森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成18年(10月)

【1】

「京都府画学校 注1」の教師として出仕し、明治期に南画家として活躍した「小田半溪」を曽祖父に持つ、大分市の小田哲生氏より、情報や画像、資料のご提供を頂きました。

「小田半溪」は飯尾掃部の子として京都府宇治郡上花山村に生まれ、父と同じく鷹司家に仕え、父の歿後の元治元年(1864)、27歳のときに祖家の小田四郎の絶家を再興し、小田氏に改称した。江戸時代の祖家は播州加東郡東上谷小田村の長にあり、その後京都に出、医を業とする者、伊藤東涯に学ぶ者等がある。播州(兵庫県)の小野などに、係累ご子孫が存在されるそうである。

漫遊を好んだ「小田半溪」は、逗留先の新潟県から「内国絵画共進会」や「秋田伝神画会 注2」、「浪華学画会」などに出品した。それらの賞状が現存する 注3。「秋田伝神画会」の出品者のリストには、森琴石門下からは「伊藤石僊」や「鎌田梅石」の名が見られ、両者は住所の代わりに「大阪府浪華学画会員」と書かれている。

「小田半溪」が新潟県から出品し、一等褒状を受賞した「浪華学画会 注4」は、森琴石等が提唱した画会で、大阪では始めて開設された「浪華画学校」と平行する形で設けられたが、会についての情報等は、文献での紹介以外には皆無だったものである 注5。賞状の枠のデザインの外には「若林春水堂石印」と、小さく刻まれている。賞状は森琴石の親交者「若林長栄」により印刷された 注6

森琴石は京都府画学校の教師をした画家たちとは交流が深く、「小田半溪」の師匠「前田半田(前田暢堂)」は、森琴石に画を学んだ「森 泰石」のいとこ「森 半逸」の師匠でもある。同じく「小田半溪」の師匠「鐵翁」や「徐雨亭」には、森琴石の周辺の多くの画家が学んでいる 。当ホームページでは、大分県の画家「阿南竹陀」・「小野櫻山」・「十市王洋」・「永松春洋」・「村上我石」を紹介している 注7

 
 
 

小田半溪の作品(92×176cm)  

 
小田半溪の作品

明治35年の、別府市・不老泉温泉の完成祝賀場に展示されたもの

-落款部分- 落款部分
   
 

小田半溪略伝

京都府下京区順風町に住す飯尾掃部の男にして、天保8年7月19日生なり。
幼より経史を父に受け、安政元年より画を前田暢堂に学び、また、鐵翁和尚に蘭竹の筆法を問い、徐雨亭に山水の皴法を学び、後、釋石門広瀬淡窓白木柏軒等に従い明治13年京都府画学校出仕拝命、同14年4月工業委員に撰まる。
安芸、豊後、九州、近江、丹波、丹後、但馬、讃岐、信濃、越前、越中、加賀、能登等を遊歴す。 ―「第2回内国絵画共進会出品人略譜」(明治17年)―

補足
名は好彦、又は。画号は半溪
16歳で父と同じく鷹司家に仕える頃から、専ら南画を学び南画家となる。
明治13年の京都府画学校出仕後も、同17年の第2回内国絵画共進会や、同19年の東洋絵画共進会などで受賞を重ね、同21年には岸竹堂や今尾景年とともに同校の教授となるが、間もなく辞した。
その後、新潟県のほか、熊本県、鹿児島県、大分県などの九州等を遊歴し、同23年の第3回内国勧業博覧会などでも受賞。
晩年は別府市に住み、明治35年10月14日歿、65歳。前田半田や徐雨亭の山水画、半田画帖等が現存するほか、別府市の宝生山海門寺に「筆と硯の(形状の)墓碑」がある。

―「大分県画人名鑑」
(大塚富吉著・大分県画人名鑑刊行会・昭和53年10月22日) など参照―
   
 

前田暢堂(半田)=「平成17年5月■4番目

小野には、森琴石実父梶木源次郎(源治郎)」の知己の者が存在した。

 
注1、注3
 

京都府画学校略譜(小田半溪関係分)

明治11(1878) 8.15
 南宗画家の田能村直入(小虎)が、京都府知事槇村正直に、画学校設立を陳情
明治13(1880) 6.12
 京都府知事代理の国重正文、勧業場に府下の画家43人を招き、画学校に協力を論告
明治13(1880) 6
 太政大臣三條實美が「日本最初京都画学校」と命名
明治13(1880) 6.19
 田能村直入を「画学校用掛」に、先に招集された43人の画工を「出仕」に任用
明治13(1880) 7. 1
 京都府画学校の開校式
明治14(1881) 4
 工業委員に撰ばる
明治21(1888) 4. 6
 小田半溪が嘱託教授となる(岸竹堂、今尾景年も同時に
明治21(1888) 9. 1
 退任

京都府画学校(開校時)出仕者 及び 南宗画学教則の連印者青緑で表示)

