森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成17年(8月)

6月下旬、大阪城の外堀近くにある「追手門学院小学校 おうてもんがくいん しょうがっこう」を訪問する。同学校は、明治21年4月、時の大阪鎮台司令長官「高島鞆之助 たかしまとものすけ 注1」中将の提唱により、軍部の将校子弟の教育の為、西日本最古の私学小学校として創建され、「大阪偕行社附属小学校 注2」と名付けられ「西の学習院」とも称された。

同校は、「西南戦争 注3」の戦没者を追悼する慰霊碑「明治紀念標 めいじきねんひょう 注4」の移転跡地に建てられた。

明治12年、「大阪博交社 おおさかはっこうしゃ 注5」が中心となり、「西南戦争戦没者慰霊碑建立」の寄付金を募るため、森琴石製図・響泉堂刻による、「明治紀念標 百分一縮図」の、ポスター風の広告物が製作された。明治16年に完成したものと製図とは、材質形状共に趣が大きく異なる 注6。追手門学院には「辻愛造」や同校卒業者による「完成後」の画が残る 注7

 
 
注1
  高島鞆之助 (たかしま とものすけ)

高島鞆之助(鹿児島)
<明16.2,1陸軍中将>明10,3,28別働第一旅団司令長官、13,4,29熊本鎮台司令官、14,2,9大阪鎮台司令官、15,2,6西部監軍部長心得、16,2,1西部監軍部長、18,5,21大阪鎮台司令官、21,5,14第4師団長、24,5,17陸軍大臣、28,8,21台湾副総督、29,4,2拓殖務大臣、29,9,19陸軍大臣、
 西南の役で征討第一旅団長として出動、戦後師団長クラスを歴任、松方内閣の時に大山厳中将に代り陸軍大臣となったが、軍の一線に立つことはなかった。薩摩出身で山県を中心とする長州閥に対抗し、陸軍内部での薩長の派閥争いを引き起こした。
  「日本陸海軍人名辞典」(芙蓉書房出版・1999年12月)による
 
注2・注5
  大阪博交社・大阪偕行社

●明治11年3月、陸軍少佐高島信茂・白江景由らが幹事となって「各自設置スル所ノ学舎」を合併して「大阪博交社」を江戸堀上通一丁目に開設した。
●設立の目的
「公務丿余暇僚友博ク相シ、武ヲ講シ兵ヲ談シ、傍ラ詩歌文墨ニ遊ヒ、抑鬱丿懐ヲ拝シ、トモニ草枕丿親睦ヲ厚フセンコトヲ欲ス(「大阪偕行社沿革誌」)
  《「新修大阪市史第5巻」 第二章 第四節「大阪市の成立 軍政の整備」(新修大阪市史編纂委員会編・1991年》より
  ●明治15年(1882)各地の軍管区にあった同様の組織を全国統合し頭に地名を冠し「大阪偕行社」と称した。統合時「東京偕行社」のみ地名を冠せず「偕行社」とした。(追手門学院HPなど)
●博交社婦人会が主催する「バザー」は、軍人と市民とが交流できる機会だったという。

大阪偕行社・大阪偕行社附属小学校=大日本帝国陸海軍史料館:「遺跡遺構展示館:大阪府」の中ほどにあります。
 
注3
 

西南の役(西南戦争)

期間=明治10年2月15日~明治10年9月24日

明治10年、「秩禄処分」や「廃刀令」などによる明治新政府への政策に対する不平がつのり、それら士族の最大かつ日本における最後の内戦「西南の役」が、「西郷隆盛」を盟主とする薩摩軍の蜂起により口火が切られた。7ヶ月間に及ぶ戦乱は凄惨を極め、政府軍・西郷軍合わせ戦没者は13000人余りに達した。明治16年5月、それら戦没者の霊を弔うために大阪中之島の豊国神社西隣に「明治紀念標」が建立された。その後明治35年当時日本陸軍の中枢であった「大阪鎮台 おおさかちんだい 注7」に移転された。

