森琴石(もりきんせき)1843~1921

解説

森琴石に大きく関わる用語を説明します

■用語解説

銅版画
版画の技法の一種。原版の凸部に墨やインクをのせて紙に摺り取る「凸版」(木版など)、また原版に親油性と親水性の部分を作り分け、水と油の反撥作用を利用して油性インクがのった部分を紙に摺り取る「平版」(石版など)、インクを通す部分を作った一種の型紙で摺る「孔版」(シルクスクリーンなど)などと異なり、原版の凹部にインクを詰めて他をふき取り、圧をかけて紙に摺り取る方法。主として銅などの金属を用いた原版に凹部を作る方法は、直接彫刻刀で彫りくぼめる「直刻法」(エングレーヴィング、ドライポイントなど)と、硝酸などの酸が金属を腐食する化学作用を利用した「腐食法」(エッチングなど)に大別される。

 欧州で直刻法が行われたのは15世紀早くからであり、腐食法は16世紀初頭デューラーらによって開発された。日本でも桃山時代にイエズス会宣教師らによって直刻法がもたらされ、セミナリヨで銅版聖像画が制作されたが、腐食法は18世紀末になって司馬江漢が蘭書の記述などを頼りに独自に開発、「日本創製」を標榜した。その後、亜欧堂田善や安田雷洲らが輩出したが、これら江戸の銅版画に対し京阪地方でも銅版画を試みるものが多く、幕末期になると京都の玄々堂(初代・二代)が隆盛となった。門流を含めて玄々堂一派は、地図、書物、土産絵などあらゆる分野に多量の銅版作品を制作し、その大衆化に与って力があった。明治改元後、二代玄々堂松田緑山は紙幣製造を命ぜられ、東京に移住して紙幣寮に入るが、政府が御雇外国人キヨッソーネを招聘するに及んで職を解かれ、梅村翠山とともに野に下ってそれぞれ民間印刷会社を設立、銅版から石版へと発展する日本の印刷業界をリードした。日本の銅版が量的に最も拡がりを見せたのは明治10年代で、字も絵もすべて銅版印刷する「銅版本」、各種証券、ラベルや印紙等々、実用印刷技術の面が強かった。

 琴石の銅版技術は、玄々堂系とも別流ともいわれるが定かではない。響泉堂と号して銅版制作に携わった活動期は、明治8年(1875)頃から20年(1887)頃までである。京都の石田有年・旭山兄弟と並んで、この時期を代表する銅版画家であり、その精緻で芸術的な香りの高い仕事は他に例を見ない。


(文章=熊田 司氏(大阪市立近代美術館建設準備室主幹)
南画(文人画)
文人画の源流は、中国文人が余技に描いた絵画を指し、唐代の詩人王維が祖とされる。元代末期に黄公望など四大家が登場して柔らかい筆づかいで隠逸的な山水を描いた。明代には沈周や文徴明が活躍し、さらに董其昌が尚南貶北論を唱える。これは文人画家の描く山水を様式的に画工(職業画家)の描く「北宗画」に対する存在として「南宗画」とするとともに、様式と画家の身分を混同して「文人画」の概念の混同をひきおこした。

 日本の南画(文人画)は江戸時代、中国から流入した文物に刺激されて十八世紀半ば、勃興した新しい絵画傾向である。中国から渡来した隠元による黄檗山萬福寺創建や『芥子園画伝』『八種画譜』など画譜の舶載を契機とし、祇園南海、柳澤淇園、彭城百川らが先駆者として登場する。南海、淇園など武士出身者を文人とするのは矛盾するが、背景をなす中国憧憬、古文辞による詩文の盛況による文人意識の高まりは無視できない。さらに本格的な画人として池大雅、与謝蕪村が活躍して南画(文人画)を大成する。中国文人の別 荘を詠む詩を絵画化した大雅、蕪村合作『十便十宜帖』は国宝である。  続いて浦上玉 堂、田能村竹田、谷文晁などが活躍し、全国各地に南画(文人画)は普及する。なかでも大坂は南画(文人画)のさかんな土地で、混沌社など詩文結社が重要な役割を担うとともに、木村蒹葭堂、福原五岳をはじめ、十時梅崖、浜田杏堂、岡田米山人、岡田半江が活躍した。画風も多彩 、玉堂や米山人のように胸中の鬱屈した心情を筆墨に炸裂させたり、竹田、半江など煎茶も含めた文人同士の交遊に清雅清澄の世界を求めた画人もいた。

