森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 関係人物紹介

森琴石の師匠や先輩・友人知人など、また琴石の周辺の人物を紹介します


雅友・知友   く け 

【項目】        や、ら、わ

項目内で使用度の多い資料について(各項目で、書名・資料名のみにする場合があります)

◆「浪華摘英」(浪華摘英編纂事務所・三島聰恵発行・大正4年8月)、「続浪華摘英」(発行兼編纂三島聴恵・大正5年12月)=大塚融氏(元NHK記者・数寄者研究家・経営史研究家)よりご提供頂きました
◆「大阪人物辞典」=三善貞司著・清文堂刊・平成12年
◆森琴石日記
(明治42年8/3 ~10/7、明治45年2/15~7/31、大正元年8/1~10/5 間での断片的に残るもの。翻刻者=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館)

か項

片桐楠斎(かたぎり なんさい)

●関連事項=関連資料:「学海画夢」・「平成13年8月 」・「平成17年10月【1】■5番目」・「平成18年10月【1】注1,3 小田半溪賞状の下方

●本名は片桐正氣、生没年は不明。石橋雲来清国文人など、森琴石周辺の人物との交流が見られる。
「学海画夢」の評点を務めるなど、特に「依田学海」との親交が深かったようだ。



(一)掲載書誌

A:人物について描写したもの

『北越名士の半面』
著者:鷹人社同人(ようせんしゃ どうじん)/出版者:鷹人社(長岡)/明治36年6月出版
○片桐楠斎
・彼の経歴を並べ立てると、ザット左の通りである

・彼の欠点は、兎角負けず嫌ひで、人を罵詈する癖のあることで、彼自身も之れを覺つては居るが、何うしても、改められぬと云つているさうだ

・隠靜などゝ云はせて置く柄の人間ではないが、惜しい事だ(痴狂)

◇頚城=くびき
◇千田貞暁=元薩摩藩士・男爵・広島、新潟、和歌山、愛知、京都、宮崎各県知事を歴任


B:評点を努めた書誌

「学海画夢 2冊」
依田百川著/湯上市兵衛/明治17年
初頭頁=題字
前付2頁目=篆書(正氣篆)
本文1頁目=評点を努める(全編)
   
初頭頁=題字
前付2頁目=篆書(正氣篆)
本文1頁目=評点を努める(全編)
越後 東京
片桐正氣楠斎評点 依田百川学海著述
 
肖像画は堀西米中
     

C:その他

雲来詩抄
石橋教著/石橋増官刊/明15~明40
巻1「広陵遊詩」では、明治15年4月、石橋雲来と森琴石らは<頼山陽50回忌法要>に出席。4月6日出迎えたのが「片桐楠斎」と「世良八び」。世良氏は広島で奉職。片桐氏は裁判官をしているが<狭袋中>とある。当時<胡鉄梅>などと交流した者は厳しく罰せられていたという。
「学海日録」
依田学海著/学海日録研究会編/岩波書店刊/1992年7月・・・片桐楠斎との交流が頻繁に綴られている。


(二)「片桐楠斎 小画帖」



★1、2頁=題字
「楠斎詞兄雅正 甲申夏(明治17年) 印然題」

見開き時(縦12cmx横17.5cm)



★15、16頁(最終頁)
<空山清香>
己未孟陬(大正8年1月)讀畫廬 琴石
★3~14頁=「世良八び」の昆虫画(12図)
第12図「そら豆とカマキリ」

「辛巳七年孟陬(明治17年1月)広陵八び生」

世良八び
関連資料:大阪の有名諸大家(一)浪速の魁-南画 に名あり

:<空山>の文字の右横に”知音”という押印がある。知音とは(七絃琴の音を知る者=親友の事)という意味がある。 知音=「平成20年1月【1】注3」に記述 


★片桐楠斎の小画帖に、明治17年1月「世良八び」が、広島で昆虫画(12図)を揮毫し、明治17年夏「朱印然」が題字を揮毫した。小画帖にあるバラの描き方が”胡鉄梅風(私見)”である事から、画は”胡鉄梅”に学んでいた可能性がある。

★小画帖のしめくくりには、森琴石が、「岩に蘭図」に「空山清香」の文字を添えている。
片桐楠斎の小画帖を、後年(大正8年)片桐楠斎の形見として、森琴石が譲り受けた可能性がある。

川上泊堂(かわかみ はくどう)

●関連事項=平成18年8月【3】 a [達爾頓 生理学書」奥附
●森琴石と同門=儒学の師が高木退蔵(号翠風)、岡玄卿※も同門。



(一)