*西南の役での政府司令長官は高島鞆之助で、西郷隆盛とは同郷人。

 
注4
  明治紀念標=最新情報「平成17年5月、同6月」をごらんください。
 
注5
  ●森琴石縮図のもの=石造製の四角錐のもので、天に向かって凛とそびえる。
●完成記念碑=赤銅色の鉄鋼製、形状は丸みを帯びた「京都タワー風」のもの。
 
注6
  辻愛造による「明治記念碑」=記念碑の後ろには、大阪偕行社の「モダンな建物」が油彩でカラフルに描かれ,、画の裏には「偕行社前  国展審査員 辻愛造」と、書かれている。追手門学院卒業生の水彩画は「大正5年第24期高等科卒業生 新作義信氏」 によるもの。
 
注7
  大阪鎮台(おおさかちんだい)

大阪鎮台にある大阪砲兵工廠(おおさか ほうへいこうしょう)は、大阪造幣局と共に大阪の文明開化(技術的)の象徴だった。
 
ご協力者=宮本直和氏(追手門学院小学校教務部長)・著書に「大阪偕行社附属小学校物語」(東洋出版・2000年)、「奇跡の生活リズム教育法」(PHP)他、共著「心の教育」「実践大系」など多数。
 
大阪鎮台に任務する軍部の士官たちの多くは、かつて諸国の藩士として文武両道高度な教育を受けており、文人趣味にも通じ、特に「詩書」に卓越するものが多かった。
高島鞆之助の祐筆を努めた「大村 楊城 おおむらようじょう 注8」は、明治30年8月に陸軍勇退後は、漢詩の会「逍遥游吟社 」で大阪の儒学者「近藤元粋(南洲)・元精」父子・「藤澤南岳・黄坡」父子や、「上野梅塢」・「圓山大迂」・「山本 憲(梅崖)」・「田部密(苔園)」など多くの知識人と交流した。大村家には高島鞆之助の早期の号「革 丙」の書や、楊城の祐筆を示す書簡の草稿が残り、「逍遥游吟社例会 添削原稿」なども百数十枚残されている 注9。また、当時大阪で隆盛を誇った煎茶道にも造詣が深く、煎茶道具類が多数あるなど、明治期の貴重な資料が残されている。
「逍遥游吟社(逍遥游社)」は「近藤元粋(南洲)」が主催したもので、同会の漢詩は、作者一人の草稿に対して、会員が順次拝読する方法がとられ、添削者の区別は、墨の色で区別されている 注10
「大村楊城」は、当HP「舩田舩岳の日記」に記述のある「廣田 剛」・「佐野五明渓」や、先月記述の「橋本海関」と交流があるなど、交流者が、森琴石周辺の人物と重なることが極めて多い。
 
 
祐筆(ゆうひつ)=貴人に侍し文書を書くことをつかさどった人.
 
注8
  大村楊城=関係人物紹介「大村楊城 おおむら ようじょう」・最新情報「平成15年7月■第3項目」をご覧ください
 
注9・10
  大村家に残る、明治34年から明治末期までの漢詩草稿のうち、下記一部分をご紹介します。
 

 
 

[大村楊城漢詩草稿]
(色、記名順序は原本通りとする・原本は縦書き)

(1):明治36年1月
逍遥游吟社1月稿閲覧者

    逍遥游社癸卯一月稿    大村屯拝草 

                  ↑
             漢詩、添削文は省略する
                  ↓
     正

       矢野方舟拝吟  同拝讀
       田 蜜拝讀
       藤澤元拝讀   亮拝吟
       藤澤恒妄批   英拝吟
       岡本 和拝吟
       山本 憲拝吟
       上野 
       緒方 羽吟           以上10名

