森琴石(もりきんせき)1843~1921

索引・略伝

◆当HP内での記述、森家調査で名が出る、名称・事象などの索引及び、人物の略伝を紹介します。
調査情報などでの記述と重複している事があります。
◆「門人紹介(一覧)」・「雅友・知友(一覧)」・「関連資料(一覧)」などでの掲載人物は、現在一部を除き「索引・略伝」には掲載出来ていませんが、順次追加の予定です。
◆準備時間や資料不足の為、掲載順序については無作為な方法を取り、追加は随時していきます。
◆森琴石の親交者や、影響を深く受けた人物であっても、知名度の高い人物については「師匠・先輩達」「雅友・知友」では取り上げず、略伝のみの紹介が多々あります。



お断り

●「索引・略伝」は、平成18年秋~平成22年7月27日まで中断しています。左期間中のものは、もともと当項目では更新日を記していなかった事、また事故により、森家作成の原稿データが消失した事などから、更新日を記す事が出来なくなりました。
●「平成23年5月」でお知らせしましたが、当HPをCD化するに当り、時間と人手不足の為、平成23年6月以降に追加のものからは、例外を除いては略伝は省略し、索引のみとさせて頂きます。 



項目内で使用度の多い資料名

1:「内国絵画共進会審査報告 明治15年」(第2冊目・農商務省博覧會掛版・明治16年9月)
2:「内国絵画共進会出品人略譜」(農商務省版・国文社刊・明治17年5月)
3:「姿態横生」(日本中央南宗画会刊・明治44年7月)=渡辺淑寛氏(栃木県真岡市)よりご寄贈頂きました。
4:「畫家小傳」(小倉市大阪町 南畫同志會蔵版・明治45年2月)
5:「明治画史 大正画家列伝 乾坤」(福間硯洲著・富田文陽堂発行・大正2年6月)
6:「浪華摘英」・「続浪華摘英」(発行兼編纂 三島聴恵・大正5年12月)=大塚融氏(元NHK記者・数寄者研究家・経営史研究家)よりご提供頂きました。
7:「大阪人物誌 正編」(石田誠太郎著・石田文庫・昭和2年)
8:「大阪人物誌 続編」(石田誠太郎著・石田文庫・昭和11年)
9:「増補 古今日本書画名家辞典」(玉椿荘楽只著・大文館発行・昭和14年)
10:「日本美術辞典」(野間清六,谷信一編・東京堂・昭和27年)
11:「大日本書画名家大鑑」(荒木矩著・第一書房発行・昭和50年1月)
12:漢文学者総覧「長澤矩也監修,長澤孝三編・汲古書院・昭和54年」
13:「佐賀 幕末・明治500人」(福岡博編・佐賀新聞社発行・平成10年12月第2版)
14:「大阪人物辞典」=(三善貞司著・清文堂刊・平成12年)
15:その他「広辞苑」など

:「佐賀 幕末・明治500人」は、佐賀新聞社のご好意により、当HPへの掲載を許諾頂いています。
:【大阪人物辞典】は、著者三善貞司氏のご好意により、当HPにのみ特別に掲載の許諾を頂いています。

愛山窯 (あいざんかま)

窯元家(砥部焼)

 

向井和平(号愛山)が開いた窯元。森琴石や胡鉄梅が逗留し、焼き物に染付した窯元。

HP内掲載箇所

平成16年11月■2番」・「平成16年12月■1番」・関連資料「砥部焼きと森琴石


会津 (あいづ)

地名(福島)

 

 

「関連資料:「ポンペと中野雪江」・索引「秋月永胤」・関連資料:「勤王画家 墾鉄操」・「家族・「入江穆遠


青木家 (あおきけ)

麻田藩主の家系

 

 

「家族:森定七


青木恒三郎 (あおき こうさぶろう)

出版人(大阪)




-後月略紹介-

 

「師匠・先輩:行徳玉江」・「平成18年4月【1】注3」・「平成18年8月【3】注2 b」・「平成18年11月 注5≪4≫&≪5≫


青木崇山堂 (あおきすうざんどう)

出版書肆(大阪)

 

青木恒三郎が経営した出版書肆。

 

平成17年12月 注2,3


青木重斌 (あおき じゅうひん?)

漢詩家(逍遥游吟社メンバー)

 

 

平成17年8月 注9,10 大村楊城漢詩草稿(2)&◆逍遥游吟社メンバー


青山観水 (あおやま かんすい)

画家

天保元年~明治33年(1830~1900)

江戸末期から明治期の画家。金沢に生まれる。名は忠次。吉田公均に学んで南宗画を描いた。明治37年(1894)から23年(19007月まで石川県立工業学校助教諭として勤める。同年7月24日に没した。享年71歳。

補足:青山観水は洋画を学んだこともあり(西洋風の図画教育を行うため)、明治期にアメリカに渡った洋画家「早田楽斎」を育てた。
伝歴=二木伸一郎氏 (石川県立美術館)

◆「石野香南」の師匠。後年、石野香南の漢詩の師「木蘇岐山」の大阪移転に伴い、大阪に移転し、森琴石に画を学んだ。

 

 

平成17年7月同 5月


明石 (あかし)

地名(兵庫)

 

森琴石の明石近辺のスケッチが残る。
明石市江井ヶ島は、森琴石親友「石橋雲来」が晩年に住んだ地。

 

関連資料「千瓢賞餘:兵庫-栗飯原常世・後藤常伴


赤志忠七 (あかし ちゅうしち)

出版人(大阪)

 

大阪で出版書肆「赤志忠雅堂」を手広く経営した。響泉堂刻「頼山陽外史小伝」(明治11年・伴源平編・高見岱閲)も、赤志忠七の出版。

 

平成17年4月注7の下●頼山陽・頼支峰」・ 「平成18年9月 注2,3,4,5※藤井幸三郎


赤松善應 (あかまつ ぜんおう)

画家

 

蔀関牛写図による 「文政新改 攝州大阪全圖」・「天保新改 攝洲大阪全圖」・「弘化新改 攝洲大阪全圖」の校正人。

 

平成18年8月【2】注7


赤松 渡 (あかまつ わたる)

医師・漢詩家・企業家・政治家

 

椋園の号で漢詩家としても有名。遠祖は播州赤松満祐といわれる。片山沖堂門下。文武両道、医術も習得し御殿医も勤めた。明治13年「蜂蟻社(マッチ製造)」の創設に参画。明治23年高松市初代市長に就任。病院や高松港を作り、美馬街道の拡張に尽力するなど辣腕振りを発揮する。明治29年に退任後は、香川県博物館*主事となる。明治42年~44年にかけて「香川県史」を完成させた。大正5年75歳歿。

美馬=関連資料「千瓢賞餘:徳島県 三宅舞邨」や、索引:「前田 半田」の出生地。

◆森琴石挿画・響泉堂刻 「題画彙寶 新撰書家自在 乾坤」(明治13年刊)の編者。
◆「水越耕南」との親交が見られ、「翰墨因縁」など同氏の著編書誌に良く名が出る。
◆明治初期の森家「控帖」には赤松姓の記名がある。
◆高松市歴史博物館には、森琴石の画が数点所蔵されており、市立図書館には「題画彙寶 新撰書家自在 乾坤」が所蔵されている。

 

平成16年7月 メモB」・「平成16年11月■2番目」・「平成17年10月【1】■3番目 注6


安芸 (あき)

地名(現広島)

 

◆森琴石が足跡を多く残した地(後月広島で取り上げる)

 

門人:広島-手島呉東(素岳)


秋田 (あきた)

地名

 

下記 索引:「秋田伝神画会」開催地。「佐久間舜一郎」の赴任先。「岸田吟香」が講義した地。

 

 


秋月胤永 (あきづき かずひさ)

教育者

 

会津若松藩士。幕末に活躍した教育者。通称:秋月悌次郎。小泉八雲とは熊本第五高等学校時代の同僚であった。

 

雅友・知友「大村楊城 交流者


秋田伝神画会 (あきた でんしん がかい)

絵画会

 

 

平成18年10月■2番目注2」・門人:島根県「伊藤石僊」・大阪市北区「鎌田梅石」(未)・略伝「小田半溪


秋山恕卿 (あきやま じょけい?)

