森琴石(もりきんせき)1843〜1921

森琴石 調査情報

平成10年10月〜現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成19年(5月)

【1】

江戸後期から明治期の日中文化交流の研究を重ね、それら成果を、論文や講演会などで精力的に発表されている「陳捷(ちん しょう) 注1」女史より、「木蘇岐山」の『五千巻堂集』 十七巻全六冊 注2 をご送付頂きました。

『五千巻堂集』は、明治14年から大正4年まで「木蘇岐山」が作詩したものの中から、千十一首を選んで刊行されたもの。注釈は愛弟子「石野 徹」、校正・刊行は「小倉正恒」による漢詩集である。

『五千巻堂集』は、「木蘇岐山」が訪問した地の名所古跡や、訪問先の人物が揮毫した作品、訪問先の人物が所蔵する書画・骨董などについても触れている。当ホームページにも名が出る森琴石周辺の文人が多く登載している。「木蘇岐山」の、37年間に亘る足跡や交流人物を知る貴重な資料である。

「巻七」には、明治40年に作詩された「森琴石讀畫廬茗讌賞薔薇 注3」が収録されている。森琴石の讀畫廬(読画廬)で、バラの花を観賞しながらお茶を楽しんでいた一時を詠う詩作である。木蘇岐山は森琴石を、「倪雲林に次ぐ風流人」と詠んでいる。

 

同巻には、森琴石に続き「永田聽泉」・「長坂石たい(土+隶)」・「加島菱洲」・「磯野秋渚」・「佐野五明溪」など、当HPでもおなじみの人物の名が出る 注4。「森琴石讀畫廬茗讌賞薔薇」は、木蘇岐山が大阪に移転する一年前の作品である。

「木蘇岐山」は、安政4年2月27日、美濃国稲葉郡佐波村に生れた。大垣藩侍読「僧大夢」の次男。大垣藩儒「野村籐陰」・「佐藤牧山」に学び、維新後は京都に出て「宇田栗園」・「江馬天江」に学び、「大沼沈山」を驚嘆せしめるほどの詩才を示した。明治21年上京して『東京新報』の漢詩欄を担当した。傍ら「森槐南・国分青がい(厂+圭)・本田種竹」らと交わり詩作に研鑽したが、杜甫を宗とする「木蘇岐山」の作風は、森槐南を中心とする「艶美で情緒的」な作風とは相容れず、明治24年東都詩壇と決別した 注5

その後越中高岡、富山・金沢・大阪と居を移し、明治41年、最後の移転先となった大阪では『大阪毎日新聞』の漢詩欄を担当した。明治末期の大阪では「藤澤南岳」や「近藤南洲」・「寺西易堂」・「山本梅涯(憲)」といった大物儒学者が健在しており、「森琴石」や、その周辺の多くの文人達と交わった。森琴石門下「近藤翠石」は「木蘇岐山」に私淑し、「佐野岱石(琴岳)」は同氏に漢学を学んだ。

注釈を担当した、金沢生まれの愛弟子「石野徹」は、「石野香南」の号で画家として活躍し、明治32年5月、京都で開催した「第二回全国絵画共進会」に四等受賞するなどした。傍ら「木蘇岐山」に漢詩を学び、「木蘇岐山」を生涯の師と仰ぎ、師匠が居を移すに伴い自身もそれに従った。画の指導者は青山観水(金沢)から、垣内雲りん(岐阜)へと変わり、大阪では森琴石に画を学んだ。

校閲・刊行者「小倉正恒」は、元金沢藩士で、裁判官「小倉正路」の長男として金沢で生まれた。小学校に上った頃から、四書・五経・十八史略などの漢籍を愛読し、漢詩を作るのが趣味であったという。明治中期「小倉正恒」が「金沢第四高等中学校」に通っていた時、金沢では「書は心泉、詩は岐山、文は休哉、経書は真軒」という定評があった。小倉氏はこれら四氏の門を叩き多大な影響を受け、後年に至るまで諸先輩を尊敬した。また禅と剣、心学により自己を鍛錬した。これは戦後、石門心学会長、修養後援会会長として活躍した事にも繋がる 注6