浅井柳塘(別に白山)天野 俊(方壺)池田政敬(雲樵、半仙)、井澤九皐(鶴年)、今尾永歡(景年)、岡嶋英昇、小田好彦(半溪)、加納黄文(鐡香)、岸 昌禄(竹堂)、國井應文(別に彬々斉)、幸野直豊(楳嶺)、巨勢金起(小石)、駒井良吉(龍僊)、小山三造、櫻井百嶺、重春塘(別に草香)、神服宗陽(木仙)、鈴木百僊(松年)、鈴木瑞彦(文昇)、鈴木世壽(百年、大椿翁)、竹川小太郎(友廣、篁月)、谷口貞二(靄山)、田村宗立(月樵、大狂)、徳美信祥(友僊)、土佐光武、中島有章(別に廣然)、中西耕石(別に滴翠)、野村文擧(別に石泉)、秦辰(金石)、羽田文澄(月洲)、林成章(耕雲)、原在泉(別に松濤)、舟田濤山、前川文嶺(別に日光)、前田鏡堂(荷香)松本酔雲、村瀬玉田(別に彩雲亭)、村田香谷(別に蘭雪、適圃)、望月重岑(玉泉)、森 公粛(寛齋)、森川英絢(曾文)、八木雲溪、山田平三郎(文厚)

「南宗画学教則」=明治13年7月に制定

「小田半溪」賞状(小田家に現存するもの)

1 明17.5.20 第2回内国絵画共進会・褒状(好彦・住所「新潟県中頸城郡津有村」)
2 明19.4.18 東洋絵画共進会・一等褒状(好彦)
3 明23.5.18 秋田傳神画会・褒賞(半溪・新潟)
4 明23.7.11 第3回内国勧業博覧会・褒状(半溪)
5 明23.9.15 浪華学画会絵画共進会・一等褒状(半溪・新潟縣より出品)

―以上は 小田哲生氏のまとめによるものです―

新潟県中頸城郡(なかくびき郡)=前島密の故郷であり、関連人物「片桐楠斎」の生地に近い。前島密=日本郵便の父と言われた人物・「平成14年3月◆3番目」に記述があります。

★森琴石は、上記小田半溪が受賞した展覧会には全て関係している。例:第三回内国勧業博覧会には、「河源乗槎図(着色」)&「養老醸泉図(水彩・妙技賞)」などあるが、時間不足の為ご紹介する事ができません。

 
注2
 

秋田伝神画会(秋田傳神畫會)

「絵画品評会記事」(秋田伝神画会著・秋田伝神画会刊・明治25,3)より

画会の目的
秋田傳神畫會は、本邦美術の衰頽を挽回し斯道の拡張を図る目的で明治17年に設置された。以来七回を経てきた。昨年(23年)まで同会に尽力してきた平福穂庵及び五名が他界した。それら六諸氏の生前の功績を追悼し、また会の発揚のため、本会員内外の諸氏からも出品する場を企画した。
第8回秋田伝神画会
会期:明治24年7月15日~24日
会場:秋田縣羽後國秋田市
開場式典:7月15日午前9時30分より(秋田倶楽部別館楼上)
本会会長=小川弘水
審査委員=名誉会員:鈴木百年、同菅原白龍、会員:津村洞養、幹事:小室秀俊
出品及び寄贈書画:
出品人員=計254名
(29府県)
受賞人員=101名
 
追悼寄贈書画=計177点
 

浪華学画会員とあるもの=伊藤石僊(三等賞 褒状 乙科/森琴石門下)・鎌田梅石(三等賞 褒状 乙科/森琴石門下)・江森晴雲(3等賞 褒状 丙科)・芝山蘇石(3等賞 褒状 丙科)

★褒賞贈与人名には、著名画家、森琴石周辺の多数の画家が含まれている。
★小田半溪、森琴石は明治24年7月の絵画品評会の「追悼寄贈画」として展示されている。

★詳細は「近代デジタルライブラリー」でご検索の上ご覧ください。

絵画品評会記事」と、小田半溪「秋田傳神画会・褒賞」の受賞年号 及び 小川弘水の肩書きのずれについて

小川弘水は、明治24年7月15~24日に秋田市で開催された「絵画品評会」では会長を務めている。下記賞状では、小川弘水は副会長職と書かれている。この事から、賞状は、前年(明治23年)秋田で開催された「秋田絵画品評会」の賞状である事が判る。

小田半溪「秋田傳神画会・褒賞」
 
注4,注5
 

浪華画学校・浪華学画会・絵画共進会について

★以下は「大阪文化史研究」(魚住惣五郎編・星野書店・昭和18年)の中、目次10「浪華畫學校の顛末」(木村武夫氏文章)に基づき、まとめたものです。項目末尾に、木村武夫氏の本文から抜粋転載したものがあります。
★浪華画学校、浪華学画会、大阪画学校に関する資料は、上記「浪華畫學校の顛末」が唯一の文献資料でもあるとの事。

浪華画学校

設立年 :明治17年7月11日
場所 :大阪市東区道修町5丁目27番地
校主 :樋口三郎兵衛
皇国画教員 :守住貫魚・狩野永祥(病床にあったか?間もなく西山完瑛に代わる)・上田耕冲・森閑山
支那画教員 水原梅屋・森琴石
賛成者 寺西易堂・小寺篤兵衛・清見安五郎・田中耕雨・嘉納三影・樋口重郎兵衛
世話掛 :上野寛三・中村久兵衛