政治家

 

非常な努力家で、巡査より身を起こし、兵庫県書記官、山口県令など努めた。他に石川県中属兼級判事補・富山裁判支庁長など歴任(歴任年は順不同)。
―兵庫県人物評(公評散史著・神戸同盟出版・明治25~29) 他―

 

雅友・知友「大村楊城 交流者


秋山光彪 (あきやま こうひょう)

国学者

 

徳川末期の国学者。小倉藩士。「佐久間舜一郎」の父で、歌人「佐久間果 園」の師匠。

 

平成16年3月注5-佐久間舜一郎略伝


明田月樵 (あけた げっしょう)

画家

 

森琴石若年期からの門人・森家の明治初期~大正初期までの「控帖」に名が出る。

 

門人:大阪市西区「明田月樵」・「平成16年7月■2番目」・索引「石川逸翁◆


安倉 (あくら)

地名(兵庫)

 

現兵庫県宝塚市。森琴石門下「田川春荘」の居住地・森琴石次兄の養子先。

 

門人:兵庫「田川春荘」・家族「実父 梶木源次郎


浅井吉兵衛 (あさい きちべえ)

出版人(大阪)

 

響泉堂刻「掌中 日本全図」(森琴石著/浅井吉兵衛・梅原亀七・前川源七郎 出版/明治9年)の出版人の一人。

 

リンク情報:「地図 岐阜県図書館」「先輩:行徳玉江(五)の出版人」


浅井柳塘 (あさい りゅうとう)

画家

 

日本画家。阿波生。幼名は永吉、名は龍、字は子祥、別号に小白・長田・白山等。初めは百々広年に四条派を学び、のち谷口藹山・貫名海屋に師事する。また長崎に赴き、中国人徐雨亭から南画を学ぶ。山水・詩文に優れた。明治40年(1907)歿、66才。   -思文閣-

◆貫名海屋は森琴石師匠「忍頂寺静村」の師匠。琴石の周辺には「徐雨亭」との交流者が多い。森家小画帖・2曲1隻貼交小屏風、森琴石著「名家画帖」や画帖への揮毫者・森琴石控帖に住所のメモ書きあり。

 

 

平成15年12月


浅尾騒動 (あさお そうどう)

倉敷で起こった事件

 

 

平成16年7月■2番注1」・「関連資料:千瓢賞餘 岡山県-大橋平右衛門」


朝岡 (あさおか)

 

 

大阪市北区に住む。森琴石の日誌には、明治42年7月31日未明に起きた「北の大火」で類焼したとの記述がある。森琴石の絵画を購入したり、他の画家の箱書や鑑定を依頼する。
日誌には頻繁に「朝岡姓」が出るが名前は不明。

 


安積艮斎 (あさか ごんさい)

儒学者

 

1791(寛政 3. 3. 2)~1860(万延元.11.21)

◇江戸後期の儒学者(朱子学)。 艮斎は奥州二本松の人にして、名は重信(しげのぶ゙)、字は恩順、通称は祐助、別号は見山楼。奥州安積郡郡山八幡社の祠官親重の子なり。幼より読書を好み、二本松藩儒今泉、八木の諸氏に学び頭角をあらわす。
16歳の時、近村の里今泉氏の婿となり、その女に嫌わる。艮斎発奮単身江戸に奔り、佐藤一斎の従僕となり、薪水の労に服し、刻苦勉励、睡眠を催せば。煙草の脂を眼に塗りて自警す。
21歳の時初めて帷を神田駿河台に下し、徒に授く。
その文、艶麗富贍にして自ら一家の機軸を出す。
41才の時「文略三巻」を刻し、名声頓に海内に震い、文章をいうもの先ず指を艮斎に屈す。
後、丹羽候文学。二本松藩学教授、昌平黌教授たり。
著書頗る多し、万延元年11月21日歿す、年76.   ―大日本書画名家大鑑―

 

 

◆響泉堂刻「近古史伝 上下」 (明治12年5月出版)の著者の一人。雨森精斎(精翁)、「山本憲(梅涯)」の父「山本竹渓」の師匠。

平成17年 1月■2番目注3」・ 「平成17年6月■3番目注6 山本憲」・「平成18年12月 ◆南画独学揮毫自在 雨森精斎」・索引「雨森精斎


麻田村 (あさだ むら)

地名

 

森琴石2代前の森家に養子に入った「森善蔵」の居住地。

 

「家族:森定七


浅野仙太郎 (あさの せんたろう)

経営者・出版人

 

有馬温泉 -奥の坊- 経営。明治23年「改正増補 有馬温泉記」の出版人。

 

平成16年2月 注1」・「家族:梶木源次郎


浅野半六 (あさの はんろく)

経営者・出版人

 

有馬温泉 -奥の坊- 経営。明治18年「有馬温泉記」の出版人。

 

平成16年2月 注1」・家族:「梶木源次郎


旭焼 (あさひ やき)

 

 

明治17年(1884)、ドイツ人ワグネルが、「江戸川陶器製造所」で新樣陶器の焼成を指導して生み出した陶器。初め吾妻焼と称した。釉下着画が特色。

 

平成19年2月【1】注4


朝日新聞 (あさひ しんぶん)

 

 

明治12年(1879年)1月25日:大阪で創刊されたのが始まり。経営者は村山龍平・上野理一
明治21年:「めさまし新聞」を買収し「東京朝日新聞」を創刊
明治22年:大阪朝日新聞と改称
上野理一=明治36年3月1日より大阪の泉布観で開催された「豊公遺物展覧会」に出品=平成18年4月【2】注4 の中ほどに名)

 

 

当HP記載ヵ所

朝日新聞記事

1:大村楊城翁訃報記事・・・・ 大正2年8月23日 朝刊
2:「渡初の大賑ひ」・・・大正4年5月23日 朝刊第9面
3:陳コレクション(滋賀県立大学)・・・1996年2月6日夕刊
4:歌麿の版木確認(鳥取 渡辺美術館)・・・・2002年6月15日

朝日新聞記者

*磯野秋渚(大村楊城交流者)
*天野皎
*未記述「関徳(遂軒)」など、後月複数記載予定




雅友・知友:大村楊城(ニ)・関連資料:難波橋渡り初め儀式・「平成16年10月」・「平成17年3月注1


朝吹英二 (あさぶき えいじ)

実業家

 

 

◆福澤諭吉の甥。三井の四天王と称された。因みに森琴石長男「雄二」は勤務先が三井銀行。

 

平成18年5月【4】注3」・「平成18年6月【1】■6番目


足利義尚 (あしかが よしひさ)

将軍

 

足利義政の子。母は日野富子。室町幕府第9代将軍。正室は日野勝光の娘。

◆堀家が仕えた将軍。堀家=堀春譚(井上勤の弟)の家系。

 