(2):明治40年12月
    逍遥游社十二月吟稿

                  ↑
             漢詩、添削文は省略する
                  ↓
        大正                  大村屯拝 

  嘗讀珊瑚鉤詩話云平夷活淡為上恠險蹶■為
  下 先生云詩眞得之矣  近藤元精塗抹
  近藤元精妄批
  吉田 亮拝吟
  矢野方舟拝讀
  近藤同拝吟
  田部 蜜拝讀
  久保雅友拝讀
  藤澤元 拝吟
  藤澤恒妄批
  青木斌拝吟
  岡田英拝吟
  乾 悌拝吟
  山田 迪拝吟
  上野熙拝吟
  緒方羽拝吟   以上 14名

                 ※逍遥游社メンバーについては、下記◆をご覧ください


 
注釈
  (上記を含める大村屯氏漢詩草稿18枚分)

●一枚の草稿にたくさんの人が、批正・添削を書き込むので、だれがどう書き込んだのか、わかるように色分けしている。

●「逍遥游社」の月例会で、出席者の草稿を回しながら「批正・添削」したもの。

1 大村屯の「草稿」を「逍遥游社」のメンバーが批正したもの。

2 大村屯の「草稿」の末尾は
    例 「 正       大村屯再拝  」まで、である。

3 「正・大正・乞大正・乞教」の意味は、大村屯が「批正・添削をお願いする」ということ。
  「政」という字をもちいることもある。

4 記名のあと「拝吟・拝読・妄批・妄評」とあるのは批正・添削を行った人たち。


●注釈=大原俊二氏(米子市史編纂事務総括・米子市図書館協議委員・米子藤樹会理事)
 
逍遥游吟社メンバー(大村家の調査では総勢36名)
 
 

近藤元粋(南洲)=関係人物紹介「近藤南洲」をご覧ください。

近藤元精(小洲)=近藤南洲の長男・近藤小洲と号し詩文をよくする・大正2年没・森琴石の日誌に名が出る

藤澤 恒(南岳)=関係人物紹介「藤澤南岳」をご覧ください

藤澤 元(黄塢)=藤澤元造・藤澤南岳の長男

上野熙(梅塢)=大阪生まれ・儒学者・医学から儒学に転じる・藤澤東畡に儒学を、広瀬旭荘、和歌を冷泉為忠に学ぶ・釣鐘町で「瓊林館」を開設子弟の教育に当る

飯塚西湖=名納(おさむ)・漢詩家・著書に「西湖四十字詩」(権藤成_編・昭和5年)

猪木熊山=名邦介・医家・天保14年新宮生まれ・儒医山田山東に師事徳に産科に通 じた・森田節斎に詩文を学ぶ・大阪の風流医師として評判が高い(三善貞司著「大阪人物辞典」)

緒方羽(拙斎)=豊前小倉生まれ・緒方洪庵の養子・漢詩家、蘭医

岡本和(撫山)=明治3年造幣寮官吏から始まり20年間造幣局の発展に尽力・「浪華人物誌」の著者・妻鹿友樵とも親交した

岡田英(松窓)=名寿一郎・著書「松窓詩鈔」(明治25年)

久保雅友=大阪府立北野中学校(旧制)国語漢文教師(明治33年6月~明治41年5月)・上記にも記述がある「廣田 剛の後任教師・二松学舎卒、前任校は新潟中学校。後京都大学附属図書館館長を務める(明治41年6月~大正2年3月)

田 蜜=田部蜜(号苔園)・漢詩家・近江生まれ・住浪華
注:大阪府立中之島図書館蔵書の、響泉堂刻「増補 詩韻珠」(余照春亭著・明治13年)には、「田部苔園翁遺書」の印があり、田部苔園の名が墨字で書かれている。

山本憲(梅崖)=土佐生まれの儒学者。大阪で「梅清処塾」を開設・中国と深く関わった・「平成17年6月 ■第三項目 注6 山本憲」をご覧ください。

伝歴不詳者
青木斌=青木重斌 /亮=吉田亮 / 乾 悌/ 奥田孚/ 人見彰/ 中井宏/ 永岡恕/ 磯村泰(号松外) / その他は省略

 
資料ご提供及びご協力者=大村紘一氏[大村楊城曾孫(東京都)]


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