森琴石(もりきんせき)1843〜1921

森琴石 調査情報

平成10年10月〜現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成19年(7月)

【1】

前月【2】 より続く

廣瀬旭荘「は、生涯膨大な詩作や著述をした事でも知れるが、その中の一つ「日間瑣事備忘 ひまさじびぼう 注1 」は、廣瀬旭荘が、天保4年正月元旦(1833)から、歿する5日前の、文久3年9月28日(1863)まで、およそ31年間にわたり綴られた日記である。

 

全166冊に及ぶその内容は、すこぶる広範囲にわたり、儒家・医家・詩人など多数の知人の往来、人物評、贈答の詩文、書簡の往復、見聞や体験、騒然たる日本の幕末の社会情勢や外国情勢の伝聞、家庭身辺の瑣事が克明に漢文で綴られている。幕末の大坂を知るには欠かす事の出来ない資料である。

 

この「日間瑣事備忘」からは、「緒方洪庵 注2」と「廣瀬旭荘」が親友関係にあった事が判る。

天保9年5月8日「廣瀬旭荘」は、大坂の西横堀に「月近亭」という名前で開塾したが、同じ年の少し前、備中足守から大坂に出た「緒方洪庵」は、瓦町に「適塾」を開いた。

 

「緒方洪庵」と「廣瀬旭荘」の出会いは、天保9年10月11日、当時堂島二丁目に住んでいた、古河藩主土井候の侍医「岡部玄民」の家で出会ったのが始まりである。以来二人は、幕末の激変期の大坂に於いて、お互いが歿するまでの、25年間の長きにわたり親交した。二人の没年は、奇しくも文久3年6月に洪庵、9月には旭荘が亡くなった 注3

 

その親密ぶりは、過書町の洪庵の隣家に旭荘が転居を考えるほどであった。廣瀬旭荘は、大坂で6度も塾宅を転じているが、常に適塾の近くに居を構えた 注4。規律違反で、洪庵の怒りを買った門下生が、洪庵から多大な信頼を寄せられている旭荘に、和解をとりなして貰う事も度々であった。旭荘の家医でもない洪庵が、病気がちの旭荘のために診察や調薬をすることが度々あった。二人は真に ―心が通い合う間柄― だった。この事は互いが教授する塾生や関係者たちにも影響を及ぼした。

適塾には、洪庵出身の岡山から40数名が入門した。廣瀬旭荘が親交した吉田松陰の出身地、山口からは最多数の50数名が入門している。吉田松陰の「松下村塾」の高弟だった「久坂玄機 注5」は、適塾の塾頭に挙げられた。「久坂玄機」は、勤王志士として著名な「久坂元瑞」の兄でもある。旭荘の兄淡窓の日田「咸宜園」からは、「大村益次郎(村田良庵)」や「佐野常民」らが適塾に転塾し、後適塾の塾頭となった。在籍中に長崎へ勉学に出向いたものも多い。豊前日田からは「福澤諭吉」が適塾で学んだ。これらの塾や門下からは、幕末維新の激動期、日本を変える原動力となった人物を多数排出している 注6

廣瀬旭荘が親交した適塾人物の中に、備中梁瀬の山成家の「山成剛蔵」がいる。山成家は森琴石が足跡を残した備中後月郡芳井町に所在する。芳井町には兄弟子の「堀井玩仙」が足跡を残し、芳井町からは「藤井琴谷」が森琴石門下となった。森琴石と書誌で関った「柴原宗助」も芳井町出身である 注7

廣瀬旭荘から最も信頼され、晩年の旭荘を支え続けた「長三洲」は長州の出身で、日田「咸宜園」の門生となり、萩の明倫館で講学もした。「長三洲」と共に「木戸孝允」の腹心の部下として支えた「西嶋青浦」は、「鼎金城」に画を学んでいた。先々月及び先月にご紹介した「木蘇岐山」の父「木蘇大夢」は、美濃から遠く離れた日田「咸宜園」で学び、その帰路、京都で「藤本鉄石」や「高杉晋作」・「桂小五郎(木戸孝允)」らと出会い、共に国事に参画した。「墾 鉄操」も、「木蘇大夢」と交流人物が重なり、共に僧職である。