平成15年3月 ◆3つ目 堀春譚での記述」


蘆田文庫 (芦田文庫 あしだぶんこ)

古地図コレクションの名称

 

明治大学図書館にある古地図コレクション

響泉堂刻地図が所蔵されている
1:「実測 大阪市街全図  全(元題簽) 」(大阪府地理課編/響泉堂刻/明治18年1月)
2:「改正 大阪府管内地誌略図 全(元題簽)(石井鈎三郎著/響泉堂刻/ 明治11年9月)
3:「大日本九洲一覽之図 全(元題簽)(森琴石編輯/響泉堂刻/ 明治10年4月刻成)

 

平成18年9月【1】注6:「岡山県市町村制区域三国全図」


芦屋 (あしや)

地名(兵庫)

 

関西の奥座敷と言われ、森琴石の出生地有馬に近い。「山中春篁堂」や「芦屋市美術博物館」が所在する。

 

「展示情報:平成18年10/7~11/19 &平成13年10/6~11/18」・「平成12年12月◆5番目」・「平成18年10月【1】注4,5半ば手前


足羽郡 (あすわぐん)

地名(福井県)

 

響泉堂刻 地図の出版地

「福井県全図」(岩佐静夫著・酒井安兵衛出版・響泉堂刻・明治15年)
「若越両国全図」(岩佐静夫編・酒井安兵衛出版・響泉堂銅刻・明治16年 )

 

平成17年5月■4番注2,3 b


足立敬亭 (あだち けいてい)

漢学者

 

名は清三敬亭と號す、古情人は其の別號なり。
安政4年2月22日榎津町に生る。 明治7年佐賀藩鹿島なる谷口中秋に漢学を学び、同16年京都に遊び石津灌園に師事して漢詩を修め、傍ら菊池三溪に経詩を学びて得る所あり。
人となり温厚、世事を顧みず読書に親しみて常に巻を離さず。詩文を能くす、殊に詩才に長じ興至れば立つところに成る。
大正10年6月30日歿す、年65.光源寺先犖に葬る。明治10年東京管城舎より発刊されたる古今名家詩鈔に一絶あり。(漢詩は省略します) 

―「明治維新以後の長崎」(著者兼発行者:長崎市小学校職員会/大正14年11月10日)―

 

 

◆石津灌園の弟子。岡田篁所、篁石父子と交流あり。

◆「鶴鳴吟社」会員の一人=常陸:棚谷桂陰/豊後:奥井穆堂/筑後:若林米陽/安芸:小林緑村/平戸:山田海窓/島原:本田玄谷・田中魁南/土着:守山春農・岡田篁石・犬塚梅荘・足立敬亭

-長崎古今学芸書画博覧(図書刊行会編輯発行/大正8年7月23日)-

◆孫の「足立巻一」氏による「虹滅記 こうめつき」(初山有恒発行/発行所:朝日新聞/1982年/日本エッセイストクラブ賞受賞)では、祖父足立敬亭の生い立ちやその生涯、当時の漢学者の貧しい暮らしぶり、依田学海に自著の稿本に、しきりと刪正を求めていたエピソードなども綴られている。

雅友・知友「石津灌園


阿淡偉人小伝 (あたんいじんしょうでん)

書誌名

 

井後麒三郎が大正12年に出版した、阿淡人物伝。序文:阿部宇之八、識:福田天外、題字:蜂須賀茂韶公爵。・・・・・・福田天外=雅友知友:福田宇中


阿淡=阿波(徳島)と淡路2国を併せた名称。徳島藩第2代藩主「蜂須賀至鎮」は大阪冬の陣の功により,元和元年(1615)淡路国7万180石が加増された。以後,蜂須賀家(徳島藩)は阿波・淡路の2国を支配、阿淡は徳島藩の管轄であった。

 

平成17年1月■2番 注6,7


熱田 (あつた)

地名(愛知)

 

関連資料「墾鉄操」:略伝の中、禅僧「鰲巓禅師(ごうてん ぜんし)の生地。加納黄文の師匠「野村玉溪」の生地。

 

索引:加納黄文(ニ)」・「関連資料:勤皇家 墾鉄操 略伝


跡見花蹊 (あとみ かけい)

画家・教育者

 

天保11年(1840)大坂生まれ。父は木津村の歌人跡見重敬、その次女。

名は滝野、別号木花・不言・西成など。幼児から鋭敏、五歳で孝経を暗誦、七歳の時近所の酒屋に頼まれ、槻の一枚板に「亀の井」と大書して評判になったとの逸話がある。
石垣東山に入門、円山派の画風に染まり、扇面・屏風・襖絵などの依頼が相次いだ。
安政3年(1856)京に遊学、宮原節庵に詩文と書道を学び、これも若年にして熟達する。

父重敬は女子教育の先駆者で、大阪市中之島に私塾を開いて女子教育に精励したが、安政6年(1859)京の姉小路家に仕官したため彼女が継ぎ、慶応3年(1867)京都に、明治3年(1870)東京に移ってからは、何度も御用揮毫を務め才媛の誉れを高めた。同8年猿楽町に跡見女学校を創設、皇族・華族等上流子女の教育に入る。

大正8年(1919)79歳で養女李子に学校経営を譲り名誉校長になるまで、実に44年間先頭に立って女子教育に専念した功績は計り知れない。生涯独身。晩年は経を読み詩歌を詠じ、書画に執筆、特に山水花鳥に傑作を残している。大正15年(1926)1月、86歳歿。

★北京故宮博物院の、ネット博物苑「故宮所蔵の日本文物展:絵画」には、跡見滝の 『花卉図』一冊(1871年/絹本着色)が、「清宮廷旧蔵」として所蔵されている。

森琴石=書籍の部で「南画独学揮毫自在」が所蔵。・・・・・・・・・・・・・・・

 

平成18年12月【1】注1,2


吾妻健三郎 (あづま けんざぶろう)

実業家・美術家

 

 

平成18年8月【3】・「平成19年2月」・「関連資料:絵画叢誌 記事


阿南竹陀 (あなん ちくだ)

画家

 

名ハ衡、字ハ子き(王+幾)、通稱友彦、竹陀ハ其ノ號ナリ、元治元年二月豊後竹田ニ生ル、本性羽田野 故アリテ阿南氏ヲ冒ス、幼ニシテ學ヲ好ミ、贄ヲ寺井源五郎ノ門ニ執ル、叉書畫ヲ愛シ、書ハ入田批雲ヲ師トシ、畫ハ淵野桂僊ヲ師トシ、後長崎ニ移住スルニ及ヒ、更ニ書ヲ清客、尤文欽ニ、畫ヲ守山湘帆ニ學ヒ、傍ラ元明諸家ノ墨蹟ヲ臨募ス、曾テ清國ニ航シ、蘇杭ノ間ニ遊フコト塁月、蓋シ亦畫ノ淵源ヲ探求スルニ外ナラサルナリ。(長崎市東上町)  -「姿態横生」-

◆明治42年春、阿南竹陀・吉嗣拝山・森琴石との合作画あり


阿部勝忠 (あべ かつただ)

販売書肆(岡山)

 

―略伝は後月―

◆響泉堂刻「「岡山県地誌略字類 全」(佐久間舜一郎著)などの、岡山での販売書肆。

 

平成18年9月【2】<岡山県地誌略字類 全>


天岡均一 (あまおか きんいち)

画家

雅友・知友:「天岡均一


尼崎新田 (あまがさき しんでん)

江戸期の開墾田・地名(大阪)

