森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成18年(4月)

【1】

明治19年1月に再版された、森琴石編・響泉堂刻の「大日本海陸全図 注1」がフランス国立図書館に所蔵されている。これは平成16年10月から平成17年1月にかけて、日本海呼称について、外務省が行った調査リストに記載されたもの 注2。同地図の初版は明治10年3月である 注3

森琴石とフランスとの接点は、明治33年、巴里万国博覧会 注4に「嵐山雨景」を出品している。作品はその後お買い上げとなった。目下それ以外は不詳。

 
 
注1
 

「新鐫 大日本海陸全図 全」



森琴石著 「新鐫 大日本海陸全図  附朝鮮琉球図 全」 の内一部分

奥附
明治10年3月23日版権免許・同8月出版(1877)
編輯人:大坂府平民 森琴石
出版人:大坂 : 小川新助&岡田茂兵衛
銅版, 色刷:71cm×145cm (森家分:折りたたみ時=24.0x16.7cm) 
「日本海」名称該当箇所は、地図タイトル下、ピンク枠(14cmx18cm)内、中ほど
 
 
注2
 

仏国立図書館が所蔵する地図のうち、16世紀から19世紀の間に主にヨーロッパで発行された地図において、日本海域の名称がどのように記載されているかについて、同図書館に所蔵されている、16世紀から19世紀の間に発行された地図515枚を調査したもの。

●詳細は外務省案内 の下記項目からご覧ください。

仏国立図書館所蔵地図に関する調査
概要=日本海呼称問題(仏国立図書館の地図に関する調査)
地図リスト(PDF形式)
 *地図整理番号. 発行年=GeFF 15130 1886=全365頁中、323頁目
 *地図の名称・地図の制作者又は発行者

 
Dainippon Kairiku Zen-du (carte du Japon)
大日本海陸全図・附朝鮮琉球全図、明治十年三月二十三日版権免許、同十九年一月再版御届、明治十九年三月 出版、編集人・森琴石、出版人・岡田茂兵衛、響泉堂銅
   

注3

 

明治10年刊の同地図については「平成16年7月」・「平成17年1月 ■末尾」に記述があります。

同地図は、大阪府立中之島図書館関西大学附属図書館京都大学附属図書館
神戸市立博物館佐賀大学附属図書館北海道大学附属図書館
九州大学附属図書館:記録資料館-九州文化史資料部門「長沼文庫」に所蔵されています。

*明治10年刊の地図は、明治19年及び明治23年に再版されたが、明治23年刊は出版人が青木恒三郎になっている。

 

注4

巴里(パリ)万国博覧会=「平成16年9月 注4」に記述があります。
 
【2】

明治26年、東京芝の「天徳寺 注1」で描いた「釈迦如来像」の森琴石のスケッチ画を先月度でご紹介したが、芝天徳寺は、東京都港区虎ノ門に所在し、出雲・津山・福井藩主の松平家の菩提寺でもある。この3つの地域は森琴石とは非常に関りが深く、当ホームページでも度々取り上げている。

森琴石がスケッチした「釈迦如来像」は、明治21年、スリランカの建国の父と称されるダルマパーラ氏が、シカゴ万国宗教会議から持参し、天徳寺でご開帳された。釈迦如来像は当時大変話題を呼び、佐野常民や土方久元・榎本武楊などの名士の訪問が絶えなかったという 注2

森琴石は、佐野常民が会頭を務める日本美術協会での活躍が著しい。森家には日本美術協会で受賞した各種賞牌・賞状や 注3、佐野常民が創始した「日本赤十字社」のメダルなどが所在する。明治36年大阪で開催された、第5回内国勧業博覧会の行事で、日本美術協会大阪支部が開催した「豊公遺物展覧会 注4」には「聚楽第図屏風」一双を展示した。開催場所は同支部が主催した瓢箪の展示「千瓢賞餘」と同じ「泉布観」である。

