森琴石(もりきんせき)1843〜1921

森琴石 調査情報

平成10年10月〜現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成19年(6月)

【1】

先月度 よりつづく

明治44年1月25日、大阪の老舗料亭「花外楼」で開催された「讀杜会 注1」に招待された「木蘇岐山」は、森琴石の「六石山房図」に即興で詩賛を寄せた 注2

「花外楼」には、同じ「六石山房」という大きな書額が残されている。これは、明治3年6月16日、「長 三洲」により揮毫されたものである 注3。森琴石が描いた「六石山房図」は、かつて絶大な尊敬を寄せていた「長 三洲」の書額に呼応しての作画と見られる。

「木蘇岐山」は、明治27年から6年間金沢に居を構え、当時石川県知事を勤めた「古澤 滋(号 介堂) 注4」や加賀の文人「三宅真軒・北方心泉」などと交わり、金沢で<木蘇岐山の漢詩>を展開するなど金沢とは極めて縁が深い 注5

一方、今から約170年前、天保の末期、加賀の国から出てきた伊助は「加賀伊」と称して、大阪の北浜に料理屋を開いた。

 

明治8年2月11日、この「加賀伊」を会場にして、井上馨の斡旋により、「大久保利通・木戸孝允・板垣退助・伊藤博文・井上馨」らが集い、日本の政治の行くえを決める重要な会議、俗にいう「大阪会議」が開催された。会議は成功し、その結果日本の立憲政体の礎が築かれることとなった 注6

会議の成功を祝い、「木戸孝允」は「加賀伊」に、「花外楼」という新しい屋号を贈った。以来「花外楼」は、政界・官界の大物たちが出入する格式の高い料亭として栄えてきた。「木戸孝允」とは、幕末期、勤王の志士として数々の武勇を誇る名高い長州藩士「桂小五郎」の事である。森琴石周辺では、木蘇岐山の父「僧 大夢」や、日柳三舟の父「日柳燕石 注7」などが「桂 小五郎」との関わりがみられる。

「長三洲」は、長州奇兵隊の旗揚げに参加するなど、幕末に尊皇運動で活躍した。維新後は明治政府に入り、長三洲の草稿による「新封建論」が廃藩置県の成功をもたらすなど、木戸孝允から絶大な信頼を寄せられた。木戸孝允と長三洲とは互いに全幅の信頼関係にあった。

当時の「花外楼」は、何らかのゆかりのある者意外は、一般人は簡単に出入り出来なかったという。森琴石はたびたび「花外楼」を訪れていた。「花外楼」には、明治29年春の作品「花卉図」の他「諸家合作画帖」などもあり、兄弟子「行徳玉江」が描いた、同じく明治29年春の作品「柳桜図」も所蔵されている 注8

 
注1
 

讀杜會(どくとかい=読杜会)

詳細は不明だが、森を杜ともじり、森琴石を中心とする「詩会」の可能性がある。

 
注2
 

[六石山房図]


讀杜會〜 での作品

明治44年1月25日/会場:花外楼

翻刻及び訳文=成澤勝嗣氏(小磯記念美術館学芸係長・平成13年11月)

画=森 琴石/詩賛=木蘇岐山/花外楼蔵

六石山房図

詩文

磊々焉落々焉補天之餘片
耶抑出於太湖之淵
勧君千鍾之緑
酔中對山(草冠+遽)然醒


読み下し文

磊々たり落々たり補天の余片か
抑(そ)もそも太湖の淵に出ずる
君に勧む 千鍾の緑酒
酔中山に対せば遽然として醒む


言葉の意味

磊々=多くの石が積み重なったさま
落々=ものがまばらでさびしいこと
鍾=酒壺
緑酒=緑色を含んだ良質の酒
遽=すみやかに

明治龍集辛亥一月念五予讀杜會諸君聚
花外楼席間作遽作(草冠+遽)   岐山人

訳文

明治四十四年一月二十五日、讀杜會の諸君と共に
花外楼の席で即興に作詩した
間違って遽の字に草冠をつけてしまった (木蘇)岐山人

注3

長三洲 「六石山房」書額

六石山房  花外楼蔵

庚午六月既望浪華客寓書  三洲生
(明治3年6月16日)

 

ご協力者=徳光清子氏(花外楼大女将)

 
注4
 

古澤 滋 (ふるさわ しげる)

