森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 関係人物紹介

森琴石の師匠や先輩・友人知人など、また琴石の周辺の人物を紹介します


■師匠・先輩たち

儒学


廣瀬淡窓(ひろせ たんそう) =広瀬淡窓


●関連事項=「平成19年6月【2】」・「平成19年7月【1】」・「雅友知友:木蘇大夢」・儒学「長三洲」・南画「西嶋青浦
●豊後日田の私塾「咸宜園」の主宰者。門下生は、後社会に出てからは様々な分野で活躍し、明治維新の原動力となった多数の人物を排出。
●「三浦梅園」、「帆足万里」と共に《豊後の三賢》と称される。
●「頼三陽」「菅茶山」と並び、江戸後期の《三大漢詩人》の一人。
●廣瀬旭荘の兄。幕末期、25歳年下の弟[廣瀬旭荘]が抱く、国事への理想を叶えさせるため、弟を自由に行動させた。懐の深い人物。
●(一)~(五)=『広瀬淡窓と咸宜園』(深町浩一郎氏編集/学習滞在型観光推進協議会発行/平成19年3月)より抜粋引用させて頂きました。



(一)広瀬淡窓 年譜

1782(天明 2) 1歳 4月豆田魚町で広瀬三右衛門の長男として出生
1788(天明 8) 7歳 父に『孝経』の句読を受ける
1789(寛政 1) 8歳 長福寺法幢上人に『詩経』の句読を受ける
1791(寛政 3) 10歳 松下西洋に漢詩を学ぶ
1795(寛政 7) 14歳 4月佐伯に遊学
1797(寛政 9) 16歳 1月福岡亀井塾に入塾
1799(寛政 11) 18歳 12月大病により亀井塾を退塾・帰郷
1800(寛政 12) 19歳 病状きわめて悪化(三大厄の一)
1805(文化 2) 24歳 3月長福寺学寮で開塾  8月転居し成章舎を開塾
1807(文化 4) 26歳 6月桂林荘を新築し移転開塾  11月伝染病の大病(三大厄の一)
1810(文化 7) 29歳 9月合原ナナ(20歳)と結婚
1817(文化 14) 36歳 3月桂林荘を移築し咸宜園を開塾  10月塩谷郡代日田着任
1818(文政 1) 37歳 11月頼山陽が来訪
1825(文政 8) 44歳 2月田能村竹田来訪  4月『敬天説』脱稿、大病(三大厄の一)
1828(文政 11) 47歳 5月『約言』脱稿
1830(天保 1) 49歳 3月旭荘に塾主を譲る
1831(天保 2) 50歳 4月官府の難(塩谷郡代の塾介入)始まる
1835(天保 6) 54歳 7月『万善簿』の開始  8月塩谷郡代解任・江戸召還
1836(天保 7) 55歳 4月再び塾政を執る(旭荘東遊する)
1837(天保 8) 56歳 9月『遠思楼詩鈔 初編』出版
1838(天保 9) 57歳 10月『析玄』脱稿
1840(天保 11) 59歳 8月『迂言』脱稿
1841(天保 12) 60歳 8月馬関(下関)旅行する  11月『義府』脱稿
1842(天保 13) 61歳 9月大村藩の招聘で出講   11月長崎に遊ぶ
12月幕府より永世苗字帯刀を許される
1844(弘化 1) 63歳 6月青邨を養子にし 塾務を執らせる  9月府内藩の招聘に応じ出講
1845(弘化 2) 64歳 2月再び大村藩へ出講 4月再び長崎に遊ぶ 5月再び府内藩に出講
1848(嘉永 1) 67歳 1月『万善簿』一万善達成
1849(嘉永 2) 68歳 4月『遠思楼詩鈔 ニ編』出版
1854(安政 1) 73歳 1月『論語三言解』脱稿  1月勘定奉行川路聖謨と会見
1856(安政 3) 75歳 11月病没、長生園に葬らる


(ニ)「咸宜園」 について

◇1805年(文化2)の開塾から、1897年(明治30)の閉塾まで92年間存続した。
◇塾主の変遷
1805年(文化2)~1855年(安政2) =廣瀬淡窓が実質的に50年間塾主を努めた。
1830年(天保1)~1836年(天保7) =廣瀬旭荘が塾主。塾政は淡窓が執っていた。
1855年(安政2)~1862年(文久2) =廣瀬青邨(淡窓の養子)
1862年(文久2)~1872年(明治2) =廣瀬林外(旭荘の長子・淡窓の養子)
1872年(明治2)~1897年(明治30)=門人たちにより次々と引き継がれる。
◇下野など4カ国を除き、全国64カ国からの塾生が集まる。
◇塾生數は、92年間に4617名の入塾があり、短期滞在生を含めると6000人前後にのぼる。
◇昭和7年、「咸宜園」は国指定史蹟に指定される。

(三)主な門下生

各界で活躍した門人

政治家
大村益次郎(兵部大輔)、松田道之(東京府知事)、島惟精(茨城県令、元老院議員)、長三洲(文部大丞)、中村元雄(内務次官、貴族院議員)
科学者
上野彦馬(写真術の創始者)、山本晴海(砲術家)
蘭学者
岡研介(シーボルト鳴滝塾塾頭)、武谷祐之(福岡藩侍医)、高野長英(蘭学者)
儒学者
中島子玉(佐伯藩藩校教授)、劉石舟(学習院詩文史)、谷口藍田(鹿島藩藩校教授)、阿部淡斎(府内藩儒)、井上直二郎(私塾柳園塾主宰)、恒遠頼母(私塾遠帆楼主宰)重富健助(私塾三楽学舎主宰)、田代潤卿(久留米藩藩校教授)、秋月橘門(佐伯藩藩校教授、葛飾県知事)、楠本瑞山(儒学者)
僧侶
釈樵禅(妙心寺長老)、小栗栖香頂(真宗中国布教の先鞭者)、赤松連城(真宗僧侶)、釈一圭(禅僧)
歌人
大隈言道(近代歌人の先駆者)
画家・文人
帆足杏雨(豊後南画家)、平野五岳(詩書画の三絶僧)、千原夕田(詩書画家)
医家
小林安石、辛島春帆、佐野東庵
勤王家
大楽源太郎(萩藩士)、藤井藍田(大坂呉服商)、長梅外(長三洲の父)
淡窓時代以降の門人
清浦奎吾(内閣総理大臣)、横田国臣(大審院長)、河村豊洲(海軍軍医総監)、朝吹英二(三井財閥 王子製紙会長)など

(四)著書

主著=『約言』(1828年)、『折言』6編(1840年)、『義府』(1841年)
経世論=『迂言 6編』(1840年)、『論語三言解』(1854年)
註疏=『老子摘解』、『読論語』
語録=『自新録』、『六橋記聞』、『夜雨寮筆記』
詩集・詩話=『遠思楼詩鈔 初編・第ニ編』、『淡窓詩話』
その他=『淡窓小品』、『儒林評』、『淡窓日記 七編』、自叙伝『懐旧楼筆記』


(五)廣瀬家略系図

広瀬氏略系図

◆資料ご提供者=廣瀬貞雄氏(廣瀬南がい御子孫・廣瀬家第11代当主・大分県日田市廣瀬資料館社長)


