森琴石(もりきんせき)1843~1921
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画家小伝(がかしょうでん)

明治44年2月版

小倉市大阪町8丁目
南画同志会蔵版 非買品

縦12,9x横8,2cm 全51頁

※下記の文献は、当時の世相を示す貴重な資料であることを考慮し、できるだけ原文のとおりに掲載したものです。
一部の漢字・仮名遣いは読みやすさのために書き改めております。何卒ご了承ください。
画家小伝(がかしょうでん)

南画同志会会則

第一条 本会は絵画の普及を目的とす。
第二条 本会は偽作贋物の不正事をなす者を駆除す。
画家にして此悪徳を行う者あり商姞キツ者にして是れを常行となす者あり共に正面より之を攻撃して他人の警戒を促す。
第三条 新古書画鑑定の依嘱に応ず但謝金を受けず。
第四条 本会は第一条の目的を達するため名案を促がし各地に出張して臨時揮毫会を開く。
第五条 新画の趣味を解する同友の為め別に小団体を組織す。
第六条 本会は画派の如何に係わらず左の資格を有する画家を選抜して正社員とす。
(一)年齢四十歳以上のもの。
(二)技両群を抜き大家の域に達せるもの若くは将来大家の域に進み得る見込ある者。
(三)品格高く人格卑しからず誠意ある者。
(四)信義を重んじ約を履行する者。
以上の資格を具備するものに限る 既に正社員に推奨したものと雖も背徳の行為あるか本会の面目を傷くる行為ある時は直ちに除名し之を公表すべし。

絵画会の現状を嘆く

間部霞山

明治四十四年の初夏より京都大阪東京の地は急轉直下の勢を以て新画の流行を見るに至れり 昨日まで古画一点張の老骨董店も俄かに店則を改めて新画の販賣に從事するのみならず お門違の呉服店や新聞社が頻りに新画の百幅会だの展覧会だの美術倶楽部だのと騒ぎ廻るに従い ヘボ画工迄も大繁昌を極めて一夜天狗の大家先生が其所にも此所にもウヨウヨと殖へて来た 新画鼓吹の元祖は我輩であるから大いに喜んで感謝すべき筈なれどコウなっては来ては感謝どころか悲憤に耐へぬ憾みがある 悪むべきは画家をあげたり下げたり翻弄自在にする社会の一部である 之と同時に掀翻の渦中に投して得々たる彼の軽佻浮華なる画家も亦憎むべきものとす 冷静に現時の絵画界を通観すれば画道の隆昌は外面の体裁にして其実は画道を破壊し衰退せしむるの素図を含めるものと言うべし 実力に副はざる名声は遂に一世を欺瞞し得べきものにはあらざるなり 盲徒付加する野次馬のみありと思うなかれ 絵画本来の面目を解し虚飾虚栄に術数を弄することを看破するの識者決して少なしとせず 此種識者の決して堕落せる現在の状態を革新せんとするあらば彼れ似而非なる画家を駆逐するを寧ろ易々たるものあらん 本会は断じて現時浮華せる渦中に接近せざるなり 本会聊か獅子吼すべき抱負を有すれども徒らに言辞の末に走るを避けて先づ実行せんと欲す 即ち穏健にして実力を有する左記諸氏を推挙して斯道の為に奮闘すべし

望月金鳳翁、三島中州翁、日下部鳴鶴翁、秋月天放翁、野口小蘋先生、児玉果亭先生、巨勢小石翁、前川文嶺翁、原在泉翁、内海吉堂先生、桂田湖城先生、田中柏蔭先生、河村虹外先生、藤田秋塘先生、池田春渚先生、小林卓斎先生、中林静淑先生、綿引東海翁、田村月樵翁、松尾晩翠先生、森琴石翁、三好藍石翁、寺西易堂翁、木蘇岐山先生、吉嗣拝山先生、近藤蘊圃先生、八十島叉橋翁、雲林院蘇山翁、今尾景年翁

