森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成17年(11月)

【1】

先月度、雅友・知友でご紹介の「長阪雲在」が、その後、三重県の地元紙「夕刊三重」で紹介掲載された。

「夕刊三重」記事=「雅友・知友」:「長阪雲在 (二)」をご覧ください。
記事ご提供=(株)夕刊三重新聞社

【2】

文人画家にとって儒学は必要不可欠な学問である。儒学に精通することにより、禅の悟りに近いものを得、禅思想を理解できるようになるという。それら文人画家の精神は、作品の中にあらわれ、作品中の詩賛にもそれらを窺う事が出来るともいう。森琴石が最も大切にした部分であり、森琴石は意を同じくする文人たちとより深く交わった。

長阪雲在は、和歌山県海南の「長保寺」で僧侶として修行を積んでいたが、その後も各地を修行して回ったと伝えられている。明治明治15年に農商務省開催の展覧会では「岡山県」から出品しており 注1、当ホームページで度々ご紹介の「石橋雲来」とも交流がある事が判明した 注2。「池田市立歴史民族資料館」には、雲在の「寒霞渓十二勝 」(一冊・明治28年)が所蔵されている 注3

森琴石と交流のあった漢詩家「木蘇岐山 注4」は、僧職にある父、大垣藩儒「大夢」の影響を受けて育った。佐賀出身の政治家「副島種臣(号蒼海)」との交流もみられる。森琴石門下「佐野岱石」・「近藤翠石」は同氏に私淑し、「佐野岱石」は同氏の弟子となった。「大村楊城」とも交流がある、加賀出身の大阪の篆刻家「橋本香迂 注5」は、加賀の僧「北方心泉」に多大な影響を受け「篆刻」に携ったという。、森琴石の周辺は、志を同じくした者たちによる大きな輪が見られる。

森琴石と交流し、日誌にも記述がある「辻東山」は「隠山録」を著し 注6、森家の縁者とみられる「森祐順」は、「印度紀行釈尊墓況説話筆記」などの仏教書に関っている。

 
 
注1
 
「絵画出品目録 農商務省編  2冊」(明治15年・国文社第一支店)では、
 岡山県南宋派(18番目)に、
(一)山水
(ニ)蕉竹   號雲在   長坂三郎と書かれている。
 
注2
 

「雲来詩鈔 巻14」(石橋教著・明治40年)巻末の最末尾に書かれた「木村 發(号 暢斎)」の跋文による 

 

木村 發(暢斎)=【雅友・知友】の「木村 發(木村暢斎)」をご覧ください。小野湖山や藤澤南岳との交流もみられる。

 

木村 発 跋文(「雲来詩鈔 巻一四」より)

雲来詩抄に跋す
余の知る雲来矼先生は、実に友人長坂雲在に因る。
雲在は詩画を善くす。曽て余に語りて曰く、「浪華に詩人多し。
而して其の能く清遠なること秋の如く、温雅なること玉の如く、淡にして薄からず、峭にして険しからず、緩急豊約(ゆたかなこと)、隠顕出没、皆能く縄尺(法則)に中(あた)る。
随物賦形、高下洪繊(大小)、変化測るべからざる者は、推して雲来子を窃む」と。其れ之を訪い、是に於いて余は始めて先生と相見る。
爾後、雁魚の往来二十余年か。
頃(この)ごろ、先生は余に其の詩に跋を嘱す。
因りて重ねて雲在と先生の詩を細論せんと欲す。 而して雲在は己に亡し。哀しいかな。
姑(ともか)く、其の評語を書して以て此の編を読む者に問うという。
明治丁未紀元節前一日。行余学文艸堂南窓の下に於て跋す。
暢斎 木村 発 印

翻刻者=大原俊二氏(米子市史編纂事務総括・米子市図書館協議委員・米子藤樹会理事)

注3
 

池田市立歴史民族資料館は、故林田良平氏が、自身の蒐集品を寄贈し「蝸牛廬文庫」と名づけられ、同文庫には、森琴石の「題画詩集」のほか、石橋雲来の「雲来吟交詩 3冊」(石橋教<雲来>編・明治14)・「雲来詩鈔 3冊」(石橋教<雲来>・明治16)、森琴石兄弟子の 「行徳玉江」・森琴石と交流した依田学海の「学海画夢」を含め、当HPでも登場する多くの文人達による書誌類や作品が収蔵されている。因みに香川県小豆島の「寒霞渓 かんかけい」の名づけ親は「藤澤南岳」である。