東京帝国大学卒業後は内務省に入省、山口県参事官の時、大学の先輩「鈴木馬左也」に誘われ「住友」に入社する。その後は、住友本店理事長・常務理事から第六代総裁へとのぼりつめ、日本の経済界を牽引した。経済家としての成功裡には、高邁な理想を生涯持ち続け、それを実現するための努力を怠らなかったという、その精神力、意思の堅固さにあった。その眼は常に東洋に注がれ、アジア文化図書館建設委員会委員長として全アジア各国との文化交流事業に尽力した。「小倉正恒」は昭和4年、上海で恩師が注釈した「星厳集註(木蘇牧註)」を出版した 注7

寺西秀武氏が、3年余りの年月をかけて浄書をした「五千巻堂集」は、が箋に金属版を使い印刷され、「大本秩入十七巻六冊、文字痩勁高雅、実に稀世の美荘珍本」で、邦人詩集中「古今第一の善本」と称せられた 注8

 
注1
 

陳 捷(ちん しょう)女史

★北京大学大学院より東京大学大学院に学び、1999年から日本女子大学講師、助教授などを5年間務める。
★2004年4月より文部省・大学共同利用機関「国文学研究資料館‐資源系研究助教授」として着任。
★著書
『明治前期日中学術交流の研究−清国駐日 公使館の文化活動』(汲古書院、2002年2月)。
★論文
岡田篁所の『滬呉日記』につ いて」(2001年3月)
「岡千仞と来日した中国知識人との交流について」(2002年3月)
「東京都立中央図書館所蔵『清使筆語』翻刻」(陳捷著・東洋文化研究紀要 第一四三冊・2004年3月)
「増田岳陽と来日した中国知識人との交流について」(2004年3月)
その他
★「平成16年8月」・「平成17年7月 注13」・「平成17年6月■1朱印然&王冶梅の詩書」・ 「平成16年10月注3 ※b」 などに記述があります。

岡田篁所=「平成19年3月【2】注5」・雅友・知友「石津灌園」・索引「足立敬亭

 
注2
 

『五千巻堂集 』十七巻全六冊(禮,楽,射,御,書,數)

岐山木蘇牧著/石野徹註/小倉正恒校正刊行

『五千巻堂集』

巻一
古今體詩六十一首
起明治14年明治20年                 =終る
辛巳(明治14年)=王冶梅
壬午(明治15年)=浅井白山/田能村小斎/伊勢小淞・國重半山/谷如意・江馬天江・神山鳳陽・林双橋/谷口靄山/服部紫江/橋本青江/高橋杏村
甲申(明治16年)=重野成斎/宇田栗園
乙酉(明治17年)=十市王洋/重春塘/鈴木百年/幸野梅嶺/小原竹香
丙戌(明治18年)=大西祥雲/谷口藍田
丁亥(明治20年)=山本竹雲/冨岡鐵斎/小野湖山
★以上登載人名のみ記載・巻ニ以下は省略
巻ニ
古今體詩八十二首=起明治21年訖明治24年
巻三
古今體詩四十五首=起明治25年訖明治41年
巻四
古今體詩五十三首=起明治26年訖明治27年
巻五
古今體詩六十五首=起明治27年訖明治29年
巻六
古今體詩六十ニ首=起明治30年訖明治35年
巻七
古今體詩百十九首=起明治36年訖明治38年

  丁巳(明治40年)=森琴石・永田聽泉・永坂石(土+隶) など
巻八
古今體詩二十三首=明治39年
巻九
古今體詩五十八首=明治40年
巻十
古今體詩六十一首=明治41年
巻十一
古今體詩五十首=明治42年
巻十二
古今體詩四十二首=明治43年
巻十三
古今體詩五十六首=明治44年
巻十四
古今體詩六十六首=大正元年
巻十五
古今體詩五十一首=大正2年
巻十六
古今體詩七十首=大正3年
巻十七
古今體詩四十八首=大正4年

 
注3
 

【森琴石讀畫廬茗讌賞薔薇】

<五千巻堂集 巻七 より> 

(讀畫廬(読画廬)=森琴石の画房名/茗讌=茶会)

