森琴石(もりきんせき)1843〜1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月〜現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成21年(6月)

  今月の話題

門下のエピソード

【1】 藤井琴谷
森琴石と写した記念写真
明治35年10月、岐阜県土岐市妻木「崇禅寺」庭園で撮影
【2】 近藤翠石
岡山県/兵庫県西脇市、来住(きし)家/出生地香川県
【3】 佐野岱石
古書から伝わる森琴石との縁

【1】

藤井琴谷
「平成21年4月【1】」では、岐阜県土岐市妻木町「妻木八幡神社」禰宜”黒田正直氏”より、調査先の旧家から、森琴石の作品が確認された事をご紹介しましたが、この度、同氏より、同じく調査先の旧家で、森琴石が門弟「藤井琴谷」と写した写真の所蔵情報を頂きました。
写真は、妻木町の鈴木家のアルバムから発見された。写真の裏面には<明治35年10月6日 妻木崇禅寺の庭園で撮影>とある。記念写真にはその他「宗源居士」が写っており、写真の所有者の名は「鈴木史郎」と書かれている。「宗源居士」は、史朗氏の曾祖父に当たる。

4年前の平成18年6月中旬、黒田正直氏より、『妻木町内の古澤家に”藤井琴谷”の作品2点があったが、森琴石のお弟子さんでは無いでしょうか?』との、情報を頂いていました。古澤家は江戸期から続いた家系。作品は表装されていない(まくり)の状態であるが、森琴石の縁が藤井琴谷に及んだ一例である。

岡山県の山間の僻地から、はるばる大阪まで学びに来た琴谷は、森琴石にとっては<素朴で熱意ある青年>と映り、可愛がったのかも知れない。しかし琴谷は、妻木訪問の9年後の明治44年3月、33歳の若さで故郷で病勃した。その1年前には「舩田舩岳」が亡くなるなど、期待をかけた門下を次々と失った森琴石の胸中は計り知れない。

これまでの調査で、森琴石が門弟と共に写った写真はまだ出てこなかった。これらの写真と作品は、門人紹介:藤井琴谷(二)で、ご紹介しています。


 
【2】
 

近藤翠石

森琴石の晩年の頃には、近藤翠石が森琴石の一番の高弟だったとされる。それは、他の実力ある弟子たちが早世した事、森琴石の若年時からの弟子たちが物故者であったり、高齢になり過ぎていた事にもよる。実力はあったが、旧家の跡取りで、政治家でもあった「田川春荘」は、画のみで生計を立てる必要はなかったようだ。趣味で画を嗜んだ「氈受楽斎(毛受小八郎)」・「改発弥兵衛」などのように、大阪市内には、所謂「旦那衆」という立場の門下も多かったようだ。

森琴石は、辞書や教科書・画譜など多くの著書があり、多くの画家を育てるなど、教育者としても多大に貢献した。近藤翠石も、旧制中学校の図画教師を兼ねるなど、教育者として貢献した。近藤翠石の門下生としては、鳥取県智頭町出身の画家「林益堂」が名高い。近藤翠石は、弟子に画の購入者が多く、明治後期からの<南画の衰退期>も難なく過ごせたという。

平成16年7月」・「平成18年7月」・「平成21年4月【2】」などで、森琴石が、岡山県との係わりが深い事をご紹介したが、近藤翠石も岡山との係わりが深い。世間には殆ど知られていないが、岡山出身の政治家「犬養毅」は、近藤翠石の<隠れ弟子>で、犬養氏が来阪した折には、近藤翠石の元で画を学んでいたという。犬養毅は「17年6月」・「17年7月」にあるように、森琴石周辺との繋がりが見られる。森琴石が、自由民権運動に関わった人物との交流が多かった事とも関係するかも知れない。又近藤翠石の長男の妻は岡山から嫁いできている。資料:「清国人からの書簡」・「平成21年4月【2】」の書簡は、この長男の妻が、表装までして残しておいたものとされる 注1。長男の妻が、舅近藤翠石が残した資料を大事にした由縁は、ここにもありそうだ。

兵庫県西脇市には、国登録有形文化財に指定されている「旧来住家住宅」がある。銀行家「来住梅吉」が別宅として大正2年に建てたものである。その「旧来住家」のふすま絵の中には近藤翠石の作品が含まれている。その来住梅吉の近親者(兄か?)と思われる「来住藤吉」から、画の依頼や贈り物が届けられたと、僅かに残る<森琴石の日誌>に書かれている 注2。森琴石の遺墨帖の作品所蔵者の中には「来住藤吉 西脇住」が存在する。

高松市歴史資料館には、江戸時代の庄屋だった<向井家>から寄贈された<森琴石の作品6点>が所蔵されている。そのうちの「四季花鳥図 4点」は、明治17年に描かれたもの。又近藤翠石の作品も2点所蔵されているが、これは、近藤翠石が香川県出身である事から、近年、骨董商から購入された。同資料館の、向井家寄贈作品の中に「雪江釣人」と書かれたものが2点が所蔵されている。「釣人 ちょうじん」とは、画号の下につける”付語」で、自らを謙遜してつける語句である。森琴石の作品にも、時々「漁隠」や「山樵」などの付語をつけている。作品は、森琴石が良く描くテーマと類似している。押印の一つが、森琴石作品のものと同じことから、「雪絵釣人」は、友人「中野雪江」のことを指す可能性がある 注3。或いは合作書画の可能性もある。今後の検証を必要とする。