 

 

門人「泉州・河内:毛受楽斉」・関連資料「尼の毛受さん


天野皎 (あまの あきら)

教育者・実業家

 

天野氏、名は皎、幼名祐太郎、別に鐵腕と号す、江戸の人、世々徳川幕府に仕ふ、
幼より学を好みて業を長谷部甚弥に受け又書法を石川潭香に学ぶ、
明治6年東京師範学校を卒業して大阪師範学校本科教師を命ぜらる、後ち奈良県五条師範学校校長・神戸師範学校校長等を歴任し、13年大阪商業会議所書記となる。
14年大阪府御用掛となり大阪測候所長・大阪商業講習所長等を兼ね、19年府立大阪博物場長に専任せらる。是に於て専ら心を美術の奨励に致し、兼ねて薀蓄せる智職を以て美術館を創設す。又率先唱導して城南今宮村に大阪商業倶楽部の開設を企画する等大に浪華文化の発展に力を尽くせり。

24年大阪朝日新聞に入りて編輯の事務に従い、25年臨時博覧会事務局監査官となり、26年閣龍世界博覧会事務の為に米国シカゴに赴き其博覧会の審査官に任ぜらる。
27年日清戦役の起るや第ニ軍に従うて能く其任務に務む。
30年遂に朝日新聞社を辞し、更に日本製鋼株式会社長となり、幾もなく病を獲て武庫郡住吉村の客舎に歿す。

人と為り堅忍剛毅博学宏識、能く詩文を属し尤も書法に長ず。殊に美術に関する造詣深く斯道の為に貢献する所蓋し鮮少ならず、嗣子徳三嘗て職を大阪朝日新聞社に奉ぜり

著書:入清日記その他一
歿年:明治30年10月16日 行年47歳 (墓所・碑文は省略)

―大阪人物誌 続編―

 

★浪華学画会発足時のメンバー(宮崎銕幹・天野皎・樋口三郎兵衛・森琴石・矢野五州ら)でもある。
★森琴石の周辺には、大阪師範学校・神戸師範学校に任務した人物が多く、大阪博物場では、絵画会の開催など、森琴石と天野氏との関わりは少なからずあったと思われる。

著書

「博物図教授法」( 山口松次郎他/竜章堂/明9,10)
「小学博物書. 首巻,巻之3」(天野皎/竜章堂/明10.2)
「養生談」(天野皎/ 池上儀八他/明11.10)
「小学口授物品談 」(天野皎/池上儀八等/ 明12.3)
「人の了簡違. 上,次編」≪天野皎(香雪居士)/天野皎/明12≫
「英国衛生条例 」(天野皎/阪根達郎/明15.12)
「工業小学. 巻之1」( 天野皎/ 晩翠書楼/明15.7)
「明治改正新撰唱歌集. 巻之1」(山田淳子[他]/東崖堂/明20.1)
「入清日記その他」(鉄腕天野皎他/壷外書屋/昭和4)

平成18年10月注5,6」


尼の毛受さん (あまのめんじゅさん)

(森琴石門下、毛受家の)呼称

 

 

門人「泉州・河内:毛受楽斉」・関連資料「尼の毛受さん


天野嗽石 (あまの そうせき)=天野漱石 

画家

 

天保8年(1837)~歿年不肖

松江宇賀明王院の天野快翁の次男。名は静、字は修郷。初号は燕石、改号して松湖・嗽石・墨魔居士といった。初め「近藤桃江」に入門し、後金子雪操に学んだ。花鳥画を得意とし、明治17年(1884)第二回内国絵画共進会に、山水・花鳥を出品している。諸国を游歴し、一時松山にも住んだとされる。―「島根画人伝」(桑原羊次郎著/島根県美術協会/昭和10年)―

◆「佐藤愛山」の師匠。寺西易堂は明治14年夏、天野嗽石と同行し、佐藤愛山を訪問した。

 

平成19年4月【2】注2


天野方壺 (あまの ほうこ)

画家

天保元年~明治33年(1830~1900)

文政七年松山藩の三津浜に生まれ、画の指導を森田樵眠・中林竹洞・土佐光孚・貫名海屋・日根対山・椿椿山・橋本雪蕉・木下逸雲・胡公寿に学ぶ。胡公寿には1年間学んだ。京都府画学校に出仕するなど京都を拠点に活動した。生涯の大半を各地を漫遊、その勝景・奇景を写生し、また古社寺や富豪の愛蔵する古画を模写して画道修業を続けた。画号は年代や遊歴場所などにより多数を使用した。富岡鉄斎からも「画匠」として敬愛されていたという。「大橋翠石」は数少ない門下の一人。

(梶岡秀一著「文人画家天野方壺履歴の概説」愛媛県美術館研究紀要 第3号抜刷・2004年3月31日 などによる)

◆森琴石とは交流がかなりあった。明治8,9年頃の森家の小画帖に住所などのメモがあり、転居祝いの小屏風や、森琴石著「名家画帖」に揮毫するなど交流の足跡を残している。また森琴石とは、武生の同一逗留先での同じ画帖に「胡鉄梅」「長尾雨山」などと共に揮毫している。
方壺の生地、松山の三津浜との関係は、同地に逗留して描いた森琴石の作品に「美津の魚市場」がある。

森泰石」は、森琴石に花鳥画を学んだ後、「大橋翠石」を師匠とした。大橋翠石は、天野方壺の唯一の門下生とされる。

胡公寿を尊敬し交流した森琴石は、同氏から「詩書画三絶」との賞賛を受けるなど、天野方壺とは強力なネットワークで結ばれていたようだ。

 

 

平成14年7月

平成15年12月■1番目」・「平成16年10月■第3番目」・「平成17年6月■4番目◆1番目」・「平成20年2月【2】注4、注5」・「平成21年8月【1】■3番目注1


雨森精斎 (あめのもり せいさい)

儒者

 

漢学者。文政5年(1822)生まれ。名は謙、出雲生まれ、松江藩儒者妹尾清左衛門の子。大坂に出て篠崎小竹、藤澤東畡に学び異才を発揮した。更に江戸の昌平黌に入り、安積艮斎に師事、帰藩して雨森姓を藩主より受け、儒学教授を勤める。明治維新前後の藩政改革に尽くし、新政府教部省にも出仕したこともある。
明治15年(1882)9月 60歳歿。

―大阪人物辞典―

★名は謙、通称謙三郎、字は君恭。号は精斎(翁)・老雨・鶯里・鶯谷・雨隠など。出雲の人。師匠は田村寧我・安積艮斎等。備考:本姓妹尾氏、松江藩儒。―漢文学者総覧―

★森琴石著出版「南画独学揮毫自在 四」の題字揮毫者 

 

平成15年8月■2番目」・「平成18年12月 ◆南画独学揮毫自在(四)


荒尾千葉之助 (あらお ちばのすけ)

鳥取藩家老

 

米子生まれの書家「児玉玉立」に、大勢の客の前で書の揮毫を求めた人物。

 

関連資料「児玉玉立 石碑碑文


荒木寛畝 (あらき かんぽ)

画家

 

―略伝は後月―

◆森琴石周辺に名が出る(詳細未調査)

 

舩田舩岳の日誌: 明治36年4月15日


荒木見悟 (あらき けんご)

学者

 

耶馬溪文庫:「耶馬溪文庫とその周辺」の筆者

 

平成18年6月 注2,4


墾 鉄操 (あらき てっそう)