森琴石讀畫廬茗讌賞薔薇

原文

森琴石讀畫廬茗讌賞薔薇

高垣(街名)、讀畫廬。薔薇種當戸。七十有二行仙機織鳳羽。

入夏轉(雨+隹隹)靡。當晝頗媚(女+無)。醉紅如索扶。濃(鹿の下躬)亦争吐。

紫燕差池飛。粉蝶留連舞。茗讌對芳叢。紅鑪碧煙擧。手開都統籠

廾四事有序。一甌啜(似)兩杯。異乎金谷煮。推君倪迂亜。命代風流主。

名畫古法書。不減清(門+必)聚。把玩延幽遐。砌苔蒸欲午。


七十有二行
(輟耕緑)玉臺詩。入門時左顧。但見雙鴛鴦。
鴛鴦七十二。羅列自成行。孟東野和薔薇歌、
仙機軋々織鳳凰。花開七十有ニ行。詩皆用七十二、
不知何所祖、
(雨+隹隹)靡
〈鮑泉詠薔薇詩)<雨+隹隹>靡上蘭宮。(淮南招隠士)<草冠+煩>草<雨+隹隹>靡。
王逸注、隋風披敷也、
醉紅
〈猛郊詩)酔紅不自力。狂艶如策扶。
都統籠
(<草冠+氾><手へん+慮>雲溪友議 )陸鴻漸嘗為茶論、説茶之功郊并煎茶
炙茶之法、造茶具二十四事、以都統籠貯之、
金谷煮
(劉介祉茶史)唐人以對花啜茶為殺風景、故王介甫詩、金谷花前
莫漫煎。其意在花、非在茶也、金谷花前、洵不宜矣、若把一甌、
對山花啜之、當更助風景、
 
倪迂
(金賚畫史會要)倪<王+賛>字元鎮、無錫人、善畫山水、不作人、
尤不喜用圖書、故世號倪迂、(茶史)倪雲林性嗜茶、趙行恕
宋宗室也、慕雲林清致訪也、坐定、童子供茶、行恕連啜如常、
雲林悒然曰、吾以子為王孫、故出時?品、乃略不知風味、
真俗物也、
 
清(門+必)
(雲林遺事)雲林有清<門+必>閣雲林堂、清<門+必>尤勝、有夷人、聞<王+賛>名欲見之、
<王+賛>令人開雲林堂、使登焉、四周列奇石、東西設古玉器古鼎尊罍法書
名畫、夷人方驚、顧問、謂其家人曰、聞有清<門+必>、能一観否、曰、時閣
非人所易入、旦吾主己出、不可得也、夷人望閣、再拜而去、
幽遐
(柳子厚煎茶詩)餘馥延幽遐。


七十有二行・<雨+隹隹>靡・醉紅・都統籠・・・・などは、原文にある茶色文字の注釈

 

翻刻及び読み下し文=陳 捷女史

翻刻

高垣(街名)の読画廬、薔薇、種うること戸に當る。
七十有二行、仙機、鳳羽を織る。
夏に入りて(雨+隹隹)靡に轉じ、昼に當りて頗る媚(女+無)たり。
醉紅、索扶の如く、濃麝も亦た吐を争ふ。
紫燕、差池に飛び、粉蝶、留連に舞ふ。
茗讌、芳叢に對し、紅鑪、碧煙擧ぐ。
手づから都統籠を開き、廿四事、序有り。
一甌、兩杯をすすり、金谷に煮るに異なる。
君を倪迂の亜に推し、代へて風流の主に命ず。
名畫と古の法書は、清ひ(門+必)の聚を減せず。
把りて玩びて幽遐を延べ、砌苔、蒸して午ならんと欲す。

読み下し文

高垣の読画廬の戸の前にバラが植えてある。
機織りで七十二行の鳳凰の羽根を織ったかのようだ。
夏に入ってからはぐったりしているが、昼にはとても美しい。
醉ったような紅は、支えられているかのようであり、麝香と香りを争うほどである。

紫の燕が不揃いに飛び、蝶が去りがたい様子で舞っている。
花々に向かって茶席を開き、紅い炉から青い煙が上がっている。
手で都統籠を開き、二十四の作法はすべて順序に叶っている。
一甌を二杯で飲む様は、金谷でのそれとは異なっている。

