森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成13年

平成13年11月

琴石の妻「ヤス」の出生地や親族が住む福井県の福井市及び鯖江市を訪問する。県立福井美術館に所蔵されている『貼り合せ六曲一隻屏風」の中に森琴石の「山水図」がある。琴石没後4年目、大正14年2月親族や門下・地元の名士などにより、鯖江市の料亭「若竹楼」で「森琴石第五回忌遺墨展」が開催された。門弟近藤翠石が著した「森琴石先生薦事図録」には、その遺墨展の様子や「煎茶式」での道具類や「森琴石遺墨所蔵者」などが詳しく記されている。遺墨所蔵者の殆どが、元鯖江藩士や旧家などの名士である。残念ながらその殆どは「戦禍」や「震災」で消失した。僅かに、明治43年作「出山釈迦図」が鯖江の名刹「萬慶寺」に残されている。

萬慶寺は鯖江歴代藩主間部家の菩提寺。琴石妻ヤスの親族は代々この間部家に仕え、ヤス自身も藩主に仕え、維新前後任務で京都や大阪務めをした者があったという。

第七代藩主間部詮勝は井伊直弼の命を受け幕府の老中を務めた。菩提寺萬慶寺の天上画「風神・雷神・竜神図」を描いた事でも知れる。

ご協力者:久我孝則氏(萬慶寺ご住職・永平寺副監院を兼務)
      戸田浩之氏(福井県立美術館)
      鯖江市資料館

平成13年10月

大阪北浜の老舗料亭「花外楼」に、森琴石の明治29年作「花卉図」・明治44年作「六石山房図 ろくせきさんぼうず ※」が所蔵されている。明治4年、日本の行方を決める重大な「大阪会議」が、「加賀伊(花外楼の前屋号)で開催された。会議のメンバーである「木戸孝允」より、会議の成功を祝い、屋号名「花外楼」が贈られた。森琴石は、木戸孝允と深い関係にある長三洲(豊後日田生まれの漢詩家・明治の三大書家の一人)と親交していた。明治8年に、森琴石の画室名「聴香読画廬」の由来となった、「聴香読画」の書を長三洲から揮毫された。

六石山房図=図に添えられた詩は、木蘇岐山(きそ きざん)によるもの。
ご協力者=徳光清子氏(花外楼女将)

平成13年8月

京都の老舗木版美術出版社「芸艸堂 うんそうどう」を訪れる。愛媛県新居郡西條(現西條市)出身の琴石門弟の「山名友石 やまなゆうせき」は、同社出版による明治36年木版「珍花図譜 上 下」を著す。抜群の構図と色彩で当時の珍花(洋花)を描き、富岡鉄斎が序文を書いている。

「珍花図譜・上下巻」は、同書が収蔵されている千葉大学附属図書館で閲覧可能。

岡山県井原市で、複数の門弟の確認や、後月郡芳井町の山成酒蔵からは、森琴石及び周辺の文人が揮毫する「書画帖」が存在するなど、丹念な調査のご協力を頂く。

山成酒造(やまなりしゅぞう)=儒学者阪谷朗廬の妻及び母がご当家の子女。山鳴大年や緒方研堂など適塾関係者や、渋沢栄一、谷崎潤一郎とも親戚 筋にあたる家柄。

ご協力者=大島千鶴氏(岡山県井原市史編纂室)

平成13年7月

大阪府豊中市の市史編さん係を訪れる。同市に住んだ「永田聴泉」は、親交のある、「小畑松坡」の紹介で「妻鹿友樵(めがゆうしょう・森琴石の儒学の師・武道の達人)」に七絃琴を学んだ。両名ともに名高い琴楽奏者である。妻鹿家は明治10年、上津島(こうづしま)に別埜「猗々書屋」を構えた。永田・小畑両氏に琴を教え歓談をした。上津島から大阪市西区江戸堀の自宅への帰路、親交した伊丹の酒蔵家「小西新右衛門」を訪問するのが慣わしであった。