 

上記文章及び、下記注釈の一部は、『緒方洪庵と適塾生 ―「日間瑣事備忘録」にみえる―』より、森琴石周辺に関する情報を、一部抜粋して記述させて頂きました。

『緒方洪庵と適塾生 ―「日間瑣事備忘録」にみえる―』(梅溪 昇著※/思文閣出版/昭和59年)

★激動の変革期に生きた二雄 ―洪庵広瀬旭荘
二人の二十五年間にわたる親交を旭荘の日記「日間瑣事備忘」を通して明かす異色作。時代の波動に揺れる幕末の大坂を背景に、適塾門下生らの多彩な人物交流と動静の新たな一面が発掘される
〜同著書紹介文章より〜

梅渓昇氏=1921年兵庫県生まれ。京都大学卒業。大阪大学名誉教授・適塾記念会理事など歴任。適塾研究の第一人者。長年にわたる適塾の研究と、「日間瑣事備忘」での適塾関係の記述とを合わせ、洪庵及び適塾門下生の動静の一斑を明らかにしたもの。適塾の姓名録には名が出ない人物や、逸事など、貴重な事実が検証記述されている。詳細は同著書をご覧ください。

注1
 

日間瑣事備忘 ひまさじびぼう」

廣瀬旭荘の日記で、天保4年(1833,27歳)正月元日から文久3年(1863、57歳)9月28日まで、その歿する五日前まで、およそ31年間にわたる。

★「日間瑣事備忘」は、前編112冊後編54冊の全166冊よりなりたっている。久しく未刊で、その刊行が各方面から期待されていたが、ようやく昭和57年6月から「広瀬旭荘全集編集委員会」の手により、日田の広瀬先賢文庫収蔵の原本に基づき『広瀬旭荘全集・日記編一』(思文閣出版)以下として刊行されるに至った。
「広瀬旭荘全集」は、<詩文編、随筆篇、書簡・伝記資料篇、別巻 総索引>よりなり、「日記編」は多治比郁夫氏編で、幕末における人物・文化・学問・社会情勢・生活など、各分野の実態と動向を伝える生きた資料である。
・・・・・同著書紹介文章より・・・・

 

ご協力者=株式会社思文閣出版

注2
 

緒方洪庵 (おがた こうあん)

★幕末の蘭学者・蘭医・教育者。備中足守藩士佐伯惟因の三男。
★名は章、字は公裁、通称は三平、別号に適々斎等。
★1825年、15歳の時、父が大阪足守藩蔵屋敷留守居役に命じられたため大阪へ行く。 翌1826年、中天遊(物理学者・天文学者でもある)の蘭学塾に入る。
★さらに江戸の坪井信道・宇田川椿斎にも学ぶ。のち長崎に遊学し、1838年、大坂瓦町に適々斎塾を開き、医業の傍ら蘭学を教えた。大村益次郎橋本佐内大鳥圭介佐野常民福沢諭吉ら多くの逸材を育成する。
★文久2(1862)年6月、兼ねてからの幕府の奥医師就任の依頼を受諾し、8月江戸に行き、8月21日幕府奥医師に任じられた。閏8月4日西洋医学所頭取兼帯、12月法眼に叙せられた。
★文久3(1863)年、大坂より家族を江戸に呼び寄せて間もない6月、突然の大喀血をし、下谷御徒町医学所頭取屋敷で急死した。54歳。

 
注3

緒方洪庵/廣瀬旭荘  ―それぞれの文久3年

緒方洪庵=注2 末尾3行をご覧ください

廣瀬旭荘
門下や知人が「尊皇活動」で、獄死や処刑となり、大坂の人々は≪関わると危険≫と、旭荘に近づかないようになったきた。緒方洪庵が江戸に行ったのは、旭荘が危機的状況にあるさ中だった。洪庵が急逝したのと、旭荘が池田に身を寄せたのは、ほぼ同時期となる。⇒儒学「:廣瀬旭荘(一)年表」をご参照ください。
 