君は倪雲林に次ぐものなので、当代の風流の主と名付けよう。
名画と古の法書は、この納涼の集まりの趣を減らしはしない。
それらを手にとって遊んで優雅な時を過ごし、階段の苔が蒸し暑いのは昼になろうとしているのだろう。

 

漢字よみ(順不同)
輟=てつ・てち/やめる 鴛=えん・おん/おしどり 鴦=おう・よう/おしどり
鴦=おう・よう/おしどり 軋=あつ・えち/きしる (雨+隹隹)=かく
靡=び・み/なびく 淮=え・わい (手へん+慮)=ちょ/のべる
漸=ぜん・せん/ようやく 嘗/甞=しょう・じょう/なめる・かつて
啜=せつ/すする・のむ=似た字を使った 洵=しゅん・じゅん/まことに
甌=おう・う/ほとぎ 賚=らい/たまう・たまもの (王+賛)=さん
無錫=むちゃく(地名) 悒=ゆう・おう/うれえる
(門+必)=ひ/とじる・とざす 罍=らい/酒樽 夷=い/えびす・えみし
馥=ふく・ぶく/かおる・かおり 遐=か・げ/とおい

 

倪雲林(げい うんりん)=「倪さん」の事。中国元代末の四大画家の一人。若くして老荘の思想にあこがれ、精神の芸術を主張、後年は禅の悟境に傾倒した人物。−平櫛田中館− 

 
注4
 

当HPでの記述箇所

●永田聽泉=大阪府豊能郡原田村の初代村長/妻鹿友樵の弟子で七絃琴の名演奏家/号永田琴僊で、森琴石に画を学ぶ=平成12年8月平成13年7月

●永坂石たい(土+隶)=森琴石友人「世良田信明(雨荘)」の著書「「雨荘居士削残餘稿」の題字揮毫者・・・跋文は森琴石門「氈受楽斎(毛受楽斎・毛受小八郎)」

書家・医師・漢詩人。名は周二。名古屋の人。漢詩界の泰斗。森春濤門四天王の一人。書画・篆刻に秀で、石隷流の名で知られる。大正13年(1924)歿、80才。

●加島菱洲=加島信成=岐阜生まれ/「浪華の魁」(垣貫一右衛門編・明治15年)では「篆鐫:高麗橋2丁目」に名/「大阪市中近傍案内」(森弥三郎編・榊原英吉発行・明治21年)では「油画家」の項で名あり/王冶梅の著書出版人の一人=平成16年4月注8

王冶梅著書
「蘭竹二譜 二冊」(明治15年9月)&「冶梅蘭竹譜 二冊」(同年11月)&「冶梅画譜・人物冊 二冊」(同年11月) ・・・もう一人の出版人は「吉岡平助」・・・

●磯野秋渚=伊賀上野生まれ/大阪で代理教員から朝日新聞に入社/大阪の漢詩団の中枢にあり多くの文人墨客と交わった=「平成17年9月【1】■2番目、注5」他

●佐野五明渓=淡路出身/藤井琴谷の師匠/石橋雲来・舩田舩岳大村楊城などの交流者

伝歴=書家。嘉永四年(1851)淡路島生まれ。諸種の仕事に従事したあと大阪に移り、生来能筆の腕を磨き、草書で一家を成した。詩酒を楽しみ交際上手。「雅会文筵に在らざるはなし」と記されるほど。貴賎・雅俗に関わらず談笑し、人柄も飾らず誰からも愛された。また広く見聞を広げ、中国・朝鮮にも足跡を残している。明治45年(1912)1月 61歳没。  −大阪人物辞典−