永田聴泉(ながた ちょうせん)=名淳次郎・南豊島村原田の旧家・初代村長・森琴石に画を学ぶ。漢学にも優れ、著書に昭和3年刊「独住縦情集」がある。
小畑松坡(おばた しょうは)=名萬治郎・南豊島村上津島の旧家・永田聴泉に七絃琴を教える。
小西家資料館へのLINK入り口

平成13年春-夏

大塚融氏(元NHK記者・数寄者研究家・経営史研究家)より、森琴石活躍当時の大阪の文人を網羅した「浪華摘英」「続浪華摘英」の、全冊複写資料や多数の方々の紹介及び情報のご提供を頂く。

岩手県盛岡市の「原 敬 記念館」に、森琴石の明治33年作「澗閣松雲図」が所蔵されていた。

「澗閣松雲図 かんかく しょううんず」は、「明治天皇」ご逝去後、「原敬」に御下賜された作品。

平成13年1月

先月度ご紹介の山中潔氏より、森琴石の明治36年「梅林山水図」「松林山水図」の双幅図所在のご情報提供を頂く。双幅図には「富岡鉄斎」・「石橋雲来」が画賛を書き、落款には佐賀出身の大和絵画家「高取稚成  たかとり わかなり」のために描いたと書かれている。森琴石は、長男「雄二」の妻となった「うめ(梅子)」の家系が佐賀藩士だった事から、佐賀出身者とも交流を深めていたようだ。

 

祖母「うめ(梅子)」の父入江俊次郎は、大隈重信公の側近者(家令)として仕えたが、終生公に名を出す事はなかった。入江家は天正(1570年代)頃より肥前国領主鍋島家に代々仕え、鍋島藩の組頭・御蔵方相談人・大御目付役・代官助役などの要職についてきた。砲術に長けた者もいた。曽祖父入江俊次郎は、寛政2年(1790)本家から分家した入江善次郎から五代目に当たる入江兵之介(号穆遠 ぼくえん)の二男。

 

入江俊次郎は、幕末に入江家を代表し、大隈重信・百武兼行(画家)と3人で上京した。上京後は大隈重信氏を裏方で支えた。以来俊次郎は大隈家とは同じ居宅、敷地内に住んだ。森家謄本にある祖母の住所「東京府豊多摩郡戸塚村大字下戸塚70番地」は、早稲田大学大隈講堂などの敷地となった。大隈家とは立ち退きを機に、上京後初めて青山と世田谷に分かれて住んだという。

 

佐賀県神埼郡にある入江家の菩提寺「妙雲寺」は、天文19年(1550)鍋島家元祖である清久(鍋島直茂の曽祖父)の開基により建立され、佐賀御城の鬼門を守るための、鍋島家の武運祈願所であった。また山口市「瑠璃光寺」の末寺でもある。

 

鍋島家の菩提寺「高傳寺」は「妙雲寺」第二代目冷岩玄波(れいがんげんぱ)大和尚を初代として開山され、妙雲寺十五代までは高傳寺の本寺格であった。入江家は、東京護国寺にある大隈重信と同じ墓地内にも墓碑がある。

 

入江分家は維新後佐賀を出、大阪・東京:札幌などの各地で企業や医学医業・開拓事業などに携わり、本家を含め親族からは、政府の官僚職に就いた者がいた

   

 

祖父「雄二」と祖母「うめ(梅子)」が婚姻へ至る経緯や、森琴石と大隈重信との関係は詳細不明である。祖母梅子は明治41年長男「壽太」を出産するが、明治44年23歳の若さで他界した。

 

入江兵之介(穆遠 ぼくえん)については 「家族・係累「入江穆遠」をご参照ください。

 

ご協力者:山崎立也(やまざき りゅうさい)氏=佐賀県神埼郡「妙雲寺」ご住職
       藤野栄子氏=東京都、入江俊次郎孫  

 

文献=「入江氏系図」(鍋島文庫 複本211-12)
     「三田川町史」(昭和53年・神埼郡三田川町編)
      以上、佐賀県立図書館 資料課
     「入江家系図」(昭和17年12月・入江貞次郎氏作成)



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