川上泊堂先生

先生名は 字は次恭 泊堂は其號なり 別に平心庵と號し其居を静修亭と名く
嘉永元年戌申十二月二十五日を以て生る
考金之丞は江戸の人 加賀侯に仕へし田宮流の剣士なりき 妣名は紺と呼ぶ 林氏何れも三十餘年前逝けり
初めは府下豊能郡小曽根村に住し居ること五年 
明治維新後一家居を大阪に移し 書を以て生業とす
最初篠崎小竹門人にして叉兵衛 名は策 字は元馭 號は北渚に就いて書道を學び
落合敬助 名はコウ(まだれ广+夏) 字は子載 號は雙石 並に村田梅石に就き
傍ら経書詩文を藤澤東畡高足高木退蔵 號は翠風に受く
岡玄卿森琴石翁の如きは 皆当時の同窓生なりしと
叉豊前中津の藩士 奥平嘉一郎 其の他大阪の人河田里鳳齋等に就き 剣道一刀流の奥義を究めたり
東民渡邊昇が大阪府尹たりし時 南第十一區即ち綿屋町の學舎に習字を教授せしことあり
先生生平愛玩する所のものニあり
曰く一は酒にして 一は僧空海の筆に成れる般若心經とす 
蓋し心經は知恩院鵜飼徹定師の贈りし所なり と
他に逸話として伝ふべきは彼の會津勢より京洛本願寺に向ひ
先ず砲門を開き天下騒然たりし時 偶警戒厳重を極めし山崎関所に差蒐り
張継?の楓江夜泊詩を朗吟して無事通過せしことありしと
妻はたねと名く 西村氏ニ女を挙げしも不幸 何れも夭析し今や子無し
(南區西清水町三十番地)

―「浪華摘英」 より―

岡玄卿=島根県鹿足郡津和野生まれ、慶応3年鶴田(たずた)藩主の移動と共に家族は備中、建部町鶴田に移転。2年間に4千人もの家族が移住、村は大パニックに陥り、当時の様子を記録する機能も余裕も無かったそうである(岡山県御津郡建部町教育委員会)。東京医学校卒業。明治天皇侍医頭を務める。その時の侍医局長は、森琴石友人中野雪江の義弟である池田謙斎 

*中野雪江(静一郎)
中野雪江=関連資料:「ポンペと中野雪江
(妻)辻  
 
↓(辻の妹)
     
  入澤 杖・(夫) 入澤恭平 ⇒ (杖・恭平の子) 入澤達吉=大正天皇侍医頭
 
 ↓(恭平弟)
  池田謙斎(明治天皇侍医局長・適塾出身)
 
 ↓(謙斎部下)
    岡玄卿     


(ニ)
川上泊堂(由蔵)書誌

「小学纂註校本増訂版 4冊(6巻)」{川上由蔵校・朱熹シュキ(晦庵)編・高愈コウユ注・堺赤井堂・明治15}
「確証文例」(川上泊堂編・三宅吉蔵ほか・明8.6)
「漢語手紙の文言 2冊」(川上由蔵著・岡田茂兵衛・明10)
「古文孝経」{川上泊堂(由蔵)点・春篁堂・明15.7}
「小学必携生徒学初」(若林長栄編、川上泊堂校・北尾禹三郎・明7.11)
「はがき往復日用女の文」(片山福子著・川上泊堂書・麟鳳閣・明38.6)
「表書字筧(増補楷行))(川上泊堂編・村田海石書・明倫堂・明8.4)
「普通日用女用文」(伊藤浅子著・川上泊堂書・博多成象堂・明38.4)
「開化商法万字文」{川上泊堂著輯・川上泊堂(布衣)作・藤廼舎序・明治8年(1875)序刊・大阪広瀬藤助(泰山閣板)}
その他多数

き項

岸田吟香(きしだ ぎんこう)

