6点の内、森家でまだ確認出来ていない地図がある。それは、明治10年に森琴石が銅刻した「高知県管内阿波国改正図/武市秋香 注3」という地図である。原図は「武市秋香」、出版者は<阿波国板野郡高島村>の「生島恒次郎」。板野郡高島村は、現在の徳島県鳴門市に当たり、地図の名に「高知県管内」とあるのは、明治10年の頃の阿波国(徳島県)は、高知県所管に移されていた時期であった為である。
●原図者「武市秋香」に関する情報は皆無であるが、武市という姓が高知県に多い事から、土佐や阿波近辺の<絵師>によるものと思われる。土佐には著名な勤皇家「武市半平太」は、「武市瑞山」という名で、画や地図を描いていた事で知られる。森琴石の周辺には、土佐自由民権運動に尽力し、「武市半平太伝」を著した「古澤滋 注4」などの存在がある。
●出版人の「生島恒次郎」についての確実な情報は無いが、明治8,9年頃の<控え帖>には、住所が同じで、2文字違いの人物の記録が残る 注5。
●江戸末期から明治にかけて、板野郡高島村には、生島姓の人名に ”塩田主”がおり、”生島竹洲”という儒者がいたという 注6。鳴門では<撫養 むや>出身の儒者<生島文太>という人物がいた。 江戸末期の森家が家業が<廻船>関係だったようで 注7、生島氏は”製塩業主”だった可能性もある。
●土佐(安芸郡井ノ口村)には、三菱の創始者<岩崎弥太郎>の親戚筋にあたる<岩崎弥助>が「秋香村舎」という私塾を開いていた。「秋香村舎」には、土佐の勤皇党に加盟した人物がいた 注8。
●先月度でご紹介した、大阪の歌舞伎役者”四世 嵐璃寛”の実父である”三世 嵐璃寛”の父は、”生島岩五郎”という旅役者だった。”三世 嵐璃寛”は、最初2代目尾上多見蔵の門人となり歌舞伎を学んだ。
●大阪生まれの「藤原信一」は、「尾上多見蔵」の弟子となり、巡業先の土佐で出会った<絵師>に弟子入りしたという異色の経歴を持つ。土佐自由民権運動での「坂本竜馬の役者絵」の”浮世絵 (錦絵)”を描いた 注9。
●阿波は”人形浄瑠璃の国”といわれ、江戸時代に徳島藩領だった淡路島の人形座の人々が全国を巡業して回り、人形の<首 かしら>は、阿波の細工師が作っていた。 鳴門も人形浄瑠璃が大変盛んだったようで、鳴門は、人形浄瑠璃の人気演目「傾城阿波の鳴門 (けいせいあわのなると)」の、ゆかりの地でもある。
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