お断り:廣瀬旭荘の歿年が、「日間瑣事備忘」の翻刻版と、当HP:儒学「廣瀬旭荘」での使用文献とでは、1ヶ月あまり日数がずれています。これは前者が新暦に変換したもの、後者が旧暦での日付と思われます。当HPでは、<それぞれの文献>での日付をそのまま記載します。矛盾があります事ご承知ください。

 
注4
 

適塾・廣瀬塾の変遷/森 家

適塾・廣瀬塾の変遷/森 家

地図=森川宝珀堂刻/播磨屋九兵衛書房/弘化2年(1845)

1,2 =緒方洪庵の塾
1:天保9年4月頃 :津村東之町・・・・適塾
2:天保14年12月15日 :過書町 ・・・・適塾(現在も残る)
1.2.3.4.5.6. =廣瀬旭荘の塾変遷
1:天保9年5月8日 :西横堀・・・・・・・・・・・月近亭
2:天保9年12月4日 :呉服橋東南京町橋北苫屋巷
3:天保11年3月9日 :高麗橋四軒街・・・・・・・・・・・・芝軒
4:天保11年8月29日 :舟町橋東畔北折処
5:弘化3年11月6日 :淡路町津村北之坊
6:安政元年12月27日 :伏見町心斎橋東入北側・・・・・九桂草堂

森家=森
地図にある「南本町4丁目」・「高麗橋3丁目」は、後年、森琴石が、伏見町から転居した町名。

 
注5
 
久坂玄機(久坂元機)
文政3年生まれ。萩藩医。吉田松陰の兄。若年時より長崎に蘭学を学びに行き、弘化3年京都に遊び、弘化4年6月から洪庵門に入る。翌嘉永元年正月、鍋島家御側医師「伊藤玄朴が、藩命で江戸より佐賀に赴く途中大坂に寄り、玄機を自分の象先堂塾の塾長に欲しいと洪庵に申し出た。洪庵に恩義を感じていた玄機はその申し出を断った。(嘉永元年)3月、玄機は適塾の塾頭に挙げられる。嘉永2年正月藩命により萩に帰り、都講役に任じられる。安政元年2月27日歿する。享年35.
しかし適塾の姓名録にその名は無い
 
注6
 

幕末維新時に日本を変える原動力となった「塾」および主な「塾生」

大坂「適塾」
足立寛・池田謙斎(森琴石友人「中野雪江」の義弟) ⇒ポンペと中野雪江)・大村益次郎・大鳥圭介・佐野常民・ 高松凌雲・長与専斎・橋本左内・福沢諭吉※・箕作秋坪 ほか。
佐野常民 ⇒「平成18年4月【2】■2、3番目 & 注3」・「平成18年5月【4】注3◆2番目 森琴石と慶応義塾」・「平成19年1月【1】■7番目
福澤諭吉=「平成16年9月■2番目」・「平成18年5月【4】注3◆2番目 森琴石と慶応義塾」」・「平成18年6月【1】■6番目」・「平成18年9月【2】■5番目」・雅友知友「武藤吉次郎」・索引「朝吹英二
日田「咸宜園 かんぎえん」
大村益次郎・上野彦馬・・大隈言道・岡研介(シーボルト鳴滝塾塾頭)・高野長英・長三洲・長梅外(長三洲の父)・平野五岳・藤井藍田・帆足杏雨など=「廣瀬淡窓(三)主な門下生」をご覧下さい。
萩 「松下村塾」・「明倫館」
久坂元瑞・伊藤博文・入江九一・木戸孝允(桂小五郎)・品川弥二郎・高杉晋作・福原周峰・前原一誠・山県有朋・山県太華 ほか。

大坂「廣瀬塾」=「儒学:廣瀬旭荘(ニ)主な門下生」をご覧下さい。

 
注7
 
山成剛蔵(山鳴剛蔵)
山成剛蔵=山鳴大年(やまなり だいねん)の養嗣。緒方郁蔵(緒方家の養子になる前)と共に江戸へ行き、信道塾に入り、のち郁蔵と共に来坂、洪庵の塾に入門した。剛蔵・郁蔵、共に適塾の姓名録には名が無い
山成大年は阪谷朗廬の甥に当たり、阪谷朗廬30歳の時、芳井町簗瀬(やなせ)に桜渓塾を開いたのは、伯父の山鳴大年の協力が大きかった。山成大年は、廣瀬旭荘の恩師「菅茶山」に漢学を学んでいる。
「山成家」記述ヶ所
平成13年8月■2番目
「後月郡」・「芳井町」記述ヶ所
平成16年7月■1番目注1 メモC●3つ目」・「平成18年7月【1】■5番目&7番目」・「門人−岡山:藤井琴谷」・雅友・知友「柴原宗助」・「家族:森定七
 
