森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成17年(7月)

5月末、「蒋 海波 しょう かいは 」氏及び、「堀 浩雄 ほり ひろお」氏のご案内で、神戸市中央区にある「追谷墓地 おいたにぼち」へ、「胡鉄梅 こてつばい」の墓参に行き、中国式のお参りをする。墓碑の表書は「北方心泉 きたがた しんせん」が書いている 注1 。隣には「胡鉄梅」がその死を悼み泪して碑文を書いた、妻「生駒 悦 いこま えつ」 の墓碑 注2 が寄り添うようにたたずむ。近隣には堀浩雄氏の祖父であり、「胡鉄梅」とも交流のあった、神戸の漢学者「堀春潭 ほりしゅんたん 注3」の墓碑もある。墓参の後、「華僑歴史博物館 注4」を見学。「藍璞 らん ぼく」館長より、「落地生根 らくち せいこん」という 注5」という言葉にもある華僑 注6 の生き方や歴史、それらにまつわる人物・交流者・出来事などのご説明を受ける。同館には「胡鉄梅」の画も展示されている 注7。当HP6月度に記述のある「犬養毅」は、「孫文 そんぶん 注8」らの革命を支援し、華僑の子弟の教育機関「神戸華僑同文学校 注9」の名誉校長を務め 注10、「堀 春潭(堀 百千 ほり  ももち)」は、同学校の教師や校長職を務めていた 注11。「胡鉄梅」は晩年を、同学校や博物館に近い「花隈 はなくま」で過ごし、明治32年8月、4ヶ月前に亡くなった妻の後を追うように歿した 注12

「胡鉄梅」の墓碑の表書きをした「北方心泉 a 」は、明治漢詩壇において広いネットワークを持つ漢詩人「木蘇岐山 きそきざん b」とも交遊があった 注13。 木蘇岐山の弟子で、金沢生まれの「石野 香南 c」は、「青山観水 あおやま かんすい d」・「垣内雲りん かいとう うんりん e」に画を学び、のち「木蘇岐山」が大阪に拠点を移すのに伴い、画は「森琴石」に学んだ。

 
 
注1・注2
 

胡鉄梅の墓碑文

  表:清江南名士胡鉄梅先生之墓  
    辱知心泉迂納謹書
  裏:明治三十二年季建
 
   (註:心泉=北方心泉a)

生駒悦の墓碑文

  生於明治元年八月十八日
  卒於明治三十二年四月十五日
  於戯有和女士上海蘇報舘主生駒悦君之墓
     杖期生尭城胡鉄梅拉拝涙題

(註:杖期生=妻を失った者の意、尭城=胡鉄梅の別号)

 
注3
  ・堀 春潭(ほり しゅんたん)=嘉永6年(1853)~大正11年(1922)12月31日。 堀 百千(ほり ももち)とも号する 。神戸の漢学者。明治の翻訳者「井上 勤」の実弟。春潭長男、堀正人(号 春塘)氏は、昭和38年11月、胡鉄梅夫妻の墓が無縁墓となる寸前、その存在を知り、保護を呼びかけた。堀家には「松谿垂釣 堀先生雅属并正中華胡鉄梅」・「桐蔭烹茶 鐵梅寫」の胡鉄梅二作品が残されている。いずれも年月は記されていない。
・堀家・堀正人氏については、最新情報「平成15年3月 」をご覧ください
 
注4・注5

華僑歴史博物館


 神戸南京町から東西へ国道2号線沿い「神戸中華総商会ビル(KCCビル)」の2階にある。神戸華僑の生活や活動について、日用品や文物、各種資料、写真、美術品などの展示を通じて、日本人との交流や足跡、歴史などを知る事が出来る。

落地生根(らくち せいこん)

 一人の人間が遥か故郷を離れて、海を越え、異国の地に渡り、その土地の人たちと睦み合い、その地の習慣にもなじみ、家業をおこし、子や孫に囲まれて円満な家庭を築き、やがてはその土地に帰するさまを言う。
 
注6
  華僑=慶応3年(1868)1月、神戸開港時に欧米人が居留地に商館を開いた。その欧米人らと共に上海や香港などから来、また長崎からも移ってきたのが始まりとされる。以来神戸の産業発展や文化に大きな役割を果たし、中日間の交流を円滑にならしめる「友好のかけはし」となっている。
注7 
  胡鉄梅作 「楓橋夜泊之図」落款  (華僑歴史博物館蔵※)
      永田柳涯先生雅属 中華胡鉄梅寫

※李義招氏(神戸華僑幼稚園初代理事長)が、1979年神戸華僑歴史博物館開館を祝して寄贈された。
注8 注9、10、11
 

孫文(そんぶん)