★浪華画学校についての研究は未だ解明されておらず、展覧会では、教員となった上田耕冲が、池田市立歴史民族資料館で「’94 特別展 日本画家 上田耕夫・耕冲・耕甫 展」で紹介されたのみ。
現在、芦屋市立美術博物館「大坂慕情 ~なにわ四條派の系譜~」展で、西山完瑛及び、上田耕冲の弟子上田耕甫の作品が展示されています。 

★当HPでの浪華画学校についての記述=「平成16年4月注5
寺西易堂と森琴石は、若年から晩年まで親交した間柄・嘉納三影は「藤本鉄石先生薦場余録」で、森琴石と共に名があり、森家の画帖にも揮毫画がある。

浪華学画会

明治18年7月 :森琴石等が発起(浪華画学校を中心とした画会)
副会頭 :宮崎銕幹(前東区長)
幹事兼主計 :樋口三郎兵衛
委員 :森琴石・矢野五州・水原梅屋・上田耕沖
絵画共進会

上記浪華学画会の条件に加え、事務所を樋口三郎兵衛邸に置く
明治18年11月:絵画共進会開設請願及び補助金の申請(府庁)をする
-願書は「浪華学画会第一回報告書」にあり-

西村捨三知事が補助金参百円を下付。
絵画共進会は明治23年9月1日より大阪府立博物場に於て開催、殊の外盛会だった。
-「日本美術協会報告第三十三号」にあり-

大阪画学校

明治23年5月22日:大阪画学校開設に関する伺書の提出
明治23年5月25日:教員組織が決定
場所:東区横堀1丁目20番屋敷
校主:宮崎銕幹
教員:上田耕沖、森琴石
学事評議員:森關山、田能村小斎、中川蘆月、水原梅屋、助教 庭山耕園近藤翠石


大阪画学校=「続浪華摘英」(三島聴恵発行兼編輯・大正5年12月)での「近藤翠石先生」の伝暦には、[明治23年浪華畫會畫學校(浪華画会画学校)開設するや庭山耕園と共に助教授を勤む]と、記述されている。大阪画学校の名称については検証の必要がありそうだ。


森琴石が近藤翠石に宛てた書簡に、「庭山耕園」と深交した新聞記者に関する記述がある(大正期くらい)


「大阪文化史研究」(魚住惣五郎編・星野書店・昭和18年)より  抜粋転載

目次 10:木村武夫「浪華画学校の顛末(375頁~401頁)」の中、399、400頁を抜粋転載しました

またこの年七月森琴石等が発起となって浪華画学校を中心とした画会、即ち浪華学画会なるものが設けられ、副会頭に前東区長宮崎銕幹を仰ぎ樋口は幹事兼主計、琴石五州梅屋耕沖が委員となっている。事務所を樋口邸に置き、十一月絵画共進会を開かんことを府庁に願出で併せて補助金の申請をしている。願書は浪華学画会第一回報告に載っているが、その中注目すべき箇所は、やがて別個の画学校設立を企てんとしている事である。時の知事西村捨三は補助金参百円を下付して好意を示した。かくて絵画共進会は廿三年九月一日より大阪府立博物場に於て開催せられ、殊の外の盛会だった事は、日本美術協会報告第三十三号に報ずるところである。一方別個の画学校設立の件は、廿三年五月廿二日大阪画学校開設に関する伺書の提出となり、廿五日教員上田耕冲森琴石、学事評議員森關山田能村小斎中川蘆月水原梅屋、助教庭山耕園近藤翠石と云う教員組織が決定し、校主は宮崎銕幹、場所は東区横堀一丁目廿番屋敷と迄、その計画が進捗したが、実はその後の消息が今の私にとっては一切不明である。従ってこの大阪画学校浪華画学校とは如何なる関係にあったかも、目下のところ明らかする事は出来ない。推測するに樋口はこの時難華畫学校をもこの新設校に合流せしめ、以てこれよりよき画学校建設を考えたのではなかったらうか。

恐らく浪華画学校の最盛期に於て、よりよき発展の為に企てられたこれ等の諸計画中に、実は浪華画学校の急速なる閉鎖をもたらした原因が存在したのではなかったらうか。本校がより公的なものにならんとした時、樋口個人の本校に対する熱情はそれだけ冷却して行ったのではなからうか。本校の閉鎖明治廿五年頃と云う。この前後の消息を知る資料も今のところ私は知らない。

 
注6
 

小田半溪 「浪華学画会絵画共進会賞状」

 

大阪若林春水堂石印

★若林長栄=「平成18年8月 【3】」に記述があります。

 

注7
 

森泰石・森半逸=「平成17年5月■4番目注5

鐵翁・徐雨亭に学んだ画家=森琴石の親友「中野雪江」・索引・略伝美術関係
大分県の画家、京都府画学校に出仕した画家=索引・略伝美術関係
   
資料、画像ご提供者=小田哲生氏(小田半溪曾孫・大分市上八幡4組)

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