 
注5
 

「木蘇岐山」 & ★印 漢詩家 経歴について

明治の文雅 森春濤をめぐる漢詩人たち」(一宮市博物館・平成14年7月)
より転載させて頂きました。但し各家とも著書名などは省略しました。

当項目内 −漢詩家−

★巌谷一六(いわや いちろく)
天保5〜明治38(1834−1905)
○名修、字誠卿、通称辨治、別号古梅・迂堂・(口+翕)霞・金栗。
○近江水口藩医巌谷玄通の男。経史詩文を皆川西園家里松(口+壽)に、書を中沢雪城に、画を藤本鉄石に学び、安政元年藩の侍医となった後は、更に藩儒中村栗園に就いて漢学を修めた。明治元年徴士議政官吏官となり、累進して、太政官大書記官、修史官一等編修官、ついで内閣書記官・元老議官と進み、錦鶏間祇に列せられ、同24年貴族院議員に勅選と、まさに文人官僚大御所であった。また幼時より書を好み、菱湖風を善くし、明治13年清国楊守敬の来朝と同時に、日下部鳴鶴松田雪柯と共にその門を叩き北魏の書法を学んだ。独特の一六風というべき書風を作り出し書家として著名。児童文学巌谷小波の父である。
◆当HP記述=「平成17年4月 注7 ◆騎鶴楼訪問者と森琴石」、雅友・知友:「池田正信」・「大村楊城」・「馬渡俊猷」の交流者。石橋雲来とも親交があった。
★宇田栗園(うだ りつえん)
1827−1901
○京都の医家で、岩倉具視に私淑。岩倉の子具定が東山道鎮撫総督に任命されると、参謀として従軍した。梁川星厳の門人で「文久二十六家絶句」にその詩が収録されている。
★江馬天江(えま てんこう)
文政8〜明治34(1825−1901)
○名聖欽、字永弼、通称正人・駿吉
○近江坂田郡(滋賀県)の人。本姓下坂氏。京都仁和宮侍医江馬榴園養子となった。のち大阪に出て緒方洪庵に洋学を学び、また、梁川星厳に師事して詩名が高まった。
幕末期王事に奔走して、慶応2年太政官吏官に任ぜられたが、明治2年これを辞し、京都東山に閑居して儒学を講じた。晩年は詩名・書名ともに関西に鳴り響いた。・・・後略。
森琴石は、江馬天江とは古くからの知己だったようだ。
★大沼枕山(おおぬま ちんざん)
文化15〜明治24(1818-1891)
○名厚、字子寿、通称捨吉、別号台嶺
○江戸の人。父竹溪は尾張丹羽村(愛知一宮市)の儒者鷲津幽林の子で、幕吏大沼氏を嗣ぎ詩人として名があった。幼くして父を喪い、叔父鷲津松陰(毅堂の祖父)の許に寄寓。天保6年江戸に帰って梁川星厳の玉池吟社に出入りし、大窪詩仏・菊池五山ら亡父の友人の知遇を得、また鱸松塘・小野湖山らの詩友に恵まれた。その詩は、宗詩の清新な詩風を宗とし、好んで詠物、詠史の作を試み、独自の風を拓いた。
○嘉永初年下谷御徒町三枚橋畔に下谷吟社を開くと、忽ちにして幕末詩壇の雄となったが、枕山の指導は厳格で融通性に乏しかった。維新の際には新政を批判する詩文を賦し、弾正台の叱責にあうなどの事もあり、その勢力はやがて清詩の新風を鼓吹した森春濤に圧倒されるようになったが、幕末の政情多難な中にもあって超然と詩人を以て自らを任ずる態度を崩さず、無用に徹する文学的態度を崩さなかった。