廣瀬旭荘(ひろせ きょくそう) =広瀬旭荘


●森琴石師匠「鼎金城」の師匠。森琴石兄弟子「行徳玉江」、森琴石親交者「水原梅屋」も学んだ。
●関連事項=師匠先輩:「鼎金城行徳玉江」・索引:「田結荘千里」・「平成17年4月注7 騎鶴楼と森琴石 ●末尾」・「平成17年12月■2番目」・「平成18年6月【1】■4番目」・「平成19年6月
●適塾の「緒方洪庵」とは親友の間柄で、松下村塾の「吉田松陰」・「桂小五郎」・また「佐久間象山」とも交わりなど、幕末~維新にかけての激動期に、日本を変えるきっかけとなった人物との交流が多い。門下からも勤皇家が出た。
●「廣瀬旭荘」は、「長三洲」に「桂小五郎(木戸孝允)」を紹介、「長三洲」が<長州勤王派>に加わるきっかけを作った。
●「廣瀬旭荘」が、伏見区(森琴石の居宅の近隣)で「九桂草堂」を開塾した時、塾頭を努めたのが「長三洲」。
●詩文の才能に優れ、兪曲園の「東瀛詩選 」には、ニ巻もの詩文が収録されている。
●廣瀬旭荘の肖像画は、「西嶋青浦(ニ)補足A」 にあります。



(一)廣瀬旭荘 年表

使用文献

1:『贈從5位廣瀬旭荘先生小傳』(高取悦堂記述/廣瀬貞次発行/大正13年7月8日)

「贈從5位廣瀬旭荘先生小傳」には、旭荘の事暦や交流関係など、詳細且つ貴重な事柄が記述されていますが、分量の都合上ご紹介仕切れません。

2:『大阪の先賢と史跡 第三輯 廣瀬旭荘の講学と尊王思想』=(-文学博士 長 壽吉-講演速記録/大阪市文化課編発行/昭和19年2月16日) 



廣瀬旭荘 (ひろせ きょくそう)

文化4年5月17日~文久3年8月17日 (1807―1856)

◇文化4年5月17日 (1807)
豊後(大分県)日田豆田魚町で、父三郎右衛門の三男として誕生する。名は譲、字は吉甫、通称謙吉、号は旭荘。初め秋村と号し、別に梅とん(土+敦)を号す。
廣瀬家は元来武門の出であるが、商事に従事し裕福になった。
父廣瀬三郎右衛門は、長春庵桃秋と号し俳諧を以て名高く、長兄淡窓は儒学者として著名。
文化8年(1811)6歳にして母を喪い、文化12年(1815)10歳より兄淡窓撫育を受ける
◎旭荘が学んだ文政頃の世相
徳川末期の異学の禁の激動の時期が終る。享保時期の学者は殆ど歿す。藩学・私塾が多く出来、蘭学が盛んになる。外国との交通が頻繁となり、日本を取り巻く諸外国の喧騒が一段と増した。
◇文政6年9月 (1823)・・・・・・17歳
筑前に出「亀井昭陽」の門に入り、経学・文章を学ぶ。昭陽、その才を深く愛し間もなく塾長に任ず。
◇文政7年 (1823)・・・・・18歳
亀井昭陽」のもとで、論詩の長編千二百言を賦し、当時の文学会を驚嘆せしめた。
◇文政9年4月 (1824)・・・・・・19歳
筑後に出、樺島石梁を訪問。
◇文政10年 (1827)・・・・・21歳
備後(現広島県福山)の菅茶山の「廉塾」に学ぶ。(80歳)の菅茶山は、旭荘の訪問を、長生きした甲斐があったと喜び、2ヶ月間みっちりと教授した。その後廣島の「頼杏坪」に面会、吉村秋陽(佐藤一斎の門人)、原古處の采蘋女史に会う。
◇文政11年9月 (1828)・・・・・22歳
豊前高田で開塾、「咸宜園」の塾生が多数移る。その前、同11年兄淡窓が肥前田代藩「東明館」で講学。
◇文政12年5月~8月・・・・・・23歳
東明館」で兄淡窓に代わり講学をする。(藩学に於ける最初で最後の講義となる)
◇天保元年 (1830)・・・・・24歳
淡窓(49歳)が隠居、「咸宜園」の跡を継ぐこととなる。5年間での門弟数は千人に上る。日田は幕府の直轄地であるため、代官による「咸宜園」への干渉・制御が深まり、「咸宜園」を5年でやめる。
◇天保6年 (1835)・・・・・29歳
福岡の「亀井塾」で亀井昭陽に学ぶ。次いで佐賀に出、多久の「孔子廟」を参拝し、「草場佩川」に面会する。
草場佩川 」は淡窓の「咸宜園」と非常に関係が深い人物。その後長崎に出「高島秋帆 」に面会、同氏の案内で唐館・蘭館を見学。
◇天保7年5月中旬 (1836)・・・・・30歳
淡窓著「遠思樓抄(金+少)」の出版の為、大阪に向かう。別に大阪で開塾するか、どこで開くべきかと、1ヶ月間思案する。その間「篠崎小竹」・「僧雲華」・「小石元瑞(頼山陽の梨影夫人の養父に当る)」・「浦上春琴」などに会う。殊に「篠崎小竹」からは、<万端引受け世話する>との申し出があったが、世渡り上手な小竹との気風と、自分との相違を感じ取り、思案の末小竹の申し出を断り、堺に学塾を開く事とした(7月初頭)。
◇天保7年7月 (1836)・・・・・30歳
泉州の浄土宗「専修寺」の空院を借り開塾旭荘の名が知られていない為、入門生が無く、暫くは書画を売却して生計を立てた。当時の堺は<読書と博奕は、家の財を傾ける>と、子弟に禁止した地域柄だった。
◇天保8年 (1838)・・・・・・31歳
次兄南がい(こざとへん+亥)の家用を帯い、江戸に行く。水野越前守の参謀格「羽倉簡堂(兄淡窓の弟子)の招聘を受け、同氏の元に寄寓、同氏の紹介で、林大學頭( はやしだいがくのかみ )の所に行き、当時の一流の人物と交際し、旭荘の才能の偉大さが諸方で認められた。江戸滞在八旬余にして、羽倉氏を辞し帰路を木曽街道に取り、泉州堺に帰る。「遠思樓詩抄(金+少) 上編」を竣功し、9月これを携えて日田に帰る。
◇天保9年 (1834)・・・・・32歳
日田を出、大阪に至る。堺での割拠は好まず、拠点を大阪に移す。