●「平成18年2月」・「北方心泉 略年表
●響泉堂、岸田吟香について、国文学研究資料館報第56号(平成13年3月刊行)「新しい器」で触れた箇所があります。



「岡山県人物伝」(増補版・岡山県編・明治44年2月) より


岸田吟香

吟香は久米北條郡垪和村(はがむら・久米郡大垪和村)の人なり
幼名太郎 後に銀次郎と改む 天保四年四月八日生る
父は秀徳 この先攝津に居る、天正中来り美作に移り世々農を業とし、傍酒造を兼ぬ
祖父義賢の代に至りて家道頗る衰ふ 吟香性甚た讀書を好み文才群に絶す
父甚これを愛し津山の永田幸平に從ひ學はしむ 
上原存軒に從ひ江戸に遊ひ昌谷精溪の紹介を以て林圖書頭の塾に寓し研修す
數々圖書頭に代りて水戸及び秋田の藩邸に講義し、藤田東湖大橋訥庵、■田九皐等と親交せりと云ふ
安政二年十月江戸の地大いに震ふ
塾生と共に邸内の池畔に避けて、幸に全きを得しも因りて病を得、國に歸りて療養す 
癒ゆるに及び父母遠遊を許さず即大阪に出て藤澤東畡に従ひ學ふ
時に南摩羽峰九州に遊ひ東歸の途次大阪過ぎ 相携へて江戸に出て藤森弘庵の門に入る 時に安政三年なり
弘庵の塾にあるや三河擧母藩侯に聘せられしも固辭して受けず藩主學資として十口糧を興ふ
ころも藩、現豊田市)
安政五年天下紛援志士の横行雲の如し弘庵嫌疑を受けて下總に追はるゝに及ひ
吟香亦難を避けて上州に遊ひ村童を集めて句讀を授く 
萬延元年江戸に歸り上野の寺門に住し 後擧母藩に仕ふ事に座じ閉門を命せられ
叉上州に逃げる 次いで江戸に歸り暫くこの跡を韜晦す
当時口を深川娼樓に糊し、公銀公と稱せらるる、遂に自ら吟香と稱す
時に米人博士「ヘボン」來りて横濱にあり、和英辞典を編するの擧あり、
邦人の和漢學に精通せる者を求む、箕作・秋坪・吟香を抜き「ヘボン」に從はしむ、
晁勉事に從ひ、兼て英語を學ふ、當時新に米國より歸朝せる播州彦蔵といふ者あり、
新聞紙を発行せんこと首唱す、吟香本間僭蔵と謀り、木版半紙摺にて、單に新聞紙と名けたるものを發行す、
これ實に本邦新聞紙の權擧なり、慶應元年辞書成る、九月これを印刷に付するため「ヘボン」と共に上海に航行す、
當時英文及漢文活字は既に此地に行われたるも、未た日本假名の活字あらす
即命して模型を作り新に日本假名字を製造せしむ、同三年製版成り、和英辞林集成と題し刊行す、
維新の變乱に際し、同友相勤めて身を軍事に委し、功名の途に就かしめんとするも頑として聽かす、
偶々「ヘボン」吟香か編纂に貢献せし事多きを思ひ、傳ふるに眼藥の一奇方を以てす、
これを得て横濱に開店す、精き(金+奇)水はこれなり、時に外人の米國より氷塊を輸入し、
夏期盛んにこれを販賣するものあり、吟香製氷術を研究し、自らに横濱氷室商會を設立し、
百敗屈せす、今日の製氷會社の基礎をなし、全く外國の輸入を壮絶するに至れり、
明治三年横濱に玩具古物等の商店を開き頗る奇利を博す、
六年東京に於て東京日々新聞を創立し、この社主となる、
七年四月征臺總督西郷從道に從ひ、從軍記者として、臺灣に渡航し、深く蕃地に入る、
この報道の一世を變動したりしは人皆これを知る、
後、東京日々新聞と関係を絶ち、東京銀座二丁目に移居し、賣藥業を營み樂善堂と稱し書房を兼ぬ、
十三年再清國に遊ひ、上海樂善堂藥房を設け一蹉一躓毫も屈せす、
漸くにして信用を清人に得、普く本邦の奇藥を紹介することを得るに至れり、
明治三十八年六月七日病んで歿す、年七十三、病革まるに及ひ特旨を以て從六位に叙せらるる、
吟香人となり、恬澹灑落しかも邁往の膽不屈の勇あり、
身を實業界に置くと雖も亦風月を友とし、胸中常に閑日月あり清雅の人なりといふへし

木蘇岐山(きそ きざん)

●「平成17年11月」・「平成17年7月■2番目」・「平成19年5月」・「門人-石川県:石野香南」・「詩賛:森琴石読画廬賞薔薇
●森琴石とは親友の間柄。森琴石門下「近藤翠石」が同氏に私淑し、「佐野岱石」は同氏から学んだ。
●「森琴石翁遺墨帖 乾坤」での ~詩賛~ 揮毫者。



(一)
~木蘇岐山翁と「五千巻堂集」~ より 

「五千巻堂集 巻一」 ~岐山翁事略(昭和八年歳次癸酉春三月蘭斎小倉正恒撰)~ の要約


木蘇岐山 略歴 (文章;伊藤 信氏)


岐山翁、名は木蘇氏岐山はその號、(初の名は僧泰果斎と號す)別に三壺軒主人白鶴道人五千巻堂主人の諸號がある。

安政四年四月二十七日美濃國稲葉郡(旧厚美郡)佐波村(現日置江村大字佐波)観音寺に生まれた。

木蘇大夢(本姓は小川、名は艮、字は髯卿、大夢又は簑洲外史と號す)の第ニ子である。大夢碩學を以て知られ、夙に勤王の志を抱き小原鐵心木戸松菊(孝允)等と國事に奔走し、頗る輿望あり、維新後大垣藩待讀となった。(拙著美濃文化史要百八十四頁参照)