福井藩主の「松平慶永(春嶽)」は、先月度にご紹介した「断魚渓題詠集」にも和歌を寄せ、松江藩第十一代「松平直亮」は、下記【2】に記述の「豊公遺物品展覧会」に出品しており、出雲地方の美術工芸の振興に務めた、松江藩第七代藩主の「松平治卿(不昧)」は、茶道「不昧流」を開き、玉湯町の布志名焼 注5 を特に好み、茶の湯に合った陶器作製を奨励した。

明治17年1月、森琴石は玉湯町布志名にて、茶器に染め付けをした 注6

 
 
注1
  天徳寺

昭和新撰江戸札所
浄土宗江戸四ヶ寺の一つで、天文二年(1533)増上寺七世親誉称念上人の開創により、初め紅葉山にあり、天正十三年(1585)桜田霞ヶ関に移り、天正十八年(1590)徳川家康公江戸入城開幕と共に行われた江戸城拡張のため、慶長十六年(1611)現在の地に替地を賜って移る。将軍家、越前、出雲松平家等、数十藩主の菩提寺として幕末におよぶ

天徳寺では10月19日が称念上人の開山基に当たる。
天徳寺では、関東大震災や太平洋大戦などにより、明治26年当時の記録資料は皆無との事。
 
福井には森琴石の3度目の妻「ヤス(鯖江出身)」の親戚縁者「山田・一色・山崎・北村家」などがいた。士族が多い。森家と福井は、森琴石とヤスとの間に子がなかった関係で、琴石歿後から次第に疎遠となり、またヤス歿後は特に疎遠となった。
*舩田舩岳の妻「延子」が、ヤスの姪→舩田舩岳の日誌(福井の親族が記述)。
岡山県津山や美作は、森琴石の岡山県での教科書・地誌での足跡が見られる。森琴石の第七回忌遺墨展に森家ゆかりの「森祐順」が森琴石の画を2点展覧している。祐順の人物像については情報が無いが、著書「点取交通論」(佐田介石述・森祐順等校・東京 :大伴義正出版・ 明治16年)などは、出版者の「大伴義正」(新見関家の子が大伴義正の養子・新見関家は津山藩森家の一族)など、今後の手がかりとなる。森祐順著書=「平成17年11月【2】注6」。
 
注2
 

ダルマパーラの人物像・釈迦如来像の由来などについては上記佐藤氏のホームページで詳細に記述されています。

文章及び下右写真は佐藤哲朗氏のHPより引用させて頂きました

佐藤哲朗氏(東京都渋谷区)作成のホームページ
「大アジア思想活劇 総目次」
<第七章 ダルマパーラ二度目の来日・▼<日本仏教徒からの贈り物] > より

   
 

芝天徳寺 釈迦如来図

(画像=佐藤哲朗氏HPより)
ダルマパーラ氏とブッダガヤ出土の仏像

  右写真にある仏像を、森琴石がスケッチした (明治26年10月)
 
土方久元=「平成17年6月■2番目 注6」・近藤翠石著「支那漫遊図録」の書揮毫者
榎本武楊=雅友・知友「池田正信」の縁戚者
   

注3

  森家に残る日本美術協会の賞牌、賞状など
 

明22(1889)日本美術協会、美術展覧会 5/5銅章銅メダル賞状
明22(1889)日本美術協会、会頭総裁:子爵佐野常民山水牧童図褒状
明23(1890)日本美術協会、絵画展覧会銅章銅メダル
明26(1893)第1回日本美術協会、大阪支会展覧会 2/29「波涛図」銀牌賞状
明29(1896)日本美術協会、絵画研究会大会賞朱盃
明33(1900)皇太子御成婚祝賀・献納 5/10「松鶴山水図」感謝状
明34(1901)日本美術協会、美術展覧会 6/22「秋景山水図」2等銀牌、賞状
明36(1903)内閣賞勲局 銀盃(11月)
大 2(1913)帝室技芸員を拝命
大 6(1917)日本美術協会、第1部委員嘱託 12/25嘱託状
大 7(1918)日本美術協会、第1部委員嘱託 2/9嘱託通知状

   