○住所&房名変遷=西横堀船町東詰南入る「月近亭」→呉服橋東南苫屋町→四軒町「芝軒」→西國橋南
○ 京阪での知名度が高まり、入門者が増え、儒者で生計が成りたった。
◇天保13年4月(1842)・・・・・・36歳
大村公に召される。同年9月同公の東観に従がう。帰路大阪での<ある出来事>から、候に從するのを断るが、7人扶持を与えられる。同年暮、兄淡窓の教育普及の功を賞し、幕府より永世苗字帯刀を許され、旭荘は兄淡窓の代行を務めた。翌年大阪の塾を廃し、妻子を日田に帰す。
◇天保14年(1843)・・・・・・・37歳
江戸に講学に行く(4年間)。元「咸宜園」の門生で蘭医の大家となった「坪井信道」・「伊藤玄朴」に江戸居住を勧められ、意を決し12月濱町に家屋を構えた。信道玄朴ニ氏が諸事斡旋、当時昌平黌にいる「頼三樹三郎」も奔走し援助、「粛舎」と名付け門生に教授し、諸名流と交際した。又一旦日田に帰る。
◇弘化元年暮(1844)・・・・・・38歳
江戸に来て4年、弘化元年の暮、妻を重病で亡くした。この後旭荘自身も病に罹った。この為経済上非常に困難を来たした。
◇弘化3年8月 (1846)・・・・・・39歳
大阪が気がかりで、大阪に戻り<淡路町御霊西入る>に居を移し開講する。門生が多く集まった。
◇嘉永4年 (1851)・・・・・・・・45歳
一旦日田に帰る。
◇嘉永5年 (1852)・・・・・・・46歳
播州に行く。
◇嘉永6年 (1853)・・・・・・・47歳
山陰道を游歴。嘉永7年、吉田松陰は、ペリーが浦賀に再航した際、密航せんと東上の途中、大阪に立ち寄りニ度も旭荘の許を訪れたが、ニ度とも不在だった。旭荘松陰と議論を尽くせば、処刑されずに済む助言が出来たのにと、非常に悔しがったという。
◇安政元年 (1854)・・・・・・48歳
居を伏見町に移し開塾=森琴石&養父森猪平の居宅の近く=「九桂草堂」と名付ける。盛名大いに上がり詩書を求めるものが殺到した。嘉永4年(1851)篠崎小竹亡き後、大阪での学会の中枢となり、学会を支配した。またこの時代、大阪を本拠地として諸国を旅行した。この時伏見町での塾の代講を努めたのが「長三洲」である。
◇安政2年6月1日 (1855)・・・・・49歳
長 光太郎(三洲・当時24歳)」に宛て、<塾の代講を依頼する旨の>書簡を出す。
◇安政3年 (1856)・・・・・・・50歳
2月、兄淡窓の看病の為日田に帰る。5月上阪。11月兄淡窓歿した為、日田に帰国。
◇安政4年 (1856)・・・・・・51歳
2月上阪。冬山陽道を游歴し、長州に入り、日田に帰る。
◇安政5年 (1858)・・・・・・52歳
上阪
◇安政6年5月~万延元年9月 (1859~1860)・・・・・・53,54歳
北海道に行く。
◇文久元年 (1861)・・・・・・55歳
2月日田に戻り、會所宮の山陰に雪来館を新築し閑居する。
◇文久2年 (1862)・・・・・・・56歳
大阪の中之島松山候の蔵屋敷に仮住まいをする。間もなく「池内陶所」・「家里松濤」が殺害される。

◎文久年間の大阪の世相
1837年、大阪で起こった<大塩の乱>のあと、大阪は騒然たる状態にあった。人心徳川氏を去り、1万人の浪士が居る大阪の町は、それらが天下転覆の機を窺っており、幕府の看視はより強固になっていた。
◇文久3年5月 (1863)・・・・・・57歳
勤王志士と交わっていた旭荘は、幕府から目をつけられていた。また「篠崎小竹」晩年の頃、大阪で台頭する旭荘に、兼ねてより妬みを持つ小竹門人らが、旭荘のことをあれこれと言い回ったという。これら不穏な空気を読み、旭荘の門人らが旭荘を摂津池田(現池田市)への移住を強く奨めた。転居の準備中の5月23日、<府内倉役人谷口宗助町奉行所>に突然呼び出され、<松平伊豆守の御城人儒者として徴用>を申し渡される。旭荘は熟慮の末、ひとたび幕府に近づけば「清義」を行えないと固辞した。因みに、この時同様の沙汰申しつけがあったのは、「後藤松陰」・「藤澤東畡」・「中井(イ+同)園」・「並河寒泉」である。
◇文久3年6月1日 (1863)・・・・・・57歳
門下「鼎金城」の葬儀に参列。葬儀終了後、摂津池田に向かう。
◇文久3年8月17日 (1863)・・・・・57歳
池田に移住した2ヵ月後、重病となり、8月17日他界する。墓は大阪の「當邦福寺」。


「東瀛詩選(とうえい しせん)」

清国儒者「兪曲園」が、我が国徳川氏以来の詩人にして専集ある者、百数十家の詩を選び、四千余編を得て、之を四十巻となし、古来諸家の選本につきて五百余編を選び補遺四巻と為し、名付けて「東瀛詩選」と言う。一人一巻を占める者は「服部南郭」・「菅茶山」・「梁川星厳」・「僧慈舟」の4人であるが、一人で二巻を占めた者は、廣瀬旭荘のみである。兪曲園は、旭荘の詩を褒め称え「東國詩人の冠」と評した。

当HPでの「兪曲園」記述=「平成19年5月 注6 北方心泉

草場佩川=「係累:武富圯南(ニ)武富圯南著書類 4」・「平成14年3月 ◆3つ目」・「平成17年2月■3番目 注3 武富圯南
※高島秋帆=「雅友・知友:福原周峰

◎廣瀬旭荘の特徴
○温雅な兄淡窓に比し、俊敏で鋭い性質、才気に迸る。詩風も淡窓は精錬、旭荘は活発・雄大(by西村天囚)。
○正義感が強く、<上手に立ち回る>事を嫌い、邪心の多い人物とは付き合わなかったようだ。
○諸侯より招聘の命を受ける事が多かったが、常に官に仕える意志が無いと固辞した。
○博学、事物について特殊な鑑識があるとの評価。暗記力は抜群。24,5才~40才頃までは、二晩三晩寝ずに勉強したという努力家でもある。父桃秋から歿前に、<智に長け過ぎる>との欠点を指摘され、自ら自制するよう心掛けていたという。
○学風は師匠「亀井昭陽」の物学朱行を継ぎ、実学・活学(実際の眼前のことを学問とし、人生の教えとする)に特徴がある。
(ニ)主な門下生
坪井信道・伊藤玄朴・劉石舟・柴秋村・光吉文龍・松林飯山・長三洲・棚橋大作・藤井藍田※・鼎金城行徳玉江・西嶋青浦・林田林叟・笠徹雲・笠龍潭・濱名(馬+廬)斎・亀谷省軒・水原梅屋  など

光吉文龍=草場佩川に学び苔渓と号す。
森家の控え帖には「光吉姓」が残り、森琴石日誌にも「光吉姓」が出るが、いずれも下の名が書かれていない。
松林飯山=「関連資料:橋本香坡」・「平成16年8月■1番目注2 岡千仞
藤井藍田=「関連資料:橋本香坡」・「平成17年11月【3】■2番目

(三)主な交流者
17歳:亀山昭陽/19歳:樺島石梁/21歳:菅茶山、頼杏坪/29歳:古賀穀堂/30歳:篠崎小竹/31歳:羽倉簡堂、松崎謙、佐藤一斎、古賀とう庵、述斎、(手へん+聖)斎、岡本華亭/36歳:朝川善庵翁/37歳:坪井誠軒/40歳:井上総洲、筒井釜溪

江戸:安積艮斎、斎藤拙堂、大槻磐溪、野田笛浦、澤熊山、梁川星嚴、菊池五山、塩谷弘蔵
京都:中島椶軒、梅辻春樵、仁科白谷/藝州:坂井虎山/肥前:草場佩川/紀州:菊池溪琴