岐山翁幼にして聰頴、夙に家學を受け、尋いて大垣の野村藤陰、名古屋の佐藤牧山の門に入って、研鑽懈らず、業大に進み、尤も詩を能くした。

明治21年(年三十二)東京に移って、麹町區隼町に寄寓した。時に巌谷一六森槐南矢土錦山等が同區永田町に住して居た。

翁乃ち晨夕往来して詩酒の歓をなした。当時、國府青崖本田種竹野口寧斎大久保湘南等亦都門に居り、詩を以て性命となし、槐南を推して壇拈の主たらしめ、各詩道の復古を以て自任した。

その頃各新聞社は何れも紙上に漢詩欄を置いた。それで槐南は東京毎日新聞、青崖は日本新聞の詩欄を擔當し、東京新聞の詩を月旦した。

副島蒼海伯及び巌谷一六翁を推して顧問とし、星社を創立して風雅を鼓吹した。

岐山翁の詩、構想精勁、出語奇峭、一字苟もせず、人皆推服した。

其の後筆を載せて東西各地に遊び、耆宿小野湖山森春濤江馬天江等と唱和し、聲和こう(合 の下 羽)然として頓に揚った。

明治二十五年翁遷って越中小杉に寓し、帷を下して生徒に教授し、月三社を設けて詩を教へた。

門下から松尾立西大橋ニ水等諸人を出した。

島田湘洲内山外川等と湖海吟社を富山に興した。

北國の詩風為に一變した。

越えてニ年、又金澤に移った。

時に三宅真軒宿學を以て聞え、北方心泉金石文研究を以て知られた。

乃ち霊澤吟社を興してニ氏と應酬し、殆んど虚日無かった。

會ま(ママ)古澤介堂石川縣知事として金澤にあり。學を好んで旧知の間柄であった。

依て日夕過從し、酒に對し、文を論じて、老の將に至らんとするを忘れた如くであった。

かくして居ること六年、高岡に轉じ、仙箭樓に隠栖し、門を杜じて吟哦し、厄窮の間に在って書を読み、自ら晏如たる有様であった。

越えて四十一年、大阪に客遊し、本山松陰渡邊金谷ニ氏に知られ、同好の為に詩書を講じ、傍ら大阪毎日新聞漢詩欄を主宰し、力を殫して風騒を振作し、叉成春吟社を設けて後進を奨掖した。

浪華の詩風は是が為に一變した。

大正三年朝鮮満州を漫遊して名勝を探った。

同五年七月三十日大阪の橋居に病没した。

享年六十一、五千巻堂集十七巻は實に翁が詩人としての一生の収穫で、外に星巌集註二十巻五千巻堂詩話若干巻きの著がある。

翁性耿介にして筍も人と合わず、懿文にして瑰材を懐きながら、轗軻屯てん、遂に俊足を展ばすことが出来ず、江湖に窮老して生涯を終ったのは真に痛惜に堪へない。

「岐阜県教育 第502号」(岐阜県教育委員会/昭和11年6月1日)
    ・・・研究 1、「木蘇岐山翁と五千巻堂集」/伊藤信(岐阜県嘱託)・・・による

資料ご提供=山本邦宏氏(岐阜県教育委員会文化課 伝統文化財担当)

 

(二) 「浪華摘英」(浪華摘英編纂事務所編集・三島聰恵発行・大正4年)より


木蘇岐山先生

●先生名は牧字は自牧、岐山と號す 美濃の人なり
●安政四年二月二十七日を以て稲葉郡佐波に生る
●舊大垣藩黌教師故木蘇大夢の二男なり
●夙に大垣藩儒員故野村藤陰並に名古屋藩儒員故佐藤牧山の門に入りて漢学を修む
●後東京に出で森槐南國分青厓本田種竹永坂石たい(土+隶)矢土錦山野口寧斎※、大久保湘南等と共に副島蒼海厳谷一六を顧問となし星社を設立して詩道の先路をなす
●斯文中興の巧尠からず 毛詩は専門の學なり 詩に長じ文を能くす
●故大久保湘南嘗て先生の詩を評して 構思必沈鬱、出語必奇峭 之を千百人中に置くも尚能く其色を辨ずといへり
●又書は顔眞卿の神を得、蔵書室に満ち膝を容るゝに苦む
●著すところ五千巻堂詩話 其他多し
●現に帷を下して徒に授く人々之を仰ぐ
●本書挿む所の肖像は其詩弟子石野香南の描きしもの

(北区北野西権現町千百九十番屋敷)


この後は大正2年、京都南禅寺天授庵で開催された「蘭亭會」での詩文が寄せられている。  石野香南による肖像画は掲載出来ません。

「浪華摘英」ご提供者=大塚融氏(元NHK記者・数寄者研究家)


(三)
木蘇岐山(きそ きざん)

漢詩人。岐阜県生。名は牧、別号に三壷軒主人、白鶴道人、五千巻堂主人などがある。
明治21年東京に居を移し、小野湖山・森春涛・槐南父子・江馬天江らと交わった。
明治25年越中小杉に寓居し、その後金沢に移って、三宅真軒・北方心泉らと交遊した。
明治41年に大阪に移り、「大阪毎日新聞」で「漢詩欄」主筆を長く務めた。大正5年(1916)歿、61才。

