會のホームページ をご覧下さい

★情報ご提供者=明尾圭三氏(芦屋市美術博物館学芸課長)
★ご協力者=(有)古裂會(京都市中京区)

 
注1
 

項聖謨 (こう せいも)

*1597-1658
*字孔彰、号易庵、浙江秀水(今の嘉興)の人。明の大コレクター項元べん(こう げんべん)の孫に当たる。 松画を得意とする。

 
注2
 

項聖謨「太湖石図」:追賛年月&追賛揮毫者

明治14年春(1月〜3月) =村田香谷、潜叟(宮原易庵と思われる)、森琴石
明治14年夏(4月〜6月) =寺西易堂
天野嗽石と同行と記述 →天野氏=下記注3
明治16年5月 =黒川雪蒼  未特定者
明治18年3月 =石橋雲来
明治18年夏(4月〜6月) =陶香■  未特定者
明治18年秋(菊の香る頃) =暘■  号名不読及び未特定者
明治19年3月 =胡鉄梅


箱書

明治14年春(1月〜3月)=村田香谷
明治18年8月      =東嶽(荒勉) 未特定者

 

宮原易庵

I:漢学者。名は龍。字は士渕。通称宮原謙蔵、備後尾の道の人。号は易安・潜叟・節庵がある。京に上り頼山陽に師事した。書を以て知られている。明治18年10月6日歿。著書「節庵遺稿」

II:「名家画帖」(森琴石編/吉岡平助・吉住音吉/明治13年3月)の題字揮毫者(号潜叟使用)」・「南画独学揮毫自在 ニ」の揮毫者など。雅友・知友:池田正信の交流者・跡見花渓の師匠。

 
注3
 

佐藤愛山

佐藤愛山は通称喜八郎、諱は長經、字は伯徳静古堂と号す。
松江市白潟本町に生る。資性温厚篤実、夙に和漢の学を修め、傍ら茶事に通ず
農事の改良を以て自ら任じ、前田正明品川弥ニ郎(彌ニ郎)子等の指導を得たり。
明治二十三、四年頃出雲地主農談会を創設し其会長たり。
後島根県多額納税者選出貴族院議員に任ぜらる。
壮年天野嗽石*の門に入り南画を学ぶ。好んで山水梅花を描く。
晩年耳聾し社交に便ならざるを以て世事を謝し絵事に親しむ。
大正9年三月三日歿。享年76歳。

天野嗽石=後日索引にてご紹介します

―「島根県画人伝」 (桑原羊次郎/島根県美術協会/昭和10)―

桑原羊次郎氏=平成18年4月【2】注4:豊公遺物展覧会出品者名の中ほどに名前があります 

備考
I:名を佐藤 彝経(さとう のりつね)ともいう。
II:漢学を山村勉斎(良行)に学び、著書(校正)に「今体蘇詩一班  2冊」(山村良行編/佐藤彝経&吉野和成校/東京 修文館/明22.1)がある。
III:森琴石とはほぼ同年代(生没年が1,2年早い)。

山村勉斎=出雲生まれ。出雲の儒者(廣瀬藩儒)。名は十郎から良行に。字は聞伯。号は勉斎、別に半城。
師匠は塩谷宕陰・大沼枕山。維新後、島根県師範学校講師となる。明治44年、72歳歿。
その他書誌=「広瀬藩儒山村勉斎覚書−幕末儒者の生涯 −」(山村良夫/飯塚書店/昭和53年)

★資料ご提供=大原俊二氏((米子市史編さん事務局事務総括・・米子市図書館協議委員・米子藤樹会理事)

 
注4
 

太湖石とは

太湖石というのは、中国江蘇省と浙江省の境にある太湖に浮かぶ島洞庭西山から採れる石で、何万年もの間、湖(アルカリ性の水質)の波浪の浸食を受けて、波打つような穴だらけの奇怪な様相となった灰白色の硬質な石灰岩のことを言う

*太湖石については、伏見无家氏のホームページ 「鎌倉琴社」 内、下記項目に詳述があります。

鎌倉琴社
―賞琴一杯清茗― 第十回  『醉古堂劍掃』と文人 其の九 

 
注5
 

森琴石及び、当HPでの「奇石・怪石」などの記述ヵ所=資料:詩賛 「題琴石寿石奇千古図 画賛」・「平成17年6月■3番目

 
 

森琴石 -太湖図-

寿石奇千古図」 作品全体

「南画独学揮毫自在 森琴石編輯 三」 より

★画像ご提供者=佐藤史郎氏(岡山市・佐藤僊友孫)

佐藤僊友=「平成17年4月■第8項目」、「平成17年6月■3番目」・門人紹介「岡山県:佐藤僊友

 
注6
 

当HP内、森琴石の松江及び松江近辺の足跡

平成16年5月」・「平成17年9月同10月」・「平成18年4月【2】■4番&5番 &注5
平成18年9月【2】注1、森琴石著「南画独学揮毫自在」末尾、松江の出版人:園山喜三右衛門」

☆「松江読画廬」について
森琴石は「読画廬」・「聴香読画廬」を落款に使っているが、主に大阪の自宅の画室で描いたものを指す。地方で描いた場合は「浪華琴石(栞石)」や「寫於松江」・「松江客次」等と書く。

 
注7
 

資料:清国人からの書簡 -胡鉄梅 明治19年6月1日&6月30日- をご覧ください

当HP及び森家資料による 胡鉄梅の足跡(概略)

明治13年 森琴石三十八歳之像 など
明治14年6月 =「富貴に蝶図」胡鉄梅&王冶梅 合作画 (為森琴石)
明治14年 =「北方心泉」と上海で交流
明治15年8月 =大阪滞在=中野雪江に「紅梅双鶴図」を揮毫(浪華客次)

「歴史と神戸第9巻 第2号★」(神戸史学会/昭和45年)
〜中野理氏:<胡鉄梅と中野雪江>〜 より

明治15年11月 =「月ヶ瀬真景図」(森琴石画)に 跋一 揮毫
明治16年5月2日
     〜7月23日

=新潟五泉「中野雪江」家に滞在

 

*中野家に詩文書画教師として雇用される
*五泉を中心に近郷の 村松・安田・新潟・加茂・新発田などへ赴き、各方面からの依頼に応じる

「歴史と神戸第9巻 第2号★」(神戸史学会/昭和45年) 
〜中野理氏:<胡鉄梅と中野雪江>〜 より

明治17年7月15日 =岡山滞在(「翰墨因縁」書簡日付)
明治18年5月16日 = 京都滞在=「学海日録 第6巻」(岩波書店)
明治18年10月〜12月 =砥部滞在(愛山窯で染付けなど)
明治18年12月 =松江滞在(鳥取渡辺美術館蔵 作品による)
明治19年3月 =松江滞在(佐藤愛山訪問)
明治19年6月 =北陸路(書簡:胡鉄梅


★「歴史と神戸第9巻 第2号:胡鉄梅と中野雪江」(神戸史学会/昭和45年)=成澤勝嗣氏(神戸市立小磯美術館学芸係長)より、平成14年にご提供頂きました。

 

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