顧みれば過去二年の間に於て本会の中心たりし大雅堂定壱翁、永井香圃翁逝かれて間もなく木村耕厳翁、細谷立斎翁を失ふ 村田香谷翁老衰して筆を絶つあり 川端玉章翁の老衰せるあり共に痛恨なりとす

心事陋劣にして法螺吹きの吹き損ねたる鈴木松年と東本願寺本門の天井に天女舞楽図を描き損ねて逃げ出したる竹内栖鳳の如き若しく実力以上に名声を博せる三都の凡々画家は唯だ是れ文部省展覧会出品の適ま合格したる僥偉と新聞雑誌を買収し番付に運動して自ら大家なりと自惚れるに至りては 僭越の甚だしきものにして共に歯すべきものにあらず
姫島竹外の如き心性の陋劣にして浅薄なる素養の身を以て堂々たる玄関構の借家に住し盛んに骨董商や配下の者を利用し人為的大家たらんと焦慮するあり或いは贋作に従事し不正の金銭を獲得し酒色に耽溺し遂に有夫の婦を侵すもの田近竹村 山田介堂 の如き即ち之れに類せずや
由来書画道は神聖なるものなり 一片の頑弄物に非らずして心眼を悦ばしめ精神の爽やかなるを追求し之を床上楣間に掲げて敬意を以て之椄せざる可らず
従って筆者の人格と識見とは先ず第一に探穿するを要す如何に巧妙に描きたればとて職工の筆になりたるものが名幅たり得べきや 現代幾万の画人ありと雖も本書に掲げし数十氏を除けば 他は皆職工者のみ番匠者のみ斯る者輩の筆に成りたるものは一種の図様のみ色彩のみ坐下に於て見るべしとするのみ
断じて所謂画幅と称すべからざるなり
嗚呼画伯を望むの急にして其人に乏しきこと何ぞ夫れ甚だしきや 明治44年の秋季より以来部門に於ける新画趣味の激発に随ひて俗悪醜汚の弊風之れに伴ふて起きるを見て予は痛切の本会の疾呼して世の迷夢を醒すべき責任あるを感じ茲に聊(いささ)か一言を呈せんとするものなり
読む人幸いに蕪詞を咎むるなく本会主張の存ずる点を斟み玉まひて益々国粋美の顕彰に力を添へられんことを希ふ

森琴石先生(大阪)

「温厚寡言の琴石先生は実に稀に見るの高士なり 雑駁(ざっぱく)にして無趣味の大阪の地に於て絵画趣味を鼓吹せるものは先生を以て租とす 爾来数十年敢て功名利達の後を趁はす権謀術數を尽くして名を售る徒輩の卑に微はず 只だ是れ真面目に孜々として租道の研鑽に従ひ更に世上の風塵に染まざるものは先生なり 斬道の大恩人として絶對主権者の地位を有し而して他に比し得るものなき程の実力を有しながら 毫も自尊の風なく衒ふの心なし 嗚呼何ぞ高潔なる清廉なる坐るに古聖先哲を偲ばずんばあらじ 今の策を用ひ謀を設けて高く売らんとし名を衒(てら)う某々大家先生は須く琴石先生の態度と心情とに対し深く省みて大に恥ぢよ 乱れつ汚れつ己自らを呪へる現代の絵画界に於て琴石先生の健在あれば吾人頗る意を強ふるに足るものあり

田中柏蔭先生 (京都)

直入門下の俊秀にして直入翁の養子となり配偶者の死と同時に田能村の籍を去りたるも田能村家の後見者として今尚お力を竭しつ、あり田中家を相続し十数万の資産家となりたれども日常斯道の研鑽を怠らず其造詣の深き近き将来に於て第二の直入翁たる聲名を博し得るものは先生なり洋々際涯なき先生の前途多望なるを祝福す

内海吉堂先生 (京都)