※大沼枕山の晩年は極貧だったという。当HPでは「山村勉斎」が門下⇒「平成19年4月【1】注3、山村勉斎
国分青がい(厂+圭)(こくぶ せいがい)
○名は高胤、字は子美。仙台の人。詩文を良くし書に巧なり。
★佐藤牧山(さとう ぼくさん)
享和元年〜明治24(1801-1891)
○名楚材、字晋用、通称惣右衛門、別号雪斎
○尾張国中島郡山崎村の人。はじめ丹羽郡丹羽村の有隣舎「鷲津松陰」、後に名古屋の河村乾堂に学び、その後江戸の昌平黌に入った。文政8年、駒込で塾を開いていた時、尾張藩主斎温が牧山の噂を聞いて藩の儒官に招き、帰国して明治3年明倫堂の督学となった。明倫堂閉鎖後、大津町に開塾、多くの塾生が集まった。
○晩年には東京に移住し斯文学会の講師となる。斯文学会は当時ここから大学に転校出来る学会であった。かつて牧山が巌谷修邸で老子の講義をしたとき、伊藤博文も聴講してその学問の深さに驚いたという。・・・・後略
野村藤陰(のむら とういん)
○名煥、字士章、通称喜三郎・新之助、別号は毅堂。
美濃の人。大垣藩儒。後藤松陰・斎藤拙堂に学ぶ。明治32年72歳歿。
★森春濤(もり しゅんとう)
文政2〜明治22(1819−1889)
○名魯直、字希黄・浩甫、別号香魚水裔廬・九十九峰軒・三十六湾書楼
尾張一宮の人。森槐南の父。家は代々医を業とし、春濤も初めは医を学ぶ。
詩を有隣舎の鷲津松陰に学び、大沼沈山と共に同門の双璧と謳われた。
○安政3年、京に上って、梁川星厳の知遇を得、文久3年名古屋に移住し、桑三軒吟社を起して門人を育てた。中でも神波即山・丹羽花南・奥田香雨・永坂石たい(土+隶)は四天王といわれた。明治6年岐阜に禺したが、同7年、花南・石たい(土+隶)の招きにより東京へ移住、下谷御徒町3丁目魔利支天横丁に茉莉吟社を起して門人を養成した。
○同年4月に「東京才人絶句」2冊を上梓。7月には機関誌「新文詩」を創刊して詩名大いにあがり、詩壇に確固たる地歩を樹立した。
○同11年に「清三家絶句」、続いて「清廾四家詩」を集輯発行。春濤の鼓舞するところは、これら清朝後期の艶麗な詩風であったが、このニ書はその普及に大きく貢献した。・・・後略   
★森槐南(もり かいなん)
文久3〜明治44(1863―1911)
○名大来、字君泰、称泰二郎、別号掃雪山童・台南小史・秋波禅侶・菊如澹人・説詩軒主人
○尾張一宮の人。森春濤3度目の妻国島せいとの間に生まれる。森春濤の三男
最初の妻服部鉄子との間=間堂(1860年14歳で歿)
2番目の妻村瀬逸子との間=普之助(後に桑名の村田家に養子)
生まれた頃は春濤が名古屋に出て半年たったばかりの苦難の時代であった。幼時から父に詩を、漢学を名古屋在住の清国人金嘉穂に学び、上京してからは鷲津毅堂・三島中洲に師事した。
○11歳の時父と共に上京、明治14年、太政官に出仕して以後、宮内大臣秘書官・東京帝国大学文科大学講師を歴任、44年文学博士となる。最も詩学に造詣が深く、また明清の伝奇に精通していた。枕山・春濤なき後の明治詩壇の第一人者で、23年星社結成の最は推されてその盟主となった。
○その後「新詩綜」を創刊、かたわら「国民新聞」「東京日日新聞」に筆を振るい、37年には、大久保湘南と隋鴎吟社を起して、その盟主となった。三条実美・伊藤博文に愛され、時として権勢にたよる風もあり敵も多かった。・・・・後略
★矢土錦山(やづち きんざん)
○嘉永2〜大正9(1849−1920)
○名勝之、字實夫・實卿・竹海、別号澹園念仏居士。
○伊勢射和村(現松阪市)の人。初め藤川三渓松田雪柯に漢学を学び、のち、津藤堂藩の名儒土井(敖の下、耳)堂に入門。廃藩後、上京して明治政府に出仕し、かたわら森春濤茉莉巷凹処に出入して「新文詩」に稿を寄せ、春濤編『東京才人絶句』に収められ、詩人としても認められるに至った。詩酒を愛した彼は、また、広く交友を求めて岡本黄石麹坊吟社に出入し、23年9月の星社創設に参加し、のちには関沢霞庵雪門会大江敬香花月会にも参じ、森川竹(石+奚)隋鴎吟社成立後は、推されて客員となった。この間、明治31年3月には、自由党として三重県第四区から出馬して衆議院議員となり、やがて伊藤博文の知遇を得て、森槐南と共に詩侶として常に側近に在った。博文がハルピン遭難ののちは、郷里に隠棲した。
◆当HP記述=「平成17年5月 注8」での、「姿態横生」 (第三回 日本中央南宗画会 展覧図録) の序文揮毫者。
 