略伝=陳捷氏(国文学研究資料館助教授)による

(四)
木蘇岐山は、本名「小川果斎」の名を使用した時期がある。下記は 「小川果斎」名での漢詩掲載書誌。

●「日本同人詩選」(陳鴻詰(曼壽)編纂・土屋弘出版・明治16年3月)
<巻一> 小川僧泰―字士尚  號果齋  美濃人

●「鴨西唱和   如意山人題」(小野長愿<湖山>著述兼出版・明治21年4月)
<巻一> 菓齋小川  泰

●「東山頌寿録」(頼龍三、江馬達三郎編発行/明治21年4月1日)
<3丁裏~4丁表> 四翁寿言 菓斎小川 泰

谷如意・頼支峰・神山鳳陽・江馬天江の四翁(260歳)を祝う会
(五)
森琴石日誌より

明治42年
八月五日 晴
 ○木蘓岐山翁来訪有之
十九日 晴 同夜之中、降雨
 ○木蘇岐山翁来ル、石野香南類焼致ニ付、
 知己(詩会之人々)ヨリ半切画会、来月十四日開催
 前後策致シ遣候様相成ニ付、補助承諾致呉候様依頼ニ付、承知ス、
廾三日 晴
 ○早朝、石橋雲来氏ヲ訪フ、
  早朝、ヤス、木蘓氏ヘ中元、
明治45年
七月十日 晴
 ○夕方、岐蘇岐山氏来訪有之、果物到来、

日誌翻刻=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館)

木蘇大夢(きそ だいむ)

●関連事項=「平成19年5月【1】■5番目」・「平成19年6月【1】■5番目」・「平成19年7月(未)」
●「木蘇岐山」の父
●幕末、藤本鐵石・松本奎堂・木戸孝允らと交わり国事に奔走し、これが後大垣藩に貢献する行為となった。
●下記文章中の詩文は、分量と作業の都合上省略させて頂きました。




『美濃文教史要 221P~224』(伊藤 信著) より

木蘇大夢、名は艮、字は髯、大夢、叉は蓑洲外史と称す。

本姓は小川、稲葉郡佐波村観音寺に生る。

幼より頴悟宗乗を學び、又笠松の角田錦江に就きて業を受く。

後笈を負ひて鎮西に遊び、廣瀬淡窓の門に入りて研鑽の功を積み、耶馬溪及び瓊浦(長崎)に遊びて帰る。

大垣藩老小原鐵心の知遇をうけ、叉江馬細香野村藤蔭及び加納の三宅樅臺等と交好し。

嘗て(安政三年)樅臺及び順道と大垣に抵り、細香を誘ひて鐵心に見ゆ。

鐵心かん待甚だ力む。

大夢爛酔、帰途袍を失して装を成すを得ず。

順道の副袍を借りて帰る。

樅臺の詩に云ふ。

- 詩文省略 -

以て其の磊落の風を想見すべし。

大夢夙に慷慨の志を壊き、勤王論を唱導し、幕末の際京に出て、当年の勤王家藤本鐵石松本奎堂木戸孝允等と交を締び、大に志士の間に重んぜらる

また松平春嶽公の知遇を蒙り、越前地方に漫遊して、専ら勤王の大儀を鼓吹せり。

此の間世路難儀、流落すること七年、偶々越中に在りて維新の運に遭ひ、明治元年正月、徴に応て京に上る

詩あり、云ふ。

- 詩文省略 -

惜しむらくは入洛後の消息を知るに足るべき資料無きを。

然れども世に伝ふる所に拠れば、当年鳥羽伏見の役、大垣藩兵が錦旗に敵対して、あはや朝敵の汚名を被らざる可からざるの時、鐵心の措置宜しきを得て、幸に其の事無かりしが、其の間大夢が隠約裏の活動與りて大に力ありしは否定すべからざる事実なりと。