医家:多紀法印、松園藍田、伊藤沖斎、新宮涼庭
奇人:高島秋帆、佐久間象山、秋元秀蔵、鈴木春山、村田織部、川西確助 など
(四)門下から出た勤王家
長三洲、柴秋村、亀谷省軒、劉石舟、藤井藍田(壬生浪士に捕らえられ慶應元年5月15日遂に獄死する。遺志により邦福寺の旭荘先生の墓側に葬る、贈從五位)、尾崎秀民、松林飯山(慶應3年正月3日暗殺される・贈從4位) など
(五)著書
「日間瑣事備忘録 166冊」・「梅とん詩抄 2冊」・「梅とん遺稿 2巻」「明史小批 2巻」・「九桂草南隋事 10冊」・「追思録 1冊」・「梅とん叢書 2冊」・「塗説 2巻」「雉肋集 1冊」・「東游稿 2冊」・「梅とん漫筆 1冊」・「病とう(口+藝)語 1冊」・「録海 2冊」

:梅とん=梅(土+敦)/詩抄の抄=正しくは(金+少)/病とう(口+藝)語 ⇒とう(口+日のした羽)

(六)墓碑などに刻名のある者(大阪天王寺邦福寺)
墓前の花立一対 =笠徹雲・笠龍潭
石灯篭一対 =藤井藍田・尾崎秀民・阪上九山・高木祠山
菴形石灯篭一基 =手塚又兵衛(春波)・谷口宗助
石の水鉢 =行徳玉江・西嶋青浦

廣瀬旭荘 門下


長 三洲(ちょう さんしゅう)



●「廣瀬旭荘」が、最も信頼した愛弟子。
●関連事項=「儒学:廣瀬旭荘」・「平成13年10月」・「平成17年4月注7◆1番目 騎鶴楼来訪者と森琴石」・「平成19年6月【2】
●廣瀬旭荘が大坂で最後(5番目)に開塾した「九桂草堂」に招聘され、塾頭を努めた。「九桂草堂」は、森琴石の自宅の近隣。
●幕末から明治初期にかけて尊皇運動で活躍し、維新後は、長三洲草稿による「新封建論」が廃藩置県の成功をもたらし、木戸孝允(桂小五郎)から絶大な信頼を寄せられた。廃藩置県後は、学制の制定に尽力するなど、日本の黎明期に数々の偉業をこなし多大な貢献をした。
●森琴石が非常に尊敬し、影響を受けたとされる人物。
●森家には森琴石の画房名「聴香讀畫廬」の由来となった、長三洲書による「聴香讀畫」の大額がある。木戸孝允とゆかりの深い大阪の老舗料亭「花外楼」には、長三洲書「六石山房」と共に、森琴石の画「六石山房図」が所蔵されている。

(一)

長三洲、名はこう(廿のした火=光の古字)、字は世章、叉、秋史、もと長谷氏、後、修して長といふ。

幼名を富太郎また光太郎といふ。

梅外の子なり。

豊後國日田郡馬原村に生る。

初、廣瀬淡窓の門に入り、後その弟旭荘大阪の塾に塾長たり。

萬延元年長州に至り、竟に留って毛利侯に仕へ、経書を明倫館に講ず

維新の際尊攘の説を唱へ、志士の間を往来し、各地に轉戦して功あり。

権大史、大學少丞、侍讀、侍書、一等編修官等に歴任す。

三洲、参議木戸孝充に知られ、その奏議多く三洲の草に成る。

明治十一年孝充歿す。

三洲その知己を亡ふを慨き、職を辞し、詩文書画を以て楽となすこと二十年。

閑地に在りと雖も寵春衰へず、時に敕ありて書画を作らしめ給ふ。

二十七年東宮侍書に拜す。

二十八年正五位に陞叙せられ、三月十三日歿す。

年六十三、三洲詩文を善くし、書画に巧なり

特にその書は、顔眞卿の神髄を得、遒勁典雅、当時書道の第一人者を以て目せらる。

―大日本書画名家大鑑 傳記上編 (荒木矩編・第一書房発行・昭和50年1月)―


(二)

長 三洲

天保四年(1833)豊後日田生まれ。

神童の譽高く、十四歳で広瀬淡窓に師事、たちまち咸宜園一の才子となった。

しかし淡窓の弟の偏屈学者広瀬旭荘に傾倒、旭荘を慕って大坂に移り、旭荘私塾の塾頭を務める。

この頃から旭荘は政治に傾き尊皇攘夷の思想を持つが、三洲も当然影響され、「先生には学問・文芸に専念する使命があります。行動は私が代わります」と奇兵隊に入り、元治元年(1864)赤間関襲撃事件で銃創を負っている。

戊辰の役から奥羽攻めまで官軍に従って転戦した三洲は、明治四年(1871)官界入りして権大史から大学少丞になり、中国に渡って全権大使柳原前光を助け、「日清修好条約」締結時に大活躍する。この時期に条約を結んだ意義は大きい。

帰国後は文部省学務局長一等編輯官東宮侍書等を歴任、同二十八年(1895)三月、六十二歳で歿した。

書家としても知られ、『楷書天地帖』『行書孤墳帖』『真書千字文』『書牘日用文』等がある。

★「舌癌に罹って回復は難しいと聞いて見舞いにいったら、普通に応対し手ずから茶を入れ菓子を出してくれる。
病気に障っては悪いからと辞退したら、自分の病気は到底平癒の見込みはない、今後日を追って難儀になるばかりだから、見舞ってもらっても苦しいし、あなたも見かねるだろう。だから本日でこの世の暇乞いをしようと思って何もかも自分でするのだといった。

我輩は暗然とした。玄関まで見送ってくれたが、それから一ケ月後に没した。

晩年は詩稿に、明治二十八年二月○○日三洲居士幽玄庵梅花の下にて死す矣と署名しておった(井原録太郎『鳴鶴先生叢話』大意要約)」。


★「三洲は死ぬまで気に入った書は一枚もできぬ、とこぼしていた。書いた時はよう書けたと思うのだが、後で見ると必ず気にくわぬところがある、ということであった(村上専精『六十一年同)」。

―「大阪人物辞典」(三善貞司著・清文堂刊・平成12年)―


補足

★尺八が趣味で、荒木竹翁について学ぶ。
★師匠の廣瀬旭荘と同様、名利巧妙には極めて淡白、俗界に意を繋ぐのを良しとせず、仙人のようだと評された。
その高名を妬み、妄語を以て誹謗しようとする者少なからずあったという。
★国事に奔走していた頃、幕府の三洲への偵察が厳しいため、号は「秋船」、名は「谷半兵衛」と称し、画工に身を扮して潜匿していたという。
★妻は内助の功高く、長男寿吉は東京帝大卒業後、同大学の講師から始まり奈良女子師範学校教授、九州大学名誉教授その他を歴任するなど文学博士として著名。次男世吉氏は貴族院議員として活躍した。

◆長三洲の事暦は既に知れ渡っていますので、簡単にしました。


(三)門人(調査中)