画家

天保元年(1830)~明治30年3月1日(1897) 享年68

武富圯南(佐賀藩弘道館教授=森家祖母「梅子」の曽祖父)の門生

 

 

関連資料「勤皇家 墾 鉄操」・係累「武富圯南


有賀家 (ありが け)

歌人の家系

 

 

響泉堂刻で、有賀家の歌集の製作に関与

1:「麓の塵 増補版 4冊」=原著者:有賀長伯/相続人并校正増補:有賀長鄰/序文:有賀長収/出版:野村秀太郎/錦城書楼刊/響泉堂刻/明14年1月

2:「和歌 塵の麓 改正増補版 2冊」=原著者:有賀長伯/相続人并校正増補:有賀長鄰/序文:有賀長収/出版:野村秀太郎/錦城書楼刊/響泉堂刻/明14年1月

◆以下、有賀家の家系を年代降順に示します
(原文にある 墓所・碑文・附言は省略/一部当用漢字使用)



 

 

 

平成18年5月【2】

有賀長伯 (ありが ちょうはく)

歌人

 

有賀氏、名は長伯、別に以敬斎或は無曲軒と号す 京都の人なり 性国学を好み平間長雅の門に入りて苦学数年能く其幻妙に達して墜に一家をなす 特に和歌に長し常に諸国を游歴して名勝古跡を探り遂に歌枕秋の寝覚を著はし以て斬道に裨益する所あり来り学ぶもの甚だ多く 晩年浪華に移住せりと言う
歿年:元文二年六月ニ日 行年七十七歳

著書=歌枕秋の寝覚/増補歌枕秋の寝覚/歌林雑木抄/源氏掌中/秋葉集/秋葉忍草/春樹顕秘増抄/初学和歌式/長伯集/濱のまさこ/無曲軒家集/世々のしをり/世々のしをり追加/和歌麓の塵/和歌名所讀合/和歌八重垣/和歌八重垣分類

―大阪人物誌 正編―

 

有賀長因 (ありが ちょういん)

歌人

 

有賀氏、名は長因、別に敬義斎と號す、京都の人 有賀長伯の男なり 家学を父に受けて和歌を能くす 後浪華に移住し以て弟子に教授す
歿年=安永七年閏七月五日 行年六十七

―大阪人物誌 正編―

 

有賀長収 (ありが ちょうしゅう)

歌人

 

有賀氏、初名は長因後長収と改し、別に居貞斎の号あり 浪華の人 有賀長因の男にして 乃ち長伯の孫なり 父祖の家学を継承して和歌を能くし 浪華歌壇の明星を以て称せらる 従学するもの甚だ多し
歿年:文化十五年五月七日 行年六十三歳(又七十九)

―大阪人物誌 正編―

 

有賀長基 (ありが ながもと)

歌人

 

有賀氏、名は長基。別に義憤斎と号す、浪華の人 有賀長収の男にして長隣の父なり 歌学を伝えて敢て家声を失墜せず
歿年:天保四年正月八日 行年五十七歳

―大阪人物誌 正編―

 

有賀長隣 (ありが ながちか)

歌人

 

有賀氏、名は長隣、別に情所斎と号す 浪華の人 有賀長基の男なり 天満茶山に住し長伯以来世々歌学の伝燈を掲げて其名特に著はる 嘗て詠する所の歌に
―雲とみし世々の昔のはるかけてふりせぬ色の山さくらかな―
又住吉の浦を詠して―よる波の花にも春の海へとは見えてかすめる住よしの浦―
門下名をなすもの頗る多く晩年老を養ふて東京に移り遂に嗣子長雄の家に歿す
歿年:明治三十九年十月一日

―大阪人物誌 正編―

◆森琴石の時代の有賀家歌人。有賀長酔の名で、「一致帖」共に名が出る。

「関連資料:一致帖

有賀長雄 (ありが ながかつ)

学者

 

有賀長隣の男。万延元年(1860)大阪高麗橋二丁目で生まれる。法学者・社会学者・文学者。東京大学哲学科卒後、ドイツ・オーストリアで国法学などを学ぶ。日清・日露戦争には法律顧問として従軍。早大・陸軍大学校の教授も務めた。袁世凱の法律顧問となる。坪内逍遥とは東京大学での同期生。大正10年6月、61才歿。・・・・・―この分は「大阪人物辞典」など―

平成18年5月【2】


有栖川宮熾仁 (ありすがわみや たるひと)

四親王家のひとつ

 

京都紫野大徳寺付近の有栖川に、宮の墓所があったからその名がつく。熾仁(たるひと)は、有栖川家第九代親王(1835~1895)に当たる。

森琴石とは、「一致帖」で共に名が出る。大村楊城の交流者。田村宗立(月樵)が、銅版画で同氏の肖像画を作成している。

 

 

関連資料:「一致帖」・「大村楊城(三)」・索引「田村宗立


有田 (ありた)

地名(佐賀)

 

佐賀県西部、西松浦郡にある町。有田焼の産地。成富椿屋や藤田台厳が滞在し、有田焼に関わった。

 

平成17年4月■8つ目注2」・索引:「成富椿屋」・索引:藤田台石


有田絵画学校 (ありた かいががっこう)

 

 

佐賀藩が、有田焼の絵付け技術向上の為に設立した学校。

平成17年4月■8つ目注2」・索引:「成富椿屋


有田皿山創業調 (ありたさらやま そうぎょうしらべ)

史料名

 

有田焼の振興に尽力した「久米邦武」による、鍋島藩窯についての文献資料。鍋島藩政史の一つ。旧鍋島家内庫所蔵。

「係累:久米邦武」・「平成19年1月【1】注12


有馬郡 (ありまぐん)

地名(兵庫)

 

兵庫県南東部の旧郡名。有馬郡湯山村は、森琴石の生誕地。

 

 

森琴石紹介:略伝等・家族:梶木源次郎


有馬温泉 (ありまおんせん)

温泉地の名称

 

神戸市北区、六甲山北西麓にある温泉地。森琴石実父梶木源次郎(源治郎)が、江戸末期から旅館「中の坊」経営に携わった。

 

 

平成16年2月


有馬温泉記 (ありまおんせんき)

書誌名

 

江戸後期~明治中期の森家身内、浅野ニ氏による出版書物。

1:明治18年「有馬温泉記」=榎本義路著/浅野半六出版
2:明治23年「改正増補  有馬 温泉記」=榎本義路著/湯山町:浅野仙太郎出版

 

 

平成16年2月」・家族「実父:梶木源次郎」索引:浅野半六浅野仙太郎


有馬温泉誌 (ありまおんせんし)

書誌名

 

田中芳男が編した書物。

1:明24年「有馬温泉誌」=田中芳男編/竹中邦校/田中芳男出版/画中島仰山
2:明27年「校訂有馬温泉誌 全」=田中芳男編/竹中邦校/松岡義兵衛出版/画中島仰山

 

 

雅友・知友「田中芳男」など


有馬温泉史料 (ありまおんせんしりょう)

書誌名

 

「有馬温泉史料 上下巻」=風早恂・有馬温泉刊行委員会編著/発行者中村安考/名著出版/昭和63年)
梶木家など、有馬温泉に関わる者が持つ資料に基づいて、有馬温泉の史実を紹介。

 

 

家族「実父:梶木源次郎


有馬温泉 炭酸水 (ありまおんせん たんさんすい)

 

 

明治6年、森琴石実父「梶木源次郎」が発見した。明治40年日本初の炭酸飲料「有馬サイダー」が生まれる元となる。

 

 