吉堂先生は塩川文麟に師事して業を卒え後ち支那に航して四百余州の山川を跋歩し南畫の巨匠任伯年翁の家に寓して訓陶を受けるもの十数年翁深く先生の大器を愛し後継者として愛娘の女婿とす翁の没後故あり帰朝して専ら畫事に従う先生の畫は現代南宗畫家の夫れに比し常に一頭地を抜くものあるは支那に於て習得したる実力の発揮に他ならざるなり温厚着実の先生が詩畫三絶の技を併せ有して斯界の白眉となる本会は堕落せる現代の風尚を警醒せんと欲するの時先生の加盟を得たるを喜ぶと共に同好者諸兄の為に先生の出盧を報じて喜びを共にせんとするものなり

雲林院蘇山先生 (熊本)七十六歳

先生は熊本の人幼より畫を好み木下逸雲に師事し後ち筆を携えて各地を漫遊す足跡の印する所全国に普く故川田日本銀行総裁の知遇を得て岩崎久彌氏本邸に留り東都上流縉紳の為め艶麗の筆を揮うこと十数年近時熊本の敷居旧居に帰臥して全く世故と断ち専心画筆に親しめり昨夏 伏見宮殿下の特命検閲使として熊城に駕を駐めらるるや 殿下親しく先生の画筆を愛せられ数葉の揮寫を命ぜらる実に老熟錬磨の筆緻は坐ろに人をして美に酔はしむるものあり亦た逸品たるを失わず

近藤藍圃先生 (久留米)八十一歳

老いて益々壮なる先生は昨夏朝鮮王室の招請に応じ景福宮に於て大官大臣と席画を描きしに杖を突かず眼鏡を用いず見るもの其壮健に一驚を喫したりと云う先生は鐵翁門人にして純南画の人としては実に先生を以て九州第一の高手となす

寺西易堂先生 (大阪)八十八歳

書風の雄偉と素養の深きと既に一世を風靡したる易堂先生は数年以来健康を損したるため筆硯を遠ざけられしかばすでに物故したりとの虚報をさえ伝えられき然れども先生は健康を回復し尚お壮健にして浪華の幽境に霊腕を揮われつつあり敢えて同志謹告す

綿引東海先生 (京都)七十六歳

先生は水戸派の学者にして詩文を以て世に知らるる彼の俊傑藤田東湖先生の門人として現存するものは独り東海先生あるのみ先生は書道に於て亦た一家を成せり近時売書家徘徊し到る所俗悪の文字を臆面もなくナグリ回るものあり斯道の品位を傷け書道の聲誉を失墜すること甚だし吾人は切に先生の東船西馬して斯界の刷新に竭し玉わんことを希うや痛切なり

池田春渚先生 (京都)

田能村直入門下なり初め僧五岳に師事して道を問う故に詩と文と書と併せて優れたるものあり其前途嘱望すべきもの甚だ多しとす

永井丹水先生 (京都)

田能村直入最終の門人なり昨秋入って永井香圃翁の家を継ぐ建仁寺武田默雷師に就き禅を学び余暇ある毎に参禅して心身を練る蓋し現時新進画家が売書一方に腐心して修養を欠ぐの弊風を見る毎に丹水氏の心状を見て南画道のため深大の快感を覚ゆるなり

松尾晩翠先生 (京都)

内海吉堂の高足なり山水花鳥各々細緻の筆を以て一木一石も苟もせず謹厳にして能く師風を尊守す篤学の人に非ずんば能わざる所なり洋々たる先生の前途を祝福するもの予一人のみならんや

阿南竹垞先生 (長崎)

淵野桂仙門より出でたるは田近竹村と先生とのみ先生はさらに長崎に出でて守山湘颿に師事す最近支那に赴き揚方敬氏に就いて南画の薀奥を探り書道を研究し今や長崎に卜居して鎭西の画壇に雄飛しつつあり

田村香谷先生 (大阪)八十一歳 (注:村田香谷=原本誤殖)