 
注4
 

木蘇岐山(きそ きざん)=雅友・知友「木蘇岐山」をご覧ください。

 
注5
 

橋本香迂(はしもと こうう)=雅友・知友「橋本香迂」をご覧ください。

 
注6
 

辻東山=「平成17年5月■4番目注5」 【日本南画協会 一宮支部発会図録 全」 ―明治34年10月20日の記録―】に、名があります。

 
  森祐順 書誌類
「点取交通論」(佐田介石述・森祐順等校・東京 :大伴義正出版・ 明治16年)
「印度紀行釈尊墓況説話筆記」( 北畠道竜述・森祐順記・大阪 :西岡庄造出版・明治17年7月)
「真宗安心三百問」 /(森祐順著刊 ・ 明31.8)・「真宗義」(森祐順著・土塔閣刊・ 明25.11)など
 
【3】

森琴石の画の師匠「鼎金城 かなえきんじょう」の墓碑は、五百羅漢で有名な大阪福島の「妙徳寺」に建立されていた。明治42年7月末に起きた「天満の大火(北の大火)」では、五百羅漢の多くが焼失したが、鼎金城の墓碑は災禍をまぬ がれた 注1
墓碑文は「橋本香坡 はしもと こうは」が書いている 注2

「橋本香坡」は、伊丹の「明倫館」の教頭を務める儒学者。親友である「藤井藍田」は長州藩士と親しく、「大坂新撰組」に捕らえられた。天誅組事件で「藍田」宅が家宅捜査をされた折、同家から、香坡が書いた「倒幕のシナリオ」の書簡がみつかり捕獲された。拷問後、獄中死したという苛酷な人生を歩んだ 注3

幕末の激動期、森琴石の儒学の師匠「妻鹿友樵」は長州と関与があり 注4、天誅組の「松本奎堂」は、同じく森琴石の画の師匠「忍頂寺静村」とは同郷で、志を同じくしていたようだ 注5。森家の祖母方、佐賀「入江家」の菩提寺「妙雲寺」は、山口の「瑠璃光寺」を本寺とする。「瑠璃光寺」では、幕末、志士らが倒幕の密議を交わしていた 注6。祖母「梅子」の曽祖父にあたる佐賀藩の儒者「武富圯南」は、吉田松陰とは知己の間柄だった 注7

森琴石の兄弟子「行徳玉江 ぎょうとく ぎょっこう 注8」は、詩文の師匠が「広瀬 旭荘」で、「藤井藍田」と同門である。

森琴石は明治12年5月、藤本鉄石の「第十七回忌法要茶筵」に出席している 注9

 
 
注1
  関連資料「鼎金城 墓碑」、(二)をご覧ください。
*現在「妙徳寺」は東大阪市に移転されており、鼎金城の墓碑の存在は不明。鼎金城の父の墓碑は「同墓所記」などの文献では、大阪市北区の「専念寺」にあるとの記述があり、現在確認中であるが、墓籍名簿には鼎家の名は存在しないという。
 
注2
 

「浪花名家墓所記  草稿」(宮武外骨・明治44年3月)による。

 
注3
 

関連資料「橋本香坡」をご覧ください。

 
注4
 

師匠・先輩の「妻鹿友樵」・「平成17年2月 ■2番目」・「平成17年6月■3番目、注6最末尾七卿落ち」をご覧ください。

 
注5
 

忍頂寺静村・松本奎堂=調査情報「平成15年11月」をご覧ください。

 
注6
 

入江家、瑠璃光寺=「平成13年1月 ■2,3番目」・「平成17年2月」をご覧ください。

 
注7
 

【家族・係累】の「武富圯南」(三)をご覧ください。

 
注8
 

行徳玉江(ぎょうとく ぎょっこう)については、後月ご紹介します。

 
注9
 

平成16年6月」・関連資料「藤本鉄石先生薦場余録」をご覧ください。

 


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