平成16年2月」・家族:梶木源次郎 石碑碑文


有馬温泉炭酸水改良建築并市街図写真絵図

銅版画作品の名称

 

森琴石が明治16年、有馬温泉の為に、銅刻で作成したもの。有馬市街が、写真のように描かれている。図柄に多少の相違があるなど、幾つか種類があるようだ。

 

 

当HP:トップ頁の画像


有馬温泉冷温泉成分分析表 全

銅版画作品の名称

 

森琴石が、実父梶木源次郎に依頼され、明治9年に銅版製作したもの。 泉質の分析及び、銅版画での「有馬市街之図/冷泉之図/有馬物産略図」に加え、地図「大阪神戸 ヨリ 有馬道路の図」が添えられている。-有馬の名宝 図録 よりー 

◆梶木源治郎蔵とあり。

 

 

平成16年2月


有馬の名宝

展覧会図録の名称

 

平成10年(1998)、9/26~11/8まで、神戸市立博物館で開催された展覧会「特別展 有馬の名宝 -蘇生と遊興の文化-」の図録名。

 

 

展覧会:平成10年 9/26~11/7


安房 (あわ)

旧国名

 

今の千葉県南部。房州。

「米津菱江」の出生地であるが、千葉県の複数機関への問い合わせでは、米津姓は千葉県には余り存在せず、「阿波(徳島)」の間違いでは無いかとのご教示を頂きました。

 

 

「索引:米津菱江」・「画家系図:森琴石周辺の画家


阿波 (あわ)

旧国名

 

今の徳島県。粟の国。阿州。

森琴石の足跡が多く、森琴石周辺の人物に阿波出身の者が多い。

「平成15年11月」以外の、当HP阿波関連=雅友知友:「井上不鳴井上勤福田宇中前川謙岡本斯文」、師匠:妻鹿友樵の師匠の「勝瀬馬洲」、関連資料:千瓢賞餘―徳島県、索引:浅井柳塘、「平成15年3月 ◆3つ目 堀春譚

平成15年11月


粟井春泉 (あわい しゅんせん)

画家

 

森琴石晩年の弟子(門人:大阪市北区=未記述)。師匠「水原梅屋」没後、年数を得てから「小山雲泉」に学んだ。明治後期、森琴石は小山雲泉から画の指導を引き継いだようだ。

 

 


阿波国全図 (あわのくに ぜんず)

 

 

響泉堂刻の地図

「阿波国全図」=松本弘著編/世渡谷文吉出版/響泉堂刻 /明治10年

リンク:地図「阿波国全図


阿波国地誌略 (あわのくに ちしりゃく)

 

 

響泉堂刻の教科書

「阿波国地誌略」=前川謙編/高知県徳島師範学校/明治12年11月

「高知県徳島師範学校」の名称について=「平成17年10月【1】注1」に 記述しています

平成17年10月【1】」・「雅友:前川謙


淡路 (あわじ)

旧国名(兵庫)

 

今の兵庫県淡路島。淡州。森琴石周辺には、師匠の「忍頂寺静村」など、淡路出身や淡路にゆかりが深い人物が多い。森家には淡路に身内があった可能性があり、森琴石日誌には「洲本の森鉄五郎来る」という記述がある。森琴石妻「ヤス」の身内が、淡路島の医師の元に嫁いでいる。

◆当HP淡路関係掲載=佐野五明渓=雅友知友「大村楊城交流者」&「舩田舩岳日誌」・廣田剛=「舩田舩岳日誌&北野百年史」・広田竹次郎=雅友知友:「大村楊城交流者」&「北野百年史」・林双橋=「平成15年8月■2番目」&「平成18年12月【1】注3(四)」・関連資料「千瓢賞餘-兵庫県」・坂本(河野)葵園=「平成18年12月【1】◆南画独学揮毫自在(二)&下方★」に記述ヵ所あり

森琴石編、響泉堂刻地図=「大日本四国一覧之図 附淡路之図」(大阪中川勘助出版/明治10年10月)

 



師匠:「忍頂寺静村」・「平成17年1月■2番目


安東県 (あんとうけん)

地名(中華人民共和国)

 

中国遼寧省、丹東の旧称。

砥部焼、愛山窯の向井和平が、初めて砥部焼を輸出した地。

平成16年12月■1番 注1


安藤秋里 (あんどう しゅうり)

儒学者

 

安藤氏、名は秉。字は維義、通称太郎、秋里と号し、別に介軒と号す、浪華の人にして大江橋の南涯に住せり。業を篠崎小竹の門に受けて、篠崎竹陰、奥野小山・橋本香坡等と併せて小竹門下の四天王と称される。詩文を善くし兼て書法を巧みにす    ・・・詩文省略・・・

著書:「文章規範纂評 6巻」(安政5年)

―大阪人物誌 正編―  

「関連資料:橋本香坡


池田雲樵 (いけだ うんしょう)

画家

 

雲樵姓池田字は公維名は政敬雲樵と號し別號を半仙と云ふ
文政四年九月伊賀山田郡喰代村に生る
幼より畫を好み内海雲石前田暢堂中西耕石に就きて學び技大に進む
こゝを以て藩主藤堂侯の召に應じ藩畫士となる
明治七年京都に轉住し同十三年初めて京都府立四宗畫學校の設けらるゝや南宗畫の教諭に任じらる
明治十五年東京に開催せられたる全國繪畫共進會に松林讀書之圖を出品して銅印を受け
其の他諸展覧會に出品して優賞を受けたる事妙なからず
明治十九年病を以て年六十二 京都大谷鳥部山の墓地に葬る 法名雲樵居士
其の子桂仙は現に京都に住して聲價あり

―「三重畫人傳」(我妻栄吉著・三重県郷土資料刊行会・1983年)―
資料ご提供=三重県津市教育委員会事務局 文化課文化財担当

◆補足:明治17年東京に開かれた「東京絵画共進会」に仙客採芝図で銀賞。著書に「雲樵画譜」。明治19年6月30日歿。

◆森琴石とは「名家画帖」や明治8,9年頃の小画帖に住所が書かれているなど交流はかなりあったと見え、活躍画壇も類似したようだ。

 

 

平成17年3月


池田桂仙 (いけだ けいせん)

画家

文久3~昭和6(1863~1931)

●名は政昌、字は公美、元治元年伊勢國津藩邸ニ生ル、父雲樵京都府畫学稿南宋畫ノ教諭タリ、桂仙叉同校ニ入學シ、全科卒業後更ニ諸大家ニ就テ畫法ヲ研究シ、傍ラ詩文ヲ谷鐵臣、江馬天江、林雙橋等ニ學フ、嘗テ内國勧業博覧會、美術協會、文部省美術展覧會等ニ出品シテ、優勝ヲ受ケシコト甚タ多シ(京都市堀町二条上ル) -「姿態横生」-

●桂仙先生長子松山鴨江先生は其實弟なり 伊勢の大儒斎藤拙堂先生の令孫なりとす
池田雲樵翁の配は拙堂先生の長女なり・・・・・・後略
-「畫家小傳」(小倉市 南画同志會蔵版・明治45年)-

◆池田桂仙の詩文の師匠達は森琴石の交流者であり、活躍画壇も森琴石と重なる。合作画などで名が良く出る。

 

 

平成17年3月


石井金陵 (いしい きんりょう)

画家

 

