平成10年10月〜現在まで、森家での調査などをご紹介します
今月の話題
森琴石とはゆかりが深く、足跡の多い2か所から、森琴石の画の所蔵情報が寄せられました。
当ホームページ「解説:美濃焼きと森琴石」の筆者、岐阜県土岐市の土岐市の文化財審議委員でもある、妻木八幡神宮禰宜「黒田正直氏」からは、古文書調査の訪問先で、森琴石の掛け軸を確認したとの報告を頂きました。
2点の作品は、明治37年、土岐市の名刹「崇禅寺」で描かれたもの。所蔵者の丹羽氏は、天正年間より続く旧家で、江戸時代には代々下浅野村※の庄屋を務めた。下記に作品の画像をご紹介します 注1。
森琴石は、妻木の名刹や窯元で逗留し画活動をするなど、東濃方面には相当足跡を残している※。それらを明かすスケッチが7,8枚ほど残されている 注2。此地では、今回のような<森琴石の作品の所在情報>が、今後まだまだ出てくる可能性が高い。
土岐郡浅野村について
江戸時代には、岩村藩であった上浅野村287石と、旗本妻木領であった下浅野村80石に分かれたいた。下浅野村は、妻木家断絶後には幕領となり江戸時代に至る。明治時代の丹羽家の地名は<土岐郡肥田町浅野村>。岩村藩及び丹羽家に関する情報は、WEBサイト<岩村の文教300年史(岩邑小学校 杉村啓治氏文) をご覧ください。
当HP、東濃方面の記述=「平成14年9月」・「平成15年8月」・「平成19年1月■9番目」など
岐阜県土岐市肥田町”丹羽家”所蔵作品
情報及び画像ご提供=黒田正直氏(妻木八幡神宮禰宜・土岐市文化財審議委員・妻木城址の会事務局)
「芝石之図」
箱書=森栞石畫芝石之図/明治三七年春畫於妻木邨崇禅精舎 落款= 寸法=縦67cm 横33cm
「百事大吉之図」
箱書=森琴石画百事大吉之図 / 明治三十七年春画於妻木郡崇禅精舎 落款=百事大吉 癸卯初春写於聴香讀畫廬 栞石 寸法=縦133cm 横51cm
東濃方面 スケッチ
一枚の紙の、下半分と上半分に分けて描かれている。 岐阜東濃方面の、このような下絵や行程を示すスケッチが何枚か残されている。
これらは、何らかの書誌へ”挿画”とするためのスケッチのようだ。 その他のスケッチ類は、今秋発刊予定の「森琴石画集」で取り上げています。
当ホームページ「平成16年7月」や「平成16年11月■2番目 注6」などでご協力を頂いています、岡山県井原市の、郷土史研究家「大島千鶴氏」より、同市内の方が、森琴石の作品を所蔵しているとの情報を頂きました。明治41年初夏の作品「蘭石図」は、後月郡(しつきぐん)の某寺が所有していたもので、現所蔵者の祖父の代に譲り受けていたもの。
後月郡(しつきぐん)は、岡山県および備中国にかつてあった郡で、郡域は現在、全域が井原市に含まれている。後月郡には、森琴石のみならず、森琴石の兄弟子までもが足跡を残した土地である。
「森琴石紹介:養子先 森定七☆麻田藩の領地」にあるように、森家は、岡山県後月郡(しつきぐん)とは、江戸末期頃から縁があったようだ。森琴石の晩年にも、同郡からの入門希望者があった。その証となる<書簡>が残されている。 ”自分はもうこれ以上学生は置かないので、貴方によろしく取り計らって頂きたい・・・” と、森琴石は高弟「近藤翠石」に手紙をしたためた。文面によれば、森琴石は、当時病を患っていたようだ。
「株丹氏」の弟<琴仙>は、若くして、後月郡の芳井町の<金澤家>の養子となり、名は<寿 ひさし>と言う。後月郡の芳井町からは、<門人:岡山藤井琴谷>が森琴石の門下となっている。書簡が近藤家に大事に残されている事から、その後<琴仙>は、近藤翠石の内弟子となった可能性がある。井原市には、株丹家、金澤家ともに家系が存続している。
森琴石が近藤翠石に宛てた書簡が、4通ほど近藤家に残されている。書簡の中には、絵画界に関する事や、当HPにも関連する”地名”があるなどする。今後、それらを随時にご紹介する予定です。森琴石は、岡山との関わりが深いが、その縁は弟子の<近藤翠石>にも引き継がれている。
森琴石→ 近藤翠石
資料ご提供者=近藤成一氏(東大阪市・近藤翠石孫)
翻刻=成澤勝嗣氏(早稲田大学文学学術院 第二文学部 准教授)
・・・下記文面は縦書きにしています・・・ ↓