森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成17年(4月)

3月10日過ぎ、奈良県添上郡月瀬村(ならけん そえがみぐん つきがせむら)を訪問、平成12年3月 に次ぎ、5年ぶり二度目の「騎鶴楼 きかくろう」訪問をする。

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「先導 小林 注1 」の文字で始まる、「月ヶ瀬のスケッチ帖」には37頁にわたって、月ヶ瀬近郊の風景が描かれている。明治15年3月、森琴石は友人「石橋雲来」や鑑定家「巖井盧江 いわい ろこう」と共に同村を訪れた。森琴石はこの「スケッチ帖」をもとに「月ヶ瀬真景図」を、「展覧会出品作品 注2」や、銅版による「鳥瞰図 注3(明治20年)などに作品化した。スケッチ帖の末尾に書かれた詩文は、「騎鶴楼 きかくろう 注4」の襖や「画帖」に揮毫した。

「王冶梅」と「陳曼寿」は、同じく明治15年「騎鶴楼」を訪れ、陳曼寿の書は2月21日と記されている(旧暦と思われる)。森琴石の「月ヶ瀬真景図」には両者が跋文を寄せている

文政13年、「斎藤拙堂 さいとう せつどう」一行が訪れ 注5、観梅遊行の紀行文「月瀬記勝」を著し、続いて「頼山陽 らい さんよう」一行が訪れ 注6、月瀬梅林の美しさを絶賛したことにより、天下の名勝として不動のものとし、文人墨客が競って月瀬観梅に訪れるようになった。昭和7年、師範学校漢文の教科書「梅渓遊記 記二・記三」が、教材として用いられた事から、「月瀬梅林」の知名度が一般化した。

「騎鶴楼」では宿泊した多くの文人墨客たちが、こぞって襖や画帖に揮毫した。宿泊者は、森琴石と交遊者など関連する者が非常に多い。森琴石の師匠「鼎金城」は嘉永5年(1852)に訪れ、襖や画帖に数点揮毫しており、門弟「西尾雪江 にしお せっこう」も、大正7年に訪れている。

森琴石の友人「村田 香谷 むらた こうこく」は「月ヶ瀬梅渓図」を携え、清国にわたり「胡公寿」など、当地の文人達15名に画賛を揮毫して貰っている 注7

その他「森一鳳」や・「新島襄」・「奥原晴湖」・「小室翠雲」・「小野竹喬」・「町田久成」など、多数の名士文人が騎鶴楼を訪問している。

 
 
注1 先導小林=小林氏は「笠置寺」の方。(笠置山山頂には、1300年の歴史のある笠置寺と後醍醐天皇の行在所跡がある。)
 
注2   「月ヶ瀬真景図」=作品紹介・文人画をご覧ください。同名作品は構図や作風を変え、多年にわたり作品化した。同名作品は海外の博覧會で金賞を受賞している。
注3   「新撰梅渓 月ヶ瀬真景図 全」=36,6cmx46,6cm。明治20年3月響泉堂刻製鳥瞰図。出版人:大阪豊住幾之介。鳥瞰図の凡例は上野の花香山人。斎藤拙堂の「梅渓遊記」など文人墨客の詩歌を載せている=平成10年・神戸市立博物館「特別展 有馬の名宝-蘇生と遊興の文化」図録、成澤勝嗣氏解説文による。
 
注4   騎鶴楼(きかくろう)=家業は初め鍛冶屋を営み、屋号を「かじや」と称した。のち傍ら旅館「魁春洞」を営む。のち「魁春洞」を「騎鶴楼」に改める。当時の当主窪田兵蔵氏は、「鍛冶屋兵蔵」名で、伴林光平著「標柱 月瀬紀行」(明治14年・伴林光男刊行・標柱兼出版 弾舜平出版)の発兌書林として、月ヶ瀬に関する出版にも関与している。
   
注5   伊勢津藩の儒学者「斎藤拙堂」は、文政13年(1830)上野城下の文人服部竹塢と深井士発を案内役にして、宮崎子達、同子淵、山下直介らの門人・友人・美濃の詩人梁川星厳夫妻と近江の画家、福田半香らと共に訪れた。騎鶴楼には「月瀬紀勝」の十律の一つと同じ詩軸が残る。
 
注6   天保2年(1831)「頼山陽」は、関藤藤陰・宮原節庵・小田百谷(海僊)・細川林谷・小石_園・浦上春琴の6人と道案内の柳生の文卿・奈良の墨樵(古梅園)ら総勢9人で来訪した。(宿は三学院)
注7 村田香谷は、元治元年・明治15年と、二度月ヶ瀬を訪れた。月ヶ瀬梅渓図は「月ヶ瀬画 巻」として、月ヶ瀬観光会館に所蔵されている。村田香谷は森琴石とは親友で、晩年に は、大阪市北区高垣町の、森琴石と同じ町内に移り住んだ。
   
騎鶴楼来訪者と森琴石
 
親密な交際があるもの、書誌や画帖などへの揮毫者として良く名が出る人物
 
「山中信天翁」、「江馬天江」、「芳川笛邨」・「長三洲」、「依田学海」、「藤澤東畡・藤澤南岳・藤澤黄坡」、「近藤元粋(南洲)」、「村田香谷」、「草場船山」、「市邨水香」、「浅井柳塘」、「田能村直入」、「日下部鳴鶴」、「谷鉄心」、「久保田米僊」、「巌谷一六」、「内藤湖南」・「河辺青蘭」・「河野 春澤(等)」など。
 