字は逸仙、号は中山(ちゅうざん)。中国の政治家(1866-1925)。広東省の客家(ハッカ)の農家に生まれる。12歳のとき長兄を頼ってハワイに渡り、5年後に帰国、広東・香港で医学校に学ぶ。1894年、革命団体の興中会を結成し、蜂起したが失敗して亡命。1905年、東京で中国同盟会を結成、これと前後して三民主義を唱えた。外遊中の1911年に辛亥革命が起こると、帰国して共和国の大統領に選ばれたがまもなく地位を「袁世凱 えんせいがい」に譲る。その後、袁世凱や北京政府に対抗を続け、1919年に中国国民党を組織。
五・四運動後の1924年にはソ連、中国共産党と提携し、三民主義(民族、民権、民生)を国家建設の理想として、革命を推進。北京で客死した。夫人は「宋慶齢 そうけいれい」。([広辞苑]など)

神戸中華同文学校(こうべちゅうか どうぶんがっこう)

明治32(1899)4月、横浜に「横浜大同学校」成立に続き、1899年5月、日本に亡命していた梁啓超は神戸で、日清戦争に負けた中国側の失敗の原因を分析し、華僑が教育を興すべき理由を説いた。それをきっかけに、同年8月神戸市中山手通3丁目に小学校建築を計画、翌33年(1900)3月1日に落成し「神戸華僑同文学校※」と命名された。「犬養毅」は、創設当初1900年次より1904年次までの5ヵ年間名誉校長を務めた。「堀百千」は第4年次1903年に科任教員、翌1904年次には校長職を務めた。
(「神戸華僑同文学校四十周年記念刊」による)。

その後多少の変遷をし、1939年神戸華僑同文学校と阪神中華公学の合併によって神戸中華同文学校となる。教育レベルも高く「陳舜臣」・「鳳蘭」など、同校からは多才な人材を輩出している。

※神戸華僑同文学校成立には「大隈重信」が大きく寄与したという。

注12
  「胡鉄梅に関する覚え書き」(文:有井基「歴史と神戸」第5巻4号・1966年11月)による。
注13
  ・『小倉正恒』(神山誠著・日月社・1962年11月版)による。
・情報ご提供者= 陳捷(ちん しょう)氏=国文学研究資料館助教授
・小倉正恒(おぐら まさつね)は、上海で、「星厳集註」(木蘇牧註・小倉正恒校刊・1929)・「蘇浙游記」(小倉正恒著・1929)を出版している。
 
  a 北方心泉
                                     
最新情報「平成16年10月 」・日誌・書簡「胡鉄梅の書簡 」をご覧ください。  

b
 木蘇岐山(きそ きざん)

・漢詩人。岐阜県生。名は牧、別号に三壷軒主人、白鶴道人、五千巻堂主人などがある。明治21年東京に居を移し、小野湖山・森春涛・槐南父子・江馬天江らと交わった。明治25年越中小杉に寓居し、その後金沢に移って、三宅真軒・北方心泉らと交遊した。明治41年に大阪に移り、「大阪毎日新聞」で「漢詩欄」主筆を長く務めた。大正5年(1916)歿、61才。
・伝歴ご提供=陳捷氏(国文学研究資料館助教授)

c 石野香南(いしの こうなん)

「門人紹介 石川県 」 をご覧ください。

d 青山観水(あおやま かんすい)

・天保元年~明治33年(1830~1900)
江戸末期から明治期の画家。金沢に生まれる。名は忠次。吉田公均に学んで南宗画を描いた。明治37年(1894)から23年(19007月まで石川県立工業学校助教諭として勤める。同年7月24日に没した。享年71歳。
・補足:青山観水は洋画を学んだこともあり(西洋風の図画教育を行うため)、明治期にアメリカに渡った洋画家「早田楽斎」を育てた。
・資料ご提供=二木伸一郎氏 (石川県立美術館)

e 垣内雲りん(かいとう うんりん)

・弘化2(1845)5・~大正8(1919)7.17
四条派の画家。高山生まれ。垣内右りん(ゆうりん)の長子。名は徴。号を友華・友竹斎・右竹・錦嶺・直道。慶応3年(1867)ごろ京都画壇の重鎮・塩川文麟に師事。明治4年(1871)高山へ帰る。農商務省主催の第一回内国絵画共進会で褒状を受賞。以後、パリ万博出品、日本美術協会展で入賞を重ねる。明治34年に東京へ移る。宮内省御用品も数点。気宇広大な変化の妙をとらえた山水画に定評。京都府画学校教授、石川県絵画品評会審査員、日本画会評議員、正派同志会評議員を歴任。[飛騨人物事典(郷土文人遺墨展)]=高山市教育委員会