 明治以降では富岡鉄斎の存在が大きく、また大正時代に新南画運動があった。大阪でも幕末明治に忍頂寺静村、田能村直入、姫島竹外らが活動する。森琴石は明治大正の大阪を代表する有力画人であった。この大阪の伝統は琴石門下の近藤翠石のほか、矢野橋村や直原玉 青へととつながっていく。  なお「南画」は「南宗画」の略とされるが、大雅への琳派の影響、蕪村が俳画を描くなど日本の南画は厳密な意味で中国南宗画そのままを移植したものではない。むしろ日本的な造形要素を含めた独自の絵画様式として「南画」の語は用いられることも多い。

(文章=橋爪節也氏(大阪市立近代美術館建設準備室主任学芸員)

■美濃焼と森 琴石



妻木八幡神社禰宜   黒田正直

私と琴石の出会いは、長野県内にある博物館の先生からいただいた一本の電話でした。その内容は「森琴石について調査しているが、史料の中から妻木の安藤家が所蔵する琴石の絵に箱書きをしたという一文が見つかった。安藤家を知らないか。」という問い合わせでした。実はこの時初めて森琴石という名前を知ったのでした。これを機会に調べてみると、予想外に多くの琴石の絵が見つかり、それだけではなく、森琴石の名前を知っている人が沢山おり、それもひとり二人ではなかった、ということも私にとっては意外なことでした。そして地場産業である美濃焼にも関わりがあったこともわかってきました。まだまだ視界良好とはいきませんが今日までの成果をまとめてみました。

森琴石が美濃焼で知られる岐阜県東濃地方を訪ねたのは、明治20年代から30年代にかけてでした。とくに土岐市妻木町からは、当地で描いた琴石の絵が10本以上発見されました。また地場産業の焼物との関わりについても興味ある資料が得られました。しかし妻木町以外の近隣町村に関しては未だ手つかずの状況です。琴石の残した記録の中には、多治見市にある虎渓山永保寺や、土岐市土岐津町高山でのスケッチなどがありますので、今後の調査によっては広範囲にわたって琴石の足跡が明らかになる可能性も秘めています。

虎渓山  永 保 寺

今後の調査研究を期待して、妻木町での琴石の足跡と、美濃焼について述べたいと思います。

岐阜県の南西部に位置する東濃地方は、美濃焼で知られた国内一の生産量を誇る焼き物の産地です。その歴史は古くこの地方で焼き物が生産されるようになったのは、平安時代にさかのぼります。技術の進歩により美濃焼は発展し、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけては「志野・織部」に代表される美濃桃山陶と呼ばれる時代を代表する製品を生み出しました。そして再び美濃焼が注目されるのは、優れた磁器が焼かれるようになった明治時代のことでした。

美濃で磁器製品が焼かれるようになったのは、江戸時代後期(1800年代)に入ってからのことです。日本での磁器の歴史は、江戸時代初頭(1610年代)の伊万里(佐賀県)に始まります。そのころ美濃では美濃桃山陶の最盛期にあたり、その後御深井(おふけ)や染付の製品に移行しますが、いずれにしろ陶器の製品を焼いていました。瀬戸から伝わった磁器は、「新製焼」としてその生産は年々盛んになり、美濃は短期間のうちに先進産地に追いつくほどの発展を成し遂げたのです。はじめは伊万里などを模した製品が多く焼かれましたが、次第に独自の製品が作られるようになってきました。幕末には市之倉村(多治見市)や妻木村(土岐市)などで、幕府の薬園の注文を受注するほどに優れた磁器が生産されるようになりました。

明治になって、窯の数などが制限されていた窯株制度が廃止され、多くの人が窯を築き、焼成技術も革新的に向上し、多量の製品が焼かれるようになりました。それにともなって国内に広く市場を開拓する気運が高まります。その一例が内国勧業博覧会への出品です。内国勧業博覧会は全国に殖産興業を促すために計画されたもので、この地方の多くの陶磁器関係者が出品していることに驚かされます。明治10年(1877)に東京で開かれた第一回内国勧業博覧会には、現在の土岐市・多治見市・瑞浪市から18名が出品しています。回を追う毎に出品者は増加し、第二回(東京、明治14年・1881)は55名、第三回(東京、明治23年・1890)は117名、第四回(京都、明治28年・1895)は59名、特に第五回(大阪、明治36年・1903)は306名にのぼり、この地域のほとんどの生産者が出品したものと思われます。もちろん国内だけでなく、万国博覧会などの海外での博覧会に出品した人たちも多数ありました。これらの製品の多くは、碗皿、煎茶器、皿や花瓶などに、花鳥、風月、山水や人物の絵を付けたものでした。