【2】

森琴石が養子に入った弘化3年(3才時)、大坂の養父「森 猪平」は、大坂伏見町に住んでいた。廣瀬旭荘が大坂での6番目の塾宅とした「九桂草堂」は伏見町にあり、森家とは同じ町内のごく近所だったようだ 注1

当時の伏見町は、舶来物を扱う、高麗・唐物屋が多く存在し、それら舶来品は長崎から航路で運ばれた。近くには諸藩の蔵屋敷が立ち並び 注2、諸藩の物産が売買され、問屋が軒を並べ繁栄した。書籍・薬種問屋も近くにあり、堂島の米・天満の青物・雑魚場の三大市場もおおいに賑わった。森家の控帖には、それら商人と思われる町名と家号がずらりと記されている。森琴石が育った伏見町は、諸学や諸国の諸情報がいち早く得られる環境にあった。

森琴石は、明治期の大阪で、いち早く銅版画を試み、地図(海陸図を含む)製作に携わるなど、化学や地図測量の知識や技術をどこかで習得していたようだ。「達爾頓式 生理書図」に携わるなど、多少の医学の知識も持ち合わせていたと思われる 注3。江戸末期に撮影したとされる、ガラス湿版写真版が森家に残る 注4。森琴石の儒学の師匠「妻鹿友樵」や、画の兄弟子「行徳玉江」を始めとし、森琴石の周辺には家業が医薬に携わる者や、藩医の子弟だった者が頗る多い。

 
注1
 

森 猪平
(文化3年〜安政4年(1806−1857)8月10日・享年52/幼名伊作・後猪平に改名)

『亡祖父(森定七) 第三回忌法要 到来物控』の裏表紙

★左は、天保8年(1837)『亡祖父(森定七) 第三回忌法要 到来物控』の裏表紙。
表向きは「2代目善蔵」を名乗るが、私事では「出石屋捨造/捨=(てへん+棄)蔵」と名乗り<出石を捨てた者>と、自身を揶揄した名前を使っている。

★森家故先代の話では・・・・仙石左京の家来で、天保6年出石藩で起きた仙石騒動での負け組みだった。騒動終着後浪人となり、大坂の身内を頼り、森善蔵の養子となった。「高麗橋」で旅館を営み、町役人を努めた事もあるらしい・・・・・・と聞く。森家控帖などの記述内容から、森琴石紹介や略年表にある 〔安治川で・・・〕 は、その先代及び先々代と思われ、誤認の可能性あり、現在調査中です。

★森猪平:当HPでの記述=「平成18年5月【4】◆末尾●2つ目」・「家族係累:森定七

 
注2
 

『諸藩 蔵屋敷}』 と 森琴石居宅 (文久3年時点)

『諸藩 蔵屋敷}』 と 森琴石居宅

元地図製作者=林 良雄氏(秋田大学教育文化学部 准教授)

林 良雄氏は、ホームページ 大阪 Osaka を公開されておられます。
その中 {古い地図:船場部分} の地図を使用させて頂きました。

 
注3
 

大日本海陸全図=「平成17年1月■4番目」・「平成18年4月【1】」・「平成18年6月【2】
長崎港略全図 など=「平成19年3月【1】
「達爾頓氏 生理書図 10冊」=「平成18年8月【3】 注2●2つ目 a

 
注4
 

ガラス湿版写真=「作品紹介−その他:幕末若者像」に、1点紹介


●同一写真の原版と紙焼したもの (少年の面差しを残している)

ガラス湿版写真 原版
ガラス湿版写真 左を紙焼きしたもの

原版

左を紙焼きしたもの



●自身の作品を背景に絵筆をとっている

左を紙焼きしたもの 原版

原版

 


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