本名迂郎。号介堂。土佐出身。土佐勤王党で、吉村寅太郎とは仲間。討幕運動で捕らえられる。維新後、板垣退助らの「民選議員設立建白書」の草案を作成した。自由民権運動の先駆者。愛国公党、立志社、愛国社創立に尽力。大阪日報社長、自由新聞主筆をつとめる。官吏・県知事などを歴任、明治37年貴族院議員。明治44年歿。大阪会議では、その準備段階での、古澤氏の仲介が功を奏したという。水越成章(耕南)、馬渡俊猷などとは漢詩仲間。雅友:木蘇岐山 では 、<古くからの知己>と書かれている。

 
注5
 

木蘇岐山と金沢との関係=「平成19年5月」に記述があります。

 
注6
 

「大阪会議の概要 および 花外楼」について

下記は、《大阪日本料理店ガイド −大阪の料亭いま・むかし− 花外楼のゆかり》から転載させて頂きました。

【大阪会議】とは、明治4年(1871)7月に行われた廃藩置県により、武士達が職を失うなど、当時は画期的な政策だったがその実、不平が高まり政情不安が増すばかりだった。一方、政権内の内情も惨憺たる物で、どうにか政局を持ちこたえていたのが大久保政権だったが、独裁者として権威を欲しいままにしていた大久保利通も、相次ぐ下野に孤立無援、悪戦苦闘の連続で、精も根も尽き果て、元のような強固な政治体制に戻すべく、木戸孝光と板垣退助の復帰を望んだ。

会談をもつあっせん役を見かねた長州出身の伊藤博文(のち初代首相)と井上馨(のち外相)が買って出てくれ、その時伊藤より、両氏に送った手紙が現在『花外楼』で保存されている。この【大阪会議】は、大久保、板垣、木戸という日本を代表する政治家が大阪に集まり、日本の将来の進路について意見の交換をし、そして決定されたことが次々と実行されたので政治史上、重大な改革をもたらしたことから、歴史的行事の意義は極めて大きかった。

この会議の成功を祝って木戸孝允より送られた屋号が『花外楼』であり、以来、政界、官界の大立物が続々と出入りする事となった。

 
注7
 

日柳燕石(くさなぎ えんせき)=「平成15年8月■2番目注2」・「平成15年11月 注4●3つ目)

 
注8
 

これらの作品は、昨年9月9日、「花外楼」で開催された『花外楼歴史ミュージアム 〜幕末・明治・大正・昭和の花外楼物語〜展』でも展示された(但し画帖は除く)。
展示作品は、花外楼ゆかりの明治の元勲から大阪画壇の絵画まで約100点に及んだ。森琴石の時代の画家では、橋本青江(女流)が含まれる。

 
【2】

森家には、上記「大阪会議」が開催された年の、明治8年8月、長三洲により揮毫された「聴香讀畫」という大きな書額がある 注1。森琴石の画房名「聴香讀畫廬」は、この言葉に由来する。「香」のかおりがほのかに漂う画室という意味だそうだ。故先代によれば、森琴石は「長三洲」を大変尊敬していたとの事であるが、その全容は聞きそびれた。

森琴石の師匠「鼎金城」や、「鼎金城」の門下「行徳玉江」は、詩文を「廣瀬旭荘」に学んでいた。廣瀬旭荘は、長兄「廣瀬淡窓」が日田で主宰する「咸宜園」の跡を継がず、日田と大阪を行き来しながら、大坂で私塾を開いていた。兄淡窓の許で学んでいた「長三洲」を、逸材と見抜いていた旭荘は、安政元年、大阪での最後の塾となった「九桂草堂」を開いた折、「長三洲」を日田より呼び寄せた 注2。兼ねてより「廣瀬旭荘」を敬愛していた三洲は、この招聘に応じた。以来、二人は絶大な信頼関係のもと、大阪で学問を広め、幕末の国事に突き進んでいった。

文久3年5月、幕末の激動のさ中「鼎金城」は病歿したが、その1,2年後には「藤井藍田」や「橋本香坡」など、親しくした友人は処刑や獄死するなど非業の死を遂げた。そのような情勢の中、二十歳になったばかりの森琴石は、金城歿後「忍頂寺静村」に画を学び、「妻鹿友樵」の私塾に入門した以外、この頃の年表を埋める作品も事暦も空白である。

 
注1
 

長三洲 書 「聴香讀畫」

聴香讀畫  森家

乙亥八月書 為栞石森君  三洲筆
(明治8年8月)

 
注2
 

「儒学:廣瀬旭荘 −廣瀬旭荘 年表−」をご覧下さい。


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