柳楢悦/山岡米華/日高秩父/山口半峯/千葉胤明/土田雪鴻/渡辺雪峰


(四)著書など

「文華帖」(長三洲書/須原鉄二/明15.12)
「行書出師表 」(長三洲書/山梨県/ 明17.11)
「近衛兵紀念碑」(長三洲書/山県有朋他/ 皓月堂/明17.4)
「正書出師表」(長三洲書/山梨県/明17.11)
「習字手本」(長莢=長洲書/児玉少介/明18.3)
「劒掃帖」(長三洲書/水原梅屋模/赤沢政吉/明19.2)
「三洲我家帖」(長三洲書/水原梅屋模/赤沢政吉/明19.10)
「(イ+同)窩倉石君碑」(東久世通禧篆額/長三洲書/栗本鯤撰/杉本七百丸/明20.9)
「書論. 第1-3」(長三洲抄録/斎藤利喜蔵/明25.3)
「三洲先生真書正気歌」(長三洲書/田中太吉他共同刊行/明26.7)
「草書赤壁賦」(長三洲書/内藤伝右衛門/明26.12)
「楷書天地帖」(長三洲書/細谷昇山房/明10.11)
「行書書簡文」(長三洲書/細谷昇山房/明10,11)
「真書千字文 」(長三州書/山田藤助/明10,11)
「孤憤帖」(長三洲/青木嵩山堂/明28.4}
「証書文例 」(長三洲書/青木嵩山堂/明28.4}
「初学仮名帖」( 長三洲書/第2版.青木嵩山堂/明28.5)
「書牘日用文」(長三洲書/青木嵩山堂/明28.4)
「新撰手紙之文」(長三洲書/青木嵩山堂/明28.4)
「草行詠詩帖」(長三洲書/青木嵩山堂/明28.5)
「草行松菊帖」(長三洲書/青木嵩山堂/明28.4)
「行書名勝詩帖」(長三洲書/青木嵩山堂/明29.7)
「楷書精華帖」(長三洲書/佐田白茅編/改題2版.文盛堂/明30.10)
「三洲居士集」(長三洲(莢)著/長寿吉編/西東書房/明42.2)


廣瀬旭荘 門下


行徳玉江(ぎょうとく ぎょっこう)=南画:鼎金城門下「行徳玉江」をご覧ください


廣瀬旭荘 門下


西嶋青浦(にしじま せいほ 西島青浦)=南画:鼎金城門下「西嶋青浦」をご覧ください


廣瀬旭荘 門下


光吉文龍(みつよし ぶんりゅう)


●関連事項=儒学「廣瀬旭荘 (ニ)主な門下生
●行徳玉江・林田林叟などと共に、師匠「廣瀬旭荘」を最後まで面倒を見た門弟の一人。
●注:原文の片仮名は、平仮名に置き換えた。



(一)略伝

光吉文龍、諱清連。初の名は明太郎。後秀三また文龍と改む。
天保十一年十月。熊野宮司森宮内の家に生る。其のニ男なり。
家貧なるを以て、甫て十三歳出て多久嘉善氏の家僮となり、閑を偸んで草場佩川の家塾に学ぶ。
二十一歳出て南豊に奔り廣瀬旭荘の門に入り塾僕となる。
其京阪に赴くや亦之に従がう。
後旭荘の池田に客死するや、其遺髪を奉じて日田に致し郷に帰る。
尋て光吉元甫の女婿となり。
始て医を西岡俊益田代立強に学ぶ。
明治八年好生館研究生を命せられ。
九年医術開業試験規則の発布せられるゝや直に試に応して登第す。
爾来懸命に依り。種痘取締衛生委員産婆講習所講師となり又縣郡医師会長村会議員郡会議員所得税調査委員等に選挙せらる。
明治四十一年家を嗣子に譲り。
唐津城畔に閑居し詩を賦し歌を詠し優遊自適以て晩年を楽む。
性旅行を好み海内足跡遍く遠く朝鮮満州台湾に及ぶ。
大正九年四月。
高野山及吉野等を経て東都に至るや病を得て帰り八月二十五日遂に鬼籍に上る。
年八十有一.
五男ニ女あり皆健在せり。
大正十五年六月上浣

―『苔鶏遺稿 和歌』(光吉文龍著/多久元策編/光吉薫之助発行/大正15年6月)―より

(二)著書

『梅とん遺稿』(廣瀬謙著/博聞館/明治43年9月)の編者
『旭荘公逝去前後ノ日誌/光吉文龍述』=東洋文庫図書部収集日本文図書(和書)
『苔鶏遺稿 和歌』(光吉文龍著/多久元策編/光吉薫之助発行/大正15年6月)


古賀精里 門下


勝瀬馬洲(かつせ ばしゅう)


●関連事項=師匠「妻鹿友樵」・「平成17年2月■2番目
●妻鹿友樵の師匠
●父「勝瀬ぎょう(禺+頁)斎(かつせ ぎょうさい)★」は徳島藩士で文武に通じた


儒学者。寛政11年(1799)阿波生まれ。名は高資、字は士啓、通称啓十郎、馬洲と號す。勝瀬ぎょう(禺+頁)斎の子。幼にして江戸に遊学、古賀精里に入門し、秀才のひとりに数えられた。大坂に移り開塾、忠信を重んじ華美を嫌い、孝悌を先んじて詞章を後にする学風で、多くの門人を得る。安政二年(1855)一月、東行雙鑑浦(そうかんほ=二見浦)に遊び、帰路病に罹り近江三雲村里正の家に客死する。五六歳没。墓は竹林寺(西区本田一丁目)。墓碑の碑文には「門人 妻鹿度良」とあり。 

―「大阪人物誌 続編」(石田誠太郎著・石田文庫・昭和11年)―
―「大阪人物辞典」(三善貞司著/清文堂/平成12年)―

★勝瀬ぎょう(禺+頁)斎(かつせ ぎょうさい)=名は徳高、通称東作、ぎょう(禺+頁)斎と號す、阿波徳島の人。世々本藩蜂須賀候に仕え夙に武を以て聞ゆ。又文事を好みて和歌を善くし 兼て国家の儀典に嫺(みやびやか)なり。後故あり致仕閑居す。天保13年浪華に遊び遂に病を以て客死せり。天保13年6月12日 行年75歳。墓所は大阪西区梅本町 竹林寺。墓碑の碑文には「門人 妻鹿安重」とあり。
―「大阪人物誌 続編」(石田誠太郎著・石田文庫・昭和11年)―

(妻鹿)度良&(妻鹿)安重=妻鹿友樵の少年期に称した名前   -「妻鹿友樵伝」-


妻鹿友樵(めが ゆうしょう)

●関連事項=「平成12年8月」・「平成13年7月」・「平成16年6月 注末尾」・「平成17年2月■2番目」・「平成17年6月■3番目注6 ※末尾七卿落ち」・「平成17年11月【3】■3番目」・「平成18年11月【1】 注5 ≪1≫「墨場必携 題画詩集 森琴石編集」 上 題字揮毫者」・資料紹介:詩賛「妻鹿友樵が森金石に寄せた詩書
●文武両道に勝れ、七絃琴奏者第一人者
●森琴石の儒学及び七絃琴の師
●森琴石門弟鎌田梅石も師事した
●妻鹿家の遠祖は「妻鹿孫三郎長宗」(播磨、妻鹿城主)


