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近藤翠石 |
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森琴石の晩年の頃には、近藤翠石が森琴石の一番の高弟だったとされる。それは、他の実力ある弟子たちが早世した事、森琴石の若年時からの弟子たちが物故者であったり、高齢になり過ぎていた事にもよる。実力はあったが、旧家の跡取りで、政治家でもあった「田川春荘」は、画のみで生計を立てる必要はなかったようだ。趣味で画を嗜んだ「氈受楽斎(毛受小八郎)」・「改発弥兵衛」などのように、大阪市内には、所謂「旦那衆」という立場の門下も多かったようだ。
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森琴石は、辞書や教科書・画譜など多くの著書があり、多くの画家を育てるなど、教育者としても多大に貢献した。近藤翠石も、旧制中学校の図画教師を兼ねるなど、教育者として貢献した。近藤翠石の門下生としては、鳥取県智頭町出身の画家「林益堂」が名高い。近藤翠石は、弟子に画の購入者が多く、明治後期からの<南画の衰退期>も難なく過ごせたという。
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「平成16年7月」・「平成18年7月」・「平成21年4月【2】」などで、森琴石が、岡山県との係わりが深い事をご紹介したが、近藤翠石も岡山との係わりが深い。世間には殆ど知られていないが、岡山出身の政治家「犬養毅」は、近藤翠石の<隠れ弟子>で、犬養氏が来阪した折には、近藤翠石の元で画を学んでいたという。犬養毅は「17年6月」・「17年7月」にあるように、森琴石周辺との繋がりが見られる。森琴石が、自由民権運動に関わった人物との交流が多かった事とも関係するかも知れない。又近藤翠石の長男の妻は岡山から嫁いできている。資料:「清国人からの書簡」・「平成21年4月【2】」の書簡は、この長男の妻が、表装までして残しておいたものとされる 注1。長男の妻が、舅近藤翠石が残した資料を大事にした由縁は、ここにもありそうだ。
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兵庫県西脇市には、国登録有形文化財に指定されている「旧来住家住宅」がある。銀行家「来住梅吉」が別宅として大正2年に建てたものである。その「旧来住家」のふすま絵の中には近藤翠石の作品が含まれている。その来住梅吉の近親者(兄か?)と思われる「来住藤吉」から、画の依頼や贈り物が届けられたと、僅かに残る<森琴石の日誌>に書かれている 注2。森琴石の遺墨帖の作品所蔵者の中には「来住藤吉 西脇住」が存在する。
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高松市歴史資料館には、江戸時代の庄屋だった<向井家>から寄贈された<森琴石の作品6点>が所蔵されている。そのうちの「四季花鳥図 4点」は、明治17年に描かれたもの。又近藤翠石の作品も2点所蔵されているが、これは、近藤翠石が香川県出身である事から、近年、骨董商から購入された。同資料館の、向井家寄贈作品の中に「雪江釣人」と書かれたものが2点が所蔵されている。「釣人 ちょうじん」とは、画号の下につける”付語」で、自らを謙遜してつける語句である。森琴石の作品にも、時々「漁隠」や「山樵」などの付語をつけている。作品は、森琴石が良く描くテーマと類似している。押印の一つが、森琴石作品のものと同じことから、「雪絵釣人」は、友人「中野雪江」のことを指す可能性がある 注3。或いは合作書画の可能性もある。今後の検証を必要とする。
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近藤翠石の生地、丸亀市の骨董商には近藤翠石の作品が多く見られ、「丸亀市立資料館」にも近藤翠石の作品が6点所蔵されている 注4。
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注1 |
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近藤翠石孫、近藤成一氏(東大阪市)より伺いました。 |
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注2 |
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森琴石日誌 −来住藤吉 記載ヵ所−
明治42年
八月三日
○右謝状差出ス
○播磨・来住藤吉氏来ル、過日相送リ候松林山水額画十六枚横、潤筆、為換ヲ以送来ル。
十七日 晴
○午前、朝岡来ル、過日預リ置、瑞芝之 如意返却、渡ス
○午後、光吉氏来訪有之、
○美濃大垣鳥居断三氏、播磨来住藤吉氏、山梨県志村勘兵衛氏、右三軒之時候
八月廿日 昨夜ヨリ久々降雨、今晩大雨、後晴
○午前、佐竹藍川来ル、中元持参到来ス、
○南宗画会ヨリ、石尾松泉ヘ類焼見舞トシテ金貮円贈ル
○西京・日本美術商業新報社・入江久次郎
罷越し、暑中見舞擴告料・金五拾銭相渡ス、
○夕前、石尾松泉氏罷越ス、○丹青堂来ル、 注:丹青堂=大阪の美術商
◎播磨・来住藤吉氏ヨリ干瓢贈リ来ル、
猶、尺巾・二尺五寸位山水図壱枚揮亳属托有
明治45年
六月二日 日曜 晴
○早朝、播磨西脇・来住藤吉氏来訪有之、数時画話有之、菓子到来
★翻刻=成澤勝嗣氏((早稲田大学文学学術院 第二文学部 准教授) |
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注3・注4 |
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平成14年2月、高松市歴史資料館より、資料及び情報を頂きました。平成15年5月には森家が同館を調査訪問しました。
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