名は俊、字は君明、金陵と號ス、天保十三年岡山西大寺ニ生ル、幼ヨリ畫を好ミ、七歳ニシテ荘谷ニ随ヒ南畫ヲ學ヒ、十二歳轉シテ金峨ノ門ニ入リ四條派ヲ習ヒ、十七歳再ヒ東壑ニ就キ南畫ヲ學フ、後專ラ元、明、清諸大家ノ筆意ニ傚ヒ、山水ノ畫法ヲ研究ス(大阪府下豊能郡豊中村櫻塚)=「姿態横生」

◆「浪華摘英」によれば、南画は「岡本秋暉」にも従い、明治初年に、湊川神社の「折田宮司」に画才を認められたという。折田宮司は、「堀和平」とも関係深い。明治36年、岡山より大阪に移り住み(上記豊能郡)、叉後に「大阪市南區天王寺北山町五四六三」に移転している。金陵出生地西大寺は、森琴石とも縁が深い地。大阪府豊能郡(現豊中市)は、森家身内が江戸期に麻田村に住むなど、森琴石の周辺の者が多い(庄屋職が多い)。

 

 

舩田舩岳の日誌 半ば以降



堀和平=平成17年5月略伝「堀和平」


石尾松泉 (いしお しょうせん)

画家

雅友・知友:「石尾松泉


石川逸翁 (いしかわ いつおう)

画家

 

通称を熊太郎と言う。弘化元年11月5日富山に生る。
長崎の鐵翁及び木下逸雲に南宋画を師事す。
明治初年清国に航し松江(ずんこう)・寧洲(ねいしゅう)・杭州(こうしゅう)紹興(しょうこう)の各府を歴遊し 名山大川を跋渉し、上海にて胡公寿 張子祥等の門を叩き丹青の蘊奥を究め三年帰朝す。
爾来内国各地を漫遊し西南より東北奥羽に至るまで足跡遍からざるなし。17年5月内国絵画共進会に於て賞状を、43年5月内国生産博覧会に於て褒状を受く。現に大阪市北区西野田吉野東乃町に住す。
―増補 古今日本書画名家辞典―

◆門人紹介「明田月樵 (四)」森琴石日誌に名
明治45年2月16日
「午前、明田月樵氏来訪有之、逸翁嬢聞合之件、・・・・」の「逸翁」は、石川逸翁の事。

門人紹介:大阪市内「明田月樵


伊藤南華 (いとう なんが)

画家

 

福岡県鞍手郡鞍手町古門(ふるもん)の画家。父は国学者「伊藤常足」。
森琴石と親交のあった中西耕石が入門する(伊藤南華死去二年前、弘化2年)。

 

 

平成10年10月


内海吉堂 (うつみ きちどう)

画家

 

吉堂先生は塩川文麟に師事して業を卒へ 後ち支那に航して四百餘洲の山川を跋歩し南畫の巨匠任伯年翁の家に寓して薫陶を受くるもの十數年 翁深く先生の大器を愛し後継者として愛娘の女婿とす 翁の没後故あり帰朝して専ら畫事に從ふ 先生の畫は現代南宋畫家の夫れに比し一頭地を秡くものあるは 支那に於て習得したる實力の發揮に外ならざるなり 温厚着實の先生が詩書畫三絶の技を併せ有して斯界の白眉となる。 -「畫家小傳」-

 

 

清国人の書簡、胡鉄梅」・「平成17年5月■4番目 注5


江中無牛 (えなか むぎゅう)

画家

雅友・知友:「江中無牛


大隈天山 (おおくま てんざん)=大隈栄一

実業家

 

名ハ榮一、天山又洗心荘主人ト稱ス、肥前ノ人、明治三年九月辧天嶽ノ南麓目達原村ニ生ル、
幼時詩文ヲ満岡蓼村僧茶岳ニ學フ、
長スルニ及ンテ家政甚タ貧窮シ、學業其意に任セス、
茲ニ於テ決然素志ヲ抛チ實業ニ就ク、刻苦多年遂ニ製麺機械ヲ發明シ、既ニ幾多ノ特許ヲ占有シ、廣ク世ニ行ハル、
氏平生頗ル書畫ヲ愛シ、毎ニ曰ク書畫ハ予カ生命ナリト、蓋シ夙夜孜々トシテ脳力ヲ發明老按ニ費タシ精盡キ神倦ムノ時ニ方リ、即チ閉窓獨座喫茶展幅暫ク無我ノ境ニ入リ、自ヲ畫裏山中ノ客トナリ、以テ精ヲ醫シ神ヲ暢ヘ、胸中豁然トシテ光風霽月ノ如クナルヲ得レハナリ、
氏叉大ヒニ風流韻士ノ清交ヲ喜フ、現ニ中央南宋畫會ノ常務理事トシテ斡旋ノ老勞ヲ執ル。

-「姿態横生」-

◆中央南宋画会、常務理事
◆豊田佐吉と共に大隈栄一は、名古屋で機械工業の礎を築いた人物。佐賀県神崎郡三田川村※目達原(読み=めたばる)生まれ。佐賀で佐賀麺機製造合資会社を経営していたが、明治39年、名古屋で現在の巨大工作機械メーカー・オークマ株式会社の前身となる「大隈麺機商会」を起こした。

※三田川村=森家祖母梅子の実家、佐賀藩入江家が所在した。→「平成13年1月」・家族・係累「入江穆遠」など

 

 











平成17年5月 ■4番目 注8


岡 不崩 (おか ふほう)

画家

 

岡不崩=明治2年福井県大野町に生まれる。名吉壽(よしひさ)、初号蒼石、別 号楽只園・南山亭・梅渓。明治13年に上京。
明治16年「狩野友信」に入門。友信の紹介で狩野芳崖に師事し北宗画を極め、山水花鳥画をよくする。師匠芳崖が東京美術学校の開校を目前に逝去し(明21、11、5)、前途の指針をなくしかけたが、岡倉天心の薦めにより、同年12月24日、東京美術学校を受験し合格する。
岡倉秋水・西郷弧 月・本多天城・横山大観・下村観山等65名と共に、明治22年1月17日、第一期生として入学する。翌23年9月、東京高等師範学校の講師に抜擢される。
同志と共に真美会を創立。全国連合絵画展覧会審査員。大東絵画協会評議員理事。帝国絵画協会会員。

著書に「あさかほ手引草」(明35)「しのぶ草」(明43)「万葉集草木考 4巻」(昭7~12)「古典草木雑考」(昭10)など多数。昭和15年7月歿、享年72.-渡辺好行氏(朝顔資料館副館長)-

◆森琴石門下「舩田舩岳」とは、東京美術学校の第一期、同期生。
◆森琴石は、岡不崩と同じ「帝国絵画協会」の会員で、岡不崩が創立した「審美會(真美会)」で名誉章を受けるなど、まだ未調査分野ではあるが、森琴石との交流はかなりあったようだ。森琴石と本草画関係は今後注目を要する。

 

 

平成16年9月・書簡「岡不崩への書簡














平成19年1月【2】・「平成19年9月【2】」・「平成20年1月【2】


岡 玄卿 (おか げんきょう)

医師

 

嘉永(かえい)5年7月生まれ。東京大学医学部助教授となり,ドイツに留学。帰国後侍医から侍医頭にすすむ。のち宮中顧問官をつとめた。大正14年3月25日死去。74歳。島根県石見出身。東京医学校卒。

森琴石、川上泊堂と同門(高木退蔵門下)。緒方正清、銈次郎らがドイツ留学時の同行者(緒方惟之著『緒方家五代 医の系譜』燃焼社刊)。

 

 

