鼎金城門下
西嶋青浦(にしじま せいほ)=西島青浦
●関連事項=「平成19年7月(後日)」・師匠.先輩-儒学:「廣瀬旭荘」「長三洲」・南画:「鼎金城」
●廣瀬淡窓門下で、長三洲と同様廣瀬旭荘に見込まれ大阪に出る。鼎金城に画を学ぶ傍ら、長三洲と共に廣瀬旭荘に代わり、国事を側面から強力に補佐し、また廣瀬旭荘の臨終を看取った。
●行徳玉江とは同年齢、森琴石より15歳年上で、いずれも鼎金城門下である。
- (一)
西嶋青浦 (1828年-1912年)
- 豊浦郡宇賀本郷(豊浦町)に生れる。画家。通称孫吉。名は譲。字は子礼。
詩書を広瀬淡荘門(咸宜園)で学び、画法を大阪の鼎金城に問い、一格を成す。
維新の際には高杉晋作・木戸孝允らと国事に周旋し、特に下関の志士※白石正一郎と交友があった。
明治に入り、東京に出て木戸邸に住み、画事を楽しんだ。
明治45年(1912)3月10日歿す。85歳。
- ☆明治31年刊行『書画名器古今評伝』の編纂を行っている。
☆青浦の叔父古屋道庵は医者で、寺小屋を経営していた。
- ※白石正一郎 (1813ー1880)
- 豪商(廻船問屋)・清末藩の御用商人として知られた。
鈴木重胤について国学を学び、尊皇攘夷の立場を明確にして志士の運動を援助した。
高杉晋作の奇兵隊に参加。薩長連合を陰で推進したといわれる。後年は赤間関神宮宮司。
★伝記ご提供=山口県環境生活部文化振興課
(二)補足
A:『九桂草堂随筆 -広瀬旭荘(文敏先生)の肖像と讃-※』(広瀬旭草著・広瀬恒太刊・昭和45年3月)
冒頭図版頁には、明治22年7月、西島青浦が描いた廣瀬旭荘の肖像画と共に、長三洲の画賛が添えられている。肖像画を描いた西浦青浦の人物略伝が添えられ、次頁には廣瀬旭荘が最晩年に過ごした池田(現大阪府池田市)や、旭荘の支援者でもある門生「林田炭翁」の子息「林田良平」についての記述がある。下は図版一頁目の画像と文章。
―廣瀬旭荘肖像と賛―
図版上部:長三洲画賛
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図版右の文章
この画像を描いた「西浦青浦文貞」という人は、長州西豊浦郡宇賀の人。
天保十四癸卯四月朔日、古屋秀平紹介、西島孫吉十六歳で日田の咸宜園へ入門している。人物辞書によれば、「画家・長州の人・少壮笈を負うて九州に遊び後また浪花に出でて画法を鼎金城に受け、自ら一格を成して頗る逸韻あり、幕末馬関に在りて高杉晋作、木戸孝允、井上馨、山県有朋等の知遇を受け共に国家に周旋するところあり。維新後は専ら木戸の邸に寓し、画事を以て老を楽めり。明治四十五年三月十日没す、年八十五」とある。
嘉永五年秋、旭荘に随行して長谷川盤谷の観らん(さんずい+蘭)亭に遊び数日滞在した事があり、墓所邦福寺の線香立も行徳玉江と両人で寄進した謂れもあって、旭荘をよく知った門人である。
又画賛はこの随筆(注 九桂草堂随筆)を筆録した長三洲≪光太郎・ひかる(草冠+火)≫で、咸宜園に学び招かれて浪花へ赴き、後に明治三大書家として名をなしただけに見事な隷書体で書かれている。 |
図版下部:西嶋青浦画(明治22年7月)「廣瀬旭荘肖像図」
※『九桂草堂随筆』=長三洲筆録/広瀬孝之助(林外)校正/全10巻
廣瀬旭荘の大坂での最後の塾となった、伏見町の「九桂草堂」で廣瀬旭荘が語った事を、長三洲が筆記した長編の随筆。長男の林外(淡窓の養子となる)が校正したものを、後年子孫の「廣瀬恒太氏」により刊行されたもの。
★ご協力者=廣瀬貞雄氏(廣瀬恒太氏孫・廣瀬家第11代当主・大分県日田市廣瀬資料館社長)
B:『緒方洪庵と適塾生 ―「日間瑣事備忘録」にみえる―』(梅溪 昇著/思文閣出版/昭和59年)
<安政元年十二月二十一日
西島馬子吉★来見日、某欲学医故来此地 (★馬子吉=孫吉)>
右の二十一日に旭荘のもとを訪れた西島馬子吉とは何人であろうか。今詳らかでない。
◆上記日付(安政元年12月21日)の6日後、安政元年12月27日、旭荘は伏見町に、大坂で6度目となる塾宅に転居した。塾宅は名付けて「九桂草堂」という。庭に9本の桂の樹が植わっている事から名付けられた。森琴石の自宅の近隣である。馬子吉(青浦)は長三洲に先がけて大坂に出てきたようだ。この頃広瀬旭荘は、<光太郎の一刻も早い来坂を請う>と、日田の「廣瀬青村」宛に、しきりと長三洲(光太郎)来坂の催促の書簡を出している(「廣瀬淡窓旭荘書翰集」)。
(三)著書及び掲載書誌
1:「書画名器古今評伝」(西島青浦,高森有造編/岩本忠蔵出版/ 明治31年)
2:「明治三十八家絶句 上中下」(擁万堂編 ようまんどう編/文政堂他/明4年
中巻-伊勢小淞先生‐の項2首中に西島青浦の記載あり
(四)書簡
長 三洲 ⇒ 西島青浦 宛
「東京都立中央図書館 特別文庫室:渡辺刀水旧蔵諸家書簡文庫」所蔵
[渡1041] ・・・・長三洲(光)→青浦〔西島青浦〕 |