森琴石周辺の人物や事柄・資料などを紹介する項目です
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「田川春荘画の「孔子像」と地域社会」 |
文:大国正美「地域研究 いたみ 28号」(伊丹市立博物館・平成11年3月・)より |
一九九七年秋に、伊丹市立博物館で開催した「ふるさとの教育史・」の展示で、春荘筆「孔子子弟薫陶図」(本誌巻頭写真参照 *当HPでは掲載出来ない)という書画が、玄関の展示ケースに飾られた。左下には「辛亥夏日写於養清山房応有志高嘱、贈稲野村立小学校 春荘」と書かれていて、春荘が明治四十四年(1911)に有志の依頼をうけて作成し、稲野小学校に寄贈した経緯が分かる。 「稲野尋常小学校沿革史」の明治四十四年十一月十三日の条には、「新田中野村山田柳太郎・安倉村(現宝塚市)田川善近・阪上兵三氏ヨリ教育修身孔子子弟薫陶図壱副ヲ寄贈シ来レリ」とあって、その記載が裏付けられるばかりか、「教育修身」のために寄贈されたことが分かる。 作者の春荘は、寄贈者の名前に見える田川善近その人であり、「川辺郡誌」によると、別号を養清山房といい、安政三年(1856)の生まれで、「浪華南画の泰斗森琴石翁門下の耆宿たり」とある。盛んに書画を作成し、作品はまとめて地元の住吉神社に奉納されたと伝えられるが現存しない。また小浜・安倉地域などの旧家に襖絵などが発見される。また西宮門戸の旧家でみつかった春荘画「須磨八景」は、一昨年七月に開かれた伊丹市立博物館の「資料でわかる歴史とくらし」展で公開されている。また最近、伊丹市昆陽居住の河野輝洋さん方に、襖絵を屏風に仕立てた春荘画の「立花図」(仮称)が保存されていることが分かった。ただ河野さん方は明治初期から大正期まで岐阜県・赤坂町で河野大雅(初代忠治=明治三十七年没・七九歳、二代忠兵衛=大正元年没・六一歳)の号を使い、温故焼きの窯元をされていた。昭和初期に彦根に移り、このどちらかで入手されていた。春荘の画の流布を考える上で興味深いデータである。 春荘の師・森琴石は、有馬温泉の中の坊の一族・梶木源次郎の子として天保十四年(1843)に生まれた。九歳で大坂・森家の養子となり、南画を鼎金城・忍頂寺静村から学び、三一歳の時東京に出て、西洋画・銅版画を学んだ。名所図や地図作成などにかかわるが、明治二十年代からは南画に専念し、関西南画を代表する画家となった。 そして明治二十二年四月の町村制施行で小浜・安倉・米谷・川面・見佐村が合併して出来た際に選挙掛長を務めたうえ、一二人の小浜村会議員の一人に選ばれた。さらに五月の初村会の選挙で村長に当選。以降、大正二年(1913)まで六期の長きにわたって村長を務めた。在任中、明治二十六年に阪鶴鉄道会社が設立された時、田川は発起人と株主としても名を連ねた(「鉄道院文書」)。また「川辺郡誌」によると「特筆すべきは日清の役、身は郡の町村長総代として大本営に天機を奉伺し、復日露の役、募債の功は墜に勲七等に叙せらる」としている。 さて三人が稲野尋常小学校に「孔子子弟薫陶図」を贈った理由は定かではないが、新田中野の中野小学校は明治四十一年に稲野小学校の分教場になったことが背景にあり、分教場校区の地域社会と本校の関係を反映しているのだろう。 伊丹の近代教育が、地域社会とどう絡んで展開したのかを探り、地域の名望家が学校の思想教育に深くかかわっていることを明らかにする重要な資料である。一方で、あらためて儒教が近代教育に及ぼした影響の大きさを思う。 |
◆大国正美氏=伊丹資料修史等専門委員長・神戸深江生活文化史料館副館長 |
「砥部焼きと森琴石・胡鉄梅」 |
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●関連事項=「平成16年11月・12月」 |
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「砥部焼き資料 第一集」
(二)
(三) 【森琴石】 2:明治19年 「愛山窯」で、手あぶりを染付けする -染付蘭絵(寒鳳蘭)-
【胡鉄梅】 明治20年:道後に来る、旅館に滞在し墨絵を描く=海南新聞記事 |
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