「雅友知友:川上泊堂※」・「平成23年2月【2】■7番目★1つ目


緒方正清 (おがた まさきよ)

医師

 

緒方拙斎の養子。明治~大正時代の大阪の産婦人科医。雅友・「大村楊城」の交流者。「堀内謙吉」ウイーン留学時の同窓。

 

 

平成23年5月


緒方洪庵 (おがた こうあん)

医師・蘭学者

 

「適塾」創始者。森琴石師匠「鼎金城」の儒学の師「廣瀬旭荘」とは親友の間柄。森琴石門下「堀内謙吉」の祖父。

 

 

平成23年5月」・「平成23年2月【2】」・「平成20年3月【1】■4番目渡辺玄丹」・「平成19年5月【1】注5 江馬天江」・「平成17年8月◆2つ目 緒方羽


緒方銈次郎 (おがた けいじろう)

医師

 

緒方洪庵の孫。緒方惟準の次男で3代目緒方家を継ぐ。「堀内謙吉」とはウイーン留学時の同窓でいとこに当る。

 

 

平成23年5月


緒方惟準 (おがた これよし)

医師

 

緒方洪庵の次男で、緒方洪庵の跡を継ぐ(緒方家2代目)。「堀内謙吉」の父堀内利国と共に、陸軍軍事病院の開設に参画し脚気治療に麦飯を奨励した。森琴石とは同年代。

 

 

平成23年5月」・「平成23年2月【2】


緒方拙斎 (おがた せっさい)

医師

 

緒方洪庵の婿養子(洪庵4女八千代の婿)。森琴石は、緒方拙斎著「南湫詩稿 第2集」で、拙斎の有馬の別荘の挿画を担う。「大村楊城」の交流者。

 

 

平成23年5月」・「平成23年2月【2】」・「氈受楽斎(六)氈受家と森家の縁」・「大阪の有名諸大家:医業」などに名あり。


緒方九重 (おがた ここのえ)

 

 

緒方洪庵の5女。「堀内謙吉」の母。

 

 

平成23年2月【2】


大阪鎮台 (おおさかちんだい)

 

 

鎮台とは、1871年(明治4年)から1888年(明治21年)まで置かれた日本陸軍の編成単位で、大阪には明治4年(1871)に設置された。

森琴石は、大阪鎮台の将校有志で組織した「博交社」が「「明治紀念標」建立を計画し、その建立に向けて寄付を呼びかける広告(ポスター)「明治紀念標 百分一縮図」を銅版で作成した。

大阪鎮台には「大村楊城」・堀内謙吉の父「堀内利国」、森家身内(「舩田舩岳日誌明治36年4月23日記載分」)らが勤務していた。

 

 

平成17年5月」・「同8月


尾崎雪濤 (おざき せっとう)

画家

伝歴詳細不詳(名海介・新潟で生まれ、大阪で活躍した画家)

◆「内国絵画共進会出品目録」より
(農商務省版・国文社第一支店・明治15年10月・・・81頁目、中野雪江の並びに名)
大坂府:(一)山水 号雪濤   尾崎海介  (二)水仙
◆書誌より
1:「藤本鉄石先生薦場余録」(原田隆造編・明治12年5月刊)
※森琴石と共に席上揮毫している
2:「雲来吟交詩」〔石橋教(石橋雲来)著/前川善兵衛出版/明治13年4月〕
<第三集 越後:尾嵜雪濤>
3:「浪華の魁」(編輯人:垣貫一右衛門 / 出版人:垣貫與祐/明治15年1月 )
<有名諸大家・南画の項  尾嵜雪濤 今橋一丁目>
(※森琴石も同じ南画の項に名)
4:「大阪名所独案内」(伴源平著/響泉堂刻/明治15年3月)
<南画及書 の項・詩兼に 尾嵜雪濤 今橋一丁目>
(※森琴石も同じ 詩兼 に名)
5:「一致帖」に森琴石、長阪雲在、服部紫江と共に揮毫画あり。

◆森家画帖に揮毫画あり・森琴石編「名家画帖」にも揮毫画あり。
◆尾崎雪濤作「山水図」及び落款部分
山水図:明治18年9月
落款:「以為 妻鹿先生大雅ケン(堅の下、土が金)・・・・」と、妻鹿友樵の名がある。
画像ご提供=大村紘一氏(東京都・大村楊城曾孫)

 

 




一致帖
平成16年6月注2


小田半溪 (おだ はんけい)

画家

 

(一)
京都府下京区順風町に住す飯尾掃部の男にして、天保8年7月19日生なり。
幼より経史を父に受け、安政元年より画を前田暢堂に学び、また、鐵翁和尚に蘭竹の筆法を問い、徐雨亭に山水の皴法を学び、後、釋石門広瀬淡窓白木柏軒等に従い明治13年京都府画学校出仕拝命、同14年4月工業委員に撰まる。
安芸、豊後、九州、近江、丹波、丹後、但馬、讃岐、信濃、越前、越中、加賀、能登等を遊歴す。

―「第2回内国絵画共進会出品人略譜」(明治17年)―

(二)
名は好彦、又は昌。画号は半溪。
飯尾掃部の子として京都府宇治郡上花山村に生まれ、16歳で父と同じく鷹司家に仕える頃から、専ら南画を学び南画家となる。
元治元年(1864)27歳、父の歿後、祖家の小田四郎の絶家を再興し、小田氏に改称した。
明治13年の京都府画学校出仕後も、同17年の第2回内国絵画共進会や、同19年の東洋絵画共進会などで受賞を重ね、同21年には岸竹堂今尾景年とともに同校の教授となるが、間もなく辞した。
その後、新潟県のほか、熊本県、鹿児島県、大分県などの九州等を遊歴し、同23年の第3回内国勧業博覧会などでも受賞。
晩年は別府市に住み、明治35年10月14日歿する。享年65。

―「大分県画人名鑑」
(大塚富吉著・大分県画人名鑑刊行会・昭和53年10月22日)など―

◆森琴石らが提唱した「浪華学画会絵画共進会」に出品。小田半溪の師匠「前田半田(暢堂)」は、森琴石門「森泰石」の従兄弟「森半逸」の師匠でもある。

 

 












平成18年10月」索引・略伝「前田半田












 門人:中部地区「森泰石


小野櫻山 (小野桜山 おの おうざん)

画家

昭和12年6月26日、85歳歿

(一)
名ハ積、字ハ士大、豊前耶馬溪ノ人ナリ、學ハ洙泗ヲ宗トシ、會テ六法ヲ魚荊石ニ聞ク、詩書畫三昧を以テ、名山大川ヲ歴遊シ、又諸名家ヲ尋訪シテ、斯道貢高ノ志ヲ伸張セント欲ス。
―「姿態横生」―

(二)
小野積、通称虎太、号桜山。広島県深安郡出身。阪谷朗廬、藤澤南岳等に就き漢学を修める。南画・篆刻・茶道の技法も極め、交友範囲も広い。明治20年35歳の時耶馬渓に入り、同地の風物人情に魅了され、平田村西浄寺に寄寓する。耶馬渓を永住の地と定め、古書の収集の為全国行脚をし、ついに「反古文庫」を立ち上げる。明治32年「馬渓文庫」と改称、その後も文庫充実の為再び全国行脚をし、大正年間には朝鮮から中国にも渡った。生涯独身を貫き、門人には岩淵精次郎、その弟岩淵正義。
―「耶馬溪文庫」とその周辺 (平成17年・荒木見悟氏=九州大学名誉教授)より―

 

 







平成18年6月【1】

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