垣内雲りんによる、明治25年「琴高仙人図(鯉がテーマの絵)」は、高山祭りの屋台、見送り幕(後ろ側)に使用されている。垣内雲りんと森琴石は画壇(南画)での活動が重なる部分が多い。森琴石は「飛騨高山」に関した書物に「挿絵」をしたようだ。人物や建物の下絵画稿が残る。
 
ご協力并びに資料ご提供者
・藍璞(らん ぼく)氏=元神戸同文学校教師・現華僑歴史博物館長
・蒋海波(しょう かいは)氏=兵庫県立大学、神戸松蔭女子学院大学、神戸学院大学各講師
・陳捷(ちん しょう)氏=国文学研究資料館助教授
・堀浩雄氏=[堀正人氏長男・堀春潭(堀百千)孫]
 

森琴石は神戸の漢学者「水越耕南 注1」や「橋本海関 注2」とも交流があり、神戸でドイツ語を学び、のち明治期翻訳者の魁となった「井上 勤」の「九十七時20分間 月世界旅行」の挿画を担当した 注3。胡鉄梅から森琴石への書簡には、貿易商「同孚泰 どうふたい 注3」の名が滞在先として出ている。森琴石は神戸清国領事とも親しかった。明治時代、御影(みかげ)のK酒造は 注4、森家とは身内だった。明治8、9年の「受注控え帖」には、「マッチ 兵庫川崎町 廣栄社 若林与助様」のメモにあるように、森琴石が銅版画で手がけたと思われる「マッチのラベル」は、現在知られているものより早い可能性がある。「神戸市立博物館」の建設の理由となり、「池長コレクション 注5」の名で知られ、「牧野富太郎」に金銭的援助をした 注6「池長孟 いけなが はじめ」は、森琴石の銅版画作品も多数収集した。森琴石と神戸との関わりは深いが、未解明である。神戸港を見下ろす「洒落た洋館のある風景」が、森琴石の画稿に残る。


 
 
注1 水越耕南=関連資料「翰墨因縁」をご覧ください。
注2 橋本海関(橋本小六)=画家橋本関雪の父。響泉堂刻「漢史一斑字引大全 橋本小六編纂 2冊」(橋本海関著・明治15年・船井政太郎刊)がある。書誌情報=熊田司氏(大阪市立近代美術館建設準備室 研究主幹)
注3 井上勤(いのうえ つとむ)=堀春潭(百千)の実兄。最新情報「平成15年3月」をご覧ください。
注4

同孚泰(どうふたい)

1: 「同孚泰」は神戸の有力華商。広東人の経営による合資商社名である。貿易のほか、旅館業も営む。館主は複数であった。詳細は『落地生根――神戸華僑と神阪中華会館の百年』(研文出版、2000年2月)に記載されている(蒋海波氏箋)。

2:「同孚泰」は増田岳陽と中国人の筆談集『清使筆語』に出ており、増田岳陽宛ての手紙で彼の著作の訂正をしている。住所は神戸海岸四丁目南京十四番。

陳捷著:「東京都立中央図書館所蔵『清使筆語』翻刻」(東洋文化研究所紀要 第一四三冊・平成15年3月)に、記述があります。 

3:最新情報「平成16年10月 」・日誌書簡「胡鉄梅からの書簡 」をご覧ください。

 
注5 K一族からは、大阪で趣味人として名がある者、東京の著名柔術家などが出た。森琴石2番目の妻「ゑい」(森家の実曾祖母)の身内とされる。明治9年「ゑい」急逝から徐々に、大正10年琴石歿後疎遠となり、更に昭和19年琴石長男雄次没後途絶えたという。森琴石はK酒造のラベルを、銅版画で作成していたとも伝えられている。
 
注6

池長コレクション

平成15年11月・神戸市立博物館・特別展「南蛮堂コレクションと池長孟 」
開 催 概 要 より 抜粋

●兵庫の名家の主人であった池長孟(1891~1955)は南蛮美術に魅せられ、昭和初年から、当時は未知のジャンルであったこれらの美術品を独力で蒐集しました。 「外国の影響を受けた日本美術の集大成」をめざして私財を投げうち、昭和15年(1940)には熊内に池長美術館を開館して(現:神戸市文書館)、自らのコレクションを一般に公開しています。彼は、蒐集を通じて社会 教育の重要性を知り、コレクションとともに成長していきます。「学校教育よりも親爺教育が大切」とする彼の信念は、現今の生涯学習のはるかにはやい先駆けとるでしょう。そして自らが研究をするとともに、学者を育てて研究発表の機会を与え、一般への啓蒙にも情熱を傾けています。まさに、彼の中には、芸術のパトロンという意識と社会教育家という意識が同居していたといえるでしょう。 この人なくしては、現在の神戸市立博物館はなかったといっても過言ではなく、・・・・・以下省略します。

 


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