妻鹿友樵所蔵 七弦琴図「青湾茗えん図法 羊」

妻鹿友樵所蔵 七絃琴図「青湾茗えん図誌 4冊」の内、「青湾茗えん図法 羊」
(明治8年8月・山中春篁堂蔵版)より

妻鹿友樵

 森琴石の儒学の師として、森琴石伝に紹介されている妻鹿友樵について紹介させて頂く。

私の4代前に当たる友樵は幕末(文政9年2月19日生)から明治29年7月1日(行年71才)まで生きた人物である。私の父が書き残してくれた友樵伝によると、明治32年1月11日の毎日新聞、大阪一心寺の顕彰碑、大阪人物誌(石田誠太郎著 大正15年11月)、平凡社新撰大人名辞典第6巻、などに紹介されている。顕彰碑は今も一心寺にあり、正4位 勲三等何礼之篆額、藤沢南岳撰文田中精巧書になるものである。それらの内容はほぼ同じであるが、読みやすい百科事典と死後最も早い時期にもっとも詳しく記載されている毎日新聞の記事を記す。毎日新聞の原文は漢文であるが、邦語に読み替えて記載する。

メガユーショー 妻鹿友樵(1826-1896)

幕末、明治の医。文政9年に生まれる。大阪の人。名はよう、字は祐行また子周、通 称は友樵のち友堯、号は貞斎または三友艸廬、縦心事外史など。父はもと播磨の人であったが、大阪に移って医を業とした。友樵は業をついで医を持ってたち、読書を好み、詩文書画をよくした。学を勝瀬馬洲に受け、絵を静村*に習った。かねて弓剣拳法を極めた。ことに琴を愛して古琴七張を蔵し楽しんだ。人となり温雅で守るところあり、人称して大隠と呼んだ。書を乞い詩を嘱するものが常に庭に満ちた。瞑するに臨み、遺言して蔵書を住吉神社の宝庫に納め、大阪図書館に寄付せしめた。明治29年7月1日没年71才。墓所大阪天王寺区一心寺。著書に「摂養古論」、漢詩集として「心遠詩抄」、「三友艸廬詩抄」、「百名家詩選」がある。

(*―忍頂寺静村のこと)

毎日新聞 鉄網珊瑚      篁遠 
「妻鹿友樵先生伝」

「妻鹿友樵先生伝」

人の才限り有り。文を能くする者未だ必ずしも武に通ぜず。武に通 ずる者未だ必ずしも文を能くせず。然るに世偉人に乏しからず。あに之を兼ねる者なからんや。独二つの其の奥を極るに至る者は殆ど希なり。独、二つの其の奥を極るのみならず、かねて釈典に通 じ医術にくわしく、能く音律を解する者近世僅かに一人有るのみ。友樵先生是なり。先生綽名はよう。字は萬周。初め貞斎と称し後友樵と改む。家世播州の薬舗たり。父綽名は正兵衛。始めて浪速に来たり、医を業とす。先生幼より聡明にして、精勤群を超え、文を修め武を講じ、寒暑雨を祈り、未だかつて1日もやめず。年未だ荘ならずして、衆芸既にその奥に至る。名声籍甚なり。錦小路公聴きて礼聘す。先生遂に釈褐す。然るに親老なるを以て未だ上京せず。公屡々使いを遣り、就いて事を問う。
志士四方より来たり門を敲く者日夜相つぐ。乃ち演武場を堀江に設け、毎日場に臨み、剣鎗及び拳法弓術を教える。朝饗おわりて医室に入れば,則ち患者床に満。十一診断処剤す。午後は則ち縁を開き経を講ず。其の学朱子を主とし、時に諸家に出入りす。博証広引にして、立説詳密なり。聴く者其の胸中幾萬巻有るを測る能わざるなり。夜は則ち文を談じ詩を賦し、琴を弾じ棋を囲む。自ら晋唐人の趣きあり。最も善く七絃琴を鼓し、静に太古の遺音を撫し、超然として世外に立つ。文久年間大に尊王の説を唱え、屡々浪士の禍に遇う。錦小路公三条公等六卿と長門に奔るや、ひそかに命使を遣りて先生を招く。時に父病みて明を失い、母また老ゆ。先生遂に辞して従わず。後公長門に崩ず。遺命して先生をして碑に題せしむ。先生慟哭す。是より武場を廃し腰刀を脱ぎ、終身医に隠る。先生人となり謙退にして、一芸無き者の如し。しこうして天性至孝なり。父君既に明を失い北堂亦病み起つ能わず。先生身親ら看護して側を離れず。見る者感動せざるはなし。先生酒を飲まず肉を食わず。しこうして往々諧謔截然として人の意表に出ず。又、図書に精しく、人の為に疑惑を決定し、多く当有り。故に賢愚を無くして皆先生を敬愛す。壮年衣食を縮め、財貨を蓄え、以て菊御作の一刀を購う。数日後是を某神祠に奉納し、絶えて人に語らず。其の病革まるや、遺命して蔵書を挙げて是を博物館に献ず。其の零落寡欲概ね此の如し。先生門人甚だ多し。然るに才限り有りて、晋く其の業を受け得ず。某琴を学びて其の秘曲を受け、某書を学びて其の六法を受け、某詩法を受け、某弓馬術を受く。皆其の一端に過ぎず。廉先生の文学を継ぎ、東都に垂帷す。其の徒甚だ盛んなり。正助先生の医術を継ぎ、また友樵を称す。大に名声あり。其れ謙退不競なり。則ち衆徒皆同じ、猶先生の遺風有るが如し。

 野史氏曰く、嗚呼、先生既に公卿の門に釈褐す。貴官大職必ず庶幾すべきなり。仮令官職を希まずとも、先生の博学衆芸を以て、恰も世に欲求せば、あに一医人琴客にして止まらんや。琴を弾じ、書画を読み、以て此の間に逍遙す。靖節の楽有りて、靖節の貧を免れ、卿相の位 無くして、卿相の富を獲たり。彼を以て此に換ゆ。其の得失果 たして如何ぞや。先生嘗て人に告げて曰く。余や樹を世に建つる無し。然れども棺を蓋して後、必ず余を追憶する者有りと。蓋し陰徳有るを謂うなり。嗚呼,天の善人を福する、我先生に於いて益之を信ず。


友樵の生きた時代は幕末の動乱期であった。生まれる前年に外国船打ち払い令が出され、天保7年友樵11才の時に天保の飢饉,翌年大塩平八郎の乱を経験している。その後、ペリー来航(友樵28才)、開国、ロシア軍艦大阪入港(29才)、桜田門外の変(35才)、生麦事件(37才)、家茂上京、長州藩米仏欄船艦砲撃、薩英戦争、七卿落ち(38才)、大政奉還(42才)、明治維新(43才)、廃藩置県(46才)西南戦争(52才)を経験した。

大塩平八郎に学んだことのある友樵は、倒幕の必要性を感じたが故に武術を熱心に学んだのではないかと想像する。錦小路頼徳と親交のあった頃は、勤王の志士として本気で活動していたと推測されるがこの頃の資料は皆無である。蛤御門の変で長州派が破れ、7人の公家が長州に下ったとき、錦小路頼徳に長州行きを誘われ、友樵にとって決断の時であったと思う。妻鹿家にとって大事な大黒柱であった友樵は、父母の健康状態がよくない状態では、親を捨てて長州に加担することが出来なかった。錦小路頼徳が長州で病没し、碑文を頼まれて書いたが、これ以後積極的に活躍することを止め、日本の変化を静かに眺める立場に立っている。漢詩に、「経鳥羽戦場」があり、また、西南戦争の号外が家に残っていることが示している。