近藤翠石の生地、丸亀市の骨董商には近藤翠石の作品が多く見られ、「丸亀市立資料館」にも近藤翠石の作品が6点所蔵されている 注4

 
 
 
注1
 

近藤翠石孫、近藤成一氏(東大阪市)より伺いました。

 
注2
 
森琴石日誌  −来住藤吉 記載ヵ所−


明治42年
八月三日
○右謝状差出ス
播磨・来住藤吉氏来ル、過日相送リ候松林山水額画十六枚横、潤筆、為換ヲ以送来ル。

十七日 晴

○午前、朝岡来ル、過日預リ置、瑞芝之 如意返却、渡ス
○午後、光吉氏来訪有之、
○美濃大垣鳥居断三氏、播磨来住藤吉氏、山梨県志村勘兵衛氏、右三軒之時候


八月廿日 昨夜ヨリ久々降雨、今晩大雨、後晴

○午前、佐竹藍川来ル、中元持参到来ス、
○南宗画会ヨリ、石尾松泉ヘ類焼見舞トシテ金貮円贈ル

○西京・日本美術商業新報社・入江久次郎
罷越し、暑中見舞擴告料・金五拾銭相渡ス、
○夕前、石尾松泉氏罷越ス、○丹青堂来ル、           丹青堂=大阪の美術商
◎播磨・来住藤吉氏ヨリ干瓢贈リ来ル、
猶、尺巾・二尺五寸位山水図壱枚揮亳属托有

明治45年
六月二日 日曜 晴
○早朝、播磨西脇・来住藤吉氏来訪有之、数時画話有之、菓子到来


★翻刻=成澤勝嗣氏((早稲田大学文学学術院 第二文学部 准教授)

 

注3・注4
  平成14年2月、高松市歴史資料館より、資料及び情報を頂きました。平成15年5月には森家が同館を調査訪問しました。

 


 


【3】

佐野岱石

佐野岱石は、教養も高く画才にも恵まれ、森琴石の晩年には、近藤翠石に次ぎ、森琴石一門を支えた。青年時代、大阪府師範学校で「松原三五郎」に洋画法を学ぶも、その後、森琴石の兄弟子「行徳玉江」に南画を学び、行徳玉江亡き後は、森琴石の下で、更に文人画法に磨きをかけた。また更に中国文人にも画法を学ぶなど、修錬(人格・学問・技芸などが向上するように、心身を厳しく鍛える事)を積んだ。

「佐野琴岳」時代には、「南画初歩」の編纂をするなど、南画の指導にも貢献した。当時、衰退が進行する中での”文人画”や、”難解な漢詩”を木蘇岐山に学ぶなど、時代に逆行するような厳しい道を歩んだ。佐野岱石の心の内の”何か”が、そのようにさせたのものと思われる。伝統的な文人画法や、その精神が ”すたれてはならない” と、必死で頑張ってきた「森琴石」にとっては、非常に頼もしい存在だったに違いない。佐野岱石の作品は殆ど見かけないが、洋画的な絵画をインターネットのオークション画像で見た事がある。

佐野岱石に関する資料は非常に少ない。昭和2年「森琴石7回忌遺墨展」以後の消息は不明で、勃年さえも分からない。それは、佐野岱石の2子が、二人とも女性だった為、家系が途絶えた事、大二次世界大戦での資料の消失(焼失)なども原因する。佐野岱石自身が、戦災死した事も考えられ、或いは大戦以前に死去した可能性がある。

森家が曾祖父「森琴石」の調査を始めてから半年後、平成11年の春、C劉文蔚輯「増補註解 詩韵含英異同弁」が、森琴石【響泉堂】刻であるとの情報を得、東京の古書店から「谷喬編輯 上下」を取り寄せたところ、下編”表紙裏の余白”及び”秩裏面”に、「岱石」の印が押されていた 。佐野岱石が生前に所持していたものらしい。不思議な縁を感じた。下記に同著を、画像でご紹介します。



 
『増補註解 詩韵含英異同弁 谷喬編 上、下』   ―岱石の印のあるもの―

谷喬(たに たかし)編輯/田中太右衛門発行/明治12年7月



 表紙 (縦12.9cm x 横8.7cm)  奥附
上=131丁・下=117丁



前附
江上之清風山間之明月
右図(緑) 江上之清風山間之明月・・・己卯夏日 琴石刻 印印
印の実寸 縦8,3cmx横4.8cm

画の実寸  縦8,3cmx横4.8cm

 


参考画像
『増補註解 詩韵含英異同弁 谷喬輯 一.二』(谷喬編/此村彦助、庄助/響泉堂刻/明治12年)


書誌サイズ
縦12.4cmx横8.5cm




前付 初頭ページ 奥附 広告ページ
前付 初頭ページ 奥附 広告ページ
右端・・・大阪響泉銅刻 左頁:右端枠外・・・・大阪響泉堂刻



★「谷喬編」のものには、この他 「摯竰翠詩韻含英十八卷 坿詩韻異同辨 詩韻異同辨.」(C劉文蔚輯・日本谷喬補 /明治12年/大阪響泉堂刻/此村彦助銅版)もある

★「増補註解 詩韵含英異同弁 二」の、奥附手前には、此村版の書誌広告八頁分掲載されている=上右画像。この中には、森家が知る<森琴石が手掛けた書物が何冊かある>事から、他の響泉堂刻の書物を知る手がかりになりそうだ。

★「谷喬編」のものは、その後、版権者が変わり、明治後期〜昭和10年代まで復刻され続けているが、それらは、<響泉堂刻>や<森琴石刻>の文字を削り取ったものが使用されている。


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