筑前博多の名儒村田東圃先生の長子なり海屋貫名崧翁の門に入り刻苦勵精遂に其衣鉢と継ぐ壮時支那に入り蜀山山峡兩到る所の風物景勝を探り詩囊綿繍を以て充つ今や阪地の富豪住友吉左衛門氏奉養の意を以て加護せられ殆んど一般の依嘱は之を謝絶し居れり

野口小蘋先生 (東京)七十一歳

女流にして帝室技芸員となり正七位を拝するもの既往現時唯だ小蘋先生一人あるのみ斯道に重んぜらるるもの故なきにあらず

今尾景年先生 (京都)六十八歳

鈴木松年氏と共に百年翁門下の二秀才なり洛城四條派の二頭目として覇を争う所偉観なり松年氏の俗臭紛々現ナマ主義なると共に景年先生の君子風とは対照の妙を有す松年氏の駄法螺吹きにして品性の下卑なるを見る毎に厭悪唾棄の情起れども景年先生に接するときは師父の前にあるが如き思いして襟を正さしむるものあり。

富岡鐵齋先生 (京都)七十七歳

詩に書に果た画に往くとして可ならざるなく各々咀嚼し得て一家格を創めたるものは先生なり男謙藏君文科大学の講師たり父子相携えて文壇に雄飛す羨望に堪えざるなり若し夫れ唐宋の古文書を藏するの多きに至りては先生を以て第一位に推すべし文を好み学に篤き先生の如きは世間稀に見る所なり。

望月玉泉先生 (京都)七十八歳

名門望月家画派の五代目を承け継ぎたまえる先生は斯道の白眉なり其人格と技能とは畏くも雲上の聞こし召す所となりて帝室技芸員の顕職を拝命せらるる京都大阪を通じて画家一萬人と云う此多数の画家中未だ曾つて帝室技芸員たるものなし獨り玉泉先生ありて関西画壇の威信を保ち得るなり凡百の俗画輩に比して先生の尊ぶべき所以の理ここにあり男玉渓先生斯界の麒麟児として尊重せらる。

巨勢小石先生 (京都)七十歳

巨勢金岡の末流にして先生は実に三十六代目の當主なり画道に於ける先生の精励研鑽の労苦は一片の立志篇なり斯くて先生は諸家の長所美點を採酌して一家の画風を創開せられたり先生の画は容易に得ることかたし

中林淸淑先生 (京都)八十三歳

淸淑先生は彼の書聖中林竹洞翁の長女なり優腕清楚の画風は父翁の衣鉢を継げるもの夙に近衛公の信任を受け久しく東都に在りて雲上月卿の爲めに画学を教えつつありしも最近之を辞して京都鴨川のほとりに住し優游閑日月を送り亦た世事を省みることなし。

原 在泉先生 (京都)六十八歳

原在所原在照原在中等の五代目たる在泉先生は京都六大家の随一ない幽韻に富み雅趣深き先生の画は高潔なる先生の人格と共に多方面の士に愛賞せらるるなり先生文藻に富み風流を談ずる時些の俗味なく清節高き人たる事は一度び先生に接する人の首肯せらるる所なるべし今や南画の大家と称するものすら俗気紛々堪えがたきものあるに反し在泉先生の如きを有するは我芸林の誇りとすべきなり。

深田直城先生 (大阪)六十三歳

門下三千人直城先生の勢力とご信望とは之を以てするも知れる竹内棲鳳と同門兄弟弟子たる直城先生は地の利を逸して比較的世に知られない棲鳳は俗才に長じた男である彼れの今日の名を成した原因が策略づくめであるから畢竟一時の虚名で何等尊べき所以はない見よ棲鳳の名に比べて其一門の寂寥なるを僅かに徳田隣齋が人中に出て居るのみで気の利いた門人が出来ないのである反之我か直城先生は虚名を避けて実力を養うので門下に平井直水、遠山直亭、戸雁直文、萩尾九皐、伊藤直應なんと一家を成した鏘々たるものを出して居るではないか寡言温厚なる先生に接しては何人も敬慕の念を起こさずには居られまい。

