森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成19年(3月)

【1】

森琴石は、大阪市内は勿論のこと、福井や四国など、ゆかりの深い地の地図を手がけている。「大日本九州一覧之図」などで、九州との関わりが見られる 注1。変遷の激しい「福博(福岡・博多) 注2」地区の地図を手がけ、長崎では「長崎港略全図」・「長崎港全図」と、2つの地図製作に関与している 注3

「大日本九州一覧之図」は、米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の、古典愛好家で知れる、リチャード ルドルフ氏のコレクションに収蔵がみられ、2つの長崎の地図は、神戸市立博物館以外の所蔵が判明していない。

琴石の周辺には、幕末長崎赴任に当たった者や、医学を学び、木下逸雲や鉄翁などに画を学んだ者が非常に多い 注4

森家祖母「梅子」の実家、佐賀藩入江家は、第九代藩主「鍋島斉直」の時、着座の地位にあり 注5、大目付や長崎御仕組方相談人などの要職に就いていた。係累には砲術に長けた者がいたという。入江家の身内、国学者「入江穆遠」や「武富圯南」などの下、弘道館で学んだ「大隈重信 」は、幕末長崎警備に就き砲台勤務で活躍した。

 
注1
 

「大日本九州一覧之図」 (森琴石編纂・中川勘助出版・響泉堂刻・明治10年刊)

表装/表紙

奥附→
↓  

奥附
明治十年三月三十一日出版御届/同 年4月/刻製/定価 卅五銭
編輯人:大阪府平民  森琴石(大阪府下第一大區八小區南本町四丁目三十四番地)
出版人:大阪府平民  中川勘助(大阪府下第一大區七小區博労町四丁目十二番地)
地図右下枠外=大阪南本町四丁目卅四番地 響泉堂刻

★大日本九州一覧之図を所蔵する機関

大阪府立中之島図書館/カリフォルニア大学 ロサンゼルス校:リチャード ルドルフ コレクション(the Richard C. Rudolph Collection of Japanese Maps 1614-1896) /岐阜県図書館/神戸市立博物館/明治大学図書館:芦田文庫

 
注2
 

「改正福博詳見図 全」 (42.7×68.4cm)

福岡 高須徳七編/福岡橋口町 山崎登版*/大阪 響泉堂刻/明治13年2月
リンク情報:地図 「改正福博詳見図 全」 から ご覧ください。
*「山崎登」については索引でご紹介の予定。高須徳七は、目下伝歴不明。


~福博 について~

*江戸期博多と福岡は、別々の都市として存在していた。那珂川を挟んで博多と福岡の二つの都市が並立する<双子都市>であった。
*明治期になっても両者は別々の行政区分であった。明治期は下記の如く、政治行政制度が目まぐるしく変化していった。

明治5年5月:筑前は32区に分けられ福岡は1区、博多は2区となる。
明治5年9月:32区は14~16大区に統合され、福岡は1大区、博多は2大区となる。
明治9年  :9大区に統廃合され、福岡と博多を合わせて1大区となった。
明治11年 :1大区は福岡区と改称された。
明治22年 :<市制及び町村制>が公布され、全国で31市の一つとして福岡市が誕生。

以上=九州大学病院検査部HP ~鉄分検査室 第8回{博多駅今昔}~ より抜粋させて頂きました。

 
注3
 

森琴石が手がけた長崎の地図

1:「長崎港略全図」
編輯并出版人=長崎県士族徳永傳作
大阪南本町四丁目 響泉堂刻
銅版墨摺,木版色摺/37.6x48,6/明治12年
2:【長崎港全図」
編輯并出版人=長崎県士族 徳永伝作(長崎区興善町441番地住)
大阪南本町四丁目 響泉堂刻
銅版刷彩/37.6x50.9/明治12年

以上=神戸市立博物館 館蔵品目録 による

 
注4
 

当HP内で、長崎に赴任・遊学、又長崎に関係する人物

浅井柳塘阿南竹陀墾鉄操池田正信(縁戚に当たる榎本武楊)・石川逸翁・岡田篁所(平成16年8月■1番目●1つ目)・伊藤深江(森家画帖)・川村雨谷何礼之(平成12年8月)北方心泉瀧和亭田結荘千里・同孚泰(長崎から来た貿易商人=平成16年10月■1番目※a &書簡:胡鉄梅~森琴石)・津田白印・砥部焼き:愛山窯(向井和平):中野雪江及びその身内・成富椿屋藤澤東畡前田吉彦(長崎から来た画家に学んだ)・守山湘帆芳川笛邨