 
「響泉堂刻」の、銅版書誌の著者や出版人などとして関係する人物
 
●斎藤拙堂
    「絶句類選評本2冊」(津阪孝綽編輯・斎藤拙堂評語・明治14年・双玉 書楼刊)
●頼山陽・頼支峰
1: 「頼山陽外史小伝」(明治11年・伴源平編・高見岱閲※・赤志忠七出版)
高見岱:名―猪之助、伊賀の人、明治13年53歳没、頼三樹三郎・斉藤拙堂と交流
  2: 「日本外史字解 上中下」(山本太一郎著・明13.7・浪華三書樓蔵・田中太右衛門等)上巻初頭の「頼三陽肖像画」は森琴石によるもの。
上巻ご寄贈:榊原貴教氏=「井上勤集」(明治期翻訳文学全集「翻訳家編3」・2002年・大空社)の編集者の一人。同著は、ジュールン・ヴェルヌ著「九十七時二十分間月世界旅行」(井上勤著・明治14年3月・三木美記出版・響泉堂刻)を、完全復刻したもの。森琴石・響泉堂刻の挿画22葉がある。
  3: 「標註日本外史 12冊・附地図」
頼三陽著・頼又二郎(支峰)注
明治10年10月・東崖堂、山岸弥平出版、十三冊目附地図(58頁分)は、全て響泉堂刻
書誌情報=森 登氏(中央公論美術出版社)

●橋本海関
「漢史一斑字引大全 橋本小六編纂 2冊」(橋本海関著・明治15年・船井政太郎刊)
書誌情報=熊田司氏(大阪市立近代美術館建設準備室 研究主幹)

 
 
藤本鉄石先生薦場余録 」に登載する者、藤本鉄石と関係する人物
 
「伴林光平」・「花房瑞蓮」、「藤井竹外」、「黒住宗春」(岡山黒住教管主)
 
 
琴石周辺の先達として、また関連者として関連資料に名が出る人物
 
「後藤松陰」、「廣瀬旭荘」、「篠崎竹陰」、「松川半山」、「福田半香」、「三島中洲」、「南摩羽峯」、「近藤芳樹」、「西園寺公望」、「村田海石」、「鳥尾得庵」、「九鬼隆一」、「中井桜洲」、「五姓田芳柳」、「東久世道禧」、「蜂須賀茂韶」、「杉孫七郎」、「高島北海」ほか多数。
 
参考文献=「香世界懐古」(梅渓史料編集室編・月ヶ瀬梅渓保勝会発行・平成11年)
     「名勝月ヶ瀬梅渓 騎鶴楼の栞」(かじや騎鶴楼 作成)
   
ご協力者=騎鶴楼・月ヶ瀬観光会館
 
岡山市妹尾(せのお)の「佐藤僊友 さとう せんゆう 注1」は、森琴石とも交流があった「津田白印 注2」に画を学び、森琴石が岡山訪問時などにも画を学んでいた。石癖(せきへき 注3の趣味が大きく、森琴石が描く「大湖石 たいこいし」などの「霊石図 注4」が数点所蔵されている。佐藤僊友の長男、佐藤猪三雄氏は、森琴石の門下「波多野 華涯 はたの かがい」の門生でもある。森琴石と岡山とのゆかりは深いようだ 注5
 
 
注1 佐藤僊友=名 精治。詳細は後月ご紹介します。
 
注2   津田白印(つだ はくいん)
  浄土真宗西本願寺派の僧・南画家・社会事業家。岡山県生。本名は明導、別号に白道人。仏教学・漢学を修めると同時に、長崎派の画家成富椿屋※について南画を学ぶ。宗教活動とともに社会事業に尽力。独自の風格・雅味を備えた作品は、福祉・教育のための費用捻出に役立てられた。昭和21年(1946)寂、85才。

  成富椿屋(なりとみ ちんおく)
  文化10~明治40(1814-1907)
成富鵬明といい、旧蓮池藩士。初め画を佐賀の中島藍皐に学び、書を僧鉄翁及び、のち画を木下逸雲に学ぶ。さらに長崎に学び南宗画を修めた。有田にも滞在して陶画の下絵、絵手本などを多く残している。明治33年皇太子殿下佐賀市行啓の時、御前において松鶴の画を揮毫した。墓は蓮池の浄国寺にある。(「佐賀幕末明治500人」・平成7年・佐賀新聞社)
   
注3、注4
    石癖・霊石については、最新情報「平成16年12月、第二項目注釈」をご覧ください。
 
  情報提供並画像データご提供者:中村麻里子氏(岡山県立美術館)
  ご協力者=佐藤史郎氏(佐藤僊友氏孫)
 
注5   森家に残る文政期の葬儀録には、「備前・備中」の者の名が記されている。森家には「津田」姓の親族がおり(女性・夫側は大物だったと聞く)、明治末期の控帖には「津田道太郎」の名がある。森琴石と津田白印との交流と、これら津田姓との相関は不詳。
 


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