前川文嶺先生 (京都)七十五歳

先生は京都六大家の一人で而かも超然として紛々たる功名塲裡を脱して居られる敵として見るものなく頼みとする味方も持たぬ唯だ自然の風物を侶として会心の笑を漏らしつつあり先生の画は夙に一家を成して時人の愛玩措かざる所なれば今茲に呶々の言を用ゆるの要なし一言附記したきは先生の落款の美事なる事である明治になってより何れの画家も画にのみ心を取られて落款の拙なる誠に小学生徒の金釘流で平気に済まして居る松年や棲鳳などの落款は丸で文字になって居ない況んや第二流第三流の新進画家の如きに至りては殆ど字を知らぬものの書いたものとしか見えぬこの點に於て文嶺先生の落款は実に立派なものである。

従五位勲六等 川端玉章先生 帝国技芸員
従五位勲六等 望月金鳳先生 帝国技芸員

東京画界の重鎮たるは人の詳知せらるる所なり。

中村不折先生 (東京)

明治画壇に一大異彩を放ち欧米を遊学して東西の趣味を比較研究し書道に於いても夙に前田默鳳先生とご提携し六朝風尚を皷吹し文琳の光輝を大ならしめたるものは不折先生なり一筆一墨悉く真心を傾注して敢て苟もとず文章に於て亦た一家を成す口も八丁手も八丁とは我が不折先生を言うものにや俗悪なる画人の筆蹟に随喜するの士速やかに其非を悟り来つて我が不折先生の門に集まれ希くば俗習を離脱し得て清風明月に對するの想あるべし。

高島北海先生 (東京)

帝国大学を出て林学士の肩書を有する先生は我が美術界の寵児として一世に重きを有す此年文部省の国設展覧会に於て異彩を放ち時人の讃美する北海先生は東都画界の覇王たる実力を有せらる東に航せんとして船は遂に西に航せり而かも西に航して所期の目的地に到来せり画事一方に依って世に立ちし先生は凡百の先輩を凌駕して遂に成功す亦た偉なる人と言うべし。

小室翠雲先生 (東京)
山岡米華先生 (東京)
小堀鞆音先生 (東京)

米華先生は美術院派の雄将鞆音先生は容齊派の名家共に東都画界の名将なり翠雲先生亦た東京南画の頭目たり。

岸浪柳渓先生 (東宋派)(東京)

東京に於ける南画は北海、柳渓、碎 、寒山、鐵園諸氏に依って維持せられつつあり近時東都の地頻りに南画流行するも淸湖、小蘋、花渓、老境にあると且つ何れも女流なるとに依り廻瀾の策を樹つるものなし唯だ以上の諸氏ありて之を維持せらる諸氏が培養の效は遂に期年ならずして地を覆うの繁茂を来さんこと期して待つべし。

藤田秋塘先生 (南画)(神戸市)

京都御所北面の武士なり壮にして中西耕石翁に師事し翁の没後画学校に入り業を卒へて諸国を漫遊す此間切磋琢磨して遂に秋塘派なる一流の画風を創始したり精密にして多趣一點の俗気を止めず時代に適応したる画風なり先生職の神戸高等商業学校に奉じ生徒を監す公餘筆を執るのみにして俗画師の如く吹聴謀畧を策せざるため弘く世に知られざるも其筆蹟に接する者は何人と雖も直ちに先生の名家たる実力を認を得めべし。

八十島叉橋先生 (肥前諫早)八十二歳

詩書画に造詣深く九州南画の特色を発揮して一方の雄鎭たり人と爲り寡欲率直壮年の頃天下を周遊し詩嚢重きものあり清節君子の如きを知らんとせば先づ来つて先生に見へよ。

吉嗣拜山先生 (筑前大宰府)六十七歳

廣瀨淡窓の門より出て後ち僧五岳に師事し更に中西耕石翁に学ぶ曾つて太政官に奉仕せし時震災の爲右腕を挫折して切断す左腕獨劈にて毫を揮ふ書画詩文に長じ九州唯一の南画の大家なり今や先生の名は遠く全国に聞こえ斯道に重きをなすに至れり桃李言はずして下自ら徑を成すとは先生の謂乎。