注4

  豊公遺物展覧会(概要)=「豊公遺物展覧会出品目録」による
期間:明治36年3月1日~7月31日
場所:川崎御料地泉布観
目的:古美術工芸の保存発達を奨励する為
(第五回勧業博覧会の開催を機とし当地に最も縁故ある豊太閤の遺物及び、その関係ある諸家の事物を広く蒐集し名づけた)
出品者:(出品遺物品名・住所は省略する)

東京帝国博物館・公爵池田章政・侯爵池田仲博・泉由次郎・池上治三郎
伊藤清助・飯田松次郎・井上勝彦・伊木忠愛・西村庄兵衛・侯爵細川護成
堀之内高潔・伯爵藤堂高虎・徳弘太無(高知)・友淵楠麻呂・大橋平右衛門(岡山)
小幡重吉・大利鹿蔵・岡本喜兵衛・岡本福孝・渡邊叉三郎・若月貫一・
和田直資・子爵加藤泰秋・川村顕往・嘉納治兵衛(兵庫御影の酒造家)・堅田少輔・
筧半兵衛・片岡利一郎・河野五左衛門・侯爵伊達宗徳・侯爵伊達宗基・
子爵田中光顯・高崎親章・谷森善臣・谷森眞男・高田源四郎・玉井久次郎・
高橋正意・谷友三郎・田中楢次郎・高田邦三郎・高橋諸隋・土井邦吉・中井芦郷・
長野吉兵衛・中村利恭・長澤常山・成田クニ・中村雅眞・仲田傳之松(愛媛)
中宮平兵衛・内田幸助・上野理一・野村米太郎・黒田長成・子爵黒田長敬・
桑原羊次郎・国枝虎助・草間繁蔵・久保貢・侯爵山内豊景・安井武蔵・
山口忠敬・山本憲(播磨鍋展示・一致帖)・山村栄吉・山村直心・保田元義・
侯爵前田利同・侯爵松平直亮・子爵松平親信松平家晃松本幹一舩田舩岳日誌)・益田孝・下條正雄・子爵福間孝悌・藤田傳三郎・福間富蔵・
藤原宗七・深田與三郎・福井藤九郎・藤木喜兵衛・二見金助・侯爵近衛篤麿・
子爵五嶋盛光・薦田理兵衛・寺村庄三郎・子爵秋元興朝・伯爵佐野常羽
伯爵眞田幸民・子爵榊原政敬・阪井瓢亭・子爵木下俊哲・木村静幽・
男爵北畠治房・伯爵溝口直正・宮部鐵雄・嶋豊次郎・渋谷史春・鹿田静七
進藤重知・七里子濤・平瀬亀之輔・久留弘毅

奥附:日本美術協会大阪支会・一萬堂印刷・明治36年7月31日発行)

緑色文字は「千瓢賞餘」にも氏名が出る。嘉納治兵衛は明治当時、森家の身内と言われていた。

 

注5

 

布志名(ふじな)焼 と森琴石

安永9年(1780)、松江藩が御用窯楽山窯から土屋善四郎芳方を焼き物振興のため布志名へ派遣して窯を築かせ、地元の窯を指導させた。二代善四郎政芳は松平不昧公の愛護を受けて数々の名器を焼いた功により「雲善」の号を賜り御用窯を確立させた。

琴石が染付けした茶碗は、江戸末期松江藩の御用窯として栄えた「雲永窯・永原雲永」の元で焼かれたもの。明治17年に全国的な経済不安や種々のトラブルにみまわれ、「雲永窯」はその後廃窯となった。森琴石が染付けした雲永窯での黄釉薬による布志名焼きは、雲永窯が廃窯になる直前のもの。
玉湯町出雲立玉作資料館 のホームページに記事を掲載いただいています)
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土屋、永原の藩窯、不昧公については下記アドレスでご覧ください。
http://www2.pref.shimane.jp/brand/kougei/kougei_05.html

森琴石が染付けした「布志名焼染付け茶椀」を鑑定いただいた「土屋善四郎」氏は、「土屋善四郎芳方」から数えて第九代目に当たります。



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