磁器の製品が主体になったことで、描かれた絵は繊細で写実的なものが可能となり、次第にそれが主流となっていきました。その結果窯業に関わる人たちの中には絵画に興味を持ち、専門の画家の絵を見たり購入する機会も増えてきたものと思われます。また絵画を学んで優れた上絵を描く職人が誕生してきました。森琴石をはじめとする画家たちがこの地域を訪れるようになったのはこの頃のことです。

水野勘兵衛 花瓶

森琴石の足跡が残る土岐市妻木町は美濃焼の生産地の中でも歴史遺産を最も多く残した町です。特に室町時代から土岐明智氏がこの地を領し、戦国時代から江戸時代にかけては妻木氏が妻木城を拠点として、この地域の美濃焼の発展に貢献しました。町内を歩けば領主ゆかりの妻木城跡や氏神八幡神社、菩提寺崇禅寺などをはじめとして多くの歴史遺産が残されています。また町のあちこちに点在する窯跡は、室町時代の山茶碗を焼いた穴窯から大窯、登り窯にいたる近代までの窯跡があちこちに点在しています。妻木も明治時代に入ると磁器の生産によって大きな飛躍を遂げます。特に薄手の碗皿や洋食器などの主産地として発展しました。明治10年代後半に水野勘兵衛によって薄手のコーヒー碗の焼成に成功し、同い年の中島玉吉は中島商店を設立して見事な上絵をつけて海外への輸出を成し遂げました。欧米のジャポニズムといわれる日本趣味に乗じて多くの製品が海を渡りました 。

コーヒー碗皿

森琴石が妻木を訪れたのは明治20年代後半から30年代にかけてです。まさしくその最盛期にあたります。画家としてだけではなく、銅版画家としても優れた才能を持つ森琴石が、手描だけでなく、摺絵と銅版印刷の技法によって絵を付ける磁器にも何らかの関係を持っていた事は充分考えられます。現在琴石が絵付けをした煎茶器が三組残されています。その箱書きによれば、熊谷鉄蔵の窯で絵を付けたことが記されています。煎茶器には蟹と菊が描かれています。「壬寅」の干支から明治35年のことだとわかります。熊谷鉄蔵の窯は、妻木町神宮地区あります。ここは明治に入って盛んに焼かれるようになった地区で神宮窯と呼ばれています。鉄蔵の他にも熊谷弥吉、熊谷幸四郎、熊谷留四郎などの窯焼きや中島玉吉の中島商店などが軒を並べていました。

森琴石 染付け茶器

崇禅寺

また琴石が逗留した崇禅寺は、臨済宗妙心寺派の古刹として知られています。土岐明智氏の初代頼重が文和三年(1354年)に創建し、代々の妻木城主の手厚い保護を受けてきたお寺です。城主の位牌や墓所があり、釈迦如来立像など岐阜県、土岐市指定の文化財を多数所蔵しています。明治時代以降この寺には何人かの画家が逗留し近在の窯主の注文に応じていました。琴石はそれらの画家の中でも一番の画家であったと古老たちに語り継がれてきました。

          -平成19年2月記す-


★黒田正直氏は、土岐市文化財審議委員妻木城址の会事務局も兼務されておられます。

★平成14年9月、長野県の飯田市美術博物館学芸員の 槇村洋介氏 より、「妻木には、窯元家などに、森琴石の作品が沢山あるようだ」との情報を頂きました。森家では、平成15年1月、平成15年8月と、2度に亘り「崇禅寺」や妻木の窯元家、「妻木八幡神社」を訪問させて頂きました。平成15年1月に「崇禅寺」で、平成15年8月には「妻木八幡神社」で、「森琴石画集」の為、妻木で所蔵されている森琴石の作品の撮影を行いました。

★上記黒田正直氏文章及び美濃焼に関係する、当HP内での記述箇所

平成14年9月」・「平成15年7月同8月」・「平成16年12月 注1」・「平成19年1月■9番目&注11」・関連資料「砥部焼きと森琴石」 の年表内、また 森家には「土岐 姓」の資料が残っている事もあり、家族係累:「森家について」 も、ご覧下さい。


HOME
Copyright (c) 2003 morikinseki.com, all rights reserved.