河村虹外先生 (南宋派)(京都)

重春塘翁の一粒弟子なり覇気満々静潚淡雅の画風は各派を通じて愛賞せらる同門杉谿六橋男爵の如き先生の驥尾に付するのみ。

平尾竹霞先生 (京都)
三井飯山先生 (京都)

何れも田能村直入翁の門に出で声望手腕共に互角なり飯山先生は最年少者なるも直入門に入り師翁と起居を同じくすること二十余年翁の愛育他に比して厚く師翁の画脈を精知すること飯山先生を以て第一とすべし。

桂田湖城先生 (京都)

森川曾文の門より出でて出藍の譽れあり四條派の画人としては珍しくも各地を漫遊して風物を探求せられけり頗る健筆の人にして能く談る攝津西宮の海浜に居を移し隠然京阪両地に頭角を現はせり。

池田桂仙先生 (京都)
松山鴨江先生 (京都)

桂仙先生は長子鴨江先生は其實弟なり伊勢の大儒齋藤拙堂先生の令孫なりとす池田雲樵翁の配は拙堂先生の長女なり桂仙鴨江両氏は實に雲樵翁の男なり兄弟相携へて文壇に驅馳す亦た快ならずや画道に精通するのみならず祖父の血を享けて詩文の素養甚だ深きものあり前途の多望寧ろ羨むに堪へたり。

森 雄山先生 (京都)

近代の巨檗森寛齊翁の家を継ぎ夙に一家を成す先生徒らに実名の奴となることを耻ぢ自重して日夜素養に心を傾けつつあり其将来に嘱望するもの予一人のみにあらざるなり。

三好藍石先生 (大阪)七十四歳

先生は伊豫の豪族なり家運の變に逢ふて画家となり累代秘藏の名画を見たりし素養は其頭脳に印象し且つ幾多の名匠大家の来り訪ふ者に接する毎に道法を叩きたる閲歴は移して以て胸中の趣きを富豊ならしめたり。

秦 金石先生 (南宋派)(京都)

故中西耕石翁の門下なり南画協会幹事として斯道に重望を負う文学の素養あり関西に於ける南宋派の重鎮なりとす。

田村月樵先生 (京都)六十歳

宗立田村月樵先生は我国に於ける油画の急先鋒なり明治十五年以後は西洋画の名家続出せるも其以前洋画とし言へば月樵先生一人ありしのみ先生は我国洋画の創始者なると共に一種の雅筆を揮ふて日本画を描き就中佛画人物画に至りては清楚簡潔自家獨創の妙味を縦横に發揮せり。

高橋草山先生 (神戸市)

渡邊小華先生の門下なり花鳥を能くし兼ねて鑑識あり古今の史乗に精通す客を好み高談風發善詈滔々として攻撃の舌鋒を揮ふの時話上の人をして殆んど完膚なからしむ當世畸人傳中の一人なり。

八木文卿先生 (神戸)八十歳

播州粟賀の藩儒なり詩文を能くし傍ら画を描き遂に画家として世に立つに至れり画風一家の趣を成せり。

中西松琴先生 (京都)

鈴木松年門下の古参なり松年派の人なれども師風と趣を異にして一家風を成す元と公卿の出身にして父祖は由緒ある家柄なると共に和歌は先生の家風なりき故に先生も亦た和歌に湛能にして筆蹟亦た美事なり京都の凡々たる賣画輩と全く選を異にす。

尾竹越堂先生 (大阪)
尾竹竹坡先生 (東京)