その他の漢詩家については、順次追加していきます

 
注6
 

「書は心泉、詩は岐山、文は休也、経書は真軒」について

以下は、「小倉正恒」(神山誠著/藤川靖夫発行/昭和37年11月20日) による

心泉=北方心泉
本願寺派の上人で、明治10年と31年の2度支那に渡り、滞在年数前後合わせて約10年、「東瀛詩選 (とうえいしせん)」の編集協力者、北碑派書道の先覚として知られている。
東瀛詩選=徳川時代から明治初年までの、わが国の漢詩人の詩を、清末の大儒として聞こえた「兪曲園」が選定して出版したもの。この事を思いついたのは「岸田吟香」であるが、兪曲園との交渉に当り、編集に協力したのは心泉である。心泉が西湖畔の別荘に兪曲園を訪ね、名刺を通じると曲園自ら門に迎え、正堂に講じて合掌礼拝し、真宗の教義を種々質問して、心泉から妻を養い肉を食べる由を聞き、それは時期に相応した妙法で、まことに儒教の趣旨を合致するとて欣んだという話がある。
北碑派書道=支那の書道に北碑南帖という語がある。南帖というのは、古来書家の書いた字を法帖 ―文字の形をカゴガキして墨でうめ、石か木に刻して紙にうつす方法。写真版の無かった時代にはこれが第一の方法であった― によって伝え、主として南方で行われたので、南帖派または南派といい、北方では六朝時代の石碑がそのまま存しているので、それを拓本にとって研究に供するので北碑派、または北派という。この北碑派が日本に伝わるようになったのは、明治14年に「楊守敬」が清国駐日公使館に来て、巌谷一六日下部鳴鶴が教えを受けてからである。心泉はそれより先に上海に渡って北碑派を習ったいたことになる。
岐山=木蘇岐山
安政4年2月廾7日美濃国稲葉郡佐波村に生まれた。父は大夢と号し、大垣藩の儒者であった。岐山はその次男で、三壷軒、白鶴道人、五千巻堂主人等の別号がある。
若くして小原鉄心木戸孝允らと知り、明治21年東京に居を移して「巌谷一六」・「森槐南」・「矢土錦山」らと交わった。明治25年越中小杉に寓居したが、その後金沢に移って、三宅真軒北方心泉らと交流した。さらに明治41年大阪に移り、大阪毎日新聞の詩壇を担当した。大正5年歿。五千巻堂集17巻、星厳集註21巻、五千巻堂詩話若干巻がある。
休哉=五香屋休哉
文久2年12月金沢市外にある広岡村に生れた。家は代々五香湯薬の製造販売業を営む。性来名利に淡く頗る読書を好んだ。老医州崎節堂はその才を賞し自己の蔵書を貸し与えた。独学で勉強し、明治17年に「花影小緑」を著してから多数の名士と交わり、次第に有名になった。大正8年58歳で歿する。令息彪は大阪で医者を開業している。
真軒=三宅真軒
生涯読書にささげた人物。
年少の時は親戚の者から素読を受け、やや長じて井ノ口犀川(昌平黌で学業を積んだ)から充分教え込まれた。明治18,9年上京して漢文教員の検定試験に合格したが、試験官の島田篁村は、真軒の答案を見て感心し、わざわざ家に呼んで真軒の学問の方法を尋ねたというほどだった。その後金沢高等中学校で教鞭をとり、明治25,6年頃広島高等師範学校に赴任、14,5年間在職した。真軒が最も力を注いだのは論語と荘子杜詩だった。大正5年ごろ広島高師を退職後は東京に定住し、前田公爵家の「尊経閣蔵書目録」を編集。昭和15年82歳で歿した。唯一の弟子に加藤虎之助博士がある。
 
注7
 

「小倉正恒」(神山誠著/藤川靖夫発行/昭和37年11月20日) による

 
注8
 

「岐阜県教育 第502号」(岐阜県教育委員会/昭和11年6月1日)
・・・研究 1、「木蘇岐山翁と五千巻堂集」/伊藤信(岐阜県嘱託)・・・による

資料ご提供=山本邦宏氏(岐阜県教育委員会文化課 伝統文化財担当)

 
【2】

明治44年1月25日、大阪の老舗料亭「花外楼」で開催された「読杜会」に招待された「木蘇岐山」は、森琴石の「六石山房図」に即興で詩賛を揮毫した。

 
   

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