当時鐵心大夢と鴨西の酒楼に飲し、賦して曰く、 

- 詩文省略 -

同年秋京師を退き、来りて大垣に寓し、やがて藩公に仕へて漢詩進講の役を勧め、月俸一百両を給せられる。

蓋し、是れ鐵心の推挙によるものにして、爾後其の帷幕に参して書策する所ありしが如し。

此の間更始風雲際會集の編あり。

是れ大夢が(郷のした向)に京師に寓するの時、諸徴士と交りて、其の雄篇奇作を見る毎に之を録し、うち國事に関係あるもの若干を採択せるものなり。

鐵心すゝめて上梓せしむ。

明治二年開春、鐵心大夢を拉して東京に赴く毛芥の送詩に曰く、

- 詩文省略 -

蓋し兩個の交態、水魚も■ならずと云ふべきか。

当時東北の諸藩未だ全く降らず。官軍陸續出征す。一日祖筵を江東井生村楼に開く。

會する者六十二人、木戸孝允援筆詩を大夢に贈る。云ふ、 以下 

- 詩文省略 -

越えて明治三年庚牛一月大夢病を得て大垣の客舎に臥す

其の革まるに及び、鐵心赴き訪ひ、詩を賦して云ふ。 以下 詩を省略

- 詩文省略 -

遂に起たず。子岐山(後出=下記)家を嗣ぐ。


木蘇岐山、名は、字は自牧初の名僧泰果齋と號す。

後に岐山人と改む。

別に三壷軒主人の號あり、本姓小川、厚見郡佐波村(今は稲葉郡日置江村に属す)の人木蘇大夢の子なり。

以下は 省略します

資料ご提供=山本邦宏氏(岐阜県教育委員会文化課 伝統文化財担当)

木村 發(きむら はつ・木村 暢齋)

●関連事項=「平成17年11月
●「雲来詩鈔 巻14」(石橋教著・明治40年)の、後跋文揮毫者



(一) 「但馬史研究 第九号 」(昭和59年3月刊) より

{遺稿3} 木村 発氏     安田 清

●もと、二方郡(現美方郡)七釜の人、出て朝来郡梁瀬下町に移り、更に来って豊岡市本町に終生居住した。文に生き漢詩を良くし、同好の知友は全国に亘っていた。発はその名、字は子美、暢斎とはその号である。

●氏はその天性頴悟、記憶確かにして、歴史、地理、文学経書詩文、克くそらんじ、訓点考証は氏の得意とする所、談たまたま、之に及べば、人をして敬徳せしめずんば止まざるの気概は旺盛であった。

●氏は若き頃東都に遊学し、三島中洲の門に入り学に専念するの時、病患のため聴覚を喪い、以来聾者となると雖も、身の不具なるも困難に屈することなく、却って己が精神を集中して、自らの好む所大なりしのみならず、地方文献の所在を明らかにし、史実は勿論現状を録して、地方文化の向上に貢献尽瘁した。

●その著すところ、聾史文詩鈔、暢斎漫録、朝来誌、皇朝百媛伝、竹田誌、中川誌、生野義挙始末、三江誌、豊岡誌、乙丑災誌、円山川改修沿革誌、京極家々譜等、尚々数々の小著備忘録が存する。是等の書、時に他人と見解を異にする箇所、無きにしもあらずといえども、自らは精根を尽して探索傍証を全うして、確信の下に記述したもの、此の意を体して見れば、上記の著書にしろ、記録にしろ、自ら頭の下がるもののみである。今に之等を披見して、温故知新、後進の研究に示唆を与え、「但馬考」と共に、郷土史研究の重要文献である。

●氏の勝れた詩文や、記録は多く「但馬考」に収録されている。又氏の先祖の来由については但馬考(293頁)に詳しければ、ここに略する。
 早将富貴付烟塵 林下游優不厭貧


(二) 『校補但馬考』(桜井勉著)より

・・・・・前文 (小野湖山との関わりがある記述あり)省略

●圃行餘學文草堂 梁瀬村にあり、木村暢齋考槃の處なり、
暢斎名は發、字は子美、又雪山と號す、二方七釜の人、
傳へ云ふ、其先丸毛兵庫頭氏韶、美濃多藝城に居り、齋藤氏に属す、
孫子房織田氏に仕へ、曾孫親吉豊臣氏に仕ふ、関原の役、西軍に属す、 其友横井伊織介時泰<尾洲赤目の城主>之を説き、東軍に属せしめんとす、親吉答て曰く、其故太閤の知遇を受く、義東軍に属すへからす、既にして接戰奮闘す、不幸兵敗れ、十一創を被りて斃、親吉豫め死を決す、其子氏豊をして其友但馬田公某に頼しむ、氏豊二方七釜に移り、世々名族たり、
暢齋出て木村氏を継く、學徳兼卲なり、中年聾を憂へ、意を世事に絶し、帷を栗鹿に下し、後梁瀬に移る、 著す所聾史記事、暢齋漫録、朝来志、皇朝百媛傳あり、中村確堂為めに草堂記を作る、曰く
・・・・・後文 (暢齋の交道者、細田釼堂・藤澤南岳・中村竹涯などが漢詩を寄せている)省略

資料ご提供=宿南(しゅくなみ)保氏(朝来市史編纂室長)