越堂、竹坡、國觀は実の兄弟なり三者共に名を成す実に斯道の佳話なりとす長子越堂氏は觀明の號を用ひしに公爵伊藤春畝氏越堂の號を選み與へてより專ら之れを用ゆ二弟竹坡氏は文部省の国定教科書中の圖を繒き國觀氏と共に文部省を代表する當代画伯の二秀才なり。

服部五老先生(南画)(京都)

京都に於ける南宋画家中の白眉なり精錬蕭殺の趣味を含める先生の画は其薀蓄せる文学の趣味と併発して識者の愛賞する所甚だ厚つし常に四方を各遊して到る所の山川風物を探り得て年と共に画趣一段の風尚を加ふるを覚ゆるなり。

狩野雅堂先生(狩野派)(京都)

本家狩野に出で圭角を捨て、一家を成す画趣掬すべき甚だ少なからず豪飲斗酒を傾けて尚ほ辭せず且つ多趣多芸脱俗の名手なり。

兒玉杲亭先生(長野縣渋温泉塲)

直入門下の人なれども其画技は師翁を凌ぎつつあり西に拝山あり東に杲亭ありと此言穿ち得て妙なり。

手島素岳先生(南画)

文部省の主催せる国設展覧会に於て一等賞を得て以来弘く世人に知られ優美なる花鳥山水は非凡の技能を発揮して同人を驚倒せしむ會って琴石森氏に師事したるも頼家と郷黨を同ふして山陽杏坪先生の遺風に化せられて文学の造詣あり其寡慾にして謹厳なる性格は人をして敬慕の情を起こさしむるなり先生春秋に富む大成の期蓋し遠きに非らざるを知る。

横井玉仙女史(加賀大聖寺町)六十二歳

年三十にして寡婦となり意を決して獨立生活を志し綠髪を断り男装し空手にして上海に趣き任伯年胡公壽等に就き南画を研究し居る事数年能く支那の風俗景勝を探求し帰来遍く内地を遊歴す故田能村直入翁の愛する所となり田門に籍を有すると誰其素養其画芸は悉く之を直入に受けずして支那に於て学べるもの女史にして筆の人たらしめず俗間に奔走するを得せしめば奥村五百子をして容易に名を成すを得ざらしめしならん女史の一代を通じてなせる動作は實に稀れに見るの女丈夫也。

手島石泉先生(南画)伊予松山市

郡長の職を捨て伊予織物株式会社の社長となる俗務を見るの傍ら南画に筆を染めて会心の笑を漏らすものは先生なり其雄逕の筆力は専門画家を凌駕す文事の素養ありて錦上更に花を添ゆ南海唯一の名家なり。

小野素文先生(土佐派)(大阪)

小野周文翁の長子なり土佐派に属し艶麗の筆を振ふ殊に毛筆を以て肖像を描くの一事は先生独特の長所にして他の企及し得ざるものあり先生俳句に長じ交友頗る奇人多し田中圭水、狩野永信、早川尚古齊、吉向治兵衛等何れも一芸の名人たると共に奇人なり是等を友とし朝夕往来す先生の奇癖亦た想ふべし。

山元春擧先生(四條派)(京都)

京都美術学校の教授として夙に令名高し先生は頗る同情に富み清廉率直の性格あり京都の大家にして松年の如き大山師あり乱倫醜行を敢てして省みざるも俗人輩の随喜者多きは笑ふべし棲鳳の如き芳文の如き假令大家たるの稱呼ありとするも其性格の卑下にして利を得んとし財を貪ぼるをのみ本能とする如きは断じて画師として尊むべきものに非らず此點に於て春擧先生は真に萬綠叢中の紅一点なり四圍の悪臭に感化せられず超然として芸術の爲めに満心の力を注がるるなり世人の信頼篤きは其所なりとす今後の大を成すもの期して待つべし。

永松春洋先生 (大阪市)
松岡呉藍先生 (小倉市)

共に故十市王洋先生の門下なり春洋先生は夙に阪地に出て門戸を開き浪華画界の重鎭を以て目せらる。 呉藍先生は温厚の君子なり門司市の技師にして高等官たり先輩知遇の情誼上官海の人たるの止むきものあれども居常画筆を捨つることなく餘暇ある毎に絹紙に臨んで雲煙を楽しまる。