何 礼之(が れいし) 補足

★天保14年(1843)、長崎で生まれる(森琴石と誕生年同じ)。父は長崎通詞(中国語)。幼児より中国語を学ぶ。
★文久3年(1863)、長崎奉行所の英語稽古所の学頭を務める。米国宣教師フルベッキーに英語を学び、後に私塾を開いた。(フルベッキーは、大隈重信の英語の教師でもある)
★慶応3年(1863)、開成所教授並に任じられ、江戸に出る。
★明治元(1867)年7月、新政府が「大阪舎蜜局」創設を決定、田中芳男・神田孝平・簑作麟祥・教師ハラタマらと共に大阪に派遣される。
★明治4年(1871)、森家祖母「梅子」の実家、佐賀藩入江家係累「久米邦武」らと共に、通訳として岩倉具視に随行、欧米を視察している。

 
注5
 

着座=家老*に次ぐ身分で、佐賀藩の重臣に当たる。

★入江家第四代「入江能恒」は第6代藩主「鍋島宗教」の御側に召し出されるなど、鍋島家との縁が深い。

◇佐賀藩の家臣団の序列=「三家」・「親類」・「親類同格」・「家老」・「着座」・「独礼」・「侍」・「手明槍」・「徒歩」・「足軽」
◇御側=近習や側近の事で、一緒に学問をしたり、遊んだりしながら、仕えていく者

 

佐賀藩の家老職には、入江家の遠縁に当たる石井家が就いており、更に石井家と大隈家とは縁戚関係にある。
→ 〔佐賀藩主鍋島家の外戚・重臣 佐賀鍋島藩石井家〕 をご覧下さい

 
【2】

森琴石の画帖は、森琴石が親交した人物が題字や序・跋文を添えている。福岡の画家「栗田石癖 注1 」の依頼による「栞石畫史丹青帖 注2」には「福原周峰 注3」や「岡田篁石」が揮毫した。「岡田篁石 注4」は、長崎の医師、儒者でもある「岡田篁所 注5」の子息に当たる。

「岡田篁所」は、明治5年2月から2か月、上海や蘇州に渡った。交わした筆談の記録を、帰国後整理し「滬呉日記 こごにっき 」と題した。「滬呉日記」は明治24年に出版されたが、同日記の末尾 注6 にある識文には「岡田 景(篁石)」の名があり、識文の手前の跋文は、森琴石門下「舩田舩岳」の師匠「石津灌園 注7」が綴っている。

 
注1
 

栗田石癖=書簡:石癖栗田先生への書簡 をご覧ください。

 
注2
 

「栞石畫史丹青帖」 =森琴石による≪ 四季(12ヶ月)山水画帖 ≫

表紙

三月の画:森琴石

 

 

福原周峰:題字(明治41年)

岡田篁石:跋文(明治40年)

明治戊申二月 八十二翁  周峰
丁未春日 小楊洲仙史
印  上:景 印  下:篁 石
 
注3 福原周峰
 

★名は公亮、長州萩藩士、嘉永安政中海防に従事し、後平野神社宮司に。詩文をよくす。大正二年七月十八日京都で歿、八十七歳。「石橋雲来」「水越耕南」など、森琴石周辺の人物との交流が多い。
★「日本同人詩選」(陳鴻詰=陳曼壽編纂・土屋弘出版・明治16年3月)の<巻ニ>には『福原亮― 字公亮 號周峯 又號瀬真子 長門人 著有香草吟廬詩鈔』 とある。
★後月、他資料での歴伝をご紹介の予定

 
注4 岡田篁石
 

名は景、恒軒と称す。号篁石。安政元年生まれ。父篁所と同様、医師と思われる。明治45年歿。漢詩同好「鶴鳴吟社」に所属。・・・長崎市内の2箇所の公共機関に、詳細な伝歴を求めましたが、これ以上は不明との事でした・・・・

 
注5 岡田篁所
 

(おかだ こうしょ)=文政3年長崎生。名は穆、恒庵と称す。17歳の時 大塩中斎弟子の宇津木静区に師事。弘化2年江戸に行き多紀元堅に入門、また野田笛浦から漢学を学び、その後長崎に帰り医師となる。明治5年2月長崎の骨董商松浦永寿に同行し上海に渡る。蘇州にも行き2ヵ月後帰る。宇津木静区の実弟は岡本黄石。 (平成16年8月注2●1つ目

 
注6 「滬呉日記」 識・跋文
 

謹識(岡田篁石)

石津灌園拝跋

↑↑

「家君嘗有此著 蔵筐底久矣、未肯示 嚮者三溪菊池翁之游我崎港、一見以佳著 細下評点慫上梓」  ・・・・「菊池三溪が長崎に来た際、この日記を一見して佳著と認め、細かな評点を書き、刊行するのを促した」・・・・
 
注7 石津灌園
 

☆「平成19年2月■3番目 & 注3」に記述しています。
☆歴伝は、来月度にご紹介します

 

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