桜井勉氏は、「山陰の近代漢詩」(入谷仙介・大原俊二共著・平成16年11月)の中、大原俊二氏による「鳥取県下の漢詩人」に記述がある「桜井児山」の事。


(三)
「雲来詩鈔 巻一四」(石橋教著・明治40年)より

木村 発 跋文

雲来詩抄に跋す
余の知る雲来矼先生は、実に友人長坂雲在に因る。
雲在は詩画を善くす。曽て余に語りて曰く、「浪華に詩人多し。
而して其の能く清遠なること秋の如く、温雅なること玉の如く、淡にして薄からず、峭にして険しからず、緩急豊約(ゆたかなこと)、隠顕出没、皆能く縄尺(法則)に中(あた)る。
随物賦形、高下洪繊(大小)、変化測るべからざる者は、推して雲来子を窃む」と。其れ之を訪い、是に於いて余は始めて先生と相見る。
爾後、雁魚の往来二十余年か。 頃(この)ごろ、先生は余に其の詩に跋を嘱す。
因りて重ねて雲在と先生の詩を細論せんと欲す。 而して雲在は己に亡し。哀しいかな。
姑(ともか)く、其の評語を書して以て此の編を読む者に問うという。
明治丁未紀元節前一日。行余学文艸堂南窓の下に於て跋す。
暢斎 木村 発 印

翻刻者=大原俊二氏(米子市史編纂事務総括・米子市図書館協議委員・米子藤樹会理事)

こ項

近藤南洲(こんどう なんしゅう)=近藤元粋(こんどう げんすい)

●明治期の大阪で、儒学者漢学者として藤澤南岳と双璧とされる
●森琴石より少し年少だが、森琴石も一目おいた人物
●森琴石は、近藤南洲著の書誌にも銅版で関与している
●「天満御文庫」は近藤南洲の蔵書献納により成り立ったもの
(「天満御文庫」には響泉堂刻の書誌が多数蔵書されている)



(一)
「大阪人物辞典」 (三善貞司著・清文堂出版・平成12年) より

近藤 南州 こんどう なんしゅう

天満宮(北区天神橋二丁目)の御文庫は、近藤南州の蔵書が基盤になっている。儒、漢学者さらに漢詩人としては、藤沢南岳と双璧といえよう。

嘉永三年(1850)愛媛の松山生まれ。名は元粋、別号蛍雪軒。父名州も儒学者で幼児から素読を受け、さらに藩の明教館で漢学を学び、藤野海南に俊才ぶりを認められた。推挽を得て江戸へ遊学、芳野金陵に師事、明治三年(1870)帰郷し明教館の助教授になる。同七年明教館が廃されるや大坂へ入り、「猶興書院」を開いて儒、漢学を教授、いっとき京都に移ったこともあるが、爾来五十年にわたり、大坂の子弟たちの教育に専念した。

南州の業績の一つに、同九年刊行の「日本政記訓纂」三巻を皮切りに、凡そ五十種に及ぶ膨大な著作が挙げられる。それも「増註春秋左氏伝校本」七巻、「中国書画名家詳伝」10巻など大部の作が多く、恐らく年に二,三種の書物を出版したであろうかと思われる。

しかもその内容は多岐にわたり中国の文学・歴史・経学・書画から日本の古典・歴史と分野も広く、儒学者としては文学的だし、文人としてはあまりにも学術的過ぎる。異彩 の書だ。「天下才子必読新書」「中等教育作文教科書」といったものから「李太白詩醇選本」「白楽天詩醇」「王陽明詩集選本」まで並べてみると、到底同一人物の筆とは思われない。

第二の特色は、漢詩人として高く評価される点だが、特に顛詞(てんし)が散見されるのは、他例も少なかろう。顛詞とは、唐から五代及び北、南宋の時代に発展した新しい文学で、従来の詩が民間の文芸に影響されて通 俗化したものをいう。経学に通じた南州がなぜ顛詞に興味を抱いたかは分からぬ が、洒脱な人柄のせいでもあろう。「南州先生文鈔」から、顛詞の例を抜いておく。「億王孫 春暁/飛紅乱灑小楼前/細雨簾織欲暮天/酒醒閑窓悄然/対愁眠/杜宇声々春可憐」(乱れとぶ花のたかどの降りかかる小雨の夕べ/酒醒めて窓に倚(よ)れば落ち込んで/暁に鳴くほととぎすもあはれ・・・・・)。

顛詞に熱中したのは三十代の半ばと思われるが、その頃は難解な「箋註十八史略校本」を執筆しており、また当時は顛詞の専門書は無く、息抜きに好奇心から手を染めたのであろう。

南州には三人の男子があったが、全て父に先立った。三番目に三男元英を失ったときは号泣し、慰めようもなかった。「哭三男元英三首/禍福因縁安在哉/世途艱難壮心摧/何図至此残年後/哭子還揮老涙来」「夜冷燈前感不窮/青年嫻汝望成空/夢手非夢猶疑夢/髣髴音容在眼中」「世事偏驚転変頻/悠悠歳月幾酸辛/廾年嫻汝空帰夢/五夜風霜泣老親」。