書家之部

秋月新太郎先生

天放、大愚、愚佛、必山等の雅號を用ゆ九州の大儒秋月橘門翁の長子にして維新後太政官大書記官、女子高等師範学校長を経て敕選貴族院議員たり西南戦争の古戦場田原坂の記念碑々文は先生の筆なり。

日下部鳴鶴先生

之恭、一六と共に明治の三傑と稱せられしも僅かに鳴鶴先生一人の現在せるのみ先生將さに老境に入る筆硯意の如くならざるものあり先生の眞蹟を望むの士は一日も早く本會に來り之を乞へ。

前田默鳳先生

先生は我國に於ける唯一無二の画学者なり支那の各地を歴訪して親しく明唐の書道を探求し歸來三十餘種の書籍を公判して我文界を裨益し啓發せり就中佩文韻府の如きは膨大二百四十餘巻なり勵精群を抜くの人に非らずんば爲し能はざるものとす。

永阪石埭先生

医を以て世に立つと誰も詞藻の豊富にして書道の能なるものあり寧ろ文人として世の推重する所となる博文館の図書の表題は悉く先生の筆に成るものにして一種の妙味を存するは人の知らるる所なりとす。

藤澤南岳先生

浪花の名儒南岳先生の実力と声望とは吾人の言ふを待たずして諸君の熟知する所なり。

小林卓齋先生

先生は貫名崇翁の門人なり今日崇翁門下として現存する者画に於ては村田香谷あり書に於て小林卓齋翁あり翁本年八十一の高齢に達す女婚は大阪朝日新聞社長たる村山龍平君なり翁の老後優遊自適するを得るもの故なしとせんや先生多く客を謝絶せらる本会の爲には常に切々として毫を揮はる吾人深く先生の徳を銘して忘る能はざるなり。

木蘇岐山先生

日本現代の詩人三傑として森槐南高野竹隠木蘇岐山の三氏を推す而かも七絶と排律とに至りては岐山先生一日の兄たり予諸大家を歴訪して京阪の地に至る毎に必ず先生を芝田町の僑居に訪ふを常とす訪ふ度毎に深く先生の篤学を感ずるなり机上坐邊に散乱せる古本の詩文集堆かきを見るなり蓋し先生読書し考査に熱せるの状を告ぐるものにあらずや予窃かに先生の篤学と其精力の強大なるとに敬服す今代の書家詩人画家などは多く自稱大家の人のみにして勉強し向上進展を思ふの人少なく遂に平凡の裡に一世を送りつるなり稚気満々たる輩にして大言壮語大家を気取るに至りては寧ろ噴飯の値ひするのみ岐山先生の如き実力と地位声望とを有しながら日夜研鑽倦むを知らざる如きは実に文人画家の好模範に非らずや先生は大阪朝日大阪毎日の詩壇に雄飛するの外大阪紳縉の為めに毎週詩文の講義をなして浪花の俗地に文事の思想を注入しつつあり。

鈴木立齋先生

先生は七十の高齢に達しながら頑健壮者を凌ぐものあり酒田の藩士にして維新の際は賊軍の名を冠せられしも京都府へ仕へ官祿を食み致仕して以来専ら書家として起てり草書及仮名字妙を得たり一昨春畏くも主上陛下の聞こし召す所となり御命に依りて百人一首を書寫し奉呈するの光栄を有す。

『本領』

○強いず 求むると否とは諸君の随意なり
○媚はず 何人に對しても阿らず媚らはず
○貪らず 潤筆の高きを要せず低位に甘んず
○欺かず 眞蹟を呈し断して贋筆を扱はず
本會の本領は即ち是れなり徒ちに画を賣るのみを目的とせず唯だ淸く正しき絵画趣味の普及して風教に裨益せんと欲するのみ

南画同志會本部





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