 それ以後は、漢方医をこなしながら、漢学を教え、琴碁書画を楽しむ生活をしている。毎日新聞の記事に書かれているように、文武両道に優れ、何事も奥に達する超人的な人でしかも威張らなかったようである。著書に「摂養古論」、漢詩集として「心遠詩抄」、「片雲居詩文存」、「三友艸廬詩抄」がある。特に琴を嗜み当時の日本の第一人者であり、中国の文人や聖人君子あるいは仙人の生き方にあこがれていたようである。「紅塵亦白雲」「紅塵堆裏避紅塵」「即地仙」「仙人掌及寿星眉」などの言葉が見られ、紅塵は市街地を意味し、市街地で生活しても自然を味わうことができ、心の持ちようで街に住んでも仙人のような生活が出来ると主張しているようで、実際聖人君子のような人であったようだ。漢詩を数多く残しているので時間があるときにその心境を探りたい。
平成15年10月31日 妻鹿友弘 記す


文章=妻鹿友弘氏(妻鹿友樵玄孫・大阪大学大学院理学研究科助教授)



★「浪華の魁」(垣貫一右衛門編輯・ 明治15年刊) より

-売薬業    新町橋西詰■辻角  妻鹿友樵  -

売薬業 妻鹿友樵



藤澤家 三世代

藤澤東畡(ふじさわ とうがい)


●藤澤東畡は、大阪で「泊園書院」を創設、七絃琴の名手でもあった
●森琴石の儒学の師「妻鹿友樵」と藤澤家とは、代々にわたり親密な関係であった
●藤澤東畡の長男「藤澤南岳」、南岳長男「藤澤黄鵠」次男「藤澤黄坡」が「泊園書院」を継いだ
●高弟に「高木退蔵(号翠風)」=森琴石の儒学の師匠。坂本葵園(河野葵園)は愛弟子。「岸田吟香」も門下であった。

◆三善貞司著「大阪人物辞典」(清文堂出版・平成12年)より転載


藤澤東畡 ふじさわ とうがい

近世大阪の学問書「懐徳堂」「梅花社」と並ぶ「泊園書院」の創始者。名は甫、通 称昌蔵・別号泊園。寛政6年(1794)讃岐の安原に生まれた。利発さ人に倍し、六歳で大抵の漢字を読む。九歳で荻生狙来学者中山城山に師事、高松に開塾したのが十八歳である。

文政元年(1818)長崎に遊学、町年寄高島茂紀宅に寄宿して三年間中国語を勉強するが、この時教えた茂紀の三男が、後に砲術家として知られる高島秋帆である。
同年中山城山から大坂の春田横塘を紹介され、笛の名手横塘と自分の琴を合奏したい一心で大坂に出たのがきっかけで中船場町に落着き、「泊園書院」という塾を開いた。

「泊園」というのは清廉淡泊の士を意味する。生涯泊園に生きた私欲のない東畡は、塾の禁則を「淫遊・俚歌・挙杯・暴論」と定める。つまり怠け遊ぶ酒呑みや、はやり唄を歌い激論する書生気質をとがめたわけで、いかにも彼らしい。

当時の大坂は学問が盛んで、既に菅甘谷や菅沼東郭らが狙来学を論じており、さらに甘谷の門人たちは片山北海の「混沌社」に加わって活発に活動していた。
また大塩平八郎が「洗心洞」を起こして陽明学授けたのもこの頃だ。東畡の講学は学の正異より実生活本位 の修学に力を入れた。そこで「寛政異学の禁令」が出たあとも声誉高く、平野郷の「含翠堂」にも出講、豊岡藩主京極高行や、尼崎藩主松平忠栄らにも招かれるほどとなった。

しかし名声や物品には相変わらず淡泊で、嘉永五年(1852)には高松候が沢山の金帛を贈ったが全部人に分かち与え、自らは浪華の地を動こうとしなかった。

荻生学は狙来を重用した柳沢吉保が退隠してから力を失い、かつ狙来の放縦な性格や行動が他の学者たちに嫌われ、次第に色あせてゆくのだが、本質的には幕府体制を維持する保守的な政治論を含んでいる。
だが東畡は皇室崇拝の心が厚く、孟子の王道を批判して、「王者の放伐は断じて孔子の本旨ではない」と唱えた。後に息子の南岳が幕末に際し、藩論を逆転させ朝廷側につき、高松藩の危急を救ったのも、この父の影響であろう。

先述したように東畡は七絃琴の名手だった。鳥海雪堂に学び、妻鹿友樵と並称され、門人に十河節堂がいるくらいだ。また漢詩のほうでも混沌社にひけをとらず、「先春吟社」を設立し社友三十名と毎月10日には必ず会合を持ち、吟草に耽っている。八木巽処・廣瀬筑梁、菅井梅関、春田樟島、それに橋本香坡らもこのメンバーのひとりである。

元治元年(1864)京の二条城に入った将軍家茂は、高松藩主に東畡を引見したいと命じ、喜んだ藩主は藩の名誉だと多額の白金を与えた。その折家茂は幕府の儒員に召したが固辞したから、東畡の評価はますます高まる。この話はさまざまの尾鰭がつき、断固として謁見を断ったというものから、いな、自説を歪めて権力に媚びたなどと、誣(し)いる者もあった。
東畡は憮然としてこんな詩を草している。「闕里文章衆節遷/吾曹所守有師伝/如今豈為非誉動/一片丹心七十年」。同年(1864)12月、病を得て70歳で他界する。主著「泊園家言」「大学定本」等、南岳は「東畡先生文集」「東畡先生詩存」らを編んで父子を追悼した。

東畡の墓は齢延寺(天王寺区生玉町)の藤沢一族墓地にある「東畡藤沢先生之墓」。門人中谷輝の顕彰文がついているが、その末尾に右記(注 ここでは上記)の詩が刻まれる。

泊園書院は南岳が再興、明治年間大阪の漢学の拠点となり、大正九年(1920)南岳没後は長男 黄鵠、次男黄坡が学統を継ぎ、昭和二四年(1949)黄坡の死でピリオドを打った。黄坡の子供で作家藤沢恒夫は、泊園書院の貴重な蔵書を関西大学に寄贈、「泊園文庫」として今に伝えられる。他に中央区淡路町一丁目に「泊園書院跡」碑が建っている。

◆泊園書院については、関西大学「東西学術研究所」をご参照ください。

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藤澤南岳(ふじさわ なんがく)


●藤澤東畡の長男・「泊園書院」を継承する
●森琴石より一歳年長(琴石と生没年が1年ずれる)
●森琴石が儒学の師「妻鹿友樵」を除いては、大阪で最も深く関わった人物
●三善貞司著「大阪人物辞典」(清文堂出版・平成12年)より転載



藤澤南岳肖像写真



「古希記念 南岳藤澤夫子肖像」(獨立軒 若林謹写) 明治44年

藤澤南岳

☆画像ご提供者=大村紘一氏(東京都・大村楊城ひ孫)