大正一一年(1922)七十二歳没。墓は長柄墓地(北区長柄中二丁目)にある。「南州近藤先生墓」。

前記したように莫大な蔵書は天満宮に納められた。また同宮の境内に「近藤先生頌徳碑銘」が建ち、彼の業績が詳しく刻まれる。


(二)
「浪華摘英」 (浪華摘英編纂事務所・三島聴聰恵発行・大正4年8月) より

先生名は元粋南州は其號なり 別に螢雪軒讀未見書樓の號あり
伊豫松山の人 嘉永三年を以て生る
初めは藤野海南に従ひ 後芳野金陵に就きて漢學を修め
年二十七歳にして居を大阪に移し 猶興書院と稱す
明治二十九年京都に赴き杖を梨木祠畔なる皆川淇園隠棲の地に植て留ること多年鉛槧の業に從ふ
同卅七年門人等の懇請を容れ 再び浪華に帰りて風騒吟社を起し諸生を教えへて以て今日に至る
先生尤も文に長じ又詩文を善くす 時に墨畫を作ることあり 是亦見るべし
三男三女を擧げしも 明治四十五年三男元英先ず病歿するや  先生七絶三首を賦して之を哭す
又大正元年十月六日次男元久 遠く米國に在りて飛行機上より墜落し 二十八歳を一期として長逝す
蓋し北米カーチス飛行學校創設以来日本人最初の卒業生たりしなり
又翌年長男元精暴に歿す 年三十一 元精字は子精小州と號し詩文を善くす
其死を耳にする三日前 即ち六月十四日夕桂社雅集の席上分韻得秋と題し
  「絲風絲雨晩來収。忽看天邊月一鉤。長笛何人吹入破。詩襟如水澹思秋。」
と 乃ち小州の絶筆たり  三男悉く亡し此間僅に一年 有半悲痛曷ぞ禁へん
長女藤枝は醫伯河野玄章(名章、字士斐、號竹堂)の嗣子成章に嫁す
成章も亦醫を修め現に回生病院に在り 次女千賀子は近く藻井泰麿に嫁せり
三女尚家に在りて孝養に餘念なし
著す所 螢雪叢書螢雪論畫叢書支那書畫名家詳傳、諸家の詩集頗る多し

(北区旅籠町猶興書院)   

住所の後に続く詩文は省略します・・・・(一)末尾 「哭三男元英三首」 と同じです


鉛槧(えんざん)=昔、中国で、槧(木の札)に鉛粉で文字を書いていたことから詩文を書くこと。文筆に携わること。

(一)の「大阪人名辞典」では三男「元英」は最後に歿したとあるが、(二)「浪華摘英」及び、(三)「森琴石日誌」等により、最後に歿したのは長男「元精(小洲又は小州)」。


(三)森琴石日誌 より

明治45年

5月31日 曇、同夜雨
 ○近藤南宗翁著学画本五部、代價金拾円、
  近藤氏ヘ為持遣、相渡ス、領収書申之置

7月9日 曇雨、午後晴
 ○近藤元粋氏ヨリ過日支那本預リ置候処、
  右受取之使ヒ来ルニ付、返却ス、右之内一部、求度旨
  書面渡ス置、

7月12日 曇
 ○僧侶平川浩然、近藤南洲翁添書ヲ以罷越、       紹介状
  面会ス、寄附一枚依頼、承諾致遣ス

大正元年

9月18日 曇
 ○午前、近藤南洲氏ヨリ転書依頼、午後、平川ト申僧、
  書画会開催致シ、右寄附画揮亳致置、受取ニ来ルニ付、相渡ス、

 近藤小洲(元精・南洲の長男)」記述箇所

大正元年

8月31日 晴
 ○午後、近藤小洲ヨリ、支那書籍数種、
  親族之由、宮原富徳と申人持参有之、内四種預リ置、

9月9日 晴
 ○朝、西尾雪江来ル、今日鎌田代理ニ箕面展覧会ニ罷来シ、夕前帰来
  過日近藤小洲ヨリ来ル本代三円、相払呉候様申之、預ケ帰ル、月謝領収 、

 近藤小洲(元精)氏は、翌大正2年6月に歿す



(四)
近藤元粋主催『逍遥游吟社(漢詩の会)』資料


-会員メンバー「大村楊城」の、漢詩添削原稿 より―

「逍遥游吟社十二月吟稿」
 <明治40年12月=「平成17年8月■7番目 注9,10(2)」の画像>

原稿中ほどより3行目
下 先生之詩眞得之矣 近藤元精塗抹
  近藤元粋妄批
(以下省略)

画像ご提供=大村紘一氏(東京都・大村楊城曾孫)

(五)HP内記述箇所
平成14年11月■2番目」・「平成17年4月 注7 騎鶴楼と森琴石●1番目」・「平成17年6月■3番目注 5,6」・「平成17年8月 注9、10」・「平成17年9月■2番目」・【平成17年12月■1番目」・雅友・知友「永田暉明


関係人物一覧
師匠・先輩たち(南画儒学洋画法系図)雅友・知友(

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