藤沢南岳 ふじさわ なんがく

泊園書院二代目院主。藤澤東畡以上に傑出した野人学者である。

天保一三年(1842)讃岐国引田村の生まれ。東畡四九歳の長子。名は恒、南岳・酔狂・九々山人などと号している。幼い頃から父や愛弟子中谷南明に厳しい薫陶を受け、家学を継いだが新古に偏せず、諸学も積極的に吸収して独自の狙来学を樹立した。

また父の影響もあって尊皇の志篤く、気節を尚び廉恥を重んじた。父の代わりに高松候に仕え、藩校講道館の督学を務め、東畡没し泊園書院が中断した時も藩に残り続けるが、戊辰戦争が起こるや藩論は真っ二つに割れた。

藩主は幕府方につき、家老小夫兵庫・小河又右衛門に藩士を引率させて伏見へ出陣を命じるが惨敗し、高松藩は朝敵となって官軍の攻撃を待つばかりとなる。恒は心痛し官軍の参謀大山格之助に会い、藩論の割れた事情を説明して必ず官軍側に就くから猶予してほしいと懇願、藩に戻って大義を説いた。この時の評議は語り草になるほど激烈で三昼夜続行、裏切者、卑劣漢と罵倒され、命を狙われながらもなぜ明治維新が必要かを熱意込めて説き、ついに藩論を一変させる。

かくて兵庫・又右衛門の両名は切腹、筆頭家老芦沢伊織を正使に恒を副使に、両名の首級を持参して官軍に投じ、陳謝してついに藩と藩侯を救う。

藩侯は恒の大功を賞し、「南岳」の号を与え藩政への参加を乞うた。けれどもこの事件は、深く彼の心を傷つける。切腹した兵庫・又右衛門は主命に従っただけである。主君に忠義を励むことがどれほど自分を束縛し他人を犠牲にするかを痛感する。「自由に学問の世界に遊ぶには、野に下るのが一番だ」。
こう考えた南岳は廃藩置県後、「香川県大属」(今の知事)に命じられたのを断り、愛着ある故郷を離れ大阪に出る。

そして明治六年(1873)暫く途絶えていた父東畡の「泊園書院」を、中央区本町一丁目に再興、同院は移動したあと同九年淡路町一丁目に定着し、本格的な学問教育に取り組む。以後生涯野にあって育英教育に精励、門下数千人、朝野に名を成せし者数百人といわれる成果 を挙げ、時に近畿を巡遊して講演、学名四海に聞こえた。

南岳の著作は、「論語彙編」「大学家説」「日本通史」「文章九彩 」ら二十冊もあるが、「藤沢先生講談叢録」にその教論の大要を知り得よう。

「道の基本を成すに、厚生・利用・三徳の三義がある」「聖人の説く道を心の規範とし、天地と人が交互に関りあって進展せねばならぬ 」。常にこう述べた彼は、科学が日進月歩する近代社会もよく把握した上で、人倫の究極を目標とする人間存在の体系化をめざした。
また政治運営と教育成果は当然合致せねばならぬと教えたから、門下から政治に参画する人々も輩出している。その意味で、狙来学を現代的に解釈し直して保持した最後の学者といえる。

謹厳で知られるが詩賦にも長じ、こんな漢詩もある。「新年偶成/歳植庚申探易源/便従月窟認天根/応作三猿以外猿」。

大正九年(1920)一月七十八歳没。遺児黄鵠・黄坡も有名な学者。墓は齢延寺(天王寺区生玉 町)にある。

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藤沢黄鵠 (ふじさわ こうこく)


儒学者。明治七年(1874)大阪唐物町生まれ。
名は元、字は士亭。通称元造、別号笑狂・霜辛雪苦斎。

藤沢南岳の長男。幼少から父に家学を授かり、東京に出て小山春山らに経学と詩文を学んだ。霜辛雪苦斎の号は、遊学中に息子を案じた父親から激励の詩を贈られるが、その中に「微雪淡月弥天思/孤雁寒鴎隔地情/休訴霜辛与雪苦/春風祇自比中生」とある詩句からつけている。

同三一年中国に留学、一旦帰国するが同三四年再び渡り名士と交流して大いに得るところがあった。同三六年家督を継ぎ泊園書院で子弟に教授、同四一年衆議院議員となるも、桂内閣の外交政策を論難して物議をかもし辞職した。

以後は教育一筋、府立高等医学校教授の任も兼ねる。漢詩の才能は父に優るともいわれる。「伯願折梅国図/旗色鮮明無曲私/将軍清節世倶推/笑他意招奇禍/輪与江南梅一枝」「移竹/数竿湘竹緑猗猗 好向 向空庭手自移 擬為此君分半座 箇心惟有月娥知」。国定教科書に出る南北朝正閏論で斬新な学説を展開、大いに世論を沸かせたことがある。

大正一三年(1924)九月五〇歳没。

尚弟の黄坡も日本漢文学史に足跡を残した学者。関西大学教授。同大学初の名誉教授。彼の学問は義弟の石浜純太郎が継承する。昭和二三年(1948)四月没。兄弟の墓は藤沢一族の墓所齢延寺(天王寺区)にある。

石浜純太郎=関西大学関西大学年史編纂室関西大学を築いた人びと:石浜純太郎」

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藤澤黄坡 (藤沢黄坡・ふじさわ こうは)

●森琴石と藤澤家との関係について、藤沢黄坡が「森琴石翁遺墨帖 乾坤」の序文で触れている。
  森琴石紹介-藤沢黄坡文章-をご覧ください
● 「浪華摘英」(大正四年八月・浪華摘英編纂事務所・三島聰惠発行)より転載

藤澤黄坡 ふじさわ こうは

藤澤黄坡先生

先生名は章次郎字士明、黄坡と號し其書室を三惜書屋と名く明治九年三月七日生る藤澤南岳の 次男なり

初め大阪府立中學、関谷黌、家塾等に學び明治廾八年三月東都に遊學す
同年五月高等 師範學校に國語漢文専修科を設けられしかば應試入學し翌年十二月卒業せり

卅年十二月志願兵 として歩兵第八聯隊に入り卅二年四月埼玉懸師範學校教諭、卅三年二月陸軍歩兵少尉に任じ正 八位に叙せらる

翌々年天王寺中學校教諭となり又大阪陸軍地方幼年學校教授を嘱託せらる

日露 戦役に従軍して沙河會戰に参加し從軍中中尉に進み從七位に叙せらる戰後功五級金鵄勲章及び 勲六等單光旭日章を賜ふ

四十年四月岸和田中學教諭となり在職滿四十年にして辞し四十四年六 月一日泊園分院を竹屋町に設けて諸生を教授し以て今日に至る

彼の沙河會戰の第三日目即ち十 月十二日行動中、下腹部に衝撃を感ず怪み探れば銃丸飛來りて袴嚢中に在る征露丸の罐を貫き て留れり
征露丸とは防疫劑の名なり
先生立に朗吟して曰く「始立陣頭始受彈。守身袴中征露眞 良藥。救疫救我救清韓。」と蓋し陣中の一佳話なり

妻かつとの間に長男恒夫長女淑子二女惠子次 男 斐夫の四児を有せしに大正四年七月下旬長女淑子逝く悼むべし
弟鱗之助三崎氏を冒して現に 大津衛戌病院長たり。(南区竹屋町泊園分院内)

◆藤沢黄坡=関西大学を築いた人